5月


5日
小林一茶(1763〜1827)俳人

信州長野の柏原の農家で、父弥五兵衛、母くにの長男として生まれました。母を3歳で失い、その後、8歳のときに継母さつが父に嫁いできました。翌々年には専六(後の弥兵衛)が生れ、継母との摩擦が始まったと思われます。それまで何くれとなくかばってくれた祖母かなが亡くなった翌年、彼は15歳で江戸へ奉公に出されてしまいました。

苦しい奉公生活の中で、いつしか俳諧の道を志し、25歳ころから俳人として活動するようになりました。28歳ごろから一茶の俳号を用いたようです。

俳諧師となった一茶は29歳の時、15年ぶりに帰郷しますが、その後は関西、四国、九州と俳諧修行の旅のあと、江戸を中心に活躍しました。

39歳のとき、故郷の父が病気になったので、看病のため帰郷して一ヶ月ほど父の病の看護をしましたが、父は69歳で亡くなってしまいました。一茶は後に「父の終焉日記」を書いています。父の死後、長男として家督を継ぐはずでしたが、継母、義弟と折り合いがつかず、江戸に戻って上総、下総の弟子を指導して暮らしました。50歳になって、仲介人を通して行なっていた折半相続の交渉がようやくまとまり、50歳で柏原に帰郷しました。

その後は、北信濃の宗匠として親しまれました。52歳で結婚し、4人の子供が生まれましたが、次々なくなり、妻とも死別。二度目の妻とも離縁、三度目の妻を迎えたましたが、文政10年柏原の大火にみまわれ、焼け残りの小さな土蔵の中で妻に見守られ、65歳の生涯を閉じました。

一茶は人間の喜びや悲しみを、誰も真似のできない独特の調子で十七字にあらわし、生涯に2万句もの俳句と、「おらが春」「七番日記」「一茶発句集」などを書き残しています。

一茶と名づけたのは、当時のお茶には、淹れるとき、泡のようなものがたち、すぐに消えてしまったらしく、己の一生を泡に例えて、一茶と名づけたそうです。
当時、俳句のお弟子さん達や、支援者さん達の集まりの名称は様々で、一茶に関しては、一茶社中といったそうです。北信濃の主なものだけでも、地元信濃町に9、三水村に6、長野市に17、豊野町に6、山の内町に8、中野市に5、牟礼村に4、小布施町に9、高山村に10もあったそうで、一茶が、如何に、慕われ、尊敬されていたかがわかりますね。
おらがはる

江戸時代後期の俳句俳文集。小林一茶著。1冊。一茶の遺稿真跡を透き写しにして,没後 25年にあたる嘉永5 (1852) 年に刊行。挿絵も一茶筆。『おらが春』という書名は著者の命名ではなく、巻頭の一文中にある発句「めでたさも中くらゐなりおらが春」により刊行者が名づけたもの。文政2 (19) 年一茶 57歳の元旦から歳末にいたる1年間の感想,見聞と、おりおりの発句を書き連ねたもので、一茶の代表的著作。文もよく句も精選され、一茶自身も公刊の意志があったらしい。一茶晩年の身辺の事情や、信仰的安住に到達した心境などもうかがわれる。






金田一京助(きんだいちきょうすけ)

(1882〜1971)

わが国最初の本格的アイヌ語研究者

盛岡で生まれました。盛岡高等小学校から盛岡中学での同窓生・石川啄木は、京助にとって後輩でもあり、生涯の友人でした。

1906年、北海道を旅し、研究内容を決定づける、アイヌ叙事詩「ユーカラ」と出会い、さらには幌別のアイヌ酋長・カンナリキ(金成喜造)の知遇を得るという好運に恵まれます。

1908年、東大卒業後、京助は「中央公論」に処女論文「あいぬの文学」を発表しますが、生活は楽ではなく、三省堂の辞書編集室と国学院大学講師を掛け持ちしながら研究を続けます。この時期、北海道から上京してきた啄木と下宿をともにし、苦しいなかから、彼の経済面を支援するという優しさをみせています。

その後10年ほど苦闘しますが、ようやく研究の真価が認められ、1922年国学院大教授、28年東大助教授となり、31年には「アイヌ叙事詩・ユーカラの研究」で、学士院恩賜賞を受けるまでになりました。

彼は、アイヌ語の言語学的研究、国語辞典の編集や教科書編集で知られる一方、盛岡中学在学中から号・花明で「明星」同人となって、早くから歌人としても知られ、昭和32年には宮中歌会始に召人として参列。その時々の心境を綴った短歌は「錦木抄」にまとめあげられています。

また随筆家としても「北の人」や「学窓随筆」などがあり、特に昭和30年に刊行した随筆選集「心の小径」は教科書に掲載され、ファンレターが殺到したといわれています。生涯啄木を支援し続け、彼の没後はその紹介につとめました。

子供の日にまつわる話をいくつか(諸説あるのですが、その中のひとつを紹介させてもらいます)





端午の節句(5月5日)の由来
古来より中国では月の最初の午の日のことを「端午の日」と呼んでいました。この日は実は、良くない日とされています。そこで災いを避けるためによもぎや菖蒲などの薬草を用いて魔除けをする習慣がありました。

それが日本では「午」と「五」の読みが同じことから5月5日を「端午の節句」として赤ちゃんのまっさらで純粋無垢な命にとりつこうとする災厄や病気、魔物といったよくないものを払い、「赤ちゃんが病気やケガに犯されることなく健やかに育つように」と願う儀式として受け継がれるようになったということです。
鯉のぼりの由来
鯉のぼりは、中国の「登竜門」の故事、すなわち、「鯉は黄河上流、龍門の急流を登れば龍になって天に昇る」にちなみ、鯉は出世魚として考えられ、ここから、人生の中で困難に遭遇しても、この鯉のようにたくましく立ち向かい、やがて成功することを願って鯉のぼりが生まれたと言われます。また子供が産まれた家では、「この家の子供をお守り下さい」と天の神様に向かって目印にに立てたという話もあります。
鎧兜を飾る理由
鎧兜を飾るのは、鎧兜は、古くから命を守る象徴として考えられていたため、男の子を事故や災害から守るものとして、事故や病気から赤ちゃんや子供を護ってくれるようにという願いを込めて飾るようになったと言われています。
柏餅の由来
柏の葉は、秋に落葉することがありません。そのまま冬を越し、春が来て新芽がでてから落葉します。このことから、子孫を絶やさない縁起ものとして武士階級に珍重されてきました。


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