6月 23日 |
三木露風(ろふう)(1889〜1964) 兵庫県龍野町(現龍野市)で父三木節次郎、母かたの長男として生まれました。本名を「操」といいます。父の放蕩が原因で、母は彼が7歳の時に家を出てしまいます。その後祖父の家に引き取られ、お手伝いの姐やに養育されました。幼くして離別した母に対する慕情とふるさとに対する望郷の思いが、国民的愛唱歌「赤とんぼ」として結実したと言われています。 自ら神童であったと称する彼は、12歳の頃すでに自作の文章、詩歌、俳句を投稿していたといいます。「赤蜻蛉とまっているよ竿の先」は龍野高等小学校時代の作句で、童謡「赤蜻蛉」の4番目の歌詞にあたります。 その後、早稲田大学に入学し、相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成。詩集「廃園」は北原白秋の「邪宗門」と並び称されました。 特に、第4詩集の「白き手の狩人」は、その詩風を完成した代表作で、日本の象徴詩の歴史に大きな意味をもっています。 その後、西条八十、服部嘉香らと未来社を結成、河井酔茗、白秋らとマンダラ詩社を興しました。のち北海道に渡ってトラピスト修道院講師に着任し、信仰生活に入りました。 童謡「赤とんぼ」は、彼がこの地で母を想い、子供の頃の郷愁とはるかな「ふるさと龍野」をうたったものです。1921年(大正10)年に童謡集「真珠島」に発表され1927年(昭和2年)に山田耕筰が曲をつけました。 晩年、三鷹の地でひそかに詩を書き続けた彼は、昭和339、不幸にも自宅付近で交通事故に遭い、75歳でこの世を去りました。 |
露風は、「私は、初め叙情をもって詩を作り始め、後、象徴詩にいたり、短詞を作り、更に宗教詩を書くようになった」と自ら記している。また、「抒情詩人の初期では詠嘆を歌うものであるが、それがやや進むと頭を垂れたる暗愁を歌うようになる」とも書いている。 | |
赤 と ん ぼ 夕やけこやけの 赤とんぼ 負(お)われて見たのは いつの日か 山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか 十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた 夕やけこやけの 赤とんぼ 止まっているよ 竿の先 |
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