8月


8日
谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)(1750〜1795)江戸時代後期の力士

奥州仙台で豪農の長男として生まれました。19歳で江戸へ出て、関ノ戸に見込まれて伊勢ノ海の弟子となり、約半年、白石の片倉家に預けられ、同家の抱え力士に稽古をつけてもらい、明和6年4月場所、達ヶ関森右ェ門の名で看板大関として登場し4戦全勝しました。

1774年に前頭筆頭、翌年に小結。その翌年には関脇に昇進し、谷風梶之助を襲名しました。1781年、大関に昇進し。1789年吉田司家19代追風より、小野川とともに横綱を免許された。明石志賀之助(架空の人物)を初代横綱とすれば第4代横綱となるのですが、吉田家免許の横綱としては谷風が第1代となります。幕内44場所で、258勝14敗36分、63連勝を記録しました。

力量だけでなく人望も有り、色白・切れ長の目で柔和な容貌でした。病気の母親を抱える佐野山という力士が居ましたが、これを知った彼は相撲会所に根回しをして回向院興行での取組を作らせました。谷風の贔屓筋は勝つに決まっている此の取組に懸賞を付けたのですが、谷風は あっさりと負けています。そして、谷風は床に着いている佐野山の母親の枕元で病魔退散の四股を踏んだと伝えられています。

相撲史の中でも古今屈指の力士の一人と評価される大強豪で、圧倒的な強さと横綱土俵入りの人気で寛政の相撲黄金期の功労者となりました。体格、力量、人格の三拍子をそろえ 谷風の前に谷風なく、谷風のあとに谷風なしとたたえられています。

彼が「土俵上で儂を倒すのは無理。儂が横になっているところを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語した時に丁度 流行った感冒は「たにかぜ」と称されました。皮肉なことに彼は45歳のとき感冒が元で没しましたが、此の時の感冒は「御猪狩風」と称されました。
妻の ひで は医官として知られた太田 資広の三女で「父は日本一の医者だから、私も日本一の人の妻に成る」と言って谷風に嫁いだといわれています。
谷風のエピソード
  • 隣家の主人の東兵衛から「あの俵を運べたら あげるよ」言われて玄米の五斗俵を持って運び、驚いた東兵衛は謝って饅頭 1袋と取り替えてもらった。
  • 玄米の五斗俵を殻町(仙台城下の大通りで穀物の市場で 1里半以上も離れていた)まで休み無しに持って運んだ。
  • 入門前は白川の酒造家「山本屋」で奉公していたが、 7〜 8人で持ち上げる酒を搾る締め木の天秤石を 1人で持ち上げていた。
  • 四斗俵を 2つ両手にぶら下げ、拍子木代わりに26回も打った。
かつて力士の最高位は大関で、番付も大関が最高位とされていました。この大関の中で最も優秀な力士に、相撲の家元・吉田司家から与えられたのが「横綱」の称号です。
 最初に「横綱」免許を与えられたカ士は、谷風梶之助と小野川喜三郎で、寛政元年(1789)に、両カ士が注連縄(しめなわ)を締め土俵入りを披露しています。寛政三年(1791)、江戸城内吹上御苑上覧相撲。行司軍配返って立ち上がる谷風、「待った」の小野川。その瞬間軍配は谷風に。心技体の充実した谷風の気合い勝ちとされて讃えられ、江戸相撲の人気をさらに高めることになった名勝負でした。
初代谷風(1693−1736年)は幼くして父を失い、白石市中町の小関弥左衛門に養育された。17歳で江戸大相撲に入り、全盛期には9年間無敗を誇った。讃岐の松平家から誘われてお抱え力士になった。二代谷風は仙台市出身。片倉家のお抱え力士を経て1790年、好敵手だった小野川喜三郎とともに横綱免許を受け、黄金時代を築いた。


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