新川の松原 を挟んで海側と山側には、大きい畑地が広がっています。
畑地は砂地でしたが、近郊の田圃とは一味違った新しいスタイルに作地されたのでしょう。だだっ広い畑地に仕切りらしいものは無く、畦道で仕切った田圃を見慣れた目には、その広がりに戸惑うほどでした。
少年にとっては、一気に駆け抜けたい開放感に溢れ、スケールの大きい畑広っ場でした。
小学校低学年の頃…たしか昭和十年頃の前後何年間かと思いますが…全国的に旱魃が続き、河川水に恵まれない道後平野一帯では、稲田は水不足で被害は深刻でした。
少年が通う小学校の校庭東側は旧国鉄の線路堤で、堤から山側つまり谷上山の山裾に向かって、緩やかな上りの傾斜地が続きます。この傾斜地には、棚田という程ではありませんが、少しづつの段差を取りながら、ふる里の風情を代表するような稲田が整備されていました。
河川水に恵まれない地域ですから、旱魃に備えた貯水池は農作業に欠かせません。
谷上山頂近くから眺めますと、稲田の中に大小様々な貯水池が散見できます。田圃を守りたい一心の、ご先祖様から子孫への、血の滲むようなご苦労の賜物でしょう。
ふる里の大切な穀倉は、こうした貯水池のお蔭で大事に守られて来ました。
汗が目にしゅむ真夏のある日、トンボ採りに夢中だった少年は、半世紀以上経った今なお、目に焼き付いて忘れられない農作業を目にします。
ショックでした。畦道に足を釘付けされたみたいで、トンボ網を持つ手の力が萎えました。少年は呆然と立ちつくしその姿を見守るだけでした。
稲田の土は殆んどひび割れ、捲れ乾上がって無惨な姿です。
お姐さん一人と小学高学年らしい女の子が、並んで俯き加減に…干上がった田圃を気だるそうに歩いていました。一歩また一歩、ゆっくり踏みしめる足元に元気はありません。
肩に担いだ天秤棒の両端の、下肥ならぬ水を満たした肥桶が揺れて、肩も痛そうです。枯れかかった稲の株元だけを見つめて、一汲み又一汲み、黙って柄杓の水を注いでいきます。
ひび割れた稲田ですから、注ぐ水は瞬く間に吸い込まれます。それでもお姐さんと女の子は、一株また一株と、まるで器械の動きみたいに水を注ぎ続けます。
お姐さんの無表情な土色の顔は、毎日の日照り続きに、こんな水遣りしか出来ない諦めなのか、本当にしんどそうでした。眺める少年は、辛さより何か不安な気持ちで立ち尽くしました。
農民が置かれていた当時の社会の事情など、ほとんど理解できない少年にも、あの日のお姐さん達の農作業姿は、あまりに暗くて淋し過ぎました。
気持ちを振り切るように、少年は踵を返し農道に駈け上がります。
日照りが続く夏休みの或る日、新川海水浴場に泳ぎに行く途中の少年は、松原沿いに走る伊豫鉄の線路を跨ぎ、何気なくその先の畑地に入り込みました。
道沿いに並ぶ松林の根っこを、跳び跳び歩きしていた同級の仲間も、迷わず線路を越え小走りで追います。
目的など何もありません…彼らの動きは何時も行動する所から始まり、次の行動へと繋ぐ、その繰り返しです。
少年達は目ざとく何かを見つけた様子で、小走りの歩を早めました。
畝の間に造られた縦横の溝を、近郊の田圃の渇水など関係ないと云わんばかりに、信じられない量の水が駈け流れているではありませんか。
「なにっ!この水…」 「冷めたっ!…」
坊主頭を導水溝に突っ込まんばかりに這いつくばって、汗にまみれた顔から頭、首の根っこまで洗いまくります。砂漠で待望のオアシスに辿りついた、渇ききった隊商一行みたいです。
「気持ちっ…ええー」 「気もっちエー ねやっ…!」
「オッ! あそこぞ! 電気ポンプで汲んでる…」
「凄げー…あっちにも水湧いてるー・・・!」
少年達は歓声を置き去りに、張り巡らされた給水溝沿いにひた走る。飛沫を上げて走る脚の裏から、冷たく心地よい感触が頭のトッペンへ突き抜ける。
30センチ角余りに造られた電気ポンプの汲み出し口からは、透き通るような淡青色に映える涌き水が、盛り上がり次々と溢れ出てきます。
溢れ出た水は、流れ出る勢いが弱まるのを怖れるみたいに、給水溝に次々せり出し溝から溢れ、配水が賄いきれない程の水量です。
この広い畑地では、水不足に悩む旧来の農法に代わる、新しい手法の模索が始まっていたのでしょう。当時としては珍しい実験農場だったのかもしれません。
電気ポンプで地下水を汲み上げ、砂地に計画的に配水し、広大な砂地を畑作地に転換する試みです。
誰もが考えつきそうなこの用水対策が、年々の旱魃で貯水池が干上がり難渋する、近郊の稲田に採用されなかったのは、寧ろ不思議な気さえします。
新川のこの地域一帯にしか、手近で豊富な地下水脈が無かったのかも知れません。 広い砂地の形成に、長い年月かけて地質的な役割を担ってきた重信川です。
伏流水資源の拡がり・水量算定・利用の可能性など、色々検討されていたと思います。或は、当時では未だ、十分な資料が整備されていなかった可能性も考えられます。
電気ポンプに設備投資し、電力を使って水を買う…そんな金の掛かる水対策など…
"とんでもない"
"ゼニ使こてから…水汲むんじゃと? 馬鹿らしっ…"
資金の裏付けも無い農民には、頭から拒否する姿勢もあったかも知れません。
もう少し別の視点の根強さも、十分に考えられます。
水道などの無かった時代です。地下水は井戸水として生活用水に使う、大切な天からの授かりもの、否…天からの預かりものだ。
こんな想いが、人々の水に対する生活本能ではなかったでしょうか。
大切な地下水を、生活用水以外に使う発想そのものが、当時の人達の頭に浮かばなかったのだと思います。私にはこの考えの方が、自然に生きる人の素朴な発想のような気がします。
営農者の智慧の根底にある、古い昔からの里山環境を守る事の大事、生活用水の大切さへの認識の深さを、更めて知るのです。
地表の天水ではなく、地下水を農業用水向けに使うなどの考えを拒否する、本能みたいなものがあったと考えると、素直に理解できます。
あの当時、こんな言葉でイメージさせた電気を使う汲み上げポンプは、昭和10年前後、少年の住む町の話題でした。
あの頃の一日…町の人々・子達に流れる…時は緩やか…好い日でした
新川の畑作農地 では、近郊であまり例を見ない規模の近代的な農法が試行されていたようです。旧来の田圃では決して作らなかった作物も栽培され、田圃でない農地という感じが、少年には新鮮でした。
当時ここで栽培されていた作物の代表格は、何と云っても さとぎ です。
さとぎ は、砂糖黍が訛ったものか或は砂糖木を略称したのでしょうが、かなり大規模に栽培されていました。
収穫前の さとぎ畑 は、隙間無く生茂り、そこに紛れ込んだ少年達を視界から消し去り、リバイバル遊びの原野みたいでした。
倒れた さとぎ を黙って歯牙むスリル、ほんのり草っぽい匂いと甘さ、少年達には暑い夏の日、至福の一時でした。
夏場に町の八百屋さんの店頭を覗くと、一節づつ切りそろえた さとぎ の束が山積みで売られていました。
二〜三本束ねたのが一銭、四〜五本の束は二銭くらいしていました。
新川で栽培される さとぎ は、当時沖縄や台湾から入荷していたものとは、全く別の品種だったように思います。
台湾ものは太くて節間隔も短く、紫っぽい色調でした。これに較べて新川ものは、やや細めで節間隔も長く、青竹のような色調で、甘味は台湾産よりやや淡泊です。
さとぎ の収穫最盛期になると、少年のオヤツも さとぎ へと衣替えです。
遊びにいく少年は、切れかかった腰の布ベルトに、何本かの さとぎ を短剣のように差し込みます。そして暑さに気だるく澱んだ町中を、いかり肩に風を切りながら、行く先不明のポイントを目指して駆け抜けるのです。
子達にとっては、細やかな格好付けだったのでしょう。
さとぎ も収穫期に入った頃の昼下り、少年は伊豫鉄郡中線の新川駅近くで、黒光りする外壁の作業小屋を見つけました。
小屋は、収穫した さとぎ の山に囲まれ、造りも粗っぽく、隙間だらけでした。小屋の隙間からは、辺り構わず青白い煙を噴き出しているではありませんか。
少年は小走りに小屋を目指し、山積みの さとぎ 束の隙間から、小屋の中を覗き込みます。
作業小屋は思ったよりも広く、小屋の裏手の方には牛も一頭、何やら同じ所をぐるぐる回りしています。その傍で忙しそうに働く人の姿も見られ、一帯はごちゃごちゃ汚らしい村工場の感じでした。
小屋の中には大きな土竈があり、竈の上には見たこともない特大の鉄鍋が、建屋の上の梁に巻きつけたワイヤーに吊るされて据えられています。
鍋の中は、ぎらぎらした茶色っぽいねばねば液が一杯で、ぶつりぶつり泡立てながら煮えたぎっています。
釜周りに造られた支台の上では、褌・鉢巻姿のおいさんが、特大しゃもじで、ねばねば液をゆっくり掻き混ぜています。おいさんの額や肩口には、汗が粘りついてテカテカ光り、汗はその粘りの間から、滲み出ている感じです。
おいさんのおばさんらしい人は、竈の火具合を見ながら、焚きつけを次々と竈に抛りこみます。
高等小学校くらいのお兄ちゃんが、外から焚きつけを抱えてきて、おばちゃんの横にポイッと置く。焚きつけはどうやら、乾燥した さとぎ の搾りかすみたいでした。
「おいさん! たきごみ 炊いてるん?」
「おぉー 暑かろが …… 舐めるかー?
その缶の中 なんぼでも舐めたらエー 」
「おいさーん! その焚きつけー さとぎ の絞りかすー?」
「おぉ 乾かしてみー よー燃えるぞー」
坊ーー 焚きつけ運びでも 手伝うかー?」
「暑すぎらぃー うーん 三回だけぞなー」
「たったの三回か まー エエ
トシー! 手伝わしたれやー」
たきごみの炊き小屋を出て、焚きつけを取りに行くと、そこには さとぎ 絞りに精を出している、おいさんとおばさんがいました。
おいさんは牛を追いながら絞り機を動かし…おばさんは山積みの さとぎ 束をせっせと絞り機に送り込んでいます。
皆んな何だか、とても忙そうです。
焚きつけ運びを手伝い終えた少年は、黙ってその場を立ち去る事にしました。
♪ "たきごみは美味いー たきごみ造りはー 大事(おおごと)ぞー" ♪
おおごと!な作業を目のあたりにし、一寸だけそれを手伝った亢奮もあってか、何故か少年は線路とは逆向きに、山手に向かって歩き始めるのでした。
一仕事済ませた後の真っ赤なほっぺを突き出すように、少年はリズム良く早足を刻みます。
新たな社会体験を一寸だけ手掛けた思いが、少年を少年世界の哲学的思考?に迷導しはじめたようです。
足取りも、普段の自分ではない感じでしたが、少年はしたり顔に一人大きく頷きます。
“ なっとく ”
未だ収穫されてないさとぎ畑が、胸を張る少年の後ろ姿を、おふくろの柔らかさで包みました。
正月も近い冬の夜、大きい火鉢を家族皆んなで囲む。
五徳の上に置いた餅網で焼く新酒採れ採れの板酒粕の味。子供達には忘れられない冬の夜のグルメでした。
お向かいが造り酒屋さんだった事もあり、板酒粕はよく頂いた。
大火鉢周りの人数分だけの板酒かすを網に広げ、ひっくり返し、程よい焦げ色が付くまで焼き上げます。意外とこれが難しい。
狐色に焼きあがった板酒粕を、待ち構えるように、件のたきごみが小鉢に入れられてお出ましです。たきごみを程よく焼きあがった板粕に塗るのは、少年の分担でした、仕方ありません順送りです。
熱つ熱つの板粕に馴染む たきごみ のあの香と味。
酒に与れない少年にも、口の中に漂う仄かな酒の薫り
一般には 白下(しろした)と云われている白砂糖の原材のことです。
白砂糖を製造する下地の意、砂糖黍の煮詰め汁の中にできた、砂糖の結晶と
糖蜜とが混合して、半流動性の砂糖になったもの。 白下糖。 (辞海::三省堂)
新川の桑畑: 主にさとぎが栽培されていた新川の広い畑地では、桑の木も植栽されていました。
近郊にお住まい方でも、記憶されている方は、おそらく少ないかと思います。
広い畑で さとぎ と 桑の木 をどの様に植え分けしていたのか、はっきりした記憶はありません。
それでも、長く連なる畝を見渡すような感じで桑の木が植えられ、太目の針金が、木立の間の支柱沿いに、張り巡らされていたように思います。桑畑の規模もかなり大きいものでした。
桑の葉が栽培されていますから、近くに何軒かの養蚕農家があったことは確かでしょう。こんな所でお蚕さんを飼う農家があったなんて…と、今では不思議がる方も居られるでしょう。
失われた細やかな郷土産業… ”懐古(蚕)のページ” …に暫くお付き合い下さい。
八千代姉さん: 小さい時から実姉みたいに育った八千代姉さんが、双海町の山のほうに嫁ぎました。
嫁ぎ先は、郡中と長浜を結ぶ海岸道路沿い取っ付きから、急な山坂を登りきった集落でした。
小学五年生の頃、兄や従兄達と一緒に八千代姉さんの嫁ぎ先宅を訪ねました。山坂を登りながら後ろを振り返ると、目線の下は何時も伊予灘が迫っていた…そんな記憶です。
初めてお訪ねした時、お家の庭先から眺めた伊豫灘の眺望の凄さには、思わず息を呑みました。
登ってきたばかりの急斜面は、遥か下の白砂が僅かに覗く海岸線に落ち込み、その先に拡がる伊予灘の群青色の海に吸い込まれていました。 庭先に出迎えた八千代姉さんは、
「登り しんどかったじゃろー Tちゃん 大丈夫じゃった?」
「こないな山ん中へ よー来てくれて なぁー
うれしーなー うれしっ… うれしっ 」
にこにこ嬉しさ一杯の顔で、皆んなに話し掛けていました。
話しが弾んだ後、何気ない素振りで、八千代姉さんが呟きました。
「此処はなー 四国の北海道…言われとるんよ… 夏は
ほんと涼しいんょ…」
「でも 冬はー… 買いもん…ある時なんかなー…」
「… −−− …」
もっと何か言いたそうでした。
八千代姉さんがこの時、本当に聞いて欲しかったのは、言葉にし難い生活の不便や不安感みたいな事ではなかったのでしょうか。
不便な土地でこの先、一人で我慢し続けねばならない色んな事、話せる相手もいた筈なのに…
町中での便利だった生活と別れ、急な斜面地の続く山間の集落に嫁ぎ、経験した事の無い不安な気持ちで一杯だった筈です。
そんな気持ちを抑えながら、懸命に朗らかに振る舞って見せる八千代姉さんでした。
少年は、彼女が本当に聞いて欲しかった心の内を、聞いてあげられる年令でもなかった。
泊めてもらったその日、二階で熟睡していた少年は、ザワザワ…ザワザワ…熊笹が微かにざわめくような物音に目覚めます。
横を見ると、他の皆んなも目が覚めているみたい。お互いに顔を見合わせて、何か落ちつかない様子です。
葉っぱが擦れ合うような音は切れ目無く静かに、でも ザワ…ザワ…ザワ と続きます。
「三階かー?…」
「そーらしーなー…」
「何の音? 三階全体で音 しとるぞっー…」
その時、建屋の端の方の階段を、手に葉っぱが一杯入った大きな竹籠を抱え、そっと上がっていく八千代姉さんの姿が目に入りました。彼女も気が付いた様子。
「ごめんなー … 蚕に餌やらないかんのよー」
「桑の葉っぱー かじる音 慣れんと気になろー」
「いま一番ー …餌を食べる時じゃしー」
「餌切らせられんしー こらえてなぁー」
どうやら三階を飼育場にしているらしく、飼育中の蚕が、繭作りに入る時期が近づいている様子でした。
後で聞いた話では、この時の蚕の餌遣りは、その晩の二度目だったそうです。
養蚕を手掛ける農家では、季節や時期によって、想像を超える厳しい作業が続くことを実感させられた一夜でした。
身近に養蚕農家に接する機会があった位です。
この地域では規模はさて置き、養蚕業がかなり広範囲に行なわれていたのは確かです。
繭糸紡ぎ: 私の生家の直ぐ近くに、当時としては珍しい"繭糸紡ぎの工場"がありました。
工場は町筋に面し、作業用の長い建屋は、海辺に向う路地沿いに延びています。
少年は近所の誼を口実に、工場のおいさんに頼んで、時々工場の作業を見せて貰いました。
工場の中は2階建ての床を抜いた感じで、高い屋根の棟木が下から丸見えの造りです。
二階の天井位の高さの所に、下の作業場に動力を伝える動力軸がぐるぐる回っています。
動力軸には幅広の丸い輪っかが、幾つも間隔を置いて取り付けられ、夫々の輪っかと下の糸巻き用の機械は、長いベルトで繋がっていました。
…動力をベルトで伝えるやり方は、当時の機械作業では、ごく普通の事でした…
カチャカチャ…カターンカターン… やかましい機械の音の中で、仕事場は濛々と立ちのぼる湯気に包まれていました。
湯気の中が、工場で働くおばさん達の仕事場です。全部で十人も居たでしょうか・・・
湯気は、おばさん達一人一人の前に置かれた、矩形の鍋みたいな容器から立ち昇っています。
鍋の中にはたくさんの繭が入っていて、どの繭もクルクル…クルクル…クルクル…クルクル…と回り舞い踊り、お湯の中はまるで、繭達の舞踏大浴場です。
暫く眺めているうちに、お湯の中で繭が舞い踊るのは、繭の糸が機械に巻き取られ、糸が解かれていくからだと気付きます。
おばさん達は時々、お湯の中で繭舞い踊りを止めた繭を見つけると、
"繭舞い踊り止めたら いかんぞな!"
"蔭に隠れてたら いかんがな!"
などと話しかけながら、ひょいと繭を摘まみ揚げます。
摘まんだ指をコチャコチャ動かして、その指を直ぐ上の糸巻きに、引っ掻けるようにヒョイと伸ばします。
少年には、おばさん達が時々繰返すこの動作が面白くて、湯気の中をあちこち器用に動き回るおばさんの手許を、飽きもせず何時までも眺めていました。
おばさんが指をヒョイと伸ばすたびに、踊りを止めていた繭が、お湯の中で目が覚めたみたいに元気に踊り出すのでした。この不思議…??
目の前で繰り広げられているおばさん達の作業は、湯気と機械の騒音の中で演じる、"お繭さんのメルヘン舞台"その裏方さんでした。
「おばさーん かいこの踊り 面白いなー」
「また見にくるわー なー… ほな…もぉ帰るゎ だんだん!」
お礼を言って帰りかけた時、出口近くにいた工場のおいさんが、傍らの籠にまとめてあった屑真綿に手を延ばした。
「ぼー! 真綿要るんじゃろ」
「要らんのか? 要るんじゃろー」
「持っていねゃ! ほぃ!」
真綿のでんち: 工場から出てくる繭の屑真綿で作った肩当ては、でんち(ちゃんちゃんこ)代わりの、保温用背当てに重宝されていました。
その温かさと使い勝手の良さが、お年寄りの防寒用に欠かせないのです。
真綿の肩当ては、ふっくらした厚みで、背中の半分を覆う程の大きさでした。首筋と肩口を上手く覆える様に、上っ側だけ凹加工がしてありました。
当時の普段着は、主に着物でしたから、この肩当てを着物に充てると、真綿の繊維が着物に絡み付いて、普通の動きでは外れ落ちない利点もあったようです。
少年は真綿を貰ってポケットにねじ込み、お礼もそこそこ、出口ドアーの取っ手を掴んで、また立ち止ります。
少年の興味は、横の大きなとじたみ(箕)の中身です。
無造作に盛り上げた茶色っぽい蛹が、箕の中に山盛りでした。繭の蛹です。
「おいさん! この蛹虫も ちょっとお呉れーなー」
「釣りに行くんか? なに釣るんぞ! ええゎー やる…やる」
さて、少年の真綿遊びですが、他愛のないものです。たった一人のアウトドアーですが、スリルもありました。
通りに出た少年は、湯気からの開放感を味わうように、大きく伸びをしながら空を見上げた。
澄みきった青空にポツンと一つ、置き忘れられた一人ぼっちの綿雲が流れています。
少年はポケットに手を突っ込んで、真綿をひとつまみ引っ張り出します。摘まんだ指の間の真綿を、引き延ばし引き延ばして広げ、空を向かって唇に翳します。
「真綿雲ー…天まで揚がれー」
「真綿は…綿より… 軽ーるいっ!」
「綿雲なんかに…負ーけるなー!」
頬を脹くらましおもいっきり吹き揚げた。
ゆっくり歩きながら、一つまみ又一つまみと吹き上げ、仰向いたまま、空に追いやります。
落ちそうになる真綿を見つけると、その下に走り寄って、力一杯
「飛んでっけー」
そよと微風 真綿追い捲く 秋あかね 翔念
忘れたいお話: 繭糸工場横の路地を通って海岸に向う途中、路地が僅かに左にずれる所があります。
何故だか分かりませんが、ずれた路の隅っこに井戸があり、普段は使われないのか、木の上蓋がしてありました。
少年がもっと小さかった頃、この井戸に纏わるらしい女性の話を、近所のおばさん達の世間話で知りました。子供心にも決して愉しい話では無く、それからは井戸の横を通る時いつも、小走りで駈け抜ける事にしていました。
『杜甫』は"國破山河在、城春草木深" と詠った!
日本は今や 『國富山河無、辺春護岸白』 の経済大国
桑畑から養蚕農家そして繭の紡糸工場…瀬戸内海岸沿いのこんな地域に、規模は小さくても養蚕業が営まれていた事を思い出し回想しながら少なかず驚いています。
山と川、傾斜地に拡がる田圃と畑、海岸線のある海、…つい半世紀前まで、日本列島の地方・地域の大方の姿を代表する、見なれた景色・聞きなれた言葉ではなかったでしょうか。
戦前から戦後へ…復興から列島改造へ…泡から泡の崩壊へ…そして二十一世紀へ…
日本列島に半世紀前まで確かに存在していたふる里への回帰は、いまの老少年?にとっても、かなりきつい記憶の復刻作業が要るみたいです。何とか一頁でも多く綴れゝばと希いながらのぺーじです。
戦後間もない頃までの、子達だれもが駆け巡っていた日本の ふる里 には、貧しくても、人が「ひと」らしく生き、生きるために互いを労わり合う、"素朴な心の触れ合い"みたいなものが、無意識の中にありました。
新しい世紀に立ち向かう「ひと」の指標は、前世紀前半までの ふる里 には確かに在りました!そう堅く信じます。
ほんの些細な少年期の記憶ですが、これとて、記録しなければ、間違いなく失われてしまいます。
辺の回復を: 山は山辺、川は川辺に支えられて、自然循環の流れをそのまゝに維持し続けます。
海辺のない海は、生き物にとって母なる海とは無縁の、塩っ辛い海原に過ぎません。
山辺は、潅木の繁みが疎らになる辺りから、緩やかに傾斜する山畑へ、そして田圃へと続きます。
川辺は、水辺の繁みを潜り抜けて小川へ、小川は いでから みとへと、石積みの隙間を縫って田圃へと辿ります。
いで:(井手:いせき(堰))、 みと:(水戸:水門・いせき)
(註) 忘れかけた言葉、でも嘗ては、町の子でも知ってた言葉でもあるのです。
里山に沁み込んだ水は、山田を潤し、里の田圃に水を張り、余った水は みと から いで へと流れ下って、小川の水に合流します。
水は急かされる事もなく、ゆっくり・ゆったりと自然の流路を流れ下ります。
岩陰から、竹薮の切れた段差の辺りから、ちょろちょろ…時には元気よく姿を見せる隠れ水も、何時の間にか同じ流れに呑み込まれます。
夏の夕焼け みと落とせ ・・・ 雨が降るぞー
みと を落として、田圃に水溢れさすなっ!
秋の夕焼け 鎌を砥げ ・・・・ 明日はええ天気ぞー
稲刈り準備じゃー!
海辺を連ねる海岸線には、直線の入りこむ余地など何処にもありません。海に注ぐ河口近くには、潮の干満と協力し合って、広い干潟が自然の幾何学模様で拡がります。
干潟は多分, あまもの生い茂る浅瀬の海へと続く筈です。
注ぎこむ河の流れ、潮の流れ、干満などの作用で、休む暇なく造形された海岸線は、決して陸と海の境を区切る線ではありません。海辺と海はもともと一身体のものです。
海岸線: 暈かしをかけられた日本画の描線みたいなもので、
輪郭は少しばかり頼りない…それが海辺でした。
山辺から川辺へ、海辺から海へと繋がる自然の地形は、山や川や海それぞれの辺を、軟らかいクッションにしながら、全体で纏まった連続した一身体の大地なのです。
隔てるものは何一つもありません。人間の手になる余計な物を、辺に置いてはいけません。決して区切っては不可ない自然の姿、これが造物主からの贈り物です。
太古からこの地に住んだ人々も、周りの自然に手を加える時、辺の流れを遮るような取り組み方は、決してしなかった筈です。
辺を区切り、埋め立て、潰し、人工の異物を持ちこむ…
辺の曲線を、自然界に存在しない直線に置きかえる…
人間には、そんな傲慢な自然への挑戦権などありません!
何時・誰から信託され・貰ったなどと、錯覚してしまったのだろう…
長い地球の歴史での一瞬の生命体に過ぎない人間に、そんな権利など…
昭和四十年頃だったでしょうか。大学の専門教科や企業の研究・開発に関し、各専門分野を跨ぐ境界領域への取り組み方の不備が、喧しく指摘された時期がありました。
専門に掲げる学問領域の中だけでは、満足に処理しきれない課題が、次々に出てきたという事でしょう。
学際域とか学界域などとも云われ、やヽブーム化した言葉になっていました。
学問の分野や自然界の課題或は社会・人間関係まで含めても、一番大切な事は、各分野・課題に跨る、境界領域の扱い方になろうかと思います。
個々の課題が次々と解決できても、課題間のつなぎをどう処置できるかで、成否が分かれると思います。
自然の海辺・海岸線・海沿い、川辺・川岸・岸部・川沿い、山辺・里山・山里・山の麓・山沿い…
辺につながる言葉はどれも、私達がふる里をイメージする時の、懐かしい風景を語る言葉に重なります。
幼い日に過ごしたふる里を想い出す時、心に刻まれ忘れがたい姿は、辺をめぐる、山や川や海であったことに気付くのです。
地域の規模が小さかった時代、人口の少なかった頃、自然に加えられた変化は、その回復力で跡形もなく、元の姿を取り戻せました。
辺も人々の手で、自然に風の自由に吹き抜ける姿に、守られて来ました。
里山の落ち葉は、腐葉土に、また腐葉として、山や田圃を肥やす役割を果たし続けました。焚きつけを集める柴刈りは、結果的に間伐作業を補いました。
田圃から河口に至る川辺には、魚貝の移動を妨げる段差も無く、淡水の生態系は在り姿のまま維持されました。
自然が示す様態には、要らない物や変化や動きは、何一つ無い事に気付きます。
海辺は、河川が流れ込む淡水域から、汽水域の干潟を介して、水鳥・魚貝類・海藻などを、一体の環境の中で育みます。
あまも などの生育する藻原は、浅海魚貝類の繁殖に欠かせない、生態系を守る海辺の大草原です。太陽の光の恵みは、この浅い海辺にふり注ぎ、隈なく海の草原には届くのです。
自然を弄繰り回したい人間にとって、現代の技術や道具は、余りにも整い過ぎです。
雪崩を打って出現する新しい技術や製品群を見ると、考えたくない負の技術像が、脳裏を過ぎります。
弄繰り回す手段を使うのは同じ人間だからという信頼に、僅かな望みを托すのは、最早ナンセンスでなのでしょうか?
そんな心配をする老少年は消え去るのみ…では、21世紀が危ぶまれます。
SF小説で見た次の言葉は、物事を単純に理解し判断しようとする人間を、無能呼ばわりする自称 Scientific Intelligentsiaに対する痛烈な皮肉でしょう。
世界ネットのウルトラ・スーパーコンピュータが制御不能で暴走を始めた…対応手段を失って混乱を極めるコントロールルーム…雑務員が遠慮がちに呟く……
" 主電源を切れば良いのに… "
物事を解決する手段は、意外と身近にあって、驚くほど単純なのではないか…そんな風な考え方も大切と思います。
私はこれまで、物事の単純さの中に潜む真実を信じてきました。