菜園日記2025年4月



2025/04/06

 4月最初の日曜日は、とても春らしい暖かい一日となりました。
 真ん中の畝の南半分に腐葉土を入れ、スコップで荒起こししておきます。
 ホウレンソウ、シュンギクを最後の収穫。
 この2つと、盛大な菜の花状態となっているチンゲンサイを終わりにいたします。
 畑に残っている野菜は、タマネギ、ニンニク、エンドウの3つだけとなりました。
 先週畑はお休みでしたので、かなり生長している雑草を抜き、水やりをして退散いたします。、

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2025/04/12

 暖かな春らしい土曜日です。昼から畑へ行き、一番西側の畝に化成肥料と石灰を入れて耕し、夏野菜用の畝を作ります。
 真ん中の畝のニンニクより北側、そして東側の畝のタマネギより北側に腐葉土等を入れて、スコップで荒起こししておきます。
 かなり弱っていたエンドウも花をつけてきましたので、枯れた部分などを整理し、支柱を少し整え直します。
 ニンニク、タマネギは元気な様子です。

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2025/04/20

 暖かな日曜日となりました。今日は、真ん中の畝のニンニクから南側に化成肥料と石灰を入れて耕し、畝を作ります。
 畑に残っている野菜は、冬を越したタマネギ、ニンニク、エンドウの3つだけとなっていますが、エンドウが実をつけていました。
 比較的大きなものを5つほど採ります。
 後は、この暖かさで伸びてきた雑草を抜いて、水やり。

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2025/04/27

 夏野菜を植える時期となりました。
 量販店で、キュウリの苗を4つ、小玉スイカを2つ、ゴーヤを2つ、インゲンを2つ購入して畑へ。一番西側の畝に、南からキュウリ、スイカ、ゴーヤ、インゲンを植えます。
 短い支柱に留め、モミガラを撒いておきます。
 ニンニクの北側部分に化成肥料、石灰などを入れて耕し、畝を作ります。
 ゴールデンウィークは、菜園の忙しい時期ではあります。

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2025/04/29

 春らしい天気となりました、量販店で、ナスの苗を3つ、トマトを3つ、シシトウの類を3つ購入。
 一番西側の畝の北に、シシトウの苗を植えます。
 真ん中の畝の南側に、ナスとトマトの苗を植えました。
 本日植えた苗には、短い支柱を添え、ビニ紐で留めておきます。
 東側の畝の北側に化成肥料、石灰などを入れ、耕して畝を作成。
エンドウを数個収穫、追肥しておきます。
 あとは、草抜き、水やり等々。


   
 



 テレビで「ニンゲン観察バラエティ モニタリング 」という番組があります。
 私はこの番組の熱心なファンでもなく、何曜日の何時からの番組かもはっきりと覚えていないくらいなのですが、前段の番組の続きで見てしまうことがあります。

 この番組のコンセプトは「ありそうでありえない様々なシチュエーションを用意し、それに出会った人がどんな行動に出るのかを実験・観察する!」ということのようです。

 まぁ素人相手に芸能人が行うドッキリカメラ的なものと言えますが、芸能人同士のドッキリカメラのように誰かを陥れて?いじめる?といった要素はなく、歌やスポーツ、日常生活のそれぞれの場面に「有名人」が登場して一般の人々に「ビックリ!」を仕掛けます。

 ある時には、「今日はちょっと高校時代の友達を連れてきたよ」と、会社帰りのダンナさんが奥さんや娘さんが大ファンの某大人気アイドルタレントを自宅に連れてきたりします。
 またある時には、素人バドミントン大会に変装した金メダリストのバドミントン選手が出場したりいたします。

 私は、他のシチュエーションには特段の興味はないのですが、歌がテーマとなった番組回に感心してしまうことがよくあります。

 例えば、よくあるパターンとして、一般の方が宴会をしているような場に係員などに変装した「某有名実力派歌手」がやってきて、いろいろな仕掛けの末に皆さんの前で歌を披露するというものがあります。

 初めは何か素人の軽い余興のように思っていた皆さんは、その歌手の圧倒的な歌唱力にビックリし、その歌に聞き入るのですが、多くの場合、その歌の途中でその歌い手が単なる係員ではなく歌手の○○さんだ!と気づくこととなります。

 ここでは、前段の仕掛けにおける日常的な無関心の後に、その歌い手が超有名歌手と気づいて感動する人々の姿を捉えることがこの番組の目的だと思いますが、私的にはその一歩手前のところであることを思い知らされてしまうことがあります。

 それは、その歌手の圧倒的な歌唱力の前に、その歌い手が誰なのか分からぬまま感動で涙する人々が少なくないということです。

 何度もそのような状況を見ましたが、その涙は「芝居」やいわゆる「やらせ」ではないと思われます。
 「歌の力」というべきものが確実に存在することを認識せざるをえません。

 有名人が突然目の前に現出したからキャーと騒ぐのではなく、誰か分からぬ人の歌声に心を揺さぶられて感動する、その歌唱力とはいったい何なのだろうと考えてしまいます。

 この「歌の力」というか、何故歌は感動を与えられるのかということについては、過去から数え切れぬほどの研究、考察があるようですが、なかなか納得できる説明を見たことがありません。

 よく言われることに「歌が下手でも心が伝われば感動が伝わる」というような説がありますが、例えば上記のようなモニタリングの会場で見知らぬ人間が、カラオケの機械採点で70点ぐらいの歌を歌っても感動して涙する人は出現するのでしょうか?
 歌唱力などの技術等々が何のために必要なのかと言えば、やはり人に感動を伝えるための自己表現の重要なツールとして必要なのでしょう。
 心が伝わればという説は、特殊な状況下では成立しうるかもしれませんが、一般論的に安易に言うことは正確ではないと思われます。

 「想い出を喚起するから」という説がありますが、この説が「歌の力」そのものを説明できるものとは到底考えられません。
 想い出を喚起するのは、歌ではなく一片の写真でもいいでしょうし、酒の席での思い出話でもいいのかもしれません。
 それらのことと感動とは関係はあるかもしれませんが、想い出を喚起する一つの契機が歌というだけの話であって、特なる歌唱が歌唱そのものとして人に感動を与えるという現象とは別なものと思われます。

 音楽を聴いて涙を流すことがあるのは、カタルシス(浄化作用)によるものだという説もあります。
 感情が音楽によって解放され、心が浄化されることで涙が流れるということです。そして、失恋ソングを聴くことで、自分の経験と重ねて感情が解放されることがあったり、壮大なオーケストラや合唱曲が持つ圧倒的なスケール感が聴き手の心に深く響く要因の一つであるなどと説明が重ねられます。
 しかし、このような説明は歌(音楽)の力そのものに関して何か適切な説明を果たしているものとは思えません。リンゴを食べたらその成分によって心が解放されて涙がでてしまうことがあります・・・と言っているのと同じてはないでしょうか?
 また失恋ソングを聴く云々は、上に書いた「想い出喚起説」と同じようなものと思われます。
 例えそうであったとしても、何故そうなるのかを具体的に説明してほしいと思います。
 説を唱える方の意図は分かるのですが、私にも分かるような具体的な説明が欲しいのです。
(実際には具体的な説明も存在しているかもしれませんが。)

 「歌の振動が脳に作用する」というような説もよく唱えられます。そのような主張の意図も分かりますが、やはり私にも分かるように具体的に説明してほしいものです。
 私はアホですから、感動を与える歌と同じ振動を有する雑音が生じたら、それもやはり涙を誘うのだろうかと考えたりいたします。
(この説についても実際には具体的な説明が存在しているだろうと想定はしております。)

 「具体的な説明を」と繰り返し書きましたが、上に並べた説はしかし、想い出とか自分の経験とか何かを媒介して感動が生じるという説よりもより直接的な説明であり、私のそもそもの疑問に対する答えに近いような気もしています。

 「具体的な説明」は実際には存在しているのだろうなどと書きましたが、音楽は人間にとって昔から大きなテーマであったでしょうから、実は?!実に多大な「具体的な」研究が存在いたします。
 例えば、同じ音楽を聴いた時に強く感動する人と何も感じない人がいるようなことについて、「感受性の違い」というような一般的説明だけでなく、脳内の働きを調査した研究の結果から脳機能そのものに違いがあることが分かっているという説も一応読んだりはしています。
 しかし、当然のこと残念ながら、その辺のメカニズム等々について書くことは、私の力量をはるかに超えています。
(と、一応言い訳をしておきます。)

 ただ私的、素人的想いを書かせていただければ、脳機能の違いとか、音楽の周波数とかそういうもので説明されてしまいますと、音楽好きな者としてちょっと寂しい感があります。
 先に「歌が下手でも心が伝われば」云々と書いたことと一見矛盾してしまいますが、「心が伝わらなくても脳に伝わる技術力があれば」あるいは「歌がどーであってもその振動等々が脳機能に働けば」という解が適切なものであるとすれば、何かを音楽に期待している?人間としての私にとってやはり少し寂しい解であるかもしれません。

* これらと関係するかどーかは別して、「歌の力」というようなことを考えていて、ふと以前に読んだソクラテスやプラトンの考え方として、音楽と人間の心の関係のことが述べられていたのを思い出しました。
それは、歌や音楽は市民(国民)の平穏で規律正しい心や態度に有用だというようなことを(多分直感的経験的に)語っており、(市民)国家の秩序確保に有用だという説であったと記憶しています。
感情がほとばしる涙という状況とは違う領域であるとは思います。
しかし、この説も直接的な「歌の力」について述べている感はあります。

(閑話休題)

 まぁしかし、膨大な研究が積み重なっている分野であり、一つ一つを検証することは私にとって明らかに力量不足であります。
 まぁしかし、よく分かりません。

 が、歌にそのような力があることは確かなことだと思っています。
 多くの説に「具体的な説明をしろ」と言ったところで、無理なことは無理なのかもしれませんし、私に理解できぬ領域となるかもしれません。
 多くの説が存在していること自体が、「歌の力」が存在していることの証左とも思われます。

 なんか分からぬまま、展開できぬままのウダウダの文章となってしまいました。

 分からぬままやけくそでカラオケにでも行って、音痴な自分の歌声を大音量で聴いたら、その情けなさに涙がでるかもしれません。



4月末の畑の様子


シシトウ


インゲン


ゴーヤ


スイカ



キューり







 ニンニク





トマト







ナス










タマネギ



エンドウ




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