5月


6日
ラビンドラナース・タゴール(1861〜1941)インド 詩人 思想家。

宗教・社会改革者として名高く「偉大なる聖者」Mahariといわれるデーベーンドラナート・タゴールの14人の子の末子として、カルカッタに生れました。彼は正規の学校教育を放棄し、カーストの因習を改革する運動をはじめていた父の影響を受けながら、家庭で徹底した英才教育を受け、早くも8歳の頃から抒情詩をつくるようになりました。

1877年に渡英し、ケンブリッジ大学で聴講しました。1883年に結婚し、1887年には再びイギリスに渡っています。1880年代に数冊の詩集を出版したのち、1890年に詩集「マーナシー」を出版しました。この詩集はタゴールの才能の成熟を示すもので、最も有名な詩編や詩賦(オード)を含むベンガル詩では試みられなかった新しい詩型、さらに社会的政治的傾向の詩をも収録しています。

1901年、タゴールはボールプル近郊のシャーンティニケータンに5人の生徒を集めて野外学校を設立しました。この学校は、インドと西欧の最良の伝統のよき融和を求め、インド文化と国際理解を志向するビシバ=バーラティに発展し、現在は国立大学となっています。このように、彼は、インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめました。

ベンガル語と英語で作品を発表。詩集「ギタンジャリ」「マーナシー」「黄金の舟」「チトラーンガダー」「王女マーリニー」、長編小説「ゴーラ」、思想書「人間の宗教」「文明の危機」など、数々の優れた作品を生み、1913年には、フランスのエミール・ファゲと競い、ついにアジア人として初のノーベル文学賞を受賞しました。翌年、4度目の渡英をし、1915年ナイトの称号を授与されたが、アムリッツァル大虐殺に抗議して、1919年にこれを返上しています。

ベンガル文学ばかりではなく、他のインド諸語の近代文学に及ぼしたタゴールの影響は大きkきく、彼は「師」として仰がれ、シャーンティニケータンは、インド諸語の文学者たちにとって「巡礼の地」とすらされているそうです。

 タゴールは晩年病に苦しみ、世界大戦の惨事や、民族独立運動に対するイギリスの弾圧に心を痛めていたそうです。生地カルカッタで逝去、80歳でした。
日本好きで、1916年に初来日したのを皮切りに3度も日本を訪れています。しかし戦時中、日本が軍によって支配され、国民もそれを支持していることを知ってからは日本に落胆して来なくなってしまいました。
彼はインド独立のために命がけで行動した実行力のある愛国者の思想家であり、また哲学者でもありました。彼は70歳からは絵までも描き始め、ピカソに似た画風の画家としても知られています。
1902年から07年にかけて、タゴールは妻と息子と娘を失った。しかしこの悲しみと失意の時期は彼に最もすぐれた詩作を促し、1906年から10年にかけて書かれた宗教詩を中心とする有名な詩集『ギーターンジャリ』Gtjaliは、10年に出版された。12年、3度目の渡英の際にみずから散文訳した英語版を刊行し、これにより13年ノーベル文学賞を受賞した。
 タゴールは、ガンジーと気質や見解を異にしていたにもかかわらず、彼との交友は生涯続いた。1938年、ガンジー70歳の誕生日に、シャーンティニケータンで特別講演を行い、「乞食の衣服をまとった“偉大な魂(マハトマ)”に」賛辞を呈した。40年、シャーンティニケータンを訪れたガンジーは、「聖地巡礼であるが、自分の家に戻って来たように思う……私は“師(グルデーブ)”の祝福を受けて、心は歓喜であふれんばかりだ」と語った。彼ら「偉大な魂」ガンジーと「師」タゴールは国父として仰がれている。インド共和国国歌『ジャナ・ガナ・マナ』はタゴールの詩である。
 ベンガル文学ばかりではなく、他のインド諸語の近代文学に及ぼしたタゴールの影響は大きい。彼は「師」として仰がれ、シャーンティニケータンは、インド諸語の文学者たちにとって「巡礼の地」とすらされている。
「タゴール」のことば

人生を達成していく途上では、常に反対に出会う。

しかし、それは、前進するために、必要なことである。

川の流れは、絶え間ない土や、石の妨害があるからこそ、その土や石の間をぬって流れ続けることができる。
川岸を作っているのは、まさにこの土や石だからだ。

起こってくることを受け入れ、それをよいものにしていく精神こそ、人生の達人のものである。

5月


6日
ジグムント・フロイト(Sigmund Freud)

(1856〜1939)

精神分析の祖

モラビアのフライベルク(現在のチェコのプリボール)で、ユダヤ人で羊毛の商人の子として生まれました。4歳の時にオーストリアのウィーンに移っています。その後、ウィーン大学の医学部に入学し、卒業後は、ウィーンの総合病院に勤めました。

その後、神経疾患に興味を抱き、奨学金を得て、パリの高名な神経病学者シャルコーのもとに留学します。シャルコーのもとで、ヒステリーの催眠・暗示による治療を学び、ウィーンに帰って催眠術を掛けて心の奥に潜む悩みを聞くという治療を行い、開業医となりました。

しかし、治療を続けていくうちに、ある問題に直面します。それは、催眠術によって原因は分かるのですが、その原因を患者自身が認めることが出来ず、完全な治療ができないということでした。

そこで、催眠にかわる方法として患者本人から語ってもらう「自由連想法」を開発し、治療技術としての精神分析を確立することができたのでした。

そして、彼は、夢の分析的解釈を始めるようになり、多くの症例などから、理論的にも整ったものになってきました。そして、彼は、全てのものが性的なものを根元とし、人間は無意識の世界にある性の衝動に支配されているとする「性欲理論」を展開してゆきました。

彼の理論は、やがて精神医学における一大勢力となってゆき、1910年国際精神分析協会が結成され、彼は、初代会長として選ばれましたが、同時に全ての事柄を「性」でとらえることには無理があるとして、ユングを初めとする優秀な人材は、彼から離れて行ってしまうことになります。

その後、彼はナチスのウィーン占領の際、ユダヤ人であったため、ナチスに著書を焚書され、財産は没収されてしまいます。ロンドンに亡命しましたが、口腔癌のため、翌年亡命地で亡くなりました。ウイーンに残った彼の妹4人はナチスによって、ガス室で殺されてしまったということです。
彼は、精神医学の領域をこえて、社会科学、さらに現代思想にまで影響を及ぼしました。彼の主張した芸術論、宗教論、文化論は、今日でも非常に高く評価されているということです。
彼は1922年ごろから、口腔癌に悩まされ、合計で33回もの手術を受けたそうです。最後は、上顎、口蓋全部を切除し、人工顎と人工蓋と義歯をはめるという状態だったそうで、それでも、患者の治療にあたり、多くの著書を執筆していたそうです。


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