6月


21日
ジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)(1905〜1980)フランス 哲学者 文学者

パリで生まれました。二歳のとき父を亡くし、母方の祖父に養育されています。高等師範学校を卒業し、同学のボーボアールと結ばれています。各地の高等学校(リセ)の教師となり哲学を教えました。その間1933〜34年にかけてベルリンに留学してフッサールやハイデガーを学び、意識構造の現象学的解明に努めています。

その後、第2次世界大戦に看護兵として出征しドイツ軍の捕虜となりましたが、うまく変装して脱出しパリに戻りました。

実存主義を唱えて、小説「嘔吐」「壁」、戯曲「とざされた部屋」「汚れた手」などを発表し、近代人の不安と虚無を描きました。評論にも「存在と無」「実存主義とヒューマニズム」「ボードレエル」等があります。

活動は多方面にわたり、その人生観や文学観は戦後の人の心をとらえて注目されました。硬直したマルクス主義哲学を批判しますが、やがて共産党の強力な支持者となり、みずからも政治活動に積極的に参加しました。1964年ノーベル文学賞を贈られましたが、辞退しています。
実存主義
第二次世界大戦直後、フランスのサルトルによって造語された思想運動。この名称以前には、「実存哲学」という名称が用いられた。人間の実存。つまり人間存在の独自のあり方を明らかにすることを中心課題とする哲学的な主張。理性や科学によって明らかにされるような事物存在とは違って、理性ではとらえられない人間の独自のあり方を認め、人間を事物存在と同視してしまうような自己疎外から解放する自由の道を発見していこうとする企て。ドイツのハイデッガー、ヤスパース、フランスのマルセルは、哲学によってこの企てを試み、フランスのサルトル、カミュは、文学作品をとおし、また、後期のサルトルは、政治への参加によって、この企てを試みている。
国民総動員後、サルトルがアルザス地方の気象班に配属になったものの、戦闘は始らず、かなり自由な時間があった。彼は毎日、ボーヴォワールに長い手紙を書き、小説『自由への道』を執筆し、戦争の証言としての日録を書き続けていた。毎日の執筆枚数は驚くべき量に昇りました。その後のドイツ軍の捕虜になってからも、同じ収容書の司祭たちにハイデッガーの講義をしたりして、自らの存在論の構想を練り続けていました。
ドイツ軍の捕虜となった。彼は、脱走後、フランスのヌイイやパリで教壇にたち、レジスタンスに参加した。しかしドイツ当局は、それにきづかず、反権威主義的な戯曲「蠅(はえ)」(1943)の上演や哲学上の主著「存在と無」(1943)の出版を認可したそうです。
彼は、ノーベル文学賞の受賞を拒否していますが、これは、そうした賞をうけることは作家としての誠実性を否定することになるという理由からでした。
彼は、二歳のとき父を亡くし、母方の祖父に養育されました。この祖父は有名なアルベルト・シュワイツアーの叔父でもあり、サルトルに文学ヘの道を開かせた人でもありました。


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