6月


4日
後藤新平(しんぺい)(1857〜1929)政治家

岩手県水沢市の下級藩士の後藤実崇の長男として生まれました。13歳の時県庁の給仕となり、その後、福島県須賀川医学校へはいり苦学を続けました。卒業後、1881年(明治14年)愛知病院長兼愛知医学校長となります。

在職中の1882年、岐阜で刺客におそわれ負傷した自由党の総裁板垣退助を治療して、板垣から「政治家でないのがおしい」といわれた話は有名です。これがきっかけとなって、彼は内務省に入り、自費でドイツに留学、帰国して衛星局長となりました。

1898年(明治31年)台湾民政長官となって民政のために力を尽くしました。この間、新渡戸稲造を殖産局長に抜擢して各種の産業をおこし、島民の治安維持、台湾銀行の設立など多くの業績をあげ、その功により男爵となっています。また、当時台湾にはびこっていたアヘン吸飲の習慣を法律で禁止し、アヘン中毒者の治療厚生に努めました。

その後、満鉄総裁となって狭軌の鉄道を全て広軌(現在の新幹線のレール幅)にあらため、ついで鉄道院総裁、東京市長として、新しい日本の鉄道や都市計画にすばらしいアイディアをうみだし、また全国的に少年団(ボーイスカウト)を組織し、初代総裁となっています。

1923年(大正12年)の関東大震災で内相・復興総裁となり、帝都復興計画を作りあげます。そのプランは焼失地の復興だけでなく、東京市域全体におよぶ大規模なもので、一般会計国家予算の数倍という大胆なものでした。しかし、銀座の大地主でもあった枢密院顧問の伊東巳代治らの反対にあい、計画は縮小されてしまいました。

当初の帝都復興計画では、73メートルの幹道を中心として、50メートル前後の道路が企画されていましたが、結局一部しか計画を実現することはできませんでした(彼の計画は昭和通り(最大幅44メートル)等で一部実現しています)。

昭和4年、72歳で逝去。
大正11年,少年団日本連盟(ボーイスカウト)初代総裁となった後藤新平は,自治こそは人間生活の根本であり,信と愛の奉仕こそは社会生活の源泉であるとして,「自治三訣」を訓えた。

「自治三訣」

人のお世話にならぬよう

人のお世話をするよう

そしてむくいをもとめぬよう
水沢の後藤新平記念館には、後藤新平が台湾総督府民政長官として、当時台湾にはびこっていたアヘン吸飲の習慣を法律で禁止し、アヘン中毒者の治療厚生に努めた資料が展示されているそうです。
後藤新平東京市長がたてた「八億円予算規模」の東京改造計画は、当時の中央政府の予算十五億程度と比べるとまさに大風呂敷。しかし、安田善次郎がたずねてきて、「あなたの八億円計画は、失礼ながら,あなたにしては金額が小さすぎやしませんか。桁が違いませんか。・・・八億円計画ではなく、5億円を足して一三億円の計画としましょう」という。安田は続けて,「年に八千万円程度の金額なら(後藤の計画は約15年計画)、何も外国の力に頼ることはない。安田の家財を傾けずとも調達できる程度の金額ですよ」。・・・しかし安田という後藤の強力な味方は、それからまもなくして、大磯の別邸で寄付を強要した暴漢の凶刃に倒れる。
後藤は理想を抽象的なものから具体的なものにする才能を持っていた。そして,思いつくと,桂首相になにかと提案した。
ある人が首相官邸で桂と話していると,秘書官が後藤が来たと取り次いだ。
「後藤さんなら,さっき,さんざん話して帰っていったはずですが」
来客が言うと,桂は笑って答えた。
「あれが後藤の癖ですよ。なにか思いつくと,帰り道の途中からでもやってくる。時には一日に五、六度も。もっとも,実行不能のものが大部分ですが,十のうち一つか二つは,じつに天下の名案,凡人には思いつけないようなものがある。そこに彼の価値があるのです」
後藤の頭脳は回転しつづけだったのだ。鼻眼鏡をかけはじめたのも,そのころであった。アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトもそうであり,奮闘努力主義をとなえて大活躍をしていた。そんなところから,後藤は和製セオドア・ルーズベルトと呼ばれるようになった。

星新一『明治の人物誌』より


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