今月号の『私の雑記帖』にご執筆いただいた宇治和貴先生からのご縁で、昨年、熊本別院で連続研修の講師をさせていただきました。こどもの権利と性について考える研修ということで、むろんわたしはその専門家ではありませんが、わが園での失敗談がなにかのお役に立つならばと、新幹線に乗って勉強しに行かせていただいたのです。宇治先生にも、はじめてお出会いした時からそう感じていましたが、熊本で出会った方々はみな不思議なほど、園長先生方も保育者のみなさまも、酒屋のおばちゃんも、胸の奥に、素手では触れられないような熱い思いを抱いておられます。その熱から、時折じわっと、泣きたくなるような優しさがしみだしてくるのです。
研修の傍ら、ぜひと願って、ある保育園を見学に行かせていただきました。その園は、熊本地震で最大震度となった益城町の近く、活断層に添って流れる川のそばにあります。本震から2度目の余震で、町内のほぼすべての家が倒壊しましたが、平屋の保育園舎は被害を免れ、近所の人々がつぎつぎと園に避難してこられたそうです。すべてのライフラインが絶たれても、こんこんと湧き続けた園庭の湧き水を頼りに、火を焚き、ご飯をつくり、老いも若きも教室に雑魚寝し、数十人で数か月間生活したのだと。寺のご住職でもある園長先生は当時を振り返り、
「いやあ、あん時は楽しかった。毎日みんなで酒ばー飲んでね、わーわー共同生活ばい。たいへんやったけど、楽しかったー」
と、まぶしい笑顔でおっしゃいました。大変なことも苦しいこともいくらでもあったでしょうに、被災生活の丸ごとを抱いて、楽しかったと言ってしまう。その心の、広々とした大きさに圧倒されました。そしてなぜかその雄大さが、熊本の風土そのものの比喩として、わたしの心に沁みつきました。悠々と横たわる阿蘇によく似た姿だと思いました。
今夏、その熊本研修のご縁で天草市の研修会にお招きいただきました。広島までお電話をくださったのは苓北町の教育委員会に勤めるYさんという若い男性職員さん。彼はおそるおそる、広島からの交通費の半分にも満たない謝金(交通費込)しか出せないことを詫びながら、
「あの、お越しいただくのは天草市なんです。わたしがいるのは苓北町というところでして、熊本市内からはちょっと離れておるんですが、その、実に夕日がきれいなところでして……」と汗をふきふき(おそらく)、説明してくれました。その研修の趣旨も、どういうご縁でお招きいただいたのかもわからないまま、ただ、天草の海に沈む美しい夕日見たさに「わかりました」とこたえると、Yさんは嬉しそうに電話を切りました。
イルカと海と夕日の天草。実物のYさんはゆったりした口調の、朗らかな、大柄な若者でした。1時間と聞いていた研修は結局2時間だったし、些少と聞いていた謝金の受け取り方法もわからずじまいだったけれど、まあ、それでもいいや。苓北町の沖合で、たくさんのイルカを見ました。群れで暮らし、子育てをし、ゆったりと泳ぐイルカたち。あのように生きたいと思いました。
風土が、人をつくる。熊本では、それが真実でした。彼もまた、優しいイルカだったのだと思うことにしました。
(武田修子)
掃除機を持つとホコリが見える
浄土真宗本願寺派西正寺住職 龍谷大学大学院実践真宗学研究科教授/中平了悟
今月の『育心』、中平了悟先生のお話(掃除のエピソード)と、丁度同じようなことがありました。
先日の5歳児クラスの遊びは、テーマ無し、作品を完成させるという目的も無し、何が正解かという概念も無し、様々な色の絵具と、様々な太さの絵筆、バケツの水、容器、皿、床や壁に広げられたポスターの裏面紙……。そんな環境の中で、「自分のやりたい絵具遊びを思いっきりやろう!!」というものでした。
気にいった色をひたすら塗り続ける子もいれば、ひたすら混色を楽しむ子もいて、どの子も自分の遊びに没頭して満喫している様子でした。
十分に遊んで堪能したのか昼頃になると、誰ともなく雑巾を持って、床拭き掃除が始まりました。
「ここも汚れてるよ!」
「こっちも拭こう!」
と小さな汚れも探し出し、みるみるピカピカの床になりました。
中平先生のお話の中に、子どもたちにとっては、「理由があるから行為をするのではなく、逆に行為(遊び)によって、感じられること、気づくこと、見いだされることが大事ではないか」とありました。
子どもたちのキラキラした目が、とてもまぶしい出来事でした。
親になることはできても親であることは難しい
子ども家庭教育フォーラム代表 教育・心理カウンセラー/富田富士也
2ページ目は、富田富士也先生の『レッツゴー! 保育カウンセリング』です。
先生のお話の中に、「親にとっていい子≠ナいることが、成長の発達の証ではない」とあります。
まさにその通りで、子育ての金言とも言える言葉だと思います。
しかし、私を含める多くの親さんたちは、わかっているのに、「うちの子」と「他の子」、「上の子」と「下の子」を、ついつい勝手に比較して、勝手に一喜一憂してしまう。本当に悲しい親のエゴがはたらいてしまいますね。
とは言うものの、こんな焦りも我が子を思えばこその焦りなのでしょう。
「親になることはできても親であることは難しい」という先生の言葉をかみしめながら、親としての私を振り返り、ありのまままの我が子の存在こそが尊く愛おしいということを、深く感じさせていただきました。
仏教研究とクィアスタディーズ 筑紫女学園大学教授/宇治和貴
『私の雑記帖』を執筆くださいました「クィア仏教学」の研究者である、筑紫女学園大学教授の宇治和貴さんのお話を拝読し、「いかに社会が偏見を偏見と認識していないジェンダー/セクシュアリティ観によって構成されているか」ということを知りました。
そして、「自分には偏見の目はない」という思い込みが、一番危ういことだということを、しっかりと心に留めていかなくてはならないと感じました。
貴重な原稿をありがとうございました。
事故はナシ 文・絵/三浦明利
今月の『お話の時間』は、キッズポリスになったほし君たちが、交通安全を願って、「事故ナシの梨」を地域の人たちに配ります。
残暑が厳しい毎日です。熱中症に気を付けて、元気にお過ごしください。
(鎌田 惠)
令和7年8月19日 ないおん編集室(〜編集室だよりから抜粋〜)