長崎坂盡し(づくし)  長崎街道(蛍茶屋から東長崎)周辺の坂


坂の名前
別名
町 名
場所と名前の由来
馬落とし坂 本河内町蛍茶屋の一ノ瀬橋を渡って藤原商店から国道34号線をまたぐ旧長崎街道の坂道。馬落とし坂〜庄現坂へと坂が続く。
馬も時たま崖下に滑り落ちるような急な登り坂であった。坂の登り口には馬が怪我しないように、馬蹄観音が祀ってあった(現在は50m東に移っている)。
長崎を旅立つ人々は、桜馬場天満宮で旅の安全を祈り、トロトロ坂を上り、蛍茶屋(蛍の名所)で別離の宴を開いた。
一の瀬橋は、承応二年1653年(眼鏡橋の19年後で石橋として三番目)明人で唐通事の頴川(陳)道隆が私費で架けた。
<本河内町一丁目自治会の樋口次郎様より>
ざぼん坂  本河内町本河内町789の長岡さんの横の坂段で、聖母の騎士道修道院前から頂上の切り通しへの日見新道の途中にある。
坂の脇にザボンの木がある。
<奥さんの郷里が本河内町の山田貢様と、馬町の浜崎芳裕様より>
庄現坂 本河内町蛍茶屋の一ノ瀬橋を渡ってからの旧長崎街道の坂道。馬落とし坂〜庄現坂へと坂が続く。
国道34号線を横切って、上っていくと左手に地蔵と句碑・右手に”花見塚”がある。
長崎地名考に「花見塚は一ノ瀬庄現の桜の本に建り・・・」とあり、このあたりを庄現(しょうげん)と言い、老樹「庄現桜」として知られていた。
<古の長崎街道絵図S49年8月出版杉澤寿一郎著には昌源坂となっているが、親和文庫第9号長崎街道永島正一著の花見塚に老樹「庄現桜」の記述があり「庄現坂」が正しいのでしょうか>
はらきり坂(腹切坂) 宿 町 長崎旧街道の宿町付近で、現在は国道34号線になっている。
 (1)熊本細川藩の家臣某が、長崎より熊本に帰郷のさい、平家の落人の末裔の農民作左衛門が優れた棒術使いと聞き、試合を申し込んだ。
試合の結果武士は敗北し無念やる方なく、宿部落を見下ろす場所で武士の面目と切腹した。村人は武士を丁重に葬った。
 (2)文化5年1808年、オランダの東洋植民地や貿易を手中に収めようとしたイギリスが、長崎港にオランダ船がいないか捜索のため、軍艦フェートン号で長崎港に侵入しオランダ商館員二人を捕らえて、 食料薪水を要求し悠々と長崎港を引き上げた。
長崎奉行松平図書頭は責任をとって自刃した。この年の長崎港の警備は佐賀藩が当番であった。佐賀藩士16人、帰藩報告しようと日見峠を越したが、佐賀領に入ったこの坂で、いずれ無い命と覚悟して自刃した。
<長崎街道」 昭和48年 永島正一 親和文庫第9号 ほか>
日見峠     国道34号線の「蛍茶屋」から、大正15年(1926年)開通した「日見トンネル」を越えて、東長崎の田中町までの峠を総称しています。かつては、長崎市本河内町(ほんごうちまち)と芒塚町(すすきづかまち)との境にある、標高200メートルの峠をいい、江戸時代長崎街道の中で、西の箱根といわれた難所でした。
日見の七曲がり (日本最初の
有料道路)
芒塚町 国道34線日見トンネル(大正8年に着工し大正15年1926年に開通)の上にある旧道(日見新道)で、日見トンネル東側の白山商店から上がる坂。
明治15年に日見新道が開通。聖母の騎士道修道院前から峠へ通じ、頂上は切り通しで、すすき塚へは七曲がりの坂道である。
この日見新道は民間の資金を募って建設に着手、その資金を返すために通行料として、一人五厘を徴集したという。
七曲がりの坂の途中に向井去来の句碑「芒塚」がある。

 
長崎街道:
 
長崎〜小倉間で、25宿57里(220km)を25カ所の宿場町で結んでいた)。
県内は、長崎奉行所西役所(いまの県庁)から始まり、馬町〜蛍茶屋〜日見〜矢上〜諫早〜大村〜松原〜彼杵(そのぎ)〜嬉野(うれしの)までです。
蛍茶屋を出て矢上宿で昼食、諫早の永昌宿で一泊。翌日大村で昼食し彼杵泊まりで、二泊の日程でした。今は高速経由で、彼杵まで35分ほどです。
 



 坂マップその4  長崎街道・馬町〜蛍茶屋 


長崎中心部の坂 (ヘフリ坂、六角道、けんか坂)

東山手と南山手、小島周辺の坂 (オランダ坂、ドンドン坂)

浦上周辺と時津街道の坂 (打坂、永井坂、力馬坂)

稲佐地区の坂 (上の坂)


坂に関する雑学 「休み石」 対州馬 ほか

坂の想い出

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