子達の事件簿:椿さん



椿神社:椿さん(通称) 松山市の南部、松前・伊予・砥部の三市町に近い辺りにある椿神社は、伊予豆比古命をお祭りし、地元では古くから「椿さん」と呼ばれ親しまれています。

 旧暦の1月7日〜9日の3日間行われる大祭には、縁起開運を求め、また商売繁盛を希う参拝客が、全国から大勢訪れ、春を呼ぶ大きなお祭に伊予路は大いに賑わいます。



椿さん      父に連れられて

 

  
 椿さんと聞くと、父に連れられてお詣りした、3〜4才頃の微かな記憶が昨日の事のように甦ります。記憶がこれまでに何回も更新されている所為かも知れません。

 イラスト:坊ちゃん列車

 その日父は、松山に用足しでもあったのでしょう。松山まで父と一緒しました。
お参りには、松山市駅から伊予鉄・森松線に乗って出掛けました。市駅を発車したと思ったら、二つ目あたりの駅(森松線は戦後に廃線になりましたが、石井駅だったように思います)でもう降ろされます。

 えらい人込みと人いきれの中を、 「手離したらいかんぞ!」 と言う父の掌を握り、思いっきりぶら下がるようにくっ付いて歩きました。

 幼児期の記憶は、まことに微かで断片的なものです。
父はインバ(着物の上から羽織る、前開きの袖付きマントのような男子用和装外套)姿でシャッポを被り、私も小っちゃな子供マントを着せてもらっていました。お祭りの日はかなり寒かったように思います。

 沿道の人込が普通でないことに吃驚して、少し緊張気味でした。

"なんかー 欲しいなー…"

 節くれだった父の掌をしっかり握りながら、左右に並ぶ熱気に蒸れかえる屋台に目を凝らし、伸びあがるように並べられた土産品を覗きこみます。

 人込みの隙間から、椿さん名物のおたやん飴(おたふく飴)屋、それも一際目立つ屋台を見つけました。その瞬間私の目は、広い台の上に並んだおたやん飴で、見る見る満艦飾一杯の点になっていきます。

 おたやん飴って、こんなに色々・沢山ある…

 小さいの・中くらいの・太いの・ものすごい太いの…それから…え―っと、短いの・長いの・くるくる捲いたの・曲がったの…、横並びに行儀よく並んだの、斜めに立てかけた長くて太ーいの、円い空缶に無造作に突っ込んだの、きれいな色のセロハンに包んで飾りつけたの、細切れに切って粉をまぶした大きいのや小さいの…

屋台はまるで おたやん飴だらけの飴の国 、瞬間私は飴の国に迷い込んだメルヘン坊やになっていました。

イラスト:箒に乗った魔法使い             イラスト:少年T              イラスト:箒に乗った魔法使い

 おたやん飴の国の王様 みたいな飴が目に入ったとき、メルヘン坊やの体は硬直しました。
王様飴の胴回りは太い大根くらい、10糎もあったでしょうか。
この特大おたやん飴の印象は、数十年たった今も脳裏に焼き付いたままですから、余程の衝撃だったのでしょう。

 父の手を引っ張って参道の列から抜け出し、四角い缶の中に無造作に立て掛けられた?王様おたやん飴 を覗き込みます。おたやんは、眉も目も、鼻も口も、それだけでおたやん飴になるくらい大きくて分厚く、濃い色の飴で造られています。

「大きいおたやんじやなあー、欲しいんか?…」
「欲しい…こぉーて!…なー…買ぉーて・こぉーてーなー…」

 父に物をねだった記憶はほとんど無いのですが、この時ばかりは必死でした。

 父は仕事で節くれだった手をぐいっと伸ばし、一銭銅貨ほどの太さの飴二本を摘み上げると、売り子さんに

「これ包んでやって!」

 そして、べそかいたような私に向って

「あの飴は しゃぶれん… それにフンマル(商売上の符丁みたいなもの)もして、
     高すぎる…」

 商売に一番脂がのりきっていた時期、父から子へのけじめの一言だったのでしょう。父のこの呟きは、子供心に  "もうねだれない…"  そう感じさせる重みで伝わりました。

 椿さんの社殿に向って左手に並んでいた、懐かしいおたやん飴屋、子供心に余りに巨大に感じられた王様おたやん飴など、今でも参道でお目に掛かれるのだろうか…

「フンマルもして、高すぎる」

と父が買わなかった王様おたやん飴が顕在なら、是非とも再会したいもの!


 

帰途は国鉄(JR)北伊予駅まで歩きました。
商売の繁盛と一年の息災を希い、お参りを済ませて家路に向う人々の影を、穏やかな時が夕闇に包み込みます。
駅までの道のり、時と人の流れは、遮るものも無い一面の麦畑に、三々五々消えていきます。


    
 
閑話   父と母

 小学入学前の私を、父はよく外に連れて行って呉れました。

 外出先での父の話しは、あまり子供向きではなく、 “うん…うん…” と頷くだけの素直少年に、歩きながら顔も見ないで話しかけるのです。
少年の目当ては、話しの区切り・区切りに、着物の袖から取り出し手渡される甘栗でしたのに・・・

"何でも自分でよぉ考えて判断せーよ…"
"世間様への感謝と奉仕の気持ち…忘れたらいかんぞな…"
"自分に出来るんなら、お世話は惜しまんでやったげよ…
                人に世話してもろたら嬉しかろが…"
"好かんもんじゃいうても、困っとら助けておあげ…"

「ハンコはな考えて捺せよ、証文を見て直ぐ捺したらいかんぞ…、

一晩寝てから証文をもっぺん見直せ…まだ捺すなよ…、

「証文は三度見直し…相手の顔見て…渡す時に印をお捺し!

などと、子供には少なからず難しい内容を、耳元の風に乗せるみたいに話します。

「ごっつぉー(ご馳走)にお呼ばれしたらな、好きなもん美味そうなもんから、
先にお食べ、そしたら最後まで、美味しいもん食べられるじゃろ…」  

等の処世の術?まで、にこにこ愉しそうに、甘栗を手渡しながら半ば独り言みたいに話し続けます

  

 私は三男坊主ですが、今や父の齢を十年余りも越える年輪を重ねて来ました。

 客の絶え間が無かった親父の、嘗ての処世のあれこれは、大正〜昭和を商った朴訥な商人根性だったのでしょう。記憶を辿りながら一人呻る思いですが、話したい時父は無し…の懐かしい空しさが残ります。

 大正から昭和、そして父が亡くなった太平洋戦争勃発の年あたりまで、父が母とニ人で立ち上げた商売は、順風を上手く捉えていたようでした。
親父さんが外回りを、お母ろさんが店売りと帳簿をと、近郊を含む地域で、かなり手広く卸・小売り業に精出していました。

 その傍ら、九人の子供達の教育に、信じられない程の熱心さで向き合っても呉れました。

「子供の教育費は、どんな事があっても不自由させない…
あとは母さんに任すから…頼むな…」

仕事一途に懸けた父でしたが、自分が満たされなかった教育だけは、どうしても子供達にと考えた方針だたのでしょう。

 母は黙って、時に子供の勉強を眺める程度でした。勉強は所詮自分でするもの…と割り切っていたのでしょう。 ある時父は、未だ幼い私に向って、こんな言葉を洩らしました。

「算盤では誰にも負けん。でもなっ…小学校は四年までで、
     奉公に出てしもたからなあー」
「学校へ行ってな、勉強だけは一生懸命、しっかりしとかないかん!」
「T兄は東大へ行かすからなっ、京大じゃないぞ…」   ?

 そんなこと言いながら、小学校・中学校・女学校に次々と通うわが子の通知簿に、父が目を通すことは一度も無かった。

「松中通っとったよ!…」 

 中学の入試合格の結果を、父に店先で報らせた時も、振り向きもしないで 唯一言

「ふーん… そーか」

 無類の世話好きで、家にはお客の絶え間がなかったように思います。
夕方近く来客があると、家族はおいはん(晩御飯)を早い目に済ませた。夕食の後、早々に客膳の準備に取りかかるお母ろさんの姿をみながら、可哀そうで仕方なかった。

"お客なんか、来んでええのに…"

 でも、母の動きに無駄はなく、甲斐甲斐しく本当に愉しそうに立ち働き、素早く段取りを済ませます。
父は父で、灘萬から取り寄せた活魚を、一人台所に立って客膳用に格好よく素早く捌きます。

 台所を動き回る母の姿には、九人の子の母の重みと自信が溢れていました。



お接待   お遍路さん

                
 我が家の表通りは、四国八十八ヶ所巡りの遍路みちになっています。

 朝早くに、昼下りに、時に日暮れに近く、鈴を振り読経をするお遍路さんが、何人もおいでなさる。
当時のお遍路さんのお姿は、現在のお四国八十八ヶ所巡りのお遍路さんとは、感覚的にかなり違っていました。
町の人々のお接待の気持ち・所作の背景が、現在は全く違う感覚に成りかけているのかも知れません。

カルミア:ピンクとペアーで 手甲を嵌めた手をかざし、一心に読経を始めるお遍路さんが店口に立たれると、来客のお相手でどんなに忙しくしていても、父も母も必ず商いの手を止めます。

 お接待に代へて、小銭が手許にあればそれを、無ければ両手二握りのお米を奥の米櫃から掴んで来て、お遍路さんの頭陀袋に入れて差しあげます。

 どうしても手が離せないときには、必ず誰かは居る筈の奥に向かって、

   「お遍路さんよ!はよぉー お米を お持ちして上げてなっ!」

 そんな時、私は出来るだけ沢山のお米を上げたくて、両手にてんこ盛りして、そろりそろり頭陀袋まで持ち運んで差し上げます。何故だかそうして差し上げるのが、無性に嬉しくて仕方なかったのです。

 お遍路さんの読経の声が、ひときは高く暫く続き、鈴も澄んだ音色を響かせます。


庭を訪れたアザミ?
 お遍路さんの事では、昔の我が家に係わる、こんなお話もあります

 吾が家の墓地に並ぶ墓石から、少し離れた一番端っこに、戒名もよく読めない、小っちゃなお墓があり、子供の頃から何となく気になっていました。

 端っこにぽつんと在るのを不思議に思って、あるとき…

「これ誰のお墓?」 

 長兄だったか…に尋ねてみました。

「あー…そのお墓なー…」
「大祖父さんの頃…いや、もっと前かな―…、お遍路さんが
家の表の前で行き倒れてしもたんよ…」
「家で最後を看取ってあげたし、何処のどなた様かも分からんし、
祀つってあげる所もないしするけん、仕方無かろがな…」
「墓地の隅の方が空いとったけん、祀つってあげたんじゃと…、
 そんな話…だいぶ前に聞いたけどなー…」





  休題   ガキ大将
     

 餓鬼:辞海によると、 "いつも食物をねだるところから" 子供を卑しめていう称とあります。

                              

 お腹を空かす実感を忘れかけた今の子供達からは、餓鬼は見つけようもありません。
まして、ガキ大将と言ってみても… 土台!大将という言葉も死語みたいなものですから…

 昭和初期の子供社会は、ガキ大将を頂点に据えた、遊びの子供集団全盛期だったのかも知れません。
産めよ増やせよ!と人間増産の勇ましい掛け声に躍らされて、人の増・生産に励んだ社会の風潮も背景にありました。

 両親と朝晩に顔を合せる事さえ侭ならない、今時の一人っ子・二人っ子生活ではなく、兄弟姉妹に囲まれ、祖父母・父母・ときには叔父・母まで同居の多人数っ子生活で揉まれ育った連中です。
大将の素地や下っ端の心得など、教わるまでもなく十二分に心得たものでした。

 ガキ供の集団に加わる決まりは特にありません。年長の誰かを知っている子なら、顔出しして一緒に遊びたそうな顔つきさえしておれば、 

「来るかっ?… 遊ぶ?…」  
「うん…」 

 それだけの会話で、ガキ大将の傘下に入れます。

 小学生以上という規準もとくに無かったようで、小学入学前の私もガキ仲間に交じって遊びました。
あの事件のときも、運悪くか運良くか、ガキ集団の最末席に、金魚の糞みたいにくっ付いていたに違いありません。




アイコン:曲がりくねる矢途   ガキ達の失踪   アイコン:曲がりくねる矢途

 
   『八幡さんのどてー(堤)行くぞ!…行くぞぉー…おぉー…いくぞぉー』 

 私が小さい頃、近所のガキ大将は、醤油屋のシゲ兄ちゃんだったように思います。

 造り酒屋のリュウちゃんにヨータロさん、それにキヨシさんにススムさん、からつ屋のツネちゃん、斜め向いのカズヒトさん、他に洗濯屋・あんこ屋・裏通りの子ら3〜4人を合わせた総勢10人余のガキ供が、その日の仲間でした。
仲間の最年少はツネちゃん、小学校入学前の事件?です。

 京都:哲学の道近くにて
 「行くぞー!」と意気込むものの、親に行き先を告げるでもなく、服のポケットに こやまめ(乾燥ソラマメを煎ったもの、高野豆?)の幾つかでも入っておれば、おやつはそれで十分でした。

 冬というのに子達はみな薄着、よれよれの上着でも羽織っておれば上等、袖口が鼻水でテカテカ光るメリヤスのシャツ、長ズボンも居れば短い者も、八つ折れ・草履・穴開き運動靴・足袋ぐつなど、足許もまるでバラバラです。

 八幡さんの境内や裏手の繁み、境内の森に接する溜池の土手辺りに行って、ひと遊びして帰るつもりです。

 後先しながら町内を抜け出す子達の群れは、町の人々が何時も見慣れた、ガキのつむじ風みたいなものでした。
ガキ大将のシゲ兄ちゃんは、手にした鞭をぶらぶら振りながら、ときどき地面を叩きつけます。

"バシッツ…バシッ…"

 八幡様に到くと、子らの集団は、裏手の御影石の階段を競うでもなく、でも必死で駆け登ります。
五十数段の石段だから、慣れた子達といっても "ハーハ―…ゼーゼー" と息遣いは荒い。

 登りきった子達は目敏く無言で、自分の順位を確認しあって一人頷きます。

 最後尾の登りきりを見届けると、子達の群れは神殿裏手の、勝手知ったガキ専用みたいな けもの道 をやたらと右往し左往し始めます。
集団の中での自分を位置づける、人間にも備わった本能的な動物的行動なのでしょう。

 八幡さんの森は歴史的にも重要な伊予ヶ岡古墳群で、近郊中予平地に残る数少ない自然として、植生上も貴重な土地なのだそうです。森の中には100種に近い植物の群生が見られます。

 そんな大切な森とも知らず、子達は藪掻きごっこで汗まみれになり、一時を夢中で過ごすのです。

 そこは大人社会とは離れた、子達だけの自由な空間でした。
ゆとりの時間 などという、文科省的な机上の発想とは無縁の森が、いつも子達を身近な所で包んで呉れていました。
 藪を掻いて駈け巡る童男(わらし)の姿は、まるで猿(ましら)の群れです。

わらし駈け   ましらの群れか   冬日射し       雅鬼 

イラスト:小学一年生
怪傑黒頭巾・神州天魔峡・鳴門秘帖・里見八犬伝・岩見重太郎・
見えない飛行機・昭和遊撃隊・浮かぶ飛行島・大東の鉄人・
新戦艦高千穂・のらくろ・タンクタンクロー・そろり新左右衛門・
冒険ダン吉・一二三四五六(ひふみよごろく)・・・・・・

などを読み耽った時代の少年達です。 森の藪掻きに疲れたわらしの群れは、

「おーぃ  池へ行くぞ― 」 

ガキ大将の一声に、今度は表参道の石段を、われ先にと駆け降ります。

 祭神輿の出入りの際苦労する、五十数段の長い急勾配の御影石の石段を、坊主頭のましらの群れが転がり落ちる。
鳥居を潜って左に折れ、森の裾に沿って上り小道を駆け抜け、八幡さんの池の堤に出る。
池の堤に駆け上がった群れは、一気に対岸を目指し堤を巻いて駆ける。

 池の水を抜く樋を操作するハンドルが、池底から斜めに延びた鉄棒の先に取り付けられ、ハンドル周りをちゃちな小屋掛けが囲んでいます。

 その小屋掛けが子達の集合場所と決まっていました。ハンドル小屋の前で一息つくと、ましらの群れは漸くわらしに、そして何時ものガキの姿に立ち戻ります。

 此処から池の堤を一気に駆け下り、右手に墓地を見ながら細い農道を町に向って帰りさえすれば、その日のましら遊びは何事もなく The End !! になる筈でした。

イラスト:腕白坊主          イラスト:腕白坊主          イラスト:腕白坊主 


今日は椿さんぞ! 椿さん…あっちぞ! お参り行こゃ! 

 一休みしながらガキ大将シゲ兄ちゃんが、八反地池と山裾左手の八倉との間あたりを指して、大声でたけった。

「椿さん、 あの辺じゃろか?」
「今日から椿さんの祭りぞー 椿さんじゃゆうて言うとった!」
「椿さんかぁー 行きたいなぁー、 あの辺か?」
「行けるかぁなー なー 行ったことあるー?」
「行ける・行ける! お詣り行こ!なー なっ・行こ・いこいこ・行こや―」

 始めは何気ない独り言みたいに、皆が勝手にブツブツ呟いていました。

 年少の子達も、椿祭の賑わいを聞き知っているだけに、兄ちゃん達の呟きにも分別顔して頷いています。
天気は好い、だけど冬の午後です。地理は不案内、野良遊びの着姿、小さい子も居る、履きもんもばらばら…

 そんなことに頓着無く、八幡様お池堤発の椿さん詣でが、いとも簡単に実行に移されて終いました。


元気に!…黙りこくって⇒…やがて↓

 
初冬の枝先に残るカリン 椿さん迄は、直線距離で8〜9kmはあります。
当時の大人でも、お昼過ぎに此処から歩いて、お参りしょう等は考えない距離です。

 ガキ供の意気は壮と言えますが、計画の無謀さに気付いて止める者も居ない、わらしの軍団です。。

 晴れ渡った道後平野の先に霞む椿さんは点景でも、子達には指呼の間くらいの手軽さに映ったのでしょう。 
子達の直感に狂いは無かったのです。ただ、見た目よりも実際の道程が遠く、少しばかり出発の時間が遅すぎただけでした。

 八反地池から下三谷、南伊予小学校の辺りまでは、ガキ供の何人かは道程に見覚えもありました。
新設間も無い南伊予小学校は、校庭が大変広くて、伊予郡内の小学対抗陸上競技大会の開催校にもなっていました。
競技大会当日には、生徒たちは会場まで歩いて応援に行きます。その位の距離にありました。

 南伊予小学校を過ぎた辺りから、道順も足許も少しずつ怪しくなり、それに椿さんの方向までも…
何だか総てが、子供ら、とりわけ子達を仕切るガキ大将には、不安になってきました。
道程は、未だやっと三分の一を来たか来ないか…不安感で子達の口数も、段々と少なくなっていきます。

「八幡さんの池から見たとき、重信の松林そお遠ぉなかったなぁー」
「あの松林が重信ぞ…まだ遠そうじゃなー、
このまま行って川渡る橋に出れるんか?」

 重信川を渡らんと椿さんに行けないこと位は、大将ならずとも大方の子達も聞き知っていました。


 

 生まれて初めて感じる、子達だけの集団が味わう大きな不安。いつもは気にもしない大人だけど、今は傍に頼れそうな大人も誰もいない。
小学入学前だった私は、不安よりも皆と離れたらいかん気持ちで、必死でシゲ兄ちゃんの顔ばかり見ていました。


 椿さん事件簿 と言うより、椿さん徒歩紀行みたいな私の記憶は、この辺りから次第に怪しくなっていきます。

 冬場の早い日暮れが近づき、遊び着姿のままの体がうすら寒くなってきた頃、空きっ腹のガキ集団は、やっとの思いで重信川堤防の松林に辿りつきました。重信川と石手川の合流点、出合辺りではなかったかと思います。

夏川を   二つ渡りて   田神山          子規

巻雲の悪戯…昇竜
 この句で、子規が夏川を渡ったのは、出合よりもう少し上流点で、松山市側から石手川を、次いで南の重信川へと、二つの川を渡って田神山(谷上山)に向かったのでは…など想像します。


 子供心に、だだっ広い河原の記憶だけが残っています。堤防に橋は架かってはいませんでした。対岸の堤には松林がありました。出合なら、西の方に伊予鉄の鉄橋と橋が見えた筈ですが…

 もっと東の森松寄りだったのでしょうか。堤防沿いにひたすら西へ海の方へと、黙りこくって俯き加減に歩きました。

 
「もー帰えろーなー・・・」 

「しんどいなー・・・」

「お腹へったー・・・」 

「… … ・・・」     「… … ・・・」

 一列になって歩く無言の子達、列の前にも後にも人影はありません。夕闇も次第に迫ってきます。

 私の途絶えた記憶の中にも、堤防にたどりついて堤を登り、橋の無い堤を仕方なく海に向かって歩く、疲れ果てた皆んなの姿は残っています。

 列の中ほどには、皆にはぐれまいと必死に歩く、私の姿もあった筈です。
出合の川原はすごく広くて、水はそんなに流れていなかった。対岸の松林の向こうに暮れゆく空が、何だか私に向かって、

"おいでよ…こっちへ… おいでよ…"  手招きしているようで、とても綺麗でした。

   
アニメ:交通信号機「もう椿さん行くの止めて…帰るぞ―」

「重信の鉄橋へ出たら…岡田駅ヘ下りて松前通って帰えろー

 ガキ大将シゲ兄ちゃんの、決断の一声です。皆を無事にと必死の気持ちだったでしょう。
疲れきった子達を力づけ、不安と寒さと空腹を振り払い、勇氣づける声でした。

         "家に帰れるぞ…" 
疲れ切った皆んなに、安堵感を抱かしてくれるシゲ兄ちゃんの声が、二度・三度と響きます。

イラスト:夕暮れ時の松原沿い

 松前に近づいた頃には、日はとっぷり暮れてしまいました。

 不安と闘う子達は、シゲ兄ちゃんを見失わないよう、いつのまにか二人づつ手をつなぎ合って、黙って付いて行きます。皆の顔も、だんだんとはっきり見えなくなってきました。
お腹が空いている事も、夜気の冷たさも感じなくなって、懸命に何かを我慢しながら歩き続けます。

 シゲ兄ちゃんは、八幡さんの堤からずっと手放さずに持っていた鞭を、皆を元気付けようと、思いっきり路に叩きつけます。

"パシン…バシン…"   "バシン…パシン…"   …   …

まるで自分をしばき続けているみたいでした。

 確か高等小学校一年生だったガキ大将シゲ兄ちゃんは、心の中で何を考え・感じ・耐えようとしていたのでしょう…


アイコン:電球  子供ら何処行った?…近所の子ら誰もおらんぞ!  アイコン:電球 

 
 その日の夕方近く、小学校七分団の子達が住む湊町2丁目辺りが、少しづつ騒つきはじめました。

「うちの子見んかった? お昼食べて直ぐ出ていったんよ…」
「うちもよ…リューちゃん等もみな一緒じゃなかったん?…」
「裏の子らも居たん違う?…あっ!そうよ…シゲちゃんの後ろ追っかけてた…」
「うちの子も居たんじゃろか?…」

 この時点で大人達は、せいぜい

"稲荷神社・称名寺・八幡さん辺り、若しかして森の濱か?…" 
"ハヨ帰らな… 腹減るのに…"      

位にしか、子達の行方を考えていなかった。

 冬の日暮れは早い。周りが薄暗くなって、大人達の不安は漸く真剣さを増してきた。
近所の子達十人以上がいない事も分かってきた。

「十人と効かんおらんのぞ! こりゃおおごとぞ!」
「子供らみな一緒なら、町出るの誰ぞ見とろがな…見とらい!」
「手分けして、聞きに回らないくまいがな…急がないかんぞ…」
「急がないけんょ!…うちの子なんか、メリヤスしか着てないきん…」


アイコン:左←印   アイコン:ぐるぐる回りの矢印   アイコン:右→印

 
 町から他所への出口はそうもは無い…知れてる…

 森の海岸、稲荷さん方面、学校横手の道から八幡さん・称名寺・谷上山方面、銀杏の木から八反地池方面、そして新町から新川の松原・地蔵町・松前方面…
湊町2丁目挙げての聞き込みと捜索が始った。

「警察も行ったか!」 
「分かっとらい!…行った! 行った!」  
「消防も…動員してもらえ!」

 聞き込みの結果、十人前後の子供グループの町内脱出行?は、新川の松原方面、八幡さん谷上山方面、稲荷さん方面の三つに絞られた。冬の日はとっぷりと暮れてきた。

 この頃には、狭い町中の事とて、噂は瞬時に広がり、町内に住む小学校の先生方も、次々と外套に懐中電灯姿で心配顔して現れ始めます。

 町中挙げての大変な事態になってしまいました。静かな町を襲った、突然の大変です。
真冬の2月初旬、寒いし暗い、これで風でもあったら大事…無風の夜に感謝しながら、三方面の同時捜索が始ります。
懐中電灯の手持ちのある家庭など、少なかったご時世でしたから、手ん手に提灯も下げての捜索です。

 良い報せは一向にありません。

 冬の夜の捜索など、経験したことも無く、街灯や道路灯などは皆無に等しい時代ですから、大人の捜索活動そのものさえ危険が伴います。
夏場ならいざ知らず、寒い冬の夜での遊び着姿の子達を思い、大人達も必死の捜索を続けました。


イラスト:少年T              イラスト:少女N  


  銀杏の木方面の捜索に行っていた組の誰かが、急に大声で皆んなに叫んだ。

「今日は椿さんじゃろがー、あいつら…まさか歩いて椿さんお詣りになんか…」
「歩いてかー? 行けんことも無いが…遠いぞ…」
「子供等だけでかー…重信も渡らないかんぞ…」
「昼過ぎからぞー、なんぼ何でも…」
「念のため、警察に連絡しとけ!…新川組にも報らせにゃ…」
「あいつら…こんな暗ろなって…寒いのに…馬鹿たれが…早よ出て来んかい!

 町の南・東・北の三手に分かれた夜の捜索は、かれこれ二〜三時間、否もっと続けられていました。


 アニメ:電球 シゲ兄ちゃん!灯が!   アニメ:電球 向うの方!子供ぞ!

 子達はすっかり黙りこくってしまいました。シゲ兄ちゃんの叩く鞭の音も妬けに静かです。
足元を見つめ,手をしっかり繋いで、重い足取りをひたすら進めます。時に田んぼ脇の農家の明かりに顔を向けますが、その家の戸を叩いて事情を話す智慧も湧かないのでした。

 冬の夜、道沿いの家の殆んどは、早くから戸締りをしてしまっています。

   "ぼつぼつ松前か地蔵町辺りぞ…新川の松原へ来たら大丈夫…"

 年長の子達何人かは呟き、そう信じて列の先導に励みます。

 集団は自然と、年長者が前・後に立って歩いていました。私の前にも後にもお兄ちゃん達は居たようで、少しも淋しくなかったし、泣きもしなかったようです。


   区切り線:松原   

 
 新川の松原方面に向かった捜索の人々は、すっかり暮れてしまった大洲街道沿いを、子達の目に留りやすいように懐中電灯を回し提灯を掲げ、目を凝らし声を出し続けました。

 当時の松原沿いの街道には、街路灯など一つも無く、伊予鉄新川駅の周りだけが、うすぼんやりした灯りが点っているだけでした。

 新月に近い夜の闇に包まれた街道を、子達が歩いて帰ってくるなど、大人達の誰も余り信じてはいなかったようです。

"暗うて動けんきん、どこかでひと塊になって、夜明け待っとんかい?"
"凍えてしまうぞ!…" 
"しょうに!それじゃがな…心配は…"
"途中の百姓家にでも、寄せてもろとるんぞな…"
"腹減ってしもとろが…あの大飯食いが!…可哀想に…"

 松原に挟まれ真っ暗に沈みこんだ街道の先に、何かが動く気配を先導が気付きました。

「あそこ!…なんか!…」 
「エッ どこ…あー、おーっ、…おったぞー」 
「 オーイ! おーい!」 
「こっち・こっち…おーいっ!…」


アニメ:電球 区切り線:松原 アニメ:電球

 
「シゲ兄ちゃん あっち!懐中電灯みたい…光ってる…」
「一つじゃない!…」
「あっ! 誰か来てる…だれかくるー…」
「来てる・きてる…」

 捜索の人々は、子供達と思われる動きに向かって懸命に走った。
子達も残った元気を振り絞って、灯りに向って必死で走りました。

「いたぞー!…おったぞー!」
「おいさーん…にいちゃーん」

 べそかいた顔・かお・顔…、子供らは誰彼かまわず、灯りの横の腰にしがみついた。
ガキ大将のシゲ兄ちゃんだけは、鞭を持つ手をぶらんとさせたまま、黙って一人立ち尽くしていました。



可哀そう! ガキ大将!


写真:一番鶏 湊町のお大師さんと、道路を挟んで向き合った半鐘の櫓下に、当時の警察署がありました。
子達を囲んで安堵感を満面に浮かべた捜索の人々が、元気な姿を見せます。警察署前は、子達の親・兄姉や気遣った近所の人々・先生達でごった返していました。

 私は目敏く、端の方にいた母を見つけて駆けより、はじめて大声で泣きじゃくりました。
ガキの仲間達も、この時はじめて、我慢していたものを一気に吐き出すように、家族の腰に取りすがって泣きました。

 私は母の手をしっかり握り、母を引っ張るように家に入りかけました。
 
 
丁度その時です。表の通りで、激しい呶鳴り声と "バシッ バシッ・・・" という、頭をくらわす(殴る)ような音がします。

 呶鳴ると言うより、烈しい叱責の声と頭を張ります(叩く)音が、近所一杯に響き渡ります。何回も張りましているようなので、怖くなり家に駆け込みました。

 近所の人達も、びっくりして踵を返します。見ると、斜め向いのシゲ兄ちゃんの家の前で、長男のエー兄さんが声を嗄らして、シゲ兄ちゃんの頭をはりまして(殴りつける)いるではありませんか。

 ご近所皆んなにかけた迷惑、町中を巻き込む騒ぎにまでなった捜索事件の責任、家の長男・ガキ大将の兄貴として、申し訳無いという気持ちを、精一杯に形で表わしたかったのでしょう。心の中は辛かったに違いありません。

 必死の殴り様でした。ご近所の誰かが駈けよって、エー兄さんの手を止めました。

イラスト:夜の雲 「エーさん もーえぇがな…、子供等も皆んな行ける
  思たんじゃろし…、誰でも椿さんは行きたいがな…」
 
 「この馬鹿が! 小さい子がおる事を考えもせんと…」

  シゲ兄ちゃんは、頭を抱えたまヽ黙って俯き、エー兄さんから逃げようとはしませんでした

「シゲ兄ちゃん一人…可哀そう、 なぁ…可哀そうじゃがな…
皆で一緒に行こう言うたのに…」
「重信の向うの方に…椿さん、ちゃんと見えとったんじゃから…」

 冷えた身体を母の膝の上で温めて貰いながら、五右衛門風呂の縁に手をかけたガキ末席の坊やは、母を振り向いてもう一度言った。

   「シゲ兄ちゃん一人はりまされて、 可哀そう…」


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