ボランティア精神無し
私には人の為に役に立ちたいという気持ちはまだないけれど…社会に何か貢献したいと地域のボランティア活動に参加して苦い思いをした人の話。張り切って活動を始めた。催し物があり、車の免許を持ってるので、一人暮らしのお年寄りを迎えに行こうとしたら「ここは(公民館)歩ける元気な人が集まる所やから、歩けない人は来てもらわなくて良いので、迎えに行かなくても良い」とリーダー的な人から言われたそうだ。そういえば、そこの公民館ではエレベーターはあるけれど、車椅子の人が出入りしているのは見掛けた事がない。そこに車椅子も設置されていない。エレベーターには大きな声でお喋りの出来る、賑やかな高齢者が楽しそうに乗っているのを見掛ける。けれど、社会福祉云々と銘打ってるのに、その活動が元気な人だけの集まりなら、誰のための何のためのボランティアだと思う。その話を聞いてから、様々、地域のボランティア・社会福祉活動を見ていると、そこには同じメンバーが様々な活動や集まりやサークル活動に参加している姿が見えてくる。そして、長く活動している、特に高齢者が、徐々に何らかの表彰を受けていることも見えてきた。
ボランティアは社会福祉は助け合いの精神であるべきなのに、そこにはボランティアをしている自分たちは特別な人間で、年齢も高く、表彰されるべく活動している…のかと思わざるを得ない状況が見え隠れする。地域のボランティアに参加しても、送り迎えが必要な人を除外する。車の免許所持の人を元気な人の足代わりに使われる様な活動に虚しさを感じる。地域のボランティアがそんな人間ばかりとはいえないかもしれないが、我が地域の様々な活動には、自治会の役員をした時以外は、夏祭りも、見にも行かないし、参加もしないと口々に言う人も数多い。申し訳ないけれど、現在中心に活躍するボランティアの体制では今後の地域活動の後継者は育たないと思う。一人暮らしの人や、体に障害を持つ人が地域の活動で楽しく過ごせる様な地域のボランティア活動になるのはいつの日だろう。
巫女さんを見ると…
子供の頃神社の境内に在る家に育った。神社では結婚式なども行われていて、よく覗きに行った。親戚のお姉さんが巫女の衣装をつけていたのを見た。拝殿でもお神楽を舞っていたのを覚えてる。紅い袴姿に私も憧れていた。お姉さんは紅い袴をつけて神社の用事を手伝っている姿を見て私も巫女さんになりたいなぁって思ってた。中学生くらいの頃だったと思うけど、同じ町内に住む同級生が何故か、拝殿でお神楽を舞う…って話を耳にした。親戚の私じゃなった事・憧れていただけにかなりショックを受けた。その子は背も高く髪も長かったので声が掛かったのかもしれない。心で思うだけじゃなく、せめて両親にでも巫女さんをやりたい事を言っておけば私が舞うことも出来たかもしれない…って今も悔やんでる。最近では巫女体験をさせてくれる神社もあるようで、もしも年齢制限が無ければ是非あの衣装を着てお神楽を舞ってみたいと思うけど…
自転車に乗れた
最近は何処の家庭でも子供自転車がある。子供の頃の私の家には子供用どころか大人の自転車もなかった。近所の子供達が神社の境内で年長のお兄さん達に助けられて大人用の自転車で皆で順番に練習を始めた。練習の甲斐あって乗れるようになった弟が初めて自転車を買ってもらった。私も練習の仲間には入っていたが、その当時は怖くて…とうとう乗れなかった。子供用自転車っていつ頃から出来たのでしょう?私の子供の頃にも小さな自転車はあったように思うけれど、今のようにサイズが豊富でカラフルなものはなかった。その当時は三輪車に始まり自転車へと移行していき、結構みんな長く三輪車で走り回っていたように記憶する。最近見ていると歩けるようになるとすぐに補助輪付きの自転車に乗っているようだ。
子供の頃に練習の成果がなかった私は35歳の時(1995年頃)、ミニサイクルの自転車を買って練習を始めた。 近所の人達の人目に付かないように人気のない公園の広場で、妹に付き合ってもらい、自転車屋さんにペダルを外してもらい、サドルにまたがり歩く事から始めた。時折…近所に住む甥や姪や幼稚園児に見つかりました。
「おばちゃん、何してんの?」
「自転車の練習してるんや」
「おばちゃん自転車乗れへんの?」
馬鹿にしたような目付きをされました。それにも懲りずに(どうしたら乗れるんやろう?)心に問いながら黙々と自転車に跨って怖さとの戦いだった。 丁度その頃、小学生になったばかりの甥が、補助輪を外せずにいた。大人で自転車に乗れない伯母を馬鹿にしながらも本人は補助輪付きの自転車を乗り回していた。梅雨の晴れ間のある日。その甥と仲間が遊んでいる公園で私は自転車の練習をしていた。その時にはペダルを付け足を乗せて、何の気なしにハンドルの振りながら右足を漕ぎ出すと自転車がスムーズに前に動き出した。
「乗れたぁ~~!」私は思わず叫んだ。するとその場に居た遊んでいた甥を含む子供達が「やったぁ~~おばちゃん乗れたぁ!」って拍手してくれた。良い子供達です。自転車に乗れたことも嬉しかったけど、子供達の拍手も感激した。昭和60年6月26日は私のメモリアルデー。その年、大好きな阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝して日本一になった。後から妹に聞いた話によると補助輪で走り回っていた甥っ子が私が自転車に乗れるようになったことに刺激をされたのかそれから暫くして彼も補助輪が外せた
。
唯一の幼馴染
中学からの旧友と久しぶりに会食した。私にとっては幼き日に過ごした様々な場所出来事を共有できる唯一の友。美少女で控えめで成績の良かった雰囲気は今もその頃の雰囲気を彼女は残している。店に入ったのが一番だったのが、話が色々盛り上がり時間の経つのも忘れた。気が付けば周囲の客は入れ替わり、時計は午後3時になっていた。
彼女も私も生まれた場所に両親が住んで居ない為か、中学の同窓会同級会の案内も届いた事がない。中学校の校舎は移転し今は場所も私たちは知らない。妹によれば、実家が移転してると行方不明名簿に載るらしい。彼女も私もそこに記載されているのだろうと話し合った。
私の場合、高校も名前が変り場所も移転しているから、気持ち的には廃校になった感覚だ。幼稚園から同じ学校に通った幼馴染もいたが、高校を出ると職場も違い、連絡出来せずで、今も音信不通のままで結婚したことは風の噂で聞いたけど探す術もない。このHPをもし見てくれたら連絡があるかなと思うけど…。もうその幼馴染は私の事など忘れてるかもしれない。今日、会った友とはこれから先もずっと交友を続けたいと思っている。
学校名で嫌な思い出
受験の時期になると思い出すのが学校名の事。中学校の卒業式が終わった頃 当時の仲良しのSさんHさんと私の三人で、Hさんの家に遊びに行った。Hさんのお母さんが家に居て当然、高校の話題になった。三人とも進学する高校は決まっていた。Hさんの母は、Sさんにどこの高校に決まったかを尋ねた。彼女は県内で屈指の進学校に合格していた。「Sさんすごいじゃない。うちの子は薬剤師になって欲しいと思ってるの。これからも仲良くしてやってね」お母さんはニコニコ顔で言った。Hさんは常々から薬剤師を目指していると私たちに話していた。Hさんも評判の進学校だった。Hさんのお母さんは私にも高校名を聞くので「○×○△学校です」と答えた。「それって何処にあるの?どんな学校?」と怪訝そうに聞くので「洋裁とか和裁を学ぶ学校です」と説明すると「そんな学校知らない。初めて聞いたわ」と言うと私から目を反らし、Sさんをしきりに褒め称えた。私は勉強は苦手だったし、それなりにその学校に行くのを楽しみにしていたが、Hさんの母の言動に心が傷ついた。今も学校の名前だけで今も判断する傾向は多分にあるけれど、私はそういう言動に今も嫌悪感を持つ。学校名だけじゃなく、そこで学んだ事を後の人生にどう活かすが重要だと思う。私に限って言えば、その高校のお蔭で、今もスカートくらいは難なく作れるし、針仕事も好きだし編み物だって難なく出来る。学校の成績は低かったけど、今生活していて何ら支障はないし、世の中の事だって自分なりに理解する能力は持っていると自負している。
犬についての回覧版
犬のフンや吠えの注意喚起の町内自治会の回覧が回ってきた。我が家の庭は猫のフンや猫が掘り返す為に杉苔が傷んだり枯れたりする被害を受けているのに、いつも犬のフンばかり注目される。昨年自治会の役をして、猫の被害を訴えたのに回覧では猫の被害は記されていない。
糞に関して言えば…犬の散歩イコール排泄処理という飼い主が多い事が問題だと思う。犬を飼った時点で犬のトイレの躾を行うのが飼い主の責任だと思い、私は歴代の3匹の愛犬のトイレの躾には苦労し根気強く、愛犬がトイレトレーで糞も尿も出来るように訓練した。3匹とも外に散歩に行かなくてもトレーで糞尿をしてくれている。散歩は単なる気晴らしと私自身の散歩になっている。犬の散歩でオシッコにペットボトルで水を掛けるというのがマナーだと言われているけれど、尿の臭いまでは消せないし、尿に水を掛けても水と尿が混ざり広がるだけだと思う。犬の排泄は自宅で出来るように躾けることこそがマナーあり、それこそが飼い主の責任、そして飼い主の資格があると思うのだけど…。
犬にとっての散歩
私は、スポーツが殆ど苦手なので歩くことのみが運動なので、週に数回は小一時間歩くのを目標にしている。夫は歩くことが嫌いな人。一人で歩くよりは、萌と一緒の方が心強いし楽しくもある。 それで…愛犬の萌に首輪とリードを着けて、手作りのポシェットに入れて散歩をする。犬の躾が悪いのか、飼い主の私が甘いのか…リードを着け歩こうとすると途端に足を踏ん張り歩かない。リードを緩めると周辺を見回すけれど、立ち止まったまま動かない。自宅で、リードを着けて歩く練習を繰り返すのだけど、家の中でも、スムーズに一緒に歩く場所と踏ん張ったまま進まない場所がある。犬の主治医である獣医師に萌の状態を話すと、「無理に散歩に行かなければと考えることはないし、萌ちゃんが自ら興味を持てば進んで歩こうとするだろうし、仮に歩かなくてもポシェットに入って一緒に外に出ることは無駄ではないし、もしかしたら、萌ちゃんはポシェットに入って外に出るのが楽しいのかも知れないですよ」と答えてくれた。ポシェットに犬を入れて歩く変った人だと思われているかもしれないけど、獣医師に話をしてからは一緒に散歩しているんだと思う事で自信を持って歩こうと思う。
日本では、犬の散歩は排泄処理の為のことになってので、糞公害にもなってしまっている。萌の場合、排泄は自宅のトイレシートで出来る様になったので、トイレの為の散歩ではない。それ故、毎日朝夕に連れ出す必要はない。雨の降る日や体調の悪い日は行かなくて良い。獣医師さんが言うように、何かに興味を持てば萌自ら、リードを着けて歩くようになることを期待しながら、他の犬を散歩をさせている人の奇異の目が見つめる中を萌をポシェットに入れて小一時間の散歩が私は楽しいのです。
犬の好きな人が良い人とは限らないぞ
愛犬の三女が来てから早起きになった。友に薦められて愛犬と散歩することにした。されど…愛犬は首輪こそ装着を慣れたのだけど、リードを付け地面に下ろすと途端に足を踏ん張り歩かない。私としては歩きたいので愛犬を抱いて歩く。時折は地面に下ろし,歩かせてはみるが動かない。最近体重が増えて重くなった。
それで、以前の愛犬の通院の為に作ったポシェット三女犬を入れて歩くことにした。肩から斜めにポシェットをかけて愛犬を入れて歩くと、かなり目立つ。犬を連れて散歩中の人もウォーキングやジョギングの人も怪訝そうに見つめ通り過ぎる。それにはもう慣れて気にはしない。ところが…大きな犬を連れた爺さんに声を掛けられる
「なんでそんなところに犬を入れてるんや」
「犬は土の上を歩かせるもんや」
「散歩の嫌いな犬なんか聞いたことがない」
自分は犬を飼ってるベテランだと言わんばかりの高ぴ紗那態度に心の中では切れている私。言わせてもらえば私とて、もう20年以上犬を飼っている。それも見事に性格の違う愛犬を…。病気で動物病院に通い詰めた事もある。獣医師にいろんな話をしてアドバイスも貰い自分でも訓練方法を勉強した。その爺さんは相手の様々な体験を全く聞くことも無く、自分の考えを押し付けてる様に感じる。一昔前と今では、犬の育て方飼い方も大きく違っている。犬の躾や訓練で通説と言われてる事は全て正しいとは言えず、目からウロコの体験をつい最近したばかりだった。犬の習性や本能を、その爺さんは知らないと思う。人間の子育てだって数十年前とは随分違う。犬の躾だって育て方だって違うのは当然のことだし、自分の考えのみを他人に押し付けるのは止めて貰いたい明日から、あの爺さんと出逢わない散歩コースを考えねばと思っている。
犬の散歩とは…
愛犬をポシェットに入れて、30分~1時間ほど、早朝に歩く。ポシェットの中の愛犬に気付く人はそれほど多くない。見つけた人の反応は色々。「可愛い」と声を出す人、怪訝な表情で見る人、「散歩になって無い…」と言う人など色々だ。犬の散歩と言うと多くの人は排泄が目的の様だけど、私が信頼するドッグトレーナーは、排泄は家で済ませた後に犬を散歩に連れ出す…とおっしゃる。我が家の愛犬は半年少し掛かってやっとトイレの躾が出来た。散歩は気分転換と社会環境馴致が目的で連れ出しているので、排泄をしなくても良いので歩かなくても、問題は無い。でも、いちいち、他の飼い主に説教したりすることも無い。「何故歩かせないの?」と聞かれたら「リードを付けると踏ん張って歩かないので…」と答えている。納得する人もいるけど、困ったもんだと言う顔をして通り過ぎる人もいる。
ペットブームで、犬を飼う人も増えて、道路にはマナーの悪い飼い主の犬の糞が、本当にあちこちに多く見る。町内会の回覧でも犬の糞の注意喚起が書かれていることもある。愛犬のトイレしつけが上手くいかないと、外に排泄散歩をしなくてはいけなくなる。私はそれが嫌で、犬を飼い始めてからトイレしつけを懸命に行った。多くの飼い主が家でのトイレしつけを真剣に行い、排泄散歩が無くなれば道路の糞は少しはマシになるのではないだろうか?
美容室
20年近く、同じ美容室に行っている。カットとヘッドスパ.が気に入っている。シャンプーとトリートメントも購入している。三か月一度くらいだけど、ヘッドスパがとても気持ち良い。手を使う趣味が多いので、首・肩・手のマッサージもしてもらう。肩も首も手も楽になる。料金は高くつくけど、自分への、ご褒美で、至福の時である。美容師さん達はみんな感じが良くて色々教えてもらう。誕生日の月は、50分のヘッドスパをしてもらおうと思っているので楽しみだ。
特定検診
40歳以上の市民が受診出来る特定検診を毎年受けている。血液検査・検尿・胸部レントゲン・大腸検査・血圧が無料で受けられる。頭痛、肩こり、指の関節が変形するへバーデン結節以外は持病は無く病院に行く事は殆ど無い私。26年前に子宮内膜症の手術をしてからは、元気だと自身では思っている。
4年ほど前に大腸検査で引っ掛かり、大腸の内視鏡検査を受けた。それ以外はすこぶる、申し分ないほど異常なし。血液検査のHDLコレステロールが130、LDLコレステロールが114、中性脂肪54の数値はドクターも驚くほど。
「もう少し中性脂肪を増やしても良いくらいだ」とドクターが言うので、
「どうしたら増えますか?」と聞いたら
「ポテトチップスなどスナック菓子を沢山食べ、ごろごろ寝てたらすぐ増える」
とドクターが笑いながら言った。
これで、暫くは安心だけど、耳鳴りと立ちくらみは続くのが気にはなる。あと1カ月半で、1つ歳が増える。背筋を伸ばし、大股で元気よくダイナミックに、歩くのだけが私に出来る運動だから、頑張ろうと思っている。
免許がないと行けないお店
新しい施設が次々と増えるのは楽しみだけど、その多くが電車など公共交通利用者には目的場所まで時間を要することが多くある。免許を持たない者にとっては時間が掛かるのでその場所に行くことを躊躇ったり諦めたりすることが多くある。特にスーパーや量販店だと行ってみたい気はするが交通手段を考えると買い物はしても荷物を持っての帰途が大きなネックになって諦める。買ったものを宅配する手もあるが、交通費プラス宅配料金となると安い買い物をしても結局は金額は変らない事もある。
先日、携帯電話のショップの移転のお知らせが入っていた。私が利用するそのショップは駅のすぐ前で便利だったのに…と思いお知らせをよく見ると「駐車10台可能」とあった。そうか今までの店は駅のすぐ前だけれど、車で来る人にとっては駐車スペースがなかったのだ。結局そのショップに行くには電車を降りてから5分ばかり歩かないと行けなくなった。駐車場が無いとかスペースが小さいということは車で来る多くの人には不便な店になるのだと改めて思った。ま…私の場合には駅まで40分要しても歩ける健脚だから良いか(*^_^*)けど県内の商業施設はJRやバス利用者には不便って事は否定出来ない。
自分を育てる
友と一緒に今、自分を育てを目標に日々暮らそうとしている。家族の事愛犬の事で愚痴の多い私。人を変えるのはなかなか難しいけれど、自分自身を育てて磨きを掛けること出来るかもと思い、友に励まされながら日々頑張っている。編み物に裁縫にキルトにパソコン、そして新しく、切り絵にチャレンジすることにした。教育てれびの趣味悠々の講義で面白そうだし、まだ試作品を1つ完成させただけだけどこれがハマりそうだ。自分では絵は描けないけれど、色々な下絵や写真からでもトレシングペーパーに移し取る方法なども有るので少しずつ腕を磨いて作品作りをすることにしよう。新しい事にチャレンジするのも自分育てになるから。
スポーツ実況が煩い
スポーツ中継は好きで、色々テレビ観戦をする。でも、実況と解説が煩くて閉口することがよくある。ラジオ中継なら事細かく説明し実況をする必要もあるけれど、テレビは映像を見ていれば分かる場合が多い。世界陸上や水泳やサッカーはアナウンサーは勿論、解説者までが絶叫し大騒ぎする。中継番組を盛り上げる為なのだろう。けれど、絶叫実況の余り、私などはその声が煩くて、優勝すれど、逆に白けてしまい感動出来ないことが多くある。解説者も実況のアナウンサーもその場に居るだけで感動するのだし、絶叫せずとも良いのではないかと思う。臨場感を伝える為だと言われるかもしれないが…優勝を喜び、感動するのはテレビ観戦をするテレビの前の者に任せて欲しいと思うことが多くある。いろんな競技に対して完璧な知識がある訳じゃないけれど、競技を楽しみたい気持ちは大いに持っているので、騒がしい実況や解説が無くても熱狂し集中出来る。テレビの前の観戦者は本当に絶叫的な実況を好むのだろうかと思う。普通の声で実況し、解説者は技術的な事を少し教えるという気持ちで放送して欲しいと私は思う。絶叫的なアナウンサーや解説者はテレビの前の観戦者の事を本当に考えてるのかと疑問に思う事が度々ある。私には絶叫解説や実況は、そのアナウンサーと解説者が興奮してるだけのように感じてしまう。熱狂し興奮し感動するのはテレビ前の観戦者に任せて欲しいといつも思いながらスポーツ中継を眺めている。こんな考えは私だけなのだろうか?
甲子園球場の気になる事
プロ野球をテレビ画面を通して楽しむ者にとっては(私だけかも?)甲子園球場のバックネット正面の映像で気になる事がある。それはピッチャーを後ろから撮影している映像。バックネット正面の通路にテレビ画面に向かって携帯を片手に手を振ったりして現れる老若男女の姿…。その度にその後ろからガードマンが追っかけてきて注意し辞めるように促してる。その通路は売り子さんとそこに座席がある人の為の通路の筈だ。テレビにはそんな無法者の姿はバッチリ映されている。知り合いと携帯しながら手を振るなどという姿はテレビを見ている者にとっては見苦しいし、馬鹿げた行為に映る。
甲子園球場に行った事はあるが、内野席しか体験したことが無いから、バックネット席のその通路がどうなっているかは分からないけれど、ガードマンが注意を促して連れ去るということはその通路は売り子さんと、その席の所有者しか使えない場所なのだろうと思う。時には小さな子供連れてその通路に来たり、子供が一人で来てガードマンに連れ去られる姿もよく目にする。
お金を出して観戦するのだから何をしても良いってことではないと思う。その場所で携帯で話しながら手を振ったりするというのはそこはテレビカメラに映るという事を知っているからだろう。けど…そこは入ってはいけない事も皆知っている筈だ。テレビを見ていて私は不快に感じるし、禁止されているであろう愚かな恥ずかしい行為は辞めて欲しいと思う。プロ野球が好きで阪神タイガースを好きならば、他の人が少しでも不快に思う事はしないで欲しい。野球を観戦したいのなら観戦マナーをしっかりと守り、好印象の野球ファンになって欲しいと思う…のは私だけだろうか?
女性が輝く社会
結婚して40余年…外に出てお金を貰って仕事をしたのは1年余りだった私。専業主婦で通してきた。料理は得意じゃないし掃除は四角い部屋を丸く掃きってタイプ。けど…家族に家事を任せたり、託したりした事は全くなし。家族が退職して、毎日が日曜・毎日在宅になった今も庭の草むしりと庭掃除以外は手伝ってもらった事は無い。近年、ゴミ出しや風呂・トイレ掃除等々は家族の仕事になっているお宅も多いし、それが基本のライフスタイルになりつつある。それだけでも専業主婦で過ごしてきた私には肩身が狭い。
そこに出てきた「女性が輝ける社会」の政策だ。内容を色々聞いていると、外に出て働く女性が輝く社会の事の様に受け取れる。私は子供はいないし働ける条件は年齢以外は満たしているが…外に出て働く気はなかった。そんな私の様な女性は輝いてはいけないのかな?って…僻んだ考えを持ってしまった。
とはいえ専業主婦で過ごして、家族の犠牲になっているって気持ちも無いし、家事以外もインドアで出来る楽しみも持っている。楽しみな事さえさせて貰ってれば、時間を区切って家事も家族の補助もやっている。外で働いてなくても充分に愉しく輝いていると日々満足して生きている私です。
花屋さんと榊
近所に花屋さんがある。そこの店員さんと馬が合う。スーパーの店の一角に数年前に開店してから花を買わなくても顔を見せて話す。我が家の愛犬が唯一入れるお店になった。その店のオーナーが国産の花にこだわり、今や中国産が主流になった榊も京都産を仕入れる。一対の榊で千円の値段になる。
最初に買った時に、「毎日、冷たい水に入れ変えれば長持ちしますよ」と言われたので、ペットボトルに水を入れて冷蔵庫に入れた水を、気がつけば入れ替えていた。すると以前は二週間保てなかった榊が、一か月過ぎても枯れる事はもちろん、水も色が変わらないし、水の臭いも全くしない。
そのうち、多少枯れる葉はあるものの、3ヶ月経っても一対の榊の三分の二程は元気に生育してる。本来、榊は毎月1日と15日が神事で、蝋燭に灯を燈してお参りするが、我が家の榊は元気に生育しているので捨てるに捨てられず…新しい冷たい水を変えつつ使っている。それほどそこの花屋さんの花の質が良いのだと思う。店員さんにその事を話すと褒められた。花も時折、買うけれど、水をこまめに替えているとやはり保ちは違う。そんなこんなで花も榊も始終買わないけど、愛犬共々その花屋さんに顔を出している。
放置自転車顛末
自宅前にスポーツタイプの自転車が倒されていた。近所の小さな子供が倒して止めておく事があるので気に留めなかったのですが 夕方 水撒きする時に我が家のガレージ前に立てかけてありました。よく見ると自転車を止めておくスタンドがありません。それで放置されたものだと知りました。さてこれをどうしたものかとダンナに言いました。放置された物であっても勝手に処分は出来ません。夫に話したら「三日ほどそのままにして、取りに来る様子がなかったら警察に連絡して取りに来てもらうしかないだろう」という助言で、三日を過ぎてから 地元警察に電話しました。担当が電話に出たので事情を話すと「取り合えず係りの者を伺わせます」との事。
電話をしたのは午前中。数日かかるんだろうか…と思っていたら、午後になってパトカーで警官二人が来た。盗難登録や車体番号を調べて無線で届が出てないか連絡してる。盗難登録がしていないと持ち主は殆ど見つからないとの事。その自転車には登録番号が付いてなくて該当無し。見た目にはそれほど古くはなく、ただハンドルが故意かどうか曲げられている。遺失物で該当者がないので「お宅がもしこの自転車が必要なれば置いておきますか」と聞かれたが、夫婦二人で自転車は一つあれば十分だし スタンドがない自転車を直してまで使う気もないので「要りません」と答えた。「それでは持って帰って市のほうで処分してもらいます」と言うことになった。警官の一人が「これなら乗って署へ帰れるなぁ」と言ったのを振り切ってパトカーの後部座席に自転車を積み込んで持って帰ってくれた。
どんな事情でその自転車が放置されたのかは分らないけど物を大切に使いたいって思った事と…何よりも…不祥事が続く警察が、たった一台の放置自転車を引き取りに来てくれた(しかも即日に)事に驚きと感謝の複雑な思いをした出来事でした。
介護の経験は無いけど…
亡くなった母の、今日は誕生日。私と27歳違いなので88歳。生きていれば米寿のお祝いだ。母は、風呂場で倒れそのまま亡くなった。弟から電話が掛かってきて、「死んだ!」と聞いた時、何を冗談言ってるの…と思った訃報だった。母の死を知人に話すと「子供孝行なお母さんで良いね」と言われる。でも、ほんの少し前まで元気に、自分で風呂の湯を入れてお風呂に入ってると思ってたのが気が付くと息絶えてるのを発見した時の弟の気持ちを思うと、子供孝行等とは考えられない。高齢の親を持つ者の多くは親の介護が問題視されるし、実際多くの人が介護に直面している。介護を全くしていない私には本当のところ、介護の大変さは分からないけれど、ある意味、親を見つめていける時間が持てる、そして、覚悟が少しずつでも出来てくるのではないかと思う。親が居て、元気にしている様子を見聞きしているだけで、会いに行ったり、電話したりすることですら、なかなか出来なかった。こんなに急に亡くなってしまうのならもっと一緒に…とか話だけでもしておきたかったと後悔ばかりしてしまう。父も亡くなっている。子供が居ない私たち夫婦なので、数年前までは私の両親と一緒に車でドライブやり旅行をした。その時の写真を眺めながら今は両親を懐かしんでいる。それらの旅が出来た事がせめてもの想い出で気休めになっている。
防災訓練に付いて
各地で台風の被害が出ている中、我が地域は雨が降り風も吹くものの被害なく有難いと思う。地震では断層がある様に言われているけれど、非常持ち出し袋もいつの間にか押入れの奥に仕舞ったまま。自治会や地域単位で年一回防災訓練はあるけれど、参加する人は少なく毎年、その年の役員組長が参加する程度。私自身は、忘れなければ参加をしている。昨年は自治会の組長の番だったので防災訓練に参加した。例年なら救助方法などだけど、昨年は避難運営ゲーム…HUG訓練…というのが行われた。避難所になった小学校の教室や体育館や運動場を利用して避難した時に状況によって何をするかを皆で考えるというゲーム方式の訓練だった。救助方法や活動も必要だけど、皆が被災した中で避難してきた皆が協力し、助け合う事が重要なのだと感じた。今年もまた防災訓練は実施されるし、どんな訓練になるか分からないけど、もしまたHUG訓練なら参加してみたい。不謹慎かもしれないけど、なかなか面白い愉しい訓練だったから…。
ゴミ出しの配慮
毎回、ごみ出しに思う。特に燃やせるゴミの出し方に憤慨する。カラスなどのゴミ荒らし防止に網ネットシートを被せる事になっているけど、集積場へのごみ袋の出し方に問題があると思う。市指定のごみ袋には直接生ごみ入れてある事があって、目ざといカラスはそんなごみ袋を突っついて、中のゴミを出し好みのものだけ食い散らし、後片づけはせずに飛び去る。カラスだから当たり前のことだけど…。
でも、これってカラスが悪いの?って思う。人間は知恵があるから、カラスにゴミを荒らされない工夫は十分に出来る。カラスにゴミを荒らされ無い為には、食べ残しや生ごみをカラスに悟られ無い事だと思う。それには生ごみや食べ残しや食品の残りが付いたものは二重三重にポリ袋や新聞紙やチラシなどで包んだ上でゴミ袋に入れる癖を人間が付けることしかないと思う。それと、ゴミ袋は各自、先に持ってきた人から集積場の奥に置く事が出来ない人たちが余りにも多い。後から出しに行くと、まるで放り投げたかの様に、ゴミ袋が引っ繰り返りゴミ袋の結び目が下になっている事がよくあるし、ゴミが手前に出されてシートからはみ出している事さえある。様々なゴミはどこの家庭からも出るものだ。自ぶん家のゴミの入ったゴミ袋で他の人に迷惑を掛けないようにするのが大人のすることだと思うけど、そんなことすらキチンと出来ない大人が少なからず居るのが現実で…情けないといつも思う。
評価は出来ない
私の趣味は手先を使った事ばかり。どれも他人から見れば出来栄えは、見事とは言い難いだろう。編み物・縫物・お絵かき等、いずれも出来た、或いは完成した時の達成感はある。自己満足なのけど…思うほど人からは褒めてはもらえていない。ホームページ立ち上げも、そんな自己満足の作品を記念で残しておきたいとの思いでもある。何事も、一般庶民がしてる事は、自身が思うほど、誰も見てないし、評価も称賛もしてもらえない様に私は思う。世論調査がよく行われているけど、私は他人を評価出来る人間じゃない。今、ハマっている、トランプゲーム等で、、評価を促す画面が出るけど、私はいつも「いいえ」「NO」を押す。自身が楽しめればそれで充分。世の中、何事も評価して貰える事を望んでるのかな?自分が好きな事、趣味が出来、達成感を味わえたら、それだけで私は満足で楽しいと思う事にしている。ただし、他人の意見は聞く耳は持てるし、参考にしたいと、常に思っているのも付け加えたい。
事をやるには協力者が必要
10数年前、地域の自治会長をする羽目に…。抽選で決まったも同然だった。決まった時は頭が真っ白になった。数ヵ月後から始まった会長の仕事…その時、強力に助けてくれた人がいた。もしその人がいなかったら私は会長任期を全う出来なかったと、今でも思う。その人には今も感謝している。今、相撲協会がゴタゴタしているようだ。一人の理事が自身の改革を進めるべく、孤軍奮闘してると聞く。相撲界と自治会を一緒には出来ないと思うけど、改革をするには協力者は大いなる助けになるだと私は思う。改革は正しい事かもしれないが、他の人たちの理解や協力がなければ確立し成功しないと、私は思う。考え方は皆それぞれ違うのは当然だし、そこを如何に理解してもらうかを考えて行動することが大事だと私は思う。人と始終ベタベタする必要はないだろうけど、助けがないと出来ない事や、成立しない事は、世の中沢山あると思う。私には友達は多くないし、数少ないが、助けてくれる友が得られた事は嬉しい事。自治会長をして良かったと思う。
野菜摂取
一日の野菜摂取量を350gと言われている。サプリのCMを見てると350gを採るのは無理…と言う台詞を度々聴く。我が家では食事を作る時、野菜を必ず計るようにしている。皮の有るものは剥き、ヘタは切取りなどの処理をしてから計りにかける。湯がいたり煮たり傷めたりすると、量は減り、或いは栄養価は無くなるかも知れなが、意識して野菜を使う。 我が家の常備野菜は、玉葱、人参、赤緑黄ピーマン、大根、キャベツ、モヤシ、牛蒡、キノコ類、葉物類。週に一度のスーパーへの買い物時は、買うものを、ガラ携のメモに記入して行く。スーパーで知人に会うと、買い物量の多さに驚かれるけど、毎日行くと、却って余分な物まで買うし、野菜等生鮮食品は腐らす原因になる。私には週一の買い物があっている。野菜は、計って使うと買う量も決まり、殆ど、使い切る事が出来る。カロリー計算方法は知らないけど…野菜不足にならないように気を付けている…と言うか、我が家は意識して野菜を使うので、野菜不足にはなっていないと自負している。
人間は物を、よく噛んで飲み込んでこそ栄養になるのだとも信じている。どんなに沢山の栄養素が入っているサプリでも、飲み込むだけでは良くないのではと思う。 10年前に亡くなった父は、入院して数日して、食事が食べられないと看護師に訴えたら、次の日から点滴での栄養摂取になってしまい、それから間もなく息を引き取った。食事を噛めず飲み込めなくなるとダメなんだと悟った。既定の量は無理でも、食品を噛んで飲み込んでこそ栄養が取れるのでは…と日々思う。
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