8月


11日
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)(1872〜1951)外交官 政治家

大阪府門真市の豪農の家に生まれました。東京帝国大学を卒業後明治29年に外務省に入省し、要職を歴任して大正13年、第1次加藤高明内閣に外相として入閣しました(ちなみに、三菱の岩崎家出身の加藤夫人の妹が幣原の妻・雅子です)。その後、第一次若槻礼次郎、浜口雄幸、第二次若槻の憲政会、立憲民政党内閣で外相を歴任し、幣原外交と呼ばれる国際協調外交を展開しました。

その中身は、英米との協調、中国に対する内政不干渉、国際連盟中心主義などでした。25年郭松齢事件が起こると、張作霖を擁護する立場をとり、昭和2年の北伐ではイギリスの共同出兵を断る一方で、蒋介石に反共クーデターを策しました。

彼の考えは、中国統一の途上で、日本や他の列強が如何なる理由があろうとも、それに干渉することは問題であり、中国の成長を見守ることが必要だということでした。それは理想的な考えでしたが、その結果、国内からは「軟弱外交」と非難を受け、更に、日本の対外信用を増すために欧米との協調をはかったため、軍革新派からも攻撃されました。

その後、浜口内閣で外相。第2次若槻内閣でも留任し、昭和5年5月日中関税協定に調印して中国の関税自主権を認め関係改善を図り、またロンドン海軍軍縮条約に調印したことで浜口首相が狙撃され、一時臨時首相代理となっています。しかし中国で起こった国権回収運動で満蒙権益の問題が起こると、関東軍が柳条湖事件を引き起こし、満洲事変が起こってしまいます。そのため不拡大方針が破綻して12月第2次若槻内閣は総辞職となりました。

その後主だった活動はありませんでしたが、敗戦直後の昭和20年10月東久迩内閣総辞職を受けて、知米派として組閣。憲法改正調査を開始、自ら起草した「天皇人間宣言」詔書を翌年元旦に出しましたた。しかし憲法草案はGHQによって拒否され、GHQ案で新憲法草案を作ることになります。

その後の4月の総選挙では自由党が第一党になるが過半数をとれなかったため、政権維持を図ろうとしたが、共同倒閣運動により総辞職しました。以後進歩党総裁、第1次吉田内閣で国務相、民主党名誉総裁、民主自由党最高顧問を務めています。衆議院議長在任中に死去しました。
日本が負けた時、昭和天皇は侍従が用意した終戦の詔の中での一節に抵抗しましたた。その一節とは「敗戦」と言う言葉でした。昭和天皇は「敗戦ではなく終戦とする」と譲りませんでした。その理由は「日本の悲しみを最後にして地球上から総ての戦争がなくなる切っ掛けに(戦を終わらせる)しなければならない」との強い意志からであったそうです。
そして「終戦の詔 耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び....」が愛宕山から全国へ流されたということです。

昭和天皇は「平和国家日本」を堅持しなければ日本の国体は保てない事を、敗戦に直面して悟られ、その後一貫してその思想を訴え続けました。その相手はマッカーサーであり、幣原喜重郎だったのです。

幣原喜重郎は生涯をかけて「戦争放棄」を憲法に組み入れる努力をし、そして世界に類を見ない「戦争放棄憲法」が生まれたといわれています。
著書「外交五十年」の“アメリカ兵と床屋”の中での話
「ある日、私が日本クラブへ散髪に行くと、床屋はこの日ノ丸の旗を持ち出して、実は、こうこういう訳で頼まれたのですが、どうか、サインしてあげて下さいという。私は「それはいかん、国旗に字を書くことは、国旗を汚すものだ。それは宜しくない。」(中略)しかし、君は、実に善いことをした。外交官が何年、一つの場所にいても、それ程親善の心を現わすことはなかなか出来るものじゃない。(中略)まあ、僕に任して置き給え」といって、床屋が残念がるのを構わず国旗を押し返した』
『数日後、私は用事があって大阪へ行った帰りに、京都へ寄って扇子を数本買った。(中略)そして、それに、私が好んで暗誦しているシェークスピアの「ヴェニスの商人」の第四幕、人肉裁判の場でポーシャが、シャイロックに申し聞かせる一節、=慈悲ということは、強いらるべき性質のものではない。丁度、柔らかな雨が、天からシトシト降って、地を潤すと同じようなものである。それが慈悲の本質だ。慈悲というものは、二重に人に、恩恵を施す。即ち与えた者も、受けた者もどちらも、天の恵沢に浴するのだ=と、いう韻文、私はそれを原文のまま覚えていたので、それを二本の扇子に認め、一本は兵隊さんに、他の一本は君にあげるといって床屋に渡すと、よろこんで持って帰った』
後で、アメリカの新聞、雑誌にこれが報道されたので、床屋の主人は、言葉どおり有名な理容師(フェーマス・バーバー)となった。

参考資料:「外交五十年」(幣原喜重郎)
国内的には、幣原外交は余り評判の良いものではありませんでした。それは、幣原が内政に意を払わなかったからだと思われます。特に中国との関係では、「軟弱外交」の汚名を着せられました。その典型的な問題が、昭和2年(1926年)の南京事件への対応でした。
南京に入城した、蒋介石率いる北伐軍の兵士が暴徒化し、日英両国の領事館が襲撃されました。また彼らは揚子江に停泊中の外国艦船(中国との条約で認められたもの)を砲撃したので、我が国を除く各国はそれに応酬しました。日本領事館には、館員以外に100名以上の在留邦人が避難し、しかも病臥中の森岡正平領事が北伐軍兵士を刺激しないよう、警備隊の武装解除をしていたにもかかわらず、彼らは館内に乱入し、略奪、暴行の限りを尽くしました。領事夫人をはじめ多くの女性が陵辱されました。 しかし、中国への内政不干渉政策を徹底する幣原は、蒋介石に対して事態収拾を勧告する一方、英米に対しては賠償請求の緩和を求めましたが、邦人が多大の被害を被ったことを新聞報道で知った国民は、幣原外交を非難したのです。


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