はじめに〜平成16〔2004〕年5月大幅改稿に添えて〜

 そもそも本稿は、私がまだ大学に在学中の平成8〔1996〕年3月に、当時所属していた民法判例の研究会(有志の教員と学生による少人数制の研究会)で発表するために取りまとめたものであり、研究会の性質上僅か1ヶ月足らずの研究期間で纏め上げたものである。平成9〔1997〕年6月に私個人のウェブサイトを立ち上げるにあたり、折角苦労して纏めたのに放置してあるのはもったいないと感じて、軽い気持ちでコンテンツのひとつとして掲載することにした。
 ウェブサイト開設当初は、1日のサイト全体のアクセス数が僅か一桁代という状態が続いており、おそらくは誰の目にも触れることがなかったであろう本稿も、アクセス数が増えるに従って、航空関係者や航空事故のご遺族、その他読者の方からのご感想なども頂くようになり、研究会用の原稿の状態のまま掲載し続けて良いのだろうかと感じるようになった。
また、私のウェブサイトのコンテンツのひとつである航空事故総覧の製作を進めるにあたり、数多くの事故やヒューマンファクターズ、リスクマネジメントなどの関連の文献に触れるにつき、自分自身の本件事故の捉え方に誤りはなかったかとの迷いが出てきた。
 一時は本稿の公開の停止も考えたが、支持して下さる読者の声に応える必要があると考え直し、平成11〔1999〕年11月、平成15〔2003〕年1月の二度にわたり、内容や表現等を見直し、改稿を行った。しかし、それでもなお、自分自身本稿を不十分なものであると思う気持ちが強く、何とかしなければならないと考え続けていた。
 そんなとき、1通のメールが送られてきた。それは、2度目の改稿を終えた直後のことであった。補遺に登場する元日本航空機長大村鑛次郎氏からの激励のメールであった。そして、このことが縁で平成15〔2003〕年9月に実際に同氏とお会いすることとなった。この際に伺ったお話は、これまで私が本稿に感じてきた不十分な部分を補うに十分なものであった。
 今般、第1章第4節以降、第2章、第3章とかなり大幅な改稿と加筆を行い、「補遺」の章とこの「はじめに」を新規に執筆し、改めて本稿を世に問うことになったのは、以上のような次第による。少なくとも、これまでよりは、本件事故の実像を捉えることが出来ているものと自負している。

(C)2004 外山智士

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