本朝第一帯解子安地蔵尊略縁起
安産・子授け祈願所 大和国 宝寿山 龍象寺
本尊帯解子安地蔵菩薩 平安末(藤原時代)重文級
当宝寿山龍象寺はその昔、人皇四十五代聖武天皇の勅願所であり、
天平二年(七三〇)行基菩薩の草創です。本尊帯解子安地蔵菩薩は
行基僧正が一刀三礼して彫刻された霊像です。
その縁由は行基菩薩が誕生の折、難産でありましたが、母公(ははぎみ)
は一心に地蔵尊を念じ祈願したところ、無事に御出産されました。
その後、行基菩薩は童子になるにつれ、もろもろの技芸、行いに非凡
の才を顕し、仏法に帰依しました。即ち十五歳のとき、新羅の国の
恵基法師の弟子となり、年を重ねるに従ってその人徳は世に比(たぐ)
いなく、四十九歳のとき大僧正に任ぜられました。そして東大寺の
大仏の勧進したことは周知のごとくです。かつ聖武天皇の戒師となり、
菩薩の号を賜りました。
行基菩薩はもともと孝心深く、母公(ははぎみ)に対する報恩のため、
かつは末世の女性の安産(難産の苦しみを救う)、子授けのため、
この地蔵尊を自刻し、伽藍を建立して安置されました。
即ち安産(泰産)の霊符を印し、守り帯を、信心する婦女にあまねく
授与されました。
また光明皇后は殊に当帯解地蔵尊を信仰され、御自筆の経巻を当寺に
奉納されました。その後南都一乗院門主二品尊昭法親王信仰されまし
た。更に山村円照寺御殿伏見文秀女王殿下が信仰されました。
即ち、開祖以来、およそ一千三百年近くの星霜を経ている霊場です。
信心の女性に、安産の印と陀羅尼にて加持した腹帯を授与します。
* この龍象寺はかっての広大寺(光台寺)奥の院であり、(帯解町)奥の院と
通称されている。
なお、当寺は奥の院と通称されていますが、旧広大寺の奥の院であり、
近くに存在する帯解寺の奥の院ではありません。帯解寺とは無関係です。
* 寺宝として本堂の天井一杯に描かれている帯解龍王は、江戸期(十八世紀
前半)狩野春甫筆による。昔から当寺の眷属として霊験が多い。
その一話に夜な夜な当寺の西方下に広がる広大寺池に遊び、寺の天井に
戻るに、そのしずくを床に滴らせたという。特に当寺に対し信心が
深ければ夢にも現れる。
* 本尊帯解子安地蔵の左方には弘法大師(子安大師)、右方には弁才天
(祭日七月七日)、訶梨帝母(鬼子母神)を安置しており、いずれも安産・
子授け・子育ての霊像である。なお八臂の弁才天は、見目麗しい立像で
ある。当寺では帯解龍の供養はこの弁才天で行われている。即ちこの
弁才天には帯解龍の魂が鎮まっている。事業繁栄、商売繁盛、合格祈願
等が祈念されている。
〜 帯解子安地蔵の名の由来 〜
まず子安とは安産の意です。即ち子安地蔵とは妊婦の安産を護る地蔵菩薩
の意味です。
次に上の二字、帯解とは、古くは宮中の「
この
とです。この「おびとき」の言い方は巷では、帯直し、紐解き、紐落とし、
紐直しとも言われています。即ち紐から帯に代えることです。
宮中から民間にその慣いが伝わり、室町時代の上流階級では、はじめは
男女ともに九歳の時に「おびとき」の式を行いました。その後、時を経て、
男子は五歳から九歳の間、女子は七歳の時に行うに至りました。
その
この帯解式は特に十一月の吉日、酉の日、或いは十一月十五日に行われ
ています。当寺では十一月十五日のほかに、常の戌(いぬ)の日にも行って
おります。
有名な歌に「この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります」とありますが
この内容は帯解式を歌ったものです。即ち七歳(特に女子)の帯解のお祝い
に、神さま(或いは仏さま)より預かっていたお札を返すという意味です。
特に子安(安産)関係の神仏として、氏神、地蔵、観音、鬼子母神(訶梨帝母)
木花開耶姫などです。
帯解の名のついた仏としては、地蔵菩薩のほかに帯解観音が存在しています。
観音さまも地蔵さんと同様、安産を護り、子供の成長を見守る仏さまです。
(一時、マリア観音が帯解観音とも称されました)
なお、地蔵とか観音の上に帯解の語がつくのは、日本独特のことであり、
インド、中国等では見当たりません。
又、別にこの帯解の意味については、その昔、神功皇后が腹帯をしたという
ところから、その
当寺の地蔵菩薩もむろんお
巻いています。
従って子安地蔵の信仰からみると、帯解の語は腹
という義であります。前述の七歳等の帯解の義は二義的となります。
以上から当寺の帯解子安地蔵とは、子授・
それぞれの子供の成長期に、健康にして災いを払う地蔵さま、という意味
になります。
当寺の本尊は極めて
皆様の参拝をお待ち致しております。
当寺の門前の上街道は坂になっており、正木坂と通名されている(江戸期の
呼称)。室町期の文献によるとこの坂の所でいろいろと芸能が行われたと
いうことです。当然、寺の境内に人が集まったことでしょう。
合掌
参考(当寺本尊を補修された際の記録)
太田古朴「大和路の非国宝古仏像」(『大和志』第9巻第9号 pp.357-358)
2、龍象寺地蔵菩薩半跏像 所在 添上郡帯解町芝屋
帯解町に奥之院と呼ばれてゐる地蔵堂がある。省線帯解駅西側に大和一と云ふ廣大寺池
があってその附近を廣大寺跡と称し、その東方一丁餘が奥之院に當り、現在禅宗龍象寺と
なってゐるのである。其地蔵堂の本尊地蔵菩薩像は俗に帯解子安地蔵尊として古来より信
仰あつき有名なものである。
地蔵菩薩像は像高二尺八寸二分等身大、檜寄木造内刳、着色半跏趺坐像。初めて拝観し
た時は江戸期頃の補修による彩色のため、かなり尊容を損じてゐたが、厨子より取り出し
て見たところ優秀と思はれたから補修の部分を取り去ることにした。江戸期の彩色は布を
もって一面に張りその上に相當な厚化粧をしてあったから、割合簡単に剥がれた。肉身は
當初の彩色があらわれ見違へるばかりになった。左足部が削り直し補修されてゐる他 大
體は原初のものである。構造は同躰を一木にて造り割り剥ぎ、両肩両足を剥ぎ合せ内刳を
なし両手を柄(ほぞ)差しとしてある。
柔かい線を見せた御面相は非常に親しみ深く 特徴ある側面観は一層そのよさを引き立
ててゐる。衣文の線は浅く柔かい手法で、造立は藤原後期であらう。
寶珠は 本像を厨子より出した際に鼠の巣と共に寶珠及蓮台が胎内より発見された。
これらは胎内奉納物とは思はれず、寶珠は當初の持物寶珠と見とめられるもので、
蓮台は鎌倉後期らしく蓮片は銅製鍍金、木製蓮肉に六板二段葺となってゐる。同時の作で
はないが蓮台に寶珠をのせ持物とした、藤原期の寶珠は珍らしいと思ふ。
法量 佛身像高二尺八寸二分、總高四尺一寸二分、面部自頂上至腮九寸八分、
耳張七寸五分、面奥七寸、躰部 臂張一尺七寸七分、膝張二尺三寸三分、
膝奥一尺五寸
※一部現代表記に改めた。