井戸端論理

 

     目次

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1.
自然保護1 相当の合理性

自然保護とは、飽くまでも人にとって都合のよい自然である。一般的に言っても、 自然を愛すると言うことは、全てとは言わないが、概して人にとって都合のよい場合に 限ることが多い。例えば台風やそれに伴う洪水や土砂崩れ等は、自然そのものであるが、 これらが起きて喜ぶ人はいない。また伝染病の原因である細菌やビールス、 あるいは伝染病を媒介する蚊やその他の微小動物を保護しようとする人も極めて少ないであろう。 このように人が"自然はいいな"という意味は、人にとって都合のよいことばかりである。 あるいは直接的には人の都合と関連していなくとも、飽くまでも人がいざとなれば制御できる 許容範囲のことばかりである。

人類は有史以来、自然を利用し自然の形態を変え、 自らの生存により適した環境を造りだし、生物の本質であるより多くの子孫を増やすために、 営々と生活を営んできた。人類の生存・生活環境における大きな転機は約10000年前とされる 農耕の始まりと、18世紀中庸のイギリスにおける産業革命であろう。これらは人類が より多くの人口を養っていける手段を手に入れたことを意味し、これら二つの事件を契機として、 地球上の人口は飛躍的に増加するのである。この二つの事件は自然破壊の典型である。 ただ前者と後者では自然破壊の質が異なる。農耕は基本的には自然の摂理に沿った営みであるが、 近代工業による大量生産は、自然の摂理を大きく超えた営みである。農耕はそれまでの 狩猟・採集による生活形態から、森林や草原を人の手によって畑地や水田に換えることによって、 自然の脅威にさらされながらも、人類生存に不可欠な食糧生産を通して、ある程度制御可能な 生活形態へと変化させたのである。しかし農耕は自然の摂理に沿った営みであり、 人類生存に不可欠且つ代替不可であるから、また畑地や水田は数千年にわたり人類の脳裏に 焼きついた風景であるから、さらには本来の自然と比べれば相当制限されているが、 それなりに生態系が息ずいているから、それらを見て自然破壊と主張する人は僅少であろう。 また近年いろいろな意味で注目されている遺伝子組み替え植物(作物)は、自然には存在しない 植物であるが、さしあたって人の生活に大きな害を与えることもなさそうであるし、 経済的にも有利であるという観点から容認されている。しかし考えようによっては これらの植物は自然破壊の典型であり、 自然の生態系に遺伝子として混入する可能性もあるだろうから、次に述べる 工業製品よりも危険性は高いと言える。

産業革命に始まる近代工業は、自然の生態系に取り込まれない多くの雑物を作り出すとともに、 その過程で、人の生活や生命を脅かす深刻な問題を発生させてきたが、主に現在の先進国で 多くの人の生活を快適にしたことも確かである。それに部分的に不平をいう人はいるが、 その全てを否定し数百年前の生活に 戻る人はほとんどいない。これも工業化による自然破壊と、その結果得られる快適な生活とを 天秤にかけ、社会全体として、そこに相当の合理性を見出しているからであり、 また自然保護と快適な生活の両立は、科学や技術の発展による以外ないと認識しているからである。

以上のように今流行の自然保護、自然破壊といっても、結局は、これは当然のことであるが、 人の都合によるのであり、それでよいのであるが、大切なことはそこに相当の合理性が 無ければならないと言うことである。これは道路やダムの建設等の公共事業にも当てはめる ことができる。 井戸端論理目次へ戻る


2.
自然保護2 トキとタイワンザル

まず自然保護に関連する生物の保護について述べよう。自然保護1で述べたように、 これらの行為は所詮人の都合によるのであるから、生物の保護も必ずといっていい程度に、 人の都合による。人の社会であるからこれは当然であり、何ら非難されるものではない。 人の生活に深刻な危害を与えたり、人の生命を深刻に脅かす生物は殺傷を含めて、その恐怖の程度が 安全と思えるまで駆除され てよい。深刻な病気の原因となるウイルスや細菌はその例である。 自然界において天然痘のウイルスが根絶されたことに、異を唱える人はほとんどいないであろう。 またどこからか逃げ出した、あるいは飼育者が制御できなくなり、不心得にも放した、 たとえばワニのような動物も、日本の河川、湖沼で繁殖はしないであろうが、 もしも成長した場合は人に危害を加える確率が高いので、何とか隔離を含めて駆除されてよい。

しかし、その生物によって人の生活や生命が深刻に脅かされる可能性が少ない場合は どうであろうか。これは、その生物を駆除(殺傷を含める)するに足る相当な合理性がない場合 に相当するであろう。ここで各人によって考え方が分かれるところであろうが、このような場合 私は、生物や物の本質に沿うことがよい、と考えている。

生物の本質は"生きそして子孫を残す"ということであり、 また物の本質は諸々の条件が許せば"拡散する"と言うことであり(生物も物であるから この本質に従っている)、この世の中の本質は"万物は変化する"である。 これが"自然"であるから、人の害にならない限りにおいて、 これらの本質を尊重するということは、自然を尊重すると言うことに通じる。 これは何も改まって言うほどの事でなくて、人が今まで普通にやってきたことである。 人は先史以来、この本質に則り(人にとって)有害な物を駆除し、(人にとって) 有益となり得る物の保護と改良に務め、万物の変化に対応してきた結果が、 現在の世界であると言える。

ここで"拡散する"ということは、例えばある容器に気体が入っている場合、 その容器の蓋をはずせば気体は空中に広がる、ということである。あるいはある生物は人が 何もしなければ、その生物の遺伝子(即ち分子)レベルにおいても個体レベルにおいても、 その生存領域を広げていく傾向にあるということである。これはこの世が続く限り 不変の真理である(エントロピー増大の法則))。

それでは何故上述の生物や物の本質を尊重するのか。それは、相当の理由も無いのに これらの本質に逆らうことは、自然の法則に逆らうことであり自然保護に矛盾するからである。 またこれらの本質に逆らうには、相当のエネルギー(従って労力と資金)が必要になるからであり、 それだけのエネルギーを使うことは、社会全体でみたとき、かえって自然保護に反するからである。 さらにそれだけのエネルギーを使ってさえ、これらの本質を完全に無くすことは不可能に近いから である。

前置きが長くなったが、ここでトキとタイワンザルの問題に簡単に触れよう。 どちらも近年話題になっている比較的大形の動物である。日本産最後のトキ(Nipponia nippon)は 平成15年に絶滅した。現在はその代わりとして、同種とみなされる中国産のトキを 人工的に繁殖させ野生化させる試みがなされている。私個人としてはこの試みが意味する真意は解らないが、これに異を唱える人は少ないであろう。 日本はその程度に豊かな文化的な国だからである。同種といっても、日本産と中国産トキに、 地域的個体差はあるのかないのか、あるとしたらどの程度なのかについては私には解らないが、 中国産トキが日本で繁殖し、生息域を広げるならそれでよいと思う。トキ繁殖に人の手が 加わったと言え、その結果は人に深刻な害を与えず(ある程度は、人の営みに害を与えるであろうが、それは現時点における鷺等の被害と同程度であろう)、生物と物の本質に沿っているからである。

これと対照的な事象が和歌山県におけるタイワンザルの問題である。その後どうなった かわからないが、多くのところで議論されているのでここでは詳しくは述べないが、 一言私見を述べよう。

この問題は、動物園で飼われていたタイワンザル2匹が逃げ出し、 ニホンザルの群(200匹程度)の中で、交雑し生息し、既にタイワンザルの特徴 (尻尾がやや長いらしい)を持つ子孫が繁殖していることに端を発する。そして協議の結果、 ニホンザルの純粋種を保存するため、タイワンザルの血を引くと思われる個体を駆除(殺す) するということである。さらに外観で見分けがつかなくとも、各個体の遺伝子を調べ、 タイワンザルの遺伝子が入っている個体は駆除するということである。 このニュースを知ったとき、第一印象は、なんと恐ろしいことを、 なんと無意味なことを決めたのか、ということであった。

専門的には種の定義はいろいろ 難しいこともあると思うが、基本的には、複数の集団があるとき、相互に交雑を繰り返し、 幾代にもわたり子孫が残るならば、それらは同種であるとみなすことができよう。 各集団の外観の違いは 、長い年月に形成された地域毎の個体群の特徴とみなせよう。 生物の本質は"生き、子孫を残す"ことであり、物の本質は"拡散する"にあるから 、タイワンザルは、生物と物の本質に沿って生存していることになる。 また人の生活や生命を脅かすこともなさそうである。

もし問題の集団に属する全ての個体を捕獲し、それらの遺伝子の調査が可能ならば (私はこれは相当難しいと思っている。7-8割は可能であろうが、捕獲率を10割にするためには、 相当のエネルギー、従って時間と資金を要するであろう。これも自然の摂理である)、 見方を変えれば、タイワンザルと ニホンザルの遺伝子の相違が明白に区別できるなら(もし区別できなければ、 今回の駆除作戦は意味をなさないであろう)、このサルの集団を含め近辺のサルの集団は、 自然界における高等動物における個体及び遺伝子拡散の格好なまたとない研究材料になるであろう。 タイワンザルの混入は人為的とはいえ、混入した後は自然に交雑しているのであるから、 また人為的に遺伝子を混入したわけではないので、ほぼ自然界における遺伝子 拡散の状況を見ることができよう。このような好機会、好材料を何故殺害という形で 無にしようとするのか不思議である。もったいない話である。

さらに、タイワンザルがニホンザルと比べて極端に繁殖能力が強くなければ、 タイワンザルの遺伝子は時間の経過と共に薄められていくであろう。ひとたび拡散した遺伝子は、 生物の存在できる時間範囲では再びもとの遺伝子集合を形成する確率は限りなく零に近いので、 タイワンザル混入の影響の遺伝子的記憶は、数百年もすればほとんどその痕跡を とどめないであろう。これが万物の摂理である。
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3.
自然保護3 自然科学との関連

自然保護や環境問題の対策は、自然科学あるいは技術の発展を無視しては考えられないであろう。 しかしややもすれば自然科学や技術の発展の、負の側面が強調されすぎるような場合もある。 確かに個人的には田舎暮らしやスローライフといったことも意義あるかと思うが、 社会全体を考えれば、科学や技術の進展と、関連付けていかざるを得ないであろう。

3.1は世界の人口のほぼ1000年にわたる経年変化である。人口と年の関係は、 片対数プロットで直線になっているから、人口は時間と共に指数関数的に増加していることを示す。 人口と西暦年の関係は、時代の節目、節目で屈曲点を持って変化しており、三つの直線で表される。 1700年代の屈曲点はイギリスに始まった産業革命に、 1900年以降の屈曲点は第一次及び第二次世界大戦を契機とする、 生活環境の変化に起因するとみなせる。

ある生物の生息数の増加は、基本的にはその世界がその生物にとって住みやすい 環境にあるということを意味していると考えられる。従って人口増加率は基本的には 世界の食糧生産量に依存しているとみなせるから、この時代の節目で、 食量生産量が急激に増加したと考えられる。あるいは乳児死亡率等に関連する衛生事情をも 考慮すれば、近代における上記の二つの地球的な大事件で、科学及び技術の発展による 生活環境の大きな変革がもたらされた結果と考えられる。これらは例えば、肥料や農薬、 医薬品の開発、動力の導入、生命科学の進展、育種や栽培技術及び医療技術の発展等である。

3.2には、人の生産活動による世界の炭酸ガス排出量(炭素量に換算)の経年変化を示す。 炭酸ガスの年間排出量と時間の関係は、片対数プロットで直線になっているから、 この場合も炭酸ガスの年間排出量の増加速度は、その時点における炭酸ガス排出量に 比例していることを示す。詳細は拙書参照

説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\jinkou.jpg










  
3.1

説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\co2.jpg








  
3.2 拡大図

仁徳天皇の国の中に煙たたず、云々を持ち出すまでもなく、、 化石燃料使用時においては、炭酸ガス排出量はその時点における産業の 発展状況の指標とみなせるであろう。年間の炭酸ガス排出量は三つの直線で表されることが解る。 1918年以前と1918年から1942年頃及び1942年以降の三時期に区別できる。 直線1と直線3の勾配はほぼ同じである。直線2の勾配はその約1/3である。 これは二度の大戦による産業構造の疲弊による生産性の低下を示している。

4.2で注目すべき点がある。それは直線1と直線3の勾配は同じであるが、 炭酸ガス排出量の絶対値が、1942年以降の方が直線1に対応する時代よりも、 ほぼ1/3に減少している点である。これは、直線3の時代は直線1の時代と比べて、 同じ生産性を上げるために1/3の炭酸ガス排出量ですむようになったということを意味する。 さらに図4.1と照らし合わせれば、1940年代頃からの人口の増加速度は著しく増している。 戦争は決して容認できるものではないが、結果として科学及び技術の発展によって、 エネルギー的にもエントロピー的にも、より効率よく生産できる構造に変化したということであり、 その結果として人口の著しい増加が支えられたということである。

有史以来おそらくそれ以前も含め、人類の歴史から戦争は消えたことはないであろう。 従って戦争を繰り返す長い歴史の中で、人類はその戦争で失われた多くの命、 及び諸々を鎮魂するという意味も含め、その後の社会の発展を期してきたのではないか。 長い歴史の中でそのように本能的に振る舞う遺伝子が備わってきたのではないかと考えている。 科学及び技術の発展は、局所的及び一時的には、人類の生存を脅かす面も確かに存在するが、 全体として人類の生存にプラスに作用しているということを認識することも大切であろう。 また1980年代以降炭酸ガス排出量の勾配が緩やかになっているが、 戦争を経ずにさらに炭酸ガス排出量が減少することを期待したい。 井戸端論理目次へ戻る


4.
小さな文化・箸

最近のテレビ番組で、民放に限らずNHKでも、番組の中で物を食する場面が多く見られます。 そのことの是非は別として、たまに箸の使い方について気になることがあります。 上手に使っている人もいれば、そうでもない人もいます。タレント、 ゲスト等の方については、箸の使い方を云々することは、無理なことかと思うのですが、 少なくともアナウンサー等その放送局の職員の方は、 合理的な(効率のよい)箸の使い方にできないものでしょうか。

テレビで活躍されている皆さんは能力の高い人でしょうから、箸の使い方云々は 大事の中の小事という見方もあるでしょうが、 小事であればこそ、僅かの気使いで 何とかなることも然りです。箸の使い方は極めて簡単で、そのように能力のある方々なら、 その気があればものの数分もしないうちに合理的な使用法を会得できるでしょう。 このようなことは本来極めて内輪の個人的なことであったはずですが、広く電波に乗って 放映されることによって、 その人の言動の一部として、多くの人の目に映るようになりました。

箸は日本の伝統の一つです。 それも毎日使わなければならない、最も簡単な道具の一つです。 大量生産の箸も、伝統技術としての箸も、例えば魚のどんな小さな骨でも、容易に掴め、 選り分けられるように作ることが製作者の意図するところでしょうし、 そのように苦心されて作られていると思います。 一般的に言って、道具は合理的に使われることによって、 我々はその道具の真の意味と価値を知ることができます。 またそうすることが、製作者の意図に応えることになるでしょう。 道具を合理的に使うということは、最も無駄のない使い方ということで、 現在流行の省()エネルギーにも通じます。 どうかこの点を考慮されて 箸の合理的な使い方の社内講習会をされてはいかがでしょうか。 特に公共性の高いNHKに望まれます。 この講習会の開催にはお金も時間もほとんどかかりません。 要は小さな文化への謙虚さとやる気かと思います。来春の新入社員か ら始めてはいかがでしょうか。

番組の中で職員の方が、 合理的な箸の使用法で、物を食べている姿を見ることができれば、 職員でないタレント等諸氏の中で心有る方々は、それに同調されていくかもしれませんし、 それによって静かに、しかし広くその文化が広まっていくかもしれません。 これ自体は小さなことかもしれませんが、 全国の家庭に放映されますので、かなり影響は大きいかとも思います。 これも放送文化を担う方々の仕事の重要性を端的に表している一面でもあり、そのような方々の 役割の一つでもあるかと思います。 井戸端論理目次へ戻る


5.
論理思考のすゝめ1 応用力について

近年小学生から大学生まで、さらには大学院生をも含めた若者の学力低下が著しいということが 話題になっている。例えば2006年国際学習到達度調査(PIAS)によれば、 我国の高校1年生の数学及び科学的応用力の低下が顕著であると報告されている。 また、2007年4月に実施された「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)でも、 小学6年生の算数応用力が低下しているということが報じられている。実際に出された問題が、 数学(算数)や科学の応用力を試すに適当か否かは別にして、応用力があるか否かは、 結局は基礎学力があるか否かに帰結する。また、"最近の若者 はものを考えることが苦手だ"と いうこともよく聞くことである。これは飽くまでも一部の若者であろうし、何も最近だけではなくて、 昔もそうであったであろう。 これは苦手と言うことでなく、考えようとしても考えられない、 考える手段がないということであるように思える。

そもそも小、中、高、大学で学ぶ目的の一つは、論理的思考力を養うことにある。 一般的に何か事物に対処するとき、まず論理的に、"そもそもこうあるべきだ"(そもそも論という) と考えて、次にそのときの状況や、その人の立場やいろいろな誤差等を考えた上で、 その論理性をある程度犠牲にしていくことになる。どうせ無視するなら論理的に考えることは 無駄だという考えもあるであろうし、始めから論理的思考を省略して、事物に対処することもあろう。 しかしこのとき論理的に考えることをやめてしまうと、その事物の本質が見えなくなってしまうので、 まず論理的に考えることが肝要になる。

ある事物を論理的に考えるためには、それなりに基礎知識が必要となる。 自分の頭の中に持っているいろいろな引出しから、その事物に関連していそうな知識を引き出して 来る作業が必要になる。その基礎知識が多ければ多いほど、深ければ深いほど、 その事物に関する論理思考が深くなる。引出しの中の基礎知識が少ないと 、論理的に物を考えようとしても、考えることができなくなる。基礎知識というものは、 ある特定の分野にのみ関連しているのではなく、基礎的であればあるほど、 いろいろな分野に活用できる。言い方を換えれば、この世の中で生じる事象は、 一見何の関連もないかのように見えても、実はその根本のところでつながっている場合が多い、 ということである。

それでは論理思考力を養うためにはどうすればよいのか。一言で言えば、 "勉強せよ"ということに尽きるが、その中でも特に文章を読むこと、 それもできるだけ長編の文章、例えば長編文学を読むことであると思う。 今は余り流行っていそうもないが、ロシア文学でも、フランス文学でも、 もちろん日本文学でもよい。そうすれば自然と論理思考力が身についてくるであろう。 さらには自然科学的な面で言えば、 数学、物理学や物理化学といった、 あらゆる学問の基礎となることを学ぶことであろう。 近年日本の社会に起きている様々な 不都合な事件のかなりの部分は、関係者の論理的思考力の欠如に根本的原因があるように思える。 井戸端論理目次へ戻る


6.
論理思考のすゝめ2 パーセントとポイント

説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\engurafu.jpg

何人にとっても言葉は大切であるが、特に言葉を大切にしなければならない職業がある。 テレビ等のアナウンサーもその一つであろう。アナウンサーの言葉で最近気になる言い回しがある。 それはポイントという言葉である。
例えば選挙の投票率に関して、「今回の投票率が50.0% で、 それは前回の投票率より9.5ポイント多い」というような言葉使いである。 これは、今回の投票率が50.0%で前回が40.5%であったから、50.0%−40.5%=9.5%という 意味であろう。何故9.5%を9.5ポイントと言うのであろうか。その理由の一つとして、 もし9.5%多いというと、前回の投票率40.5%の9.5%、0.405x0.095=0.0385 即ち3.85%多いと誤解されるからであると言われている。 果してこんな誤解をする人がいるであろうか。 このような場面では、多くの場合は今回と前回の%数を明示してあるから、 このような誤解はないであろう。 またこのような誤解がないように文章なり画面を工夫すべきであろう。

%(パーセント)は、全体に対する分率を表すとき、全体を100としたときの分率である。 即ち%は母集団の数が異なるときに、相互に比較できるように表した分率である。 先の例の50.0%と40.5%を図に示すように円グラフで表してみれば、その差は9.5%であることは 明白であろう。

ある分野ではこのような場合percentage point(あるいはパーセントポイント) という言葉が使われている。これは若干安易ではあるが、前述のような誤解を避けるための工夫であろうし、パーセントという言葉を含んでいる点で評価できる。 ポイントという言葉は、このパーセントポイントを略した言葉であろうが、言葉を大切にするという観点からは余りに安直であろう。

確かに%はkgmのような単位ではなく呼称である。例えば10m x 10m=100m^2であるが、 10×10%は100%^2ではなく、単に0.1x0.1=0.01を意味する。 足し算では10+10%=20%(これは0.1+0.1=0.2という意味)である。 加減計算の基本は同一単位の量同志、あるいは同一呼称のもの同志間で成り立つことにある。 呼称の場合はその本質は単なる数であるから、呼称を除いて加減計算をすればよい。 例えばひと1人とねずみ1匹の和は数としては2である。しかし1+1匹=という計算はし難い。 2人と言っても2匹と言っても、自分はねずみと一緒かと、その人から文句が出るであろう。 そういう意味で上記のような場合ポイントを使うことに合理性はないであろう。 何故ポイント"と言うのか。ポイントにどんな意味があるのか。この奇妙な言い方が、 批判力の未熟な 小、中学校の教育に入り込むことを心配する。 井戸端論理目次へ戻る


7.
論理思考のすゝめ3 円の面積とトイレットペーパー

そもそも面積とは何であろうか。面積とは「ある線分に囲まれた二次元平面上のある量」である。 ここで一辺が1の正方形の面積を1と決める。そうすれば、二辺がそれぞれa, bである長方形の 面積はabとなる。また面積が持つであろう妥当な概念は次のような性質である。
1
)図形を回転、移動(剛体運動)させても面積は不変である。(合同の図形の面積は等しい)
2
)ある図形を複数個の部分に分割したとき、各部分の面積の和は元の図形の面積に等しい。
3
Aの図形の内側にBの図形が完全に含まれるなら、Bの図形の面積は、Aの図形のそれよりも 大きくはない。
定積分による面積の計算は、長方形の面積が二辺の積で与えられることに基礎を置いている。 また任意の三角形は必ず2個の直角三角形に分割できるから、三角形の面積は(底辺×高さ)/2で 与えられる。任意の多角形は複数の三角形に分割できるから面積を求めることが可能となる。

それでは円はどうであろうか。円は複数の三角形に分割できない。皆さんは円の面積が 積分によって求められることは既に知っている 。図7.1は中心から円を微小な扇形に分割し、 半円分のそれらを開いて多数の山形として、上下重ねるという方法である。
説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\en1.jpg

分割を細かくすればするほど、平行四辺形の一辺は半円周に近づき、 平行四辺形様の図形の面積は円の面積に近づく。従って円の面積=半径×円周/2となる。 それがπr^2であるか否かはπを教えるか否かの 問題である。この方法は1600年代中頃,既に和算でも紹介されている。この方法は面積の 基本的性質2)にも適応しているし、分割を無限にして微小角を0まで積分することに 相当するからまともである。

説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\en2.jpg次に図7.2の方法はどうであろうか。芯まで詰まったトイレットペ− パ− を断面が 円に見える方向から見て(a)、中心を通して上下半分に切断し(b)、 下側の半分を底辺が水平になるように開く(c)という方法である。そうすると薄いトイレット ペ− パ− が水平に重なった底辺の長さπr、高さrの二等辺三角形(のような図形)になり、 この三角形の面積はπr^2/2なので、元の円の面積はπr^2であるという仕組みである。 そしてこの求積方法が、微分、積分を学習していない小中学生用に多数紹介されている。

確かに(b)(c)も積分すれば面積はπr^2/2と求まる。 円の面積が、直角を挟む一辺がその円の半径に、他の一辺が円周に等しい直角三角形の面積に 等しくなることは、遠く古代ギリシアの時代に, アルキメデスによって示されている*。また、円周に等しい長さの線分は存在するが幾何学的に作図はできない。 さらには円と同面積の正方形(従って長方形も)は存在するが、それを幾何学的に作図する問題は、 ギリシア数学の3大問題の一つであり、19世紀後半になってそれが不可能であることが 証明されている。それをトイレットペ− パ− を開くという粗雑な方法で、 長さπrの線分ができ、また半円と同面積の三角形ができたと見てよいのだろうか。(一般的にものは変形すれば、ある部分の長さ、 従って面積や体積も変化することは重要な特性である。) この方法は、 先の面積の充たすであろう3っの基本的性質の一つにも当てはまらない。 この方法が視覚に訴えるという点で優れているという意見もあるかもしれないが、 安易に可視化するより、論理を重んずる教育こそが大切であろう。

円の面積が、 ある三角形の面積に等しいことを示すなら、次に述べるのアルキメデスの方法の方がより論理的で 教材としても優れているであろうし、その方法は何とか小中学生にも理解できる範疇であろう。 井戸端論理目次へ戻る


8.
論理思考のすゝめ4 円の面積:アルキメデスの方法

ギリシアの哲人アルキメデスは、「任意の円の面積は、直角を挟む一辺が円の半径に等しく、 他の一辺が円周に等しい三角形の面積に等しい」ことを示した。今から二千数百年前のことである。 下図を用いてその概略を示そう

説明: C:\Users\FMV\Desktop\my home page\img\en3.jpg任意の円をOとして、高さがその円の半径に等しく底辺が円周に等しい三角形をEとする (本来この三角形は描けないであろうが、理解を助けるために図示する)。 1)まず△Eの面積が円Oの面積より小さいとしよう。その円に内接する正方形ABを描き、 さらにその正方形辺によって張られる円弧を二等分し次々に内接する正多角形を描いていくと、 ついには内接正多角形の面積が、△Eの面積を越えるときが来る。 このとき中心Oからその内接多角形の一辺に引いた垂線をONとすれば、 ONは円の半径より必ず小さい。またその内接正多角形の周は円周(△Eの底辺)より小さい。 即ち内接多角形の面積が△Eの面積を越えることはあり得ない。これは下線部の記述と矛盾する。 従って△Eの面積が円Oの面積より小さいということはない。

2) 次に△Eの面積が円Oの面積より大きいとしよう。まず外接正方形CDを描き、 その対角線と円周との交点A(円弧LMの中点)で接線を引き、外接正方形との交点をQPとする。 ∠Aは直角であるから、CP>APであり、AP=PMであるからCM> AP+PMである。 このように外接正多角形の辺が張る円弧の中点から接線を引き、 次々と外接正多角形を描いていくと、外接多角形の周は必ず小さくなっていく。 また外接多角形の面積が△Eの面積より小さくなるときが必ず来る。 しかしOAは円の半径であり、 外接正多角形の周は必ず円周より大きいから**外接多角形の面積が △Eの面積より小さくなることは あり得ない(下線部に矛盾する)。従って△Eの面積が円Oの面積より大きいということはない。 即ち△Eの面積は円Oの面積より大きくも小さくもなり得ないから、両者は等しいことになる。

さらにアルキメデスは 310/71<円周率<31/7と求めている。
世界の名著9, ギリシアの科学 中央公論社(1972) p483 (一部変更あり)
**円周<外接多角形の周、を示そう。 内接多角形の周<外接多角形の周であり、円周は内接多角形の周の極限(上限値)で 定義されるから、円周外接多角形の周となる。円周=外接多角形の周となったとすると、 上述のように、 外接多角形の周は角数が増えると必ず小さくなるので、周の長さがより小さい 外接多角形が必ず存在するから、円周=外接多角形の周になり得ない。
円周<外接多角形の周,である。井戸端論理目次へ戻る

 

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9.
掛け算の順番―この不合理を是正しよう。

びっくらこん !!! : 3本耳のうさぎ?、2本足のタコ?    (何故このような明確な誤りが、大手を振ってまかり通るのか)花まる先生公開講座

もう20年以上も前になろうか、ある新聞紙上に小学生の子供さんを持つ親御さんから、算数の掛け算について下記のような問題を指摘され、その不合理性(例えば3x5は正解で5x3は誤りとする、以下参照)について述べられていた。最近のネット上の議論を見ても、いまだにこのような不合理がまかり通っていることに驚くとともに、このようなことでは日本の将来に不安を覚える者として、(I)数学(算数)的見地から、(II)言語的見地から、(III)教え方の見地から、その不合理性について言及したいと思う。

また多くの議論を通じ、掛け算に順番があると主張している方々は、どうも 単位について不慣れの方々が多いようであるから、単位についても言及しよう。

次の問題を考えよう。
(A) 3個のリンゴが入った皿が5皿ある。リンゴは全部で幾つか。

(I) 数学(算数)的見地から:
1) (3個/1皿)x5皿=15個   3x5=15
2) 5皿x(3個/1皿)=15個  5x3=15
1)も2)も正解である。
ここで’個’や’皿’を単位のように扱っているが正確には単位でない。単に呼び方(助数詞)であるが、普通の数値と同じように割ることができる。 1)も2)も、分子と分母の皿が打ち消されて、答えは個になる。

2)が答えになる文章問題は、(B)皿が5皿あり、それぞれにリンゴが3個入っている、と言い換えなければならないということも無意味である。(A)も(B)も同じことを言っているからである。1)が正解で2)は不正解とする根拠は皆無である。さらに、 3+3+3+3+3=3x5
3x5=5x3
∴3+3+3+3+3=5x3である。
これは論理の基本でA=B, B=C, ∴A=C である。 これを否定できる人はいない。

念のため付け加えるならば、3x5=15(あるいは5x3=15)が答えになる文章題は複数(現実には無限に)ある、ということである。よく出される例は、
(C) 5個のリンゴが入った皿が3皿ある。リンゴは全部でいくつか。
3) (5個/1皿)x3皿=15個  5x3=15
4) 3皿x(5個/1皿)=15個  3x5=15
問題(C)の答えとしては、3)も4)も正解である。
本来ならここまでで、掛け算に順番がない、を理解するためには十分なのであるが、ここでは更に他の2点からこの問題を論じよう

(II) 言語的見地から:
2)を不正解とする方々は、掛ける数と掛けられる数を区別しなければならない、と主張している。本当に掛ける数と掛けられる数を区別できるのであろうか、あるいは区別する必要があるのであろうか。例として、犬は(が)うさぎを追いかける、を挙げよう。追いかけられるうさぎが先に逃げ、追いかける犬が後になるので、先にある数がかけられる数で、後の数がかける数、という具合である。確かにこの例では、文章を受動態にして、うさぎは犬に追いかけられる、とすることが可能である。それは、主語、動詞、目的語がそろった完全な文だからである。

それでは3x5はどうか。3が掛けられる数で、5が掛ける数であると言えるのか。3は5に(を)掛けられる、5は3を(に)掛ける、という文が正しい文か否かである。3は5に掛けられる、はなんとか我慢できる文であるが、5は3を(に)掛ける、は文として成り立たない。なぜか。それは3x5、即ち3に5を掛ける、では、3も5も目的語だからである。従ってうさぎと犬の文は、掛ける数と掛けられる数を区別することを主張する文例としては不適切である。

3に5を掛けるは、正しくは主語を補って、私(彼、君)は3に5(あるいは5に3)を掛ける、というべきだからである。これなら、受動態にすれば、3は(私によって)5に掛けられる、あるいは5は(私によって)3に掛けられる、という文章が可能である。即ち、3も5も(私によって)掛けられる数なのである。(これは、私は犬にえさを与える、という文で、犬は(私によって)えさを与えられる、えさは(私によって)犬に与えられる、という文章と同じである)。(日本語は、主語がなくとも何となく通じる言葉であるが、文章の内容をを明確に理解するためには、主語、動詞、目的語等を明確することが不可欠である)。
あるいは上記の下線部の文は、私は3と5を掛ける、または3と5は(私によって)掛けられる、と言えるから、3と5は同等であり、(私が)掛ける数、あるいは(私によって)掛けられる数なのである。(これは、私はリンゴとミカンを食べる、リンゴとミカンは(私によって)食べられる、と同じである)。以上のことは掛ける数と掛けられる数を区別することは無意味であり、また区別できないということである。

以上のように、問題(A)に対し、3x5=15が正解で、5x3=15は不正解とすることは誤りであることがわかるであろうし、掛ける数と掛けられる数を区別することも無意味であることもわかるであろう。

因みに、割り算
a÷b=a/b
の場合はどうであろうか。この場合は非可換であるから、除数と被除数を区別しなければならない。bはaを割る、aはbによって割られる、はどちらも文章として成り立つであろう。

以上掛ける数と掛けられる数の区別が無意味であることを、長々と説明してきたが、言葉というものはかなり正確に事情を表している。さすが長年の人類の知恵の結晶である。可換(順番がない)である足し算と掛け算については、aとbを足す、aとbを掛ける、という表現は普通に成り立つ。これがそれぞれa+b(b+aでもよい)、a×b(b×aでもよい)を表すと見なすことは合理的である。。一方非可換(順番が大切)な引き算と割り算については、aとbを引く、aとbを割る、という表現が、a-b(あるいはb-a)、a÷b(あるいはb÷a)を意味すると考えることはできないであろう。

しかし尚掛けられる数(被乗数)と掛ける数(乗数)が区別できると主張する人もいるであろう。理由の一つは、これらの言葉は、広辞苑にも収録されている、である。また掛けられる数と掛ける数は、そのように定義される、とすることもできる。それでも良いであろう。しかし、 掛けられる数×掛ける数=掛ける数×掛けられる数 は否定することはできない。

(III) 教え方の見地から:
次は教え方の問題である。小学生に掛け算を教えるにあたり、掛け算には順番がある、と教えるか、掛け算には順番がない、と教えるかいずれかである。順番があるとする人も普通の数の掛け算が可換でないとは考えていないであろう。子供は勉学が進むにつれていずれ掛け算は可換(ab=ba)であることを知るであろう。ただ現時点では、順番をつけた方が、子供が理解しやすいから順番をつけて教えているのである、とする人も多いであろう。

しかし本当に、順番があると教える方が、順番がないと教えるよりも、子供は理解しやすいのであろうか、また教えやすいのであろうか。そうではないであろう。順番がある(ab≠ba)と教えるのは、結局その考えは是正されなければならない(もし是正されなければ、その人は一生間違いをしていることになり、それこそ問題である)ことを教えるのであるから、それを正当化するために、無理にも何か余分な理屈をつけなければならない。あるいはその”理屈”がある故に、掛け算には順番があるとしなければならない。多くの議論から見て取れるその”理屈”の一つは、”掛けられる数の名数が答えの名数になる”ということである。ここで名数とは本来単位(助数詞を含める場合もある)を持った数を指すが、ここでは単位あるいは助数詞と読み替えてもよいであろう。もちろんこの”理屈”は間違いである。名数はどこにあってもよい。
この”理屈”故に、(I)の2)は
 5皿x(3個/1皿)=15皿(とならねばならない)(ここで”掛けられる数”の名数は5皿)
というような不合理なことになるのであろう。 しかしこの”理屈”がどういう訳かかなり普及しているので、掛け算に順番があるということになり、それが、一つ分の量×いくつ、に式を立てなければならないであったり、掛けられる数×掛ける数、に立式しなければならないという、掛け算の本質とは別の不要かつ間違ったルールになっているのであろう。その結果、このおかしなルールに縛られてしまっているのである。

順番があると教えることに利点はないように思える。むしろ順番がない、と教える方が、子供は理解しやすいし、教えやすいであろう。それは掛け算の理屈に合っているからである。従っておかしなルールを作り、それを教える必要がないからである。

例えば(A)の問題、
(A) 3個のリンゴが入った皿が5皿ある。リンゴは全部で幾つか。 でも、
1) 一つ分の数×いくつ: (3個/1皿)x5皿=15個   3x5=15
2) いくつ×一つ分の数:5皿x(3個/1皿)=15個  5x3=15
でも同じになること即ち、一つ分の数×いくつ=いくつ×一つ分の数、を説明し、掛け算には順番がないことを説明すれば、よほどすっきりしている。余分なことは一切説明する必要がないのである。これは本質的に正しいことを言っているからである。

上記の理屈を言っても子供には解らない、という意見もあろう。しかし、解らないから間違ったことを教えてもよい、ことにはならない。少なくとも教える側(先生)は正確に理解していなければならない。
(A) 3個のリンゴが入った皿が5皿ある。リンゴは全部で幾つか。
(B) 皿が5皿あり、それぞれにリンゴが3個入っている。リンゴは全部で幾つか。
が同じ意味であることは、小学生でも理解できるであろう。そのうえで、上記1)と2)の意味を説明すればよいであろう。
これを理解できる子も理解できない子もいるであろう。理解の程度も子供によって大きく変化するであろう。それでもいいのである。だからこそさらに深く学ぶことが必要であるということを理解させることが、教育の本質であろう。また教える側が上記の掛け算についての理屈を理解していれば、個々の先生方は現場で、それぞれ教え方を工夫できるであろう。
しかし、いかなる事情があるにせよ、はじめの(A)の問題で、5x3=15、答15個、という解答をバツ(不正解)とすることはあってはならない。

何故このような掛け算に順番があるというような不合理が、長年にわたり是正されないのであろうか。何故やめられないのか。そこが最大の問題である。日本の教育の将来のためにも是非是正していただきたいし、是正されなければならない。


付記:上記の例では、個や皿は単なる助数詞であるから、必ずしも書く必要はないが、次の例では事情が異なる。時間やkmは単位であるから、しっかり記載する習慣を付けなければいけない。
(D) 1時間に3キロメートル(km)の速さで進むとき、5時間では何キロメートル(km)進むか。
(3km/1時間)×5時間=15km あるいは
5時間×(3km/1時間)=15km
が正解で3km×5時間=15kmでは、掛け算と単位の意味を理解していないので不正解である(式の左辺と右辺で単位が合わない)。このように単位を正確に記すことは非常に大切であり、さらに勉学を進め、高度な知識を得るに当たり、事物を正確に把握するためにも非常に良い習慣になる。 井戸端論理目次へ戻る

 

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10.
アボガドロ数はどの程度に大きいか。

アボガドロ数について

皆さんはアボガドロ数(Avogadro number, NA)を知っているだろうか。物理や化学を学んだ人なら馴染深い数値であろう。イタリアの科学者Amadeo Avogadro(1776-1856)に因んでこの名がつけられた。その値は、NA= 6.02×1023、である*。1023は1の次に0が23個続く数である(101=10, 102=100である)。そして、アボガドロ数個の粒子(例えば原子や分子)を含む物質の量を1モルという。普通にはこのモルという単位で表す物質は、原子、分子や電子のように、非日常的な極めて小さい物質の量を表すために用いられる。しかし日常的な物質に対して使うことも可能である。例えば鉛筆1モルとかゴルフボール1モルとかである。しかし1モルという量が余りにも大量なので、このような使用法は一般的でない。 水1モルはほぼ18mlである。即ち少し大きめのぐい飲み1杯の水には、アボガドロ数個の水分子が含まれていることになる。

それではこのアボガドロ数という値はどのくらい大きいのであろうか。日常感覚で把握できるであろうか。やや突飛な例であるが、例を以って示そう。

1)地球上に生えている樹木の総数と比べよう。
この地球の陸地には無数と言える樹木が生育している。大きな木もあり小さな木もある。世界中に生育している木の本数を想像することはかなり難しいし、数えることはほぼ不可能である。しかし、その数はアボガドロ数以上であろうか、以下であろうか。皆さんはどう思うか。6.02×1023本以上の木があると考える人も多いであろう。

世界の全陸地の面積は、約150x106km2 である。これにはシベリアや南極大陸、さらにはサハラ砂漠のような、植物の生育に適さない場所も含むから、植物それも木が生育している面積はこれよりかなり少ないであろう。 1km2=106m2であるから、150x106km2=150x1012m2 である。1m2に平均して何本の木が生えているであろうか。大木も小木もあるから、もちろん分からないが、10cmx10cm四方、即ち100cm2に1本生えているとすると、1m2に100本生えていることになる。即ち、世界中の木の本数は(かなり多めに見積もっても)1.5×1016 本になる。これはアボガドロ数の4000万分の1(1/4x107 )である。このように世界中に生えている木の総数は、アボガドロ数よりかなり少ないと推測できる。逆にアボガドロ数がいかに大きいか、あるいは分子や原子がいかに小さいか、が解るであろう。従って日常的な物質の量を、モル単位で表すことは非現実的であることも解るであろう。

もう一つの例を示そう。

2)アボガドロ数個の米粒を考えよう。
米粒1モルを世界中の人が毎日3合ずつ食べるとして、何日ぐらい食べることができるか。ただし米1合は約7000粒、世界の人口は70億人としよう。

米3合は約21000粒であるから

 6.02x1023粒 
 2.1x104粒/1日1人x7x109人 
 =  4.1x109  =  1.1x107

即ち1000万年以上かかるのである。人類の祖先である猿人アウストラロピテクスがアフリカの地に生きていたときは、今から約300万年〜400万年前とされている。即ち人類発祥のときよりはるかに長い間、世界の人類は米粒1モルを食べ続けることができるのである。 このように、アボガドロ数という数は余りに大きくて、日常感覚で把握することはかなり困難である。

* 炭素の同位体12C の12g中にある炭素原子の数をアボガドロ数という。

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縦軸は年間の炭素原子C発生量に換算してある。 基本図はJ.E.Andrews, P.Brimblecombe, T.D.Jickells, P.S.Liss,An Introduction to Environmental Chemistry, Blackwell Science, 1996渡辺正訳、地球環境学入門、 スプリンガー・フェアラーク東京、p213, 1997より転載。
3本の直線及びそれに基づく解析は筆者による。
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丸善、 2005  
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