コラム

社員の化学日記 −第107話 「我思う,ゆえに我あり」−

この言葉は,哲学者であり,数学者でもあったルネ・デカルトの言葉である。 最近,この言葉を思い出すことが多い。 哲学者の言葉など高校の社会(当時の科目名で「倫理社会」)や大学の教養科目の哲学の授業以降気にしたこともなかったが,最近この言葉がよく頭をよぎる。

デカルトは数学者であると同時に「近代哲学の祖」といわれている。 科学という概念は18世紀に入ってからであり,近代以前は自然学,自然哲学など呼ばれ,ガリレオ,デカルト,パスカルなどのように哲学者と自然科学者との境界線は曖昧なものであった。現代の自然科学は実験,観察によって自然法則の真理を見いだすが,近代以前の自然哲学はもっぱら議論による証明に頼っていた。

現代科学においても哲学的議論を必要とするのは「存在」についてである。 特に宇宙論や量子論分野においては実際に各種観測機器によって観測されているものもあればそうでないもの,つまりは理論的証明によってのみ実証されているものと違いがはっきりしている。

化学という学問は,「物質」が「存在」することを前提とした学問であるが,一般の方で日常生活で「物質」の存在を実感しながら生活している人は少ないであろう。 でも,こう考えている自分自身も化学的にみれば細胞(すなわち化学物質)の集合体であり,「物質」の「存在」を誰も否定することはできない。「我思う,ゆえに我あり」である。

キアヌリーブス主演の映画「マトリックス」では,コンピュー タの反乱によって人間社会が崩壊し,人間の大部分はコンピュータの動力源として培養されながら,コンピュータにより脳神経に直接与えられた仮想空間を現実と認識させられていたが,その仮想現実から目覚めた主人公がコンピュータの支配から人類を解放する抵抗軍に加わるという物語。このような物語の中なら話は別だが,今目で見えている世界は現実に存在する世界であり,目に見えている物質も現に存在している。

化学の世界では目に見えないものー物質を構成する粒子ーを「元素」という種類ごとに分類,扱う。肉眼では「物」でしかないが各種化学的手法を用いることによって元素の存在を知ることができる。でもそれにも限界がある。

Aという方法では,100万個ある元素のうちの1つの別の元素(これを1ppmという濃度で表す)を検出できるが,B法では10億個のうち1個の別の元素(0.001ppm)を検出できる。化学的な分析手法において分析対象成分を検出できる濃度のぎりぎりを検出限界といい,A法の検出限界は1ppm,B法のそれは0.001ppmといえる。もし,A法で0.1ppmの濃度の成分を測定しようとしても検出されない。

この場合この成分の分析結果は「濃度0ppm」とはせず,「Not Detect」(検出されず)と表示する。なぜならB法を用いるとその成分は検出でき,確かに存在するからである。逆説的にいえば,どんな化学的分析手法でも物質が存在することを示すことはできるが,絶対的に「存在しない」こと,すなわち「無(または零)」を証明することはできない。

誰にも「無」であることを化学的に示すことはできないが,「無」であることを示すことができない自分が存在することは間違いないのである。

−−「我思うゆえに我あり」−−

【道修町博士】

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