剪画 西国街道

西国街道は、京都の東寺口を起点として、摂津西宮に至る、
古くからの幹線道路です。

当家から北へ六五〇メートル余りの島坂付近は、
長岡京遷都一年後の延暦四年(七八五)、
造営長官であった藤原種継が暗殺された場所と伝えます。

平安時代の承平五年(九三五)二月には、
赴任地の土佐から京へ戻る途中の紀貫之が、
島坂で饗応を受けたことが『土佐日記』にみえます。

西国街道は、豊臣秀吉が
朝鮮出兵に際して拡張・整備したことから、
「唐海道(からかいどう)」とも呼ばれました。

江戸時代に入ると伏見の町が開かれ、
参勤交代など幕府が定めた正式な経路は、
大山崎から伏見へと向かうようになります。
しかし、乙訓地域を南北に貫くこれまでの街道も、
地元の人が京都や摂津へと行き来したり、
西山の社寺を参詣する旅人でにぎわいました。

当家のある上植野町下川原は、街道沿いに白壁の土蔵や
塀、門などが連なり、往時の景観を今に伝えます。

平成二年(一九九〇)から翌年にかけて、
「歴史の道」として石畳に整備されました。

正徳五年(一七一五)の年号を刻む愛宕燈籠が、
道の脇にたたずむ、風情ある散歩道です。