4月


24日
牧野富太郎(1862〜1957) 植物学者

高知県の豊かな酒造家に生まれました。幼いときから植物に興味を持ち、小学校を中退して仲間を集め研究会を開いたりなどして「土佐植物目録」をつくりました。

その後、上京して東京帝国大学植物研究室に出入りして、明治22年「日本植物誌図編」を自費出版しました。その後同研究室の助手、講師となり、昭和2年理学博士となりましたが、一生を通じてその地位に恵まれませんでした。

しかし、世俗の生活を捨てて、植物の分類に打ち込み、多くの新種を発見した数は千種にも及びました。また、彼が日本全国を歩いて集めた植物標本は40数万点に達し、その邸を記念館として陳列されています。

昭和29年、92歳の時に風邪をこじらせ肺炎になり、病状は、一進一退を繰り返します。31年には、天皇陛下からお見舞いのアイスクリームが届けられました。が、ついに昭和32年の1月18日永眠しました。没後、文化勲章が贈られました。

著書は「大日本植物誌」「日本植物図鑑」など多数。
オオイヌノフグリのエピソード
明治20年(1887)の春、牧野富太郎は東京のお茶の水に植物採集に出かけました。ふとみると、まだ見たこともないコバルト色の花が土手一面に咲いているではありませんか。まるで満天の星を見るようでした。やがてこの草は、欧州原産のVeronica persica Poir.とわかり、オオイヌノフグリ名付けられて、発見の記事が植物学雑誌に載ることになりました。当時は帰化植物の数もごく少なく、新帰化植物の発見は珍しい出来事だったのです。 南国土佐で四年制の小学校も終えないままほとんど独学で、志を立てて東京に出てきた25才の青年は、すでに一流の学術論文を続けざまに発表、押しも押されもせぬ学者となっていたのです。

それにしても、オオイヌノフグリ(フグリ−金玉)とは・・・(^^ゞ。がくの形が犬のそれに似ていたということからの命名だそうですが、青く可憐な花なのに、ちょっとかわいそうな気がします。
日本の代表的な野の花の野路菊は、じつは牧野富太郎博士によって付けられた名前だそうです。彼は、家の財産を全て使い切り、その後は貧困の中で研究を続けました。結婚後は、料亭を経営する妻の援助で、研究を続けていましたが、東京帝国大学理学部講師の夫人が料亭を経営することを、他の教授達は、反感とさげすみの目で見ていたそうです。

セザンヌは「自分の描く絵で生活出来るような画家は本物ではない、自分の絵で生活出来ず妻に養ってもらうようでなければならない」と言ったそうですよ。


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