3月


23日
北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)

(1883〜1959)

「この世の中を少しずつでも美しくして行きたい。私の仕事は、そのささやかな表れである。」

陶芸家、書家

京都上賀神社の社家に生れました。本名は房次郎といい、生後すぐに養子に出され、転々としたのち明治22年木版師福田武造の養子として入籍しています。

画家を志しますが、篆刻や書にもすぐれた天分を発揮しました。明治37年日本美術展書の部で一等賞。明治38年岡本可亭の内弟子となって、同年日本美術展で入選し。独立して福田鴨亭と号しました。その後朝鮮に渡り、京城龍山印刷局につとめ、大正1年帰国。帰国後、長浜、金沢と食客生活を送りました。

その後、中村竹四郎とともに大雅堂芸術店を開業し、会員制の美食倶楽部を開設。美食倶楽部が発展した、星岡茶寮の顧問として料理、食器などの演出にあたりました。「食物をうまく食うにはつまらない器に盛ったりしては美味さがでない」と、「魯山人窯芸研究所星岡窯」を鎌倉に開設、自らが作陶にあたりました。

昭和11年中村竹四郎との対立から、星岡茶寮を追われ、北鎌倉の窯場で作陶生活を送り、昭和21年東京銀座に火土火土美房を開き、窯場を魯山人雅陶研究所と称しました。第2次世界大戦後には進駐軍にその才能がもてはやされ、その縁で欧米各地の博物館や美術館をめぐり、講演を行い、国際的な評価を得ました。が、横浜十全病院で好物のタニシのジストマ菌による肝硬変の為亡くなりました。73歳でした。
「私の持って生まれた美食道楽がおのずと限りなき欲望を生み、美しく楽しめる食器を要求する。即ち、料理の着物を、料理の風情を美しくあれと祈る。美人に良い衣装を着せてみたい心と変わりはない。この料理の美衣をもって風情を添えることは、他人はどうであろうと、私にはかけがいのない楽しみである。」 北大路魯山人
彼の陶芸は、書と同様とくに師があったわけではなく、窯場に「古陶磁参考館」を併設し、自分が良いと認めた古陶磁を集め、天性の審美眼を通してそれらを眺めることで陶磁の中に宿る美の普遍性を学びとったといわれています。また、彼の器は元来料
理を盛り付けられることを前提として作られているため、手にした時、食べ物を盛り付けた時にこそその本領を発揮すると言われています。

彼は亡くなるまでの間に染付をはじめ、志野、黄瀬戸、織部、信楽、備前など数多くの作品を作り続け、その数も20万点に及んだと言われています。


3月


23日
黒澤明(1910〜1998) 映画監督

東京の大森に生まれ、父は退役軍人で体育の教官をしており、武人気質の家庭の姉3人、兄3人の7人兄弟の末っ子として育ちました。家父長絶対な厳格な父でありながら、頭の古い人ではなかったようで、家族で映画を見に行くようなハイカラな面もありました。

末っ子でおっとりしていましたが、立川先生という図画の先生に出会い、作品をとてもほめてもらい、自信がつくと他の学科の成績も伸びて、級長を務めるまでになりました。
1928年神田の京華中学(現高校)卒業、その前後から画家を目指して、塾、同舟社に通い、18歳の若さで権威ある二科展に二度入賞し、画家を志して美術学校を受験しましたが、学科で落第。その後、プロレタリア美術同盟に参加しましたが、数年で運動から離れていきます。

その後、画家としてのカットや挿し絵をほそぼそと描いているうちに、PCL(後の東宝)という映画会社の助監督の募集に軽い気持ちで応募してみたところ、大変な競争率の中から、彼の光る才気が見いだされて採用されたのです。

山本嘉次郎監督の助監督を経て、1943年「姿三四郎」で監督デビューを果たし、日本映画に新風を吹き込みました。同年山中貞雄賞受賞しています。

1950年の「羅生門」は国内での評価は必ずしも高くありませんでしたが、イタリフィルム社長ストラミジョリー女史のすすめで大映が1951年9月の第12回ヴェネチア国際映画祭に出品してグランプリをとり、一躍“世界のクロサワ”として脚光を浴びました。さらに1952年3月、第24回アカデミー賞最優秀外国映画賞を受賞しています。

次いで、少年時代から傾倒したドストエフスキーに挑み、久板栄二郎と共同脚本の「白痴」1951を松竹で撮りました。原作に忠実なあまり4時間25分の長尺となったのを松竹の要請で2時間46分に縮め、「これ以上切るならフィルムを縦に切れ」と答えたエピソードを生んでいます。

その後、発表する1作ごとが注目を浴び、また、数々の海外映画祭での受賞を積み重ねて、国籍を越えた巨匠としての名声を不動のものとした。「現代ハリウッドの蔭の改革者」(ジョージ・ルーカス)とも呼ばれる黒澤明が生涯に生み出した30作は、今も、世界中の映画作家に多大な影響を与え続けています。「七人の侍」が「荒野の7人」として、ハリウッド映画でリメイクされたのは有名。

又、1984年フランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章を受けています。

晩年まで創作意欲は衰えず1990年『夢』、翌年『八月の狂詩曲 (ラプソディー) 』と新作を発表し続けました。内田百原作の『まあだだよ』(1993)が最後の作品。以降もその創作意欲は衰えることを知らず、精力的に次回作の脚本を執筆していましたが、1995年3月、執筆中の京都の宿で転倒。腰、腕などを打ち、3カ月間の入院後、自宅でのリハビリを余儀なくされました。1998年、脳卒中により自宅にて死去しました。88歳でした。次回作としては「用心棒」系の娯楽時代劇や山本周五郎ものが候補に挙がっていたといいます。没後国民栄誉賞が贈られました。
1930年のこの日、日本初の自動式信号機が日比谷に設置されました。

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