子達の日々


 

子達のお祭り  亥の子まつり : お亥の子さん

   旧暦十月の亥の日、お亥の子さんが家々に亥の子もちを搗きにやってくる。私には小学校に上がる前の、あの日のお亥の子さんの記憶が何故か強い。

 外はすっかり暮れて暗い、降って湧いたような足音… …

 " 亥の子もちー 亥の子もちー"

 
 ガラガラ…大戸の潜り戸を開けて、浜の子らしい何人かが、どやどやと店の土間に入ってくる。
手には夫々が一本ずつの荒縄の端を握りしめ、縄の先を平べったい一抱えもあろうかほどの大きな平石に、幾重にも巻きつけている。

  その頃のわが家の入り口は、真中が幅一間くらいの大戸で仕切られており、大戸は太いロープのついた少々大掛りな巻上げ機で、手前に跳ね上げ・下ろしする造作になっている。
跳ね上げた大戸は、鉄の掛け鉤に引っかけておく。けっこう厚みもあり重い大戸なので、かなり危険な代物ではなかったかと今頃気になる。まるで宇都宮の釣り天井みたいな仕掛けを、365日なんの疑念を抱くことなく、朝な夕な操作していた。

 尤も、お向かいの酒屋さんほか、同じ大戸造りの家は何軒もあったから、当時はこれが普通の町家の姿でもあった。大戸の下の方半幅がくぐり戸になっています。

 "…あきほーに  かいつりまいたー…"

 亥の子餅搗き唄の前奏みたいな歌声が響き、浜の子達は潜り戸を掻い潜って勢いよく跳びこんでくる。
奥行き二間ばかりの土間なので、搗き石を土間の中央に置き、それを取り囲むように一斉に調子を合わせ握りしめた縄を引き合う。土木工事の "よいとまけ" の子供版といった情景である。

                 お亥の子さん
おいのこさーんというひとは         お亥の子さんという人は
いーちに たーらふんまえて 一に 俵踏んまえて
にーで にっこりわーろーて ニで にっこり笑ろて
さーんで  さーけつーくって 三で 酒造って
よーつ よのなかよいよーに 四つ 世の中良い様に
いーつついずものおーやしろ 五つつ 出雲の大社
  ( いつものごとくなり )  (何時もの如くなり)
                                 
むーつ  むびょうそくさいに 六つ 無病息災に
なーなつなにごとないように 七つ 何事無いように
やーつ やしきをたてひろげ 八つ 屋敷を建て広げ
  ( やしきをかいひろげ )    (屋敷を買い広げ)
ここのつ こぐらをたてならべ 九つ 庫蔵を建て並べ
とーで  とーとーおさまった 十で 到々収まった
  ( とーかのえべっさん )   (十日の恵比寿さん)
                                         
     えんやらやー  えんやらやー  えんやらやっとー

 ずしーん・・・ずしーん・・・亥の子餅を搗く音が夜の土間に響く。

 土間の餅搗き・亥の子祝い唄が終わると、父は二階の物置用のはね梯子に載せていた波せんべいの入った紙袋を降ろしながら、「ほれ、ほれ、ほれ・・・」と一人一人に手渡していく。母はその横で二銭か三銭入ったちょぼ包を握らす。寒いのに、子達は素足で草履ばきが多い。

 「おいちゃん ありがとぉ・・・おばちゃん ありがとさん・・・」
 「気ーつけやー、あしもとー暗いけん・・・」 

 母はくぐり戸を出て、次の搗き家に向うらしい子達を見送る。

 小学高学年の頃にはお亥の子さんの記憶がない。この行事の風習は途絶えてしまったのだろうか?

 

  
   イラスト:応援フラッグ            秋季運動会              イラスト:応援フラッグ  

  


 郡中尋常高等小学校の秋の運動会には、ド・ドン・・・にバリッ・パン・パン・パン・・・未明の打ち上げ花火の音を町中に響かせて開会を報せる。

 私が在校した6年間だけではなかったと思うが、秋季運動会の日取りは、秋祭りの翌日と決まっていた。十月十四〜十五日の八幡さんのお祭りと翌十六日の運動会は、町ぐるみの一大イベントだった。

" 待ちし吾らの運動会 ♪ まーちーしわーれらーのうーんどーかい "       

で始まる運動会の歌の大合唱は、子供心を何か張り詰めた、闘争心みたいな気持ちに昂ぶらせたものでした。


徒競走 当時は近頃のように、徒走競技の順位づけを気にするなど考えもしない時代でした。
みんな必死で入賞を目指して競い合います。

 仕方なく遅れて、ゆらりゆらりと走ってくる子達には、温かい笑いのこもった声援と励ましが一際高く響きます。徒競技に参加した子達皆を、勝ち負けなく満足させる賑わいは、応援のハイライトでしたでしょう。

一等賞 :鉛筆1ダース、虎石の硯、十二色クレオン、サクラクレパス、小刀(肥後守)…
ニ等賞 :消しゴムつき鉛筆3本、帳面三冊、色鉛筆3本、画用紙、半紙一帖…
三等賞 :鉛筆3本、帳面一冊、消しゴム大、色鉛筆1本、鉛筆キャップ5本…、  

 学用品が自由に買ってもらえなかった時代、ささやかな賞品でも、それが校長先生から手渡される嬉しさもありで、入賞を目指して皆んな一生懸命に頑張った。

 戦後になって、私は自分の子供や孫たちの運動会を見に行ったとき、順位付けはしない・ささやかな表彰もない。それでいて、前走者がゴールさえしていないのに、次の走者を平気でスタートさせる…そんな進行が無性に腹立たしく、一文句言いたい気持ちを抑えるのに苦労しました。。

 スポーツイベントでの順位付けを、教育現場では差別だと勘違いし、効率よく行事が流れスケジュール通り進行すれば、運動会はPTAの皆さんにご満足頂ける?(少し極端な表現になりました、今はそんな事ないとお叱りを受けるなら嬉しいですが)…そんな運動会の現場を見るのが本当に辛かった。

 いずれ競争社会に出て行かねばならない子供たちです。子達が成長する過程で、もしあるなら、差別と言うものの実像をいろいろと体感し、それに対処する考え方や、その過程を直に学習する必要があります。
子達が、差別そのものの実像さえ掴まないままに成人してしまわないか…心配です。

 何時頃から、誰がどんな発想で、子供心のあのワク・ワク感を奪う、入賞者の表彰もない運動会にしてしまったんでしょう。

 五〜六人の子供を抱える家庭が当り前だった当時の事情もありますが、昼飯時の家族ぐるみの団欒風景は、わいわい・ガヤガヤの交流の輪に包まれ、それは賑やかなひとときでした。ほんとに! 楽しかった!


区切り線:綱引き



アレー体操  尋常高等小学校という事で、今でも記憶に懐かしく残っている演技に、高等科一・二年生女子の アレー体操 がありました。手にするのは、重さ 4kg 位のダンベルに似た木製のダンベルです。木質はかなり硬いもので、これが アレー というものだと運動会で初めて知りました。

 アレーを両手に入場ゲートからブルマー姿のお姉ぇ様方が元気よく入ってきます。この時ばかりは、町の大人達 特に青年団の賑やかな声援が、運動場に飛び交います。

 お姉ぇ様方の隊列は、放射状になり、輪になり、向き合って半円を描き、立ち止まり、曲に合わせてアレー同士を打ち鳴らします。前・後・上・下・斜め上・斜め下、そしてクライマックスはやや右半身に構えた膝の上に一方のアレーを構え、もう一方のアレーを水車のようにぐるぐる回しながら、構えたアレーを打ち鳴らし続けます。

 アレー同士が打ち鳴らす堅木の音色と場内の割れんばかりの拍手のアンサンブルが、運動会のフィナーレを飾る分団リレーへの期待感をいやが上にも高めていくのでした。


区切り線:綱引き


                          イラスト:リレー競技ゴール                        
 分団リレー  
 生徒達ばかりか、町ぐるみの大人達をもまきこんだ興奮は、毎年繰り返される運動会のフィナーレ 分団リレーです。その亢奮は弥が上にも運動場を包みます。

 このリレーは、町内各地区・各学年代表の対抗リレーみたいなもので、地区に住む小学一年生から高等科二年生までの生徒の中からリレーメンバーが選ばれます。
各学年一人づつ総勢八人のメンバーが、男女別にそれぞれ町内十二分団を代表して、予選なしで一気に優勝目指して競います。当該学年の生徒が分団の中に居ない時は、低位学年の生徒で補います。

 興奮の坩堝の中でその年の優勝分団と二位・三位の入賞分団が決まります。
一等賞、ニ等賞、三等賞の各チーム表彰と賞品授与は、参加全メンバーを称える歓声と拍手に包まれ、その雰囲気を運動会の閉会式へと繋ぐのでした。

     運動会は終わりたり      うーんどーかーいはーおーわりーたりー
     愉快に今日も過ごしたり   ゆーかいーにきょーもーすーごしーたりー
     わが父母は待ちまさん 
 ♪ わーがちーちーはーははーまーちまーさーんー
     帰へりて話して喜ばん    かーえりーてはーなしーてよーろこーばんー

  分団点描
 うなぎの寝床のように街道沿いに発達した町並みを、南から北へ一分団〜十二分団の十二地区に仕分けます。分団の仕分けには、町内の町目の区切り・世帯数・人数、それに同じ路地や道路を挟む世帯は出来るだけ同じ分団にするなどの、様々な工夫がされていたように思う。

 私の家の辺りは七分団でしたが、これが何故か毎年かなりな強力分団でした。分団リレーは各学年から1名ずつの代表八人で競う訳ですから、優勝はそう簡単ではありません。でも、私の属した七分団は、在校中に1〜2回は優勝したように思う。
リレーメンバーの中には、記憶に残る凄い ローカルスプリンター? もいました。

 わが家の左向かいの醤油屋のスミちゃん、右向かいのトミちゃん、その隣の造り酒屋のイサオさん等が筆頭スプリンターでした。お向いの造り酒屋のヨータロさん、からつ屋のツネちゃん、八百屋のヒサちゃんなども、そこそこのスプリンターだったでしょうか。

ご近所だけでもこんなメンバーがひしめき、みんな一つか二つ違いの兄弟姉妹に取り囲まれているわけです。生徒も親も夢中で沸きたつような連帯感が、普段から自然と出来あがっていたかもしれません。

 記憶に残る、十年に一人かとも思えるスプリンターは、浜の猟師さんの息子で同級生の覚一さん、通称カクイッっぁん。ごぼう抜きの言葉は彼のためにあるかとさえ思えるほどの俊足ぶりでした。
 そして醤油屋のスミちゃん、彼女の凄さは町中誰もが認める本物で、かの人見絹江さんも顔負けのスプリンターに育つ逸材だったのでは・・・今もそう信じています。


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