百瀬川扇状地−天井川と治水

【天井川(てんじょうがわ)
▼百瀬川は,急流のために上流の谷が削られ、多くの山崩れが発生してきました。そして、その土砂が急流によって下流に運ばれるため、下流では川の底(河床、かしょうor かわどこ)が高くなります。そのため、大雨がふると堤防から川の水があふれる氾濫(はんらん)や堤防の決壊(けっかい、きれてくずれること)がよく起こります。

*河床が高くなれば、堤防も高くしなければなりません。その結果、川は周囲に比べて高いところを流れるようになります。このような川は天井川(てんじょうがわ)とよばれます。


【洪水の歴史
▼高島郡誌によると、明治初年〜大正10年までの約55年間における郡内の主な河川氾濫や堤防決壊、湖岸浸水等の記録20余りのうち、半数近くが百瀬川に関するものです。また、「大正5年より10年まで6カ年において全破壊12回、半壊は数度あったように、古くから村民を苦しめて来た」という記述があります。

▼大正9年測量の地形図(地図下)を見ると、氾濫の跡が認められます(地図
印)。また、両岸にはいく筋もの堤防が築かれているようすが見え、洪水対策がとられれていたことがわかります。なお、扇頂から下流には川原が広がり、途中で水が涸(か)れているようすもわかります。

▽オットーの母校(百瀬村立百瀬小学校、現高島市立マキノ南小学校)も、百瀬川に近い位置にあったのですが氾濫で被害を受けたそうで、地形図からもその形跡が確認できます。その後、川から離れた位置にオットーの入学当時の校舎(地図下)が建てられたそうです。
 オットーたちも、こんな話はよく聞いていていました。小学校6年生の時、大雨が降った日の昼休み、百瀬川の様子を見に行こうということになって男子全員が、土砂降りの中を無断で学校を抜け出しました。当然、その日の午後は、授業を受けさせてもらえませんでした(担任のM先生、ご心配をおかけしました)。

地形図1/25000「海津」(大正9年測量)より

【隧道(ずいどう)=トンネル
▼大正9年測量の地形図(地図上)を見ると、天井川である百瀬川を渡るためには、高い堤防を斜めに上がってそこで川を渡り、再び堤防を斜めに下っていったようす(地図印)がわかります。川の北側に「高川」という地名が見えます。このことも天井川であったことを示すのでしょう。

▼平成11年部分修正測量の地形図(地図下)を見ると、川の下にトンネル(地図印)がつくられています。このトンネルは百瀬川隧道(ずいどう)とよばれます。これによって登り降りしなくても川を渡ることができ、すいぶん生活がしやすくなったようです。

▽オットーも、中学校への通学に毎日、自転車でトンネルを通りました。天井から水がしたたり落ちてきたことや道幅が狭い上に両側に側溝があって自動車との離合がこわかったことなどを思い出します。なお、その後、下流側に小学生の通学のために歩行者用のトンネルがつくられ、現在は親子トンネルになっています(このことは地形図では確認できません)。


百瀬川隧道

左は自動車用(高さ制限3.3m)・右は歩行者用

地形図1/25000「海津」(平成11年部分修正測量)より

【砂防(さぼう)ダム)
▼上流で山崩れが起こったり、土砂が一気に下流に流れたりするのを防ぐために、砂防堰堤(さぼうえんてい)や砂防ダムとよばれるダムが造られています。

*土砂を貯めることを目的としたダムは砂防ダムとよばれますが、高さ約7m以上のものを砂防ダムといい、それより低いものを砂防堰提とよぶそうです。
▼川の流れによって山が削られ、いまでも山崩れがおこっています
(写真右)。


▼そこで、砂防堰堤(さぼうえんてい)とよばれる低いダムによって川の勾配(こうばい、傾きのこと)つまり川の流れをゆるくし、土砂崩れが起こらないようにしています(写真下左)。

*地形図(平成11年部分修正測量)を見ると、10余りの砂防堰堤が確認できます。


▼また、砂防(さぼう)ダムとよばれる比較的高いダムによって、上流から流れてきた土砂を貯めて、山崩れによって出た土砂が土石流(どせきりゅう)となって一気に下流に流れないようにしています(写真下右)。

*写真は、扇頂の上流約1.5qに、平成7(1995)年3月に完成した砂防ダム(地図
印)で、高さ20m、長さ75m、貯めることのできる土砂の量は約17万立法メートルです。

上流部の山崩れ

砂防堰堤(さぼうえんてい)−扇頂付近

砂防ダム−扇頂上流約1.5q
▽下の2枚の写真は、平成7年完成の砂防ダムを、オットーが上流の山から3年半の間隔をおいて撮ったものです。かつて青々と水をたたえていたダム()も、土砂で埋まってしまいました。これは、上流部で山崩れが多発しているためです。

▽オットーは、山崩れの原因の一つとして人工林の問題があると考えます。今から40年ほど前に、百瀬川に注ぐ小さな谷にそって杉の植林が盛んに行われました。しかし、間伐(かんばつ、森林の木を切ってまばらにすること)をしないため、木が混みすぎて地表に日光が届かず下草が枯れてしまい、大雨が降れば簡単に土砂崩れがおこる状態になっています。木は「緑のダム」ともいわれますが、植林に加えて手入れすることの重要性を認識できなかった過去のあり方を反省しなければなりません。

▽オットーの子どもの頃は、木が生えていない「はげ山」は国土が荒れる原因であると教えられました。しかし、木が混みすぎるのも、また同じ結果になります。まさに「過ぎたるは、及ばざるがごとし」です。長期の展望に立った施策を望みたいものです。
山から見た砂防ダム−平成15年3月撮影
山から見た砂防ダム−平成18年9月撮影

*遠景は琵琶湖と竹生島

【落差工(らくさこう】
▼百瀬川中流の沢付近から、北側の平地を生来川(しょうらいがわ)という川が並行して流れています。そして、百瀬川と生来川の間に、落差工(らくさこう)とよばれる人工の滝をつくって、百瀬川の水を生来川に流すようにしています(生来川は百瀬川の放水路としての役割を果たしています)。最初は、トンネルの下流側にありました(地図および航空写真の印)が、最近、生来川が改修されてトンネルの上流側に、より大規模な落差工が建設されました(地図および航空写真の印)。

▼新しい落差工の完成によって、トンネルの上を水が流れることもなくなり、堤防とトンネルは撤去されるそうです。かつて生来川とよんでいた川の橋には、すでに「百瀬川」という名前が掲げられています。

▽現在のトンネルは自動車の離合も難しく、交通の障害になっていることは事実です。オットーにも、便利さや予算の有効活用を重視することは理解できます。しかし、一方では、水とたたかってきた先人の遺産の保存という観点で、何とかその姿を後世に伝えることができないものかという強い願いももっています。

印の古い落差工−トンネル下流約500m

印の新しい落差工−トンネル上流約500m

百瀬川隧道(トンネル)付近の航空写真〈国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供〉

【治水の努力
▼百瀬川は、天井川となって氾濫を繰り返し、多くの被害を与えてきたので「暴れ川」ともいわれます。先人はこのような百瀬川の治水のために様々な努力をしてきたことがわかります。

▽先人のおかげで、オットーには大きな氾濫や洪水の記憶はありませんが、母校(高島市立マキノ中学校)の校歌には、先人の努力に学び、その心を受け継ぐことの大切さがうたわれています。
 ♪いく度か堤あふれし/百瀬川治めし人の/たゆまざるいさおし学び/現世の苦難に克ちて/
   いそしまんわれらが使命/ああわれらマキノ中学生

▽「災害は忘れた頃にやってくる」ということばがありますが、本当に治水は万全でしょうか。オットーが素人なりに住民の観点から百瀬川を点検すると、「ここ危ないのちがう?」と思う箇所もあるのですが・・・。
 オットーは高校生のときに火災に遭いましたが、そのときの校長先生のことば「備えなければ憂いあり」は、今でも覚えています。防災の意識を持ち続けることの大切さを学びました。



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