タイトル:子達の自然


あの頃の子供達つまり今の私に、周りの自然はどう映り、
どんな記憶で残っているのだろう。



新川の松原  松原と呼ばれた松林


  灘町から湊町そして新町(しんちょう)へと旧大洲街道沿いに進み、家並みがややまばらになる辺りから、街道の両側に延々と松林が続いていた。 この松林が俗称 新川の松原 で当時、この辺りの地理を案内する際、格好の三角点みたいに使われていた。

 町の裏山みたいな谷上山に登り、ぐんかん島やひょうたん島が浮かぶ瀬戸内海を眺めながら、右手に広がる道後平野から視線を郡中方面に移す。

    「あのなぁ…重信のこっちに…海沿いに松前の人絹工場が見えとろぉー… …」
    「違うがな…ちがわい…、新川の松原のちょっと右手の方じゃがな…」     
    「ほたら…義農神社は?…小学校の相撲大会をようやっとったろがー…」
    「松原がきれとろー…あれの…こー…手前あたりじゃろがい…」
    「椿さんは大ぶむこかや?…どっちぞな…右手かな…もっとむこーじゃて?…」

 新川の松原と親しまれていた街道沿いの松林は、おそらく江戸時代初期から中期の頃、砂防目的で植林されたものと思われる。記録を調べたわけではないが、樹齢は当時で優に三百年以上は経っていたのではないだろうか。

 松の木はどれも子供数人の手の輪に余るほどの幹周りがあった。根の張りが凄くて、どの木の根っこも道路の両側に盛り上がっていた。
新川の海水浴場に歩いて行くとき、根っこの上をヒョイヒョイとび跳ねながら友達同士ふざけ合ったものだ。少し傾き加減の木もあったが、大方はまっ直ぐに立ちあがり、夏の日差しを遮る格好の、文字通り街道笠の役割も演じていた。

 新川街道とも呼ばれていたらしいこの辺りは、よく追い剥ぎも出没したそうだ。

 この松林は、郡中町のはずれから隣の地蔵町の際まで続いていた。伊予鉄郡中線の新川駅で降りると、当時海水浴場としてにぎわった新川の海岸林まで、畑に囲まれたまっ直ぐな地道が続いていた。
新川海水浴場につながるこの道沿いにも、多少まばらになってはいたが、松林の名残りが見られた。

 海水浴場の背後も、街道沿いのものと全く同じ松の大木の林で囲まれ、林の中には、当時としては珍しく子供向けの遊具もいくつか整っていた。

 高い所で枝分かれした松の大木の、幹同士を支点に太く長いロープを垂らし、これに支えられた長大ブランコがありました。
その隣には、互いに向き合った二組の太い松の大木二本から、夫々に頑丈なロープを下し、このロープで長さ十メートル以上もある松の大木を水平に支えた揺動遊具?もあった。

 揺動遊具というのは、前後に大きく揺らしながら、その上を揺れに合わせて反対側までたどり着く遊具です。
前後する揺れはやゝ緩ったりと重量感にあふれ、大木と戯れながら木と自分の揺れのバランスをコントロールする満足感があり、子達はみな夢中でした。

    

 少し気になることもあります。旧大洲街道沿いの松を含めて、ここら辺り全体を指して新川の松林と言わないで、何故ずっと新川の松原 と言い継がれてきたのだろう。
海水浴場になる海岸に面したかなり広い松林、海岸に至る路沿いに残る松、そして街道沿いの長い松林。それらの松はどれも外観で見るかぎり同じ頃に植えられたに違いない。

 郡中を含むこのあたり一帯は、むかし "牛飼ヶ原" といわれる荒地だったと聞く。
三百数十年前、荒地を開いて灘町の町造りが始まった頃と前後して、広い砂原や砂丘が続くこのあたり一帯に、先ず砂防用の松を植え、孫子の時代の田畑開墾に備えたご先祖様が居たに違いない。

 今すぐ自分たちを豊かにする事業ではないが、海岸に至る広大な空き地が豊かな農地に変わる日を希って、防風・砂防用の松の植樹に取りかかった土地の人達の姿が浮かびます。

 今は豊かな野菜畑の連なるこの地ですが、畑の開墾は先ず松の大木を切り倒す作業から始まったそうです。開墾の苦労話の蔭に、その時切り倒した松の苗木を、黙々と植えつづけた先達の姿を重ねる事も忘れてはなるまい。

 新川の松原が決して新川の松林で無かったことに、伝えられた言葉の意味と重みを感じる。

イラスト:追悼の印 松原追悼の記 イラスト:追悼の印


 歴史を刻み続けてきた街道沿いの松原の松は、あの太平洋戦争のそれも末期に、殆どすべて切り倒されてしまった。

 上陸作戦の目途とてさらさらない時期、上陸用舟艇を造るとかで、海岸近くの松原の松の大木が、格好の戦時物資調達の標的に選ばれたらしい。とり返しがつかないというのは、こんな時のために取ってある言葉なのだろう。

 由緒ある松の大木は、子達の自然どころか、この地域の人々の日々の生活の流れでもあった、周辺環境をあざ笑うかのように、戦争という無惨に切り倒されてしまった。

 切り倒された松は、森の海岸辺りに急造された木造船所で、舳先がフラットな上陸用舟艇へと変身していった。敗色の濃くなっていた当時なのに、軍という幻の権力は、一体どなたを何処へ上陸させようと考えていたというのだろう…。

 無惨に切り倒された新川の松原の松が、奇しくも太古を偲ばせる悠久の地・森の海岸辺り扶桑木の里で切り刻まれ、その命を終えた。

 ふる里の風 がこの地を過ぎるとき、消滅した松原に何を想い、呟きながら吹き過ぎて行くのか…

 海水浴に出かける子達がとび跳ねながら遊んだ、あの大きく盛り上がった街道沿いの松の根っこは、その後如何ように始末されたのだろう…

 松の根は、戦中の物不足時代の航空機用潤滑油の原料に用いられた。松根油という代物です。
戦時動員された町の人々は、つるはしを肩に毎日新川まで出かけ、松根掘りに汗を流した。その根の大きさから、当時の作業の大変さが想像される。

 松根掘りだし作業の最中に終戦を迎える。松根掘りに駆り出された町の人々の動員作業の舞台は、悲劇というより悲しい喜劇に終わった。

 敗戦のあの日、家の前を松根掘りに動員された人たちが、つるはしを肩に三々五々と帰ってくる。

     「戦争負けたんかや…松根掘ってもなんちゃならんな…馬鹿らしっ!」

 誰に話しかけるともなく立ち止まり、一言二言呟いて家路に向かう。
じりじり炙られるような夏の暑い一日、うだる暑さと異様な静けさの中で、放心の戦後が始まった。

 戦争は人の歴史に取り戻しようのない空白を作る。

 新川の松原の一瞬の消滅は、この地域に綿々と続く歴史と、そこに生きた人達が営々と育て上げた自然環境までも、回復不能なかたちで絶ち切った。
昭和初期の子達の懐かしい思い出にまで入り込み、空白の幾行かを作ってしまった。

 松原追悼の記 は、空しさだけが残り、その空白を埋める惜別の送辞が見当たらない。


次のページへ
前のページへ