2月


27日
ジョン・エルンスト・スタインベック(1902〜1968)アメリカ 小説家

「成長しようとしてうずく筋肉、単なる必要を乗り越えて何かを作り出そうとうずく精神---これが人間なのだ」

カリフォルニア州南部サリーナスで、地方公務員の父と、小学校教員の母の4人兄弟の長男(姉が2人、妹が一人)として生まれました。母の性質(夢想に耽り、新しいものを作ったり、生み出してゆくのを好む)と、サリーナスという土地柄(後に自身でサラダボウルと表現した谷間)での生活に大きな影響を
受けたといわれています。

1919年スタンフォード大学で海洋生物学を学んでいましたが、学資が続かず中退しニューヨークに出て、新聞記者、レンガ運び、ペンキ屋の見習い等、職を転々としながら作家を志しました。

1929年「黄金の杯」を出版、その翌年にキャロル・ヘニングと結婚しています。又、同年、終生の友となる環境生物学者のリケットと出会い、その生物学的な生命観に大きな影響を受けたといわれています。

カリフォルニア州を背景にした、特色ある社会小説を書き、次第に認められていき、特に1939年に発表した大作「怒りの葡萄」(オクラホマの小農民の悲劇を描いた問題作)は人々に深い感銘を与えました(ピューリツァー賞受賞)。他に映画や映画音楽でも有名な「エデンの東」「二十日鼠と人間」等の作品があります。

1962年にはノーベル文学賞を受賞しています。

晩年は、ベトナム問題にも積極的な関心を示しました。

1968年ニューヨークで心臓麻痺のため亡くなりました。66歳でした。
第2次世界大戦とスタインベック
スタインベックは、第二次世界大戦中にはナチスへのレジスタンスを描いた「月は沈みぬ」(THE MOON IS DOWN)を発表した後で、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの特派員として報道活動に従いました。現地報告「かつて戦争があった」 (ONCE THERE WAS A WAR)にまとめられています。 又、大戦後は、写真家ロバート・キャパとの「ロシア紀行」を出版しています。
ベトナム戦争とスタインベック
1966年7月7日ソ連の詩人エフゲニー・エフトシェンコが「リテラトゥールナヤ・ガゼッタ」に詩を発表し、アメリカの北ヴェトナム爆撃の暴虐を、『怒りの葡萄』の作者が黙視している責任を追及する。7月11日 「ニューズデー」紙上でエフトシェンコに反論する。10月12日 『アメリカとアメリカ人』(America and Americans)を出版する。12月 南ヴェトナムの前線を視察した現地報告は「アリシアへの手紙」として「ニューズデー」紙に掲載され、同紙を通じて世界の各紙に転載される。日本では毎日新聞が「ベトナムからの手紙」という題で訳載した。
1967年1月ソ連の青年共産同盟機関紙「ゴムソモールスカヤ・プラウダ」が、ヴェトナム前線視察のスタインベックの行動を「戦争殺人の共犯者」と非難した記事に反論して、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙に公開状を発表する。
大学を中退した後、ニューヨークに出て新聞記者になりましたが、うまくいかず退職。その後は職を転々とし、煉瓦運びやペンキ塗り、大工や果物摘みなどをし。 カリフォルニアに帰るときも、貨物船の船荷係に雇われて帰っています。こういう体験が、小説に生かされていったのですね。
「怒りの葡萄」は当初「レタスバーグ事件」と言う題名で完成したのですが不満だったので出版を断り。その夏〜秋にかけて改作し、年末に「怒りの葡萄」と改題し完成させました。題名は米の女流詩人ジュリア・ウォード・ハウの『共和国の戦いの歌』からとったそうです。このとき、憔悴しきったスタインベックは、医者から数週間の安静を命じられています。この作品は、初版が50万部以上の売れ行きとなり、社会の各階層に大きな反響を与えました。
彼は、昔(1937年)、西に移動するオクラホマ農民と車で同行し、カリフォルニア到着後も彼等と共に労働しており、その体験が『怒りの葡萄』の母体的体験になったといわれています。

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