4月


15日
レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)イタリア 美術家・科学者

フィレンツェの近くの村のビンチ村で公証人の子として生まれました。村の名前にちなみビンチ村のレオナルド“レオナルド・ダ・ビンチ”と呼ばれました。10台半ばで、フィレンツェに出て、芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで美術を修行し、その後、独立し、独立後は求めに応じて絵画や兵器デザインから建築・土木までの幅広い分野で活躍し、天才の名を欲しいままにしました。

1495年、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会で「最後の晩餐」を描き、1502年には、建築家であり、軍事技術者でもあるチェーザレ・ボルジアに雇われ、法王軍の軍事総監督として、ボルジアやマキャベリと一緒にロマーニャ地方を旅をしたりしています。1504年に「モナリザ」を描き始め、その後、フランス王ルイ12世に雇われて、宮廷画家となり、ミラノの首都ロンバルドに住み、1509年に、フランチェスコ・メルツィを養子にしています。
 
1513年に、ミラノを離れ、フィレンツェを通り、ジュリアーノ・ディ・メディチの後援の下でヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿に3年間住みますが、メディチが亡くなり、メルツィを連れてローマからフランスへと移り。フランソワ1世の後援の下で残りの人生を過ごしました。

1519年5月2日アンボワーズ城の近くのクルーの館で亡くなりました。聖フロレンティン教会で葬られました。

代表作は「モナリザ」「最後の晩餐」「受胎告知」など。遠近法を用いて雄大な構図と、豊かな感覚で立派な絵を残しています。また彫刻にも優れていました。
科学者としては解剖学の研究により人体の各器官の働きや心臓の作用、血液循環の原理を追及しました。そのことによって、彼の描く絵は真に迫っていたと言われています。

天文学、物理学、地理学、水利学、土木学、機械学、造兵学等自然科学のあらゆる方面に、その才能を示し、ルネサンス期の人々が理想とした「万能人」の典型とされました。
レオナルド・ダ・ビンチは歴史上でも指折りの知識人で、画家としても、エンジニアとしても、思索家としても優れていました。
かの「最後の晩餐」に着手する直前、レオナルドはある画家仲間と激しい口論をしてしまいました。その憤りと苦々しい思いは甚だしかったので、レオナルドは、相手の画家をモデルにして,イエス・キリストを裏切ったユダを描くことでうっぷんを晴らそうと決意したのでした。こうすれば、復讐が果たせるし、後世にまでその画家の顔に泥を塗ることができます。というわけで、ユダの顔は一番初めに仕上げられました。レオナルドが大口論をした相手の画家がモデルであることは、誰の目にも明らかでした。
 ところが、キリストの顔を描こうとすると、一向に筆が進まないではありませんか。何かが彼を妨げているようで、懸命の努力にもかからず失敗の連続でした。そこでとうとうレオナルドはある結論に達しました。その進行に歯止めをかけ挫折させているのは、ユダの顔を自分の敵の顔に似せて描いたからだと悟ったのでした。そこでレオナルドは、ユダの顔をぬり消して、それからまた、イエスの顔を描き始めました。すると今度は成功し、この絵は、時代を超えて多大な賞賛を受けてきました。
 他の人の姿を敵がい心と憎悪とで描く一方で、自分自身の生き方を通してキリストの姿を描くことなどできません。
美しい歌声の持ち主だったレオナルドは、音楽家として雇われることもあったそうです。彼は、作品のほかにも科学や医学など様々なアイディアが詰まったノートを残しています。あまり知られていない彼の作った音楽もそんな中にあり、その曲は数小節とはいえ4パートで構成されており、この頃には珍しく、不協和音で始まっています。
1519年4月23日クルー城で「死の確実なことと、その時期の到来が不明なため」遺言状を口述し5月2日死去、8月12日アンボアーズのサン・フロランタン聖堂で葬儀が執り行われました。レオナルドの墓は、その後の戦乱で暴かれ、当時の棺桶は鉛でできていたらしく銃弾の材料に、遺骨は共同墓地へ埋葬され、現在は不明です。


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