アマ小説家の作品

◆パペット◆第29回 by日向 霄 page 1/3
 雨が降っていた。
 窓硝子に流れ落ちる何本もの雨。かなり激しい降りだ。まだ日没までには間があるというのに、灯りなしには手仕事がおぼつかない。
 ここには、雨さえも降る。
 繕い物の手を休めて、マリエラは外を眺めやる。“楽園”に落ちて、何度目かの夕立ち。雷すら鳴っている。
 初めての時は驚いた。赤々と大地を染めて陽が沈むのだから、雲が湧き、それが雨を降らせてもおかしくはない。小麦が黄金に実るには、雨は不可欠だ。
 でも、ここは地下なのよ。なぜ地下に雨が降るの?
 その問いが馬鹿げたものであることはわかっている。ここを地下だと――レベル6だと思うことが間違っているのだ。いくらシンジケートが高度な科学力と豊富な資金を持っていると言っても、地下に太陽を現出させることなどできるはずがない。確かに、夜空に月や星は輝いていない。でも地上だって、そんなに星は見えなかったわ。
「ここは、本当はどこなんですか?」
 今朝もマリエラは老人に訊いてみた。この不可思議な場所に、年寄りは彼一人しかいない。『おじいさん』という呼称の他に、固有名詞を持つ必要のない彼。
「本当? 本当とはどういう意味かね。ここはこの通りの場所だ。わしにとっては“楽園”そのもの。君にとってどうかは知らんが」
 からかうような口調。けれどもその表情は優しい。
「ここが地下だとはとても思えません。でも地上でもない。あたし、地上のことはもうあまり覚えていませんけど、畑なんて見たことがありませんでした。ここはひょっとして、ポリスの外に広がっているという農村のどこかなんじゃないんですか」
 どうすればそんな場所へ一足飛びに行けるものかわからないが、ここを地面の下だと思うよりはずっと信憑性のある話だ。
「そうだとしたら、君は嬉しいかね?」
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう問題じゃないでしょう?」
「ではどういう問題なんだい?」
 マリエラはため息をついた。あの小憎たらしい男――ムトーでさえ聞き出せなかったのだ。何を訊いてものらりくらりとかわされるだけ。この老人から答えを引き出すなんて、あたしには無理だ。
「わかりません」
 マリエラは素直に答えた。
「ただ、気になるんです。他に、考える必要のあることなんてないですし」
 ジュリアンのことは、考え出すときりがない。無事でいるかどうか。ムトーに引き回されて、危険な目に遭っているのではないか。あたしのことを覚えていてくれるだろうか。本当に、戻ってきてくれるのだろうか。こんな、どことも知れない場所へ。
「ここがどこだかわかれば、ここから出て行く方法も考えられるということかな。彼のいない場所が、君にとって“楽園”であろうはずもない」
 マリエラの顔を見ずに、老人は言った。骨張った皺だらけの手で、じゃがいもの皮を剥いている。マリエラが一つ剥く間に、彼はもう三つ目に取りかかっている。しかも彼の剥いた芋の方がずっと滑らかできれいだ。
「だが彼にとっては、君がいればこそここは“楽園”だ。君がここにいる限り、彼はきっと戻ってくる。待つというのは、追いかけるよりずっとエネルギーのいることだがね」
「ここにいるよりしょうがないってことはわかってます」
 少なくとも、頭では。心はすぐに焦燥に駆られるけれど。
「だけど、もしあなたが――」
 あなたがすべてを見通し、すべてを仕組んだ人間なのだとしたら。
 その質問は口にされなかった。老人は少年に呼ばれて外へ出ていってしまった。たぶんそんなことがなくても最後まで言えなかっただろう。だって怖ろしすぎる。もし万が一、老人が肯定したら。
『君自身も、偽りの記憶を植え付けられて、操られているんじゃないのか?』
 ムトーの言葉。あたしという存在は、ジュリアンを安定させるための鎮静剤なのだと言った。


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