6月


26日
木戸孝允(たかよし)(1833〜1877)維新の志士 桂小五郎

長州(山口県)藩士の子として萩に生まれ、幼いとき桂家の養子となり、桂小五郎と名乗りました。松下村塾に学んで吉田松陰の教えを受け、江戸へ出て斎藤弥九郎の門で剣をおさめ、江戸太郎左衛門について西洋の砲術や兵学を学び、また蘭学も勉強しました。そして尊皇攘夷の志士として活躍し、長州藩の重役となり藩の考えを攘夷(外国を討つ)から倒幕に導いて、長州と薩摩の連合に力を尽くしました。

1864年の新選組による池田屋襲撃を逃れたのちも京都に潜み、真木和泉ら激派の突出を抑え正藩従合に苦心しましたが、禁門の変を未然に防ぐことはできませんでした。禁門の変で長州敗退後、但馬出石に潜伏します。身なりをやつして二条大橋の下に潜む彼のもとに、芸妓幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものです。

1866年正月、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛と倒幕の薩長連合密約を結び、その後、長州藩を訪問した大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議しています。

維新の後、五箇条の御誓文の文章を修正したり、廃藩置県の実現に努力をしました。後に参議となり、岩倉具視らとヨーロッパ、アメリカを視察し、西郷隆盛の征韓論に反対し、まず内政を整えることを主張しました。

1874年(明治7年)に政府の職を去りましたが、参議に再任されて、翌年には第一回地方官会議長となった。1877年(明治10年)西南戦争が起こったとき、京都に出張して病気のために亡くなりました。
また剣は剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となるほどの腕前でした。しかし、彼は神道無念流の使い手として群の技を持ちながら、終生、人を斬ることをしなかったといわれています。
長州藩を代表する孝允が西郷隆盛と結んだ薩長同盟は、明治維新へ向けて大きな力を発揮しました。孝允は、「情の西郷」、「意の大久保」、「知の木戸」というように、明治維新の三傑として代表的な政治家でした。
1877年の西南戦争には、京都の行在所にあって事変処理に当りましたが、健康がすぐれず、5月「西郷よ、いいかげんにしないか」といい残して、京都で病死しました。45歳でした。

6月


26日
パール・バック(Pearl S. Buck)

(1892〜1973)

「世の親たちよ、恥じることはありません。絶望してはなりません。
 この子たちは特別な目的をもっているのです。
 ・・・頭をあげて、示された道を歩きなさい。」

アメリカの女流作家

彼女はアメリカ、ウエスト・バージニア州のヒルズボロで生まれました。両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたのですが、母は出産のため一時里帰りして彼女を生み、その後、一家は再び中国へ渡りました。彼女はその人生の半分を中国において過ごしています。

彼女は、父の教会の豊富な蔵書の中からシェークスピアを読み、19世紀の小説文学に親しみながら育ちました。そして、中国語を国語として学び、英語は第二国語として習得して行ったのです。成長した彼女は、女権主義者だった母の考えで、革新的な教育を行っていた米国ヴァージニア州のランドルフ・メイコン女子大学に入学します。

その後、彼女は中国に戻り、教師をつとめ宣教師 J.L.バックと結婚。愛娘キャロルを生みました。しかし、フェニルケトン尿症が悪化し、愛娘は重度の知的障害をもつ子供となってしまったのです。生涯その知能は子供のままで、それ以上にはならなかったと言われています(現在は早期の食事療法で治療可能)。さらに彼女は出産の際に子宮に腫瘍があるのが発見され、それを摘出しています。キャロルは彼女の一人娘となりました。

彼女はキャロルを9年間手元で大切に育てた後、キャロルをニュージャージー州の手厚い看護の受けられる施設に預け、中国に関する論文、小説を発表し始めました。

「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版されました。この作品は爆発的なベスト・セラーとなり、世界30ヵ国語以上に翻訳され、ピューリッツァー賞を授与されるにいたりました。 そして、1938年ノーベル文学賞を受賞。彼女は一躍世界的な作家となったのです。

1940年代に入ってなおも彼女の執筆活動は続きますが、その重点は徐々に社会活動へと移り。西洋と、東洋との公平な交流をはたそうという目的で、「東西協会」を設立。またアメリカの軍人が駐留先のアジアで置き捨てた混血児たちを養子・養女として引き取り、立派な国際人に育てるために、「ウェルカム・ハウス」を開設。そこには常時30人〜50人ほどの混血児たちが共同生活していました。

彼女はノーベル賞で得た賞金や、原稿料や本の印税など、ほとんどのお金をそこにつぎこみました。彼女はその子供達に「なんと私はたくさんの子宝に恵まれているのでしょう。」と言ったそうです。

彼女は、1973年に亡くなるまで70冊を超える著作を発表しました。
大地

勤勉と土への愛着により、貧しい農夫から大地主へと駆け上がった王龍、変動する中国社会を背景に、彼と一族の歴史を描いた「大地」「息子たち」「崩壊した家」のこの3部作は、中国の内奥を初めて西洋に明らかにしてみせた作品として全世界に衝撃を与えました。

彼女の作品
処女作「東の風、西の風」、「大地」は「息子たち」「分裂した家」 とともに、3部作「大地の家」を構成。他に「愛国者」「竜子」「皇太后」短編集「最初の妻」「水滸伝」の翻訳など。
大地の家

第一部「大地」
貧しい小作農、王龍(ワンロン)はわずかばかりの土地を懸命に耕して生きてきました。ある日、地主の館から女奴隷・阿蘭(アーラン)を妻に貰い受けることになります。美しくはありませんでしたが質実剛健な阿蘭の働きのおかげで、王龍は度重なる飢饉や不作にもめげず家族を増やし、小金を貯め、土地を増やし、ついに大地主になることができました。そして残された土地を決して手放してはならないと息子たちに託し死んでいくのでした。

第二部「息子たち」
王龍の三人の息子たちは、父とは対照的に三人とも土地には執着なく、父の死の床で土地を売り遺産の分配の相談をはじめ、それぞれの道を歩んでいくことになります。 長男の王大(ワンター)は、生来の女好きで父親の後を継ぎ地主となりました。 次男の王二(ワンアル)は、幼い頃商家に奉公に出され、商人となり、父から受け継いだ財産を増していきました。そして、三男の王三(ワンサン)は、父にかまってもらえず、また、密かに思いを寄せていた梨花(リホウ)という娘を父の妾にされたこともあり、反目して家を飛びだし軍人になったのでした。彼は南の将軍の手下となるのですが、後に反旗を翻し、最終的には地方の軍閥のひとつにまでのし上がったのでした。彼は目つきが虎のように厳しいので王虎(ワンフー)と呼ばれるようになります。

第三部「分裂した家」
王虎の息子、王淵(ワンユアン)の物語です。 彼は祖父の血をうけついで、母国の土地への愛着をもった青年に育ちました。 革命運動にかかわりもしましたが、6年間アメリカへ亡命し、西洋文化の洗礼をうけて帰国しましたが、帰国するとそこには以前変わらぬなつかしい大地があったのでした。このころ中国では革命がおこり時代は大きく揺れ動き、革命の波に翻弄される人々の姿と訪れる新時代への希望が描かれていきます。


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