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エイブラハム・リンカーン(1809〜1865)アメリカ 政治家 第16代大統領

2月12日 

エイブラハム・リンカーン(1809〜1865)

アメリカ 政治家 第16代大統領

ケンタッキー州の貧しい開拓農民の子として丸木小屋で生まれました。9歳で母に死別しましたが、継母の指導を受けて育ちました。イリノイ州、ニューセレムで、商店の経営、測量士等さまざまな仕事をしながら独学で法律を勉強、1836年弁護士の資格を取得して、スプリングフィールドで開業しました。

1834年〜40年ホイッグ等イリノイ州立議会議員となり、46年連邦下院議員に当選しました。当時南部の農業地帯には、奴隷制度が根強く残っており、彼はそれを廃止するよう運動しますが、1期を努めて引退しました。

その後、カンザス=ネブラスカ法の成立に憤激して政界復帰を決意し、共和党の結成に参加。1858年S.ダグラスを敵として連邦上院議員候補となり、敗北はしましたが、7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」によって全国的に有名になりました。

1860年共和党の大統領候補に指名され、当選。第16代大統領に就任しました。その後、南北対立の激化を前にリンカーンは連邦の維持を政策目的として努力しましたが、南部諸州は彼の政策に反対し、1861年4月には、南北戦争が開始されてしまいました。戦争は始め北軍に不利でしたが、1862年9月戦況が好転し始め、同月22日奴隷解放予備宣言を公布、1863年1月1日に奴隷解放宣言を発布し、反乱状態にある、南部の諸州の奴隷解放を宣言しました。

戦争の早期終結をはかり、1863年11月ゲチスバーグの演説で有名な「人民の人民による人民のための政府は地上から消滅させてはならない。」という言葉を述べています。翌年大統領に再選されました。戦争が終わりに近づくにつれ、寛大な措置による南部の早期連邦復帰を計画しましたが、1865年4月9日、南軍R・リー将軍が降伏し、彼の率いる北軍の勝利に終わりました。

同年4月14日ワシントンのフォード劇場で芝居を観劇中、南部人俳優J・ブースによって撃たれ翌朝死亡しました。ワシントンと並んで合衆国の国父と呼ばれてい
ます。
カンザス=ネブラスカ法
1854年アメリカ、イリノイ州選出の民主党連邦上院議員 S.ダグラスが提案した法案。ミシシッピ川以西の地方に鉄道を敷設するためカンザスおよびネブラスカの2准州を設け、この2准州における奴隷制の可否は住民の多数意志による決定にまかせるというもの。これは過去三十余年にわたり一応は南北の衝突を避けるのに効果のあった「ミズーリ妥協」の撤廃を意味したため、南部の奴隷制拡大の策略とみなす北部と、自由州の増加を恐れる南部の対立は妥協を許さないほど激しくなり、「流血のカンザス事件」などが相次いで起った。

リンカーン=ダグラス論争
1858年のアメリカ中間選挙でイリノイ州の連邦上院議員の椅子をめぐり、民主党の有力者 S.ダグラスと共和党の A.リンカーンの間で、春から秋にかけて7回にわたり各地で行われた討論。奴隷制を認めるか否かを各州の政府にまかせようとするダグラスの「住民主権論」に対し、リンカーンは,奴隷制度は悪であり、これ以上拡大させてはならないと論じた。リンカーンはこのときの選挙では敗れたが、この討論でそれまで無名の一地方政治家であったリンカーンの名前は全国的に知られるようになり、60年に共和党大統領候補に指名されるきっかけをつかんだ。
リンカーンの演説として有名な「人民の、人民による、人民のための政治である」と言う言葉は彼のオリジナルではなく。 元々1850年に発行された牧師パーカーの著作にあった言葉で、その言葉を気に入っていたリンカーンは事あるごとにこの言葉を使って、1858年7月4日の演説の際にも使ったものが有名になって、いつのまにかリンカーンの考え出した名言と言うことになってしまいました。
リンカーンと言えば立派なあごひげが印象的ですが、これは大統領選挙に出馬する為にはやした、いわば選挙対策のものでした。 リンカーンは身長が193.0cmもあり、歴代大統領で一番背が高かく、顔もかなり面長で端から見ると、どうも間延びして見えてしまう傾向がありました。その時、とある11歳の少女からもらった手紙に『あなたのような面長の人はヒゲを生やした方がずっとよいハズです。女性はヒゲを生やした男性が好きですから、きっと奥さんがたはご主人にあなたに投票するように頼むハズです。』と書かれていたそうです。 そしてそれに従った為なのか、リンカーンはめでたく大統領選挙で当選しました。
リンカーンが語った言葉の中に「男は自分の顔に責任を持つべし」と云う物もあります。
リンカーンは、曲がったことが大嫌いで、どんな仕事でも真面目に取り組みました。雑貨屋の時にはお客に1セントでも渡すのを忘れると追いかけていくほどで。周囲から「正直エイブ(リンカーンの愛称)」と言われていました。
若い頃のリンカーンがもっとも気にいった職業は郵便局員でした。というのも、その頃の郵便局員は村に来る新聞を一番最初に読んでもいいことになっていたためで、元々、文章好きのリンカーンには、まさにうってつけの職業でした。リンカーンは配達する手紙をカバンでなく、自分の帽子にいれて配っていたため、「帽子の郵便局」と呼ばれていたそうです。
インターネットで見つけたちょっと不思議な話

JFKとエイブラハム・リンカーンの一生の奇妙な相似
リンカーンは1846に下院議院に選出された。ケネディは1946に下院議院に選出された。
リンカーンは1860に大統領になった。ケネディは1960に大統領になった。
LincolnとKennedyはどちらも七文字である。
どちらの妻もホワイトハウスで一度、ホワイトハウスを出てから一度子供を亡くしている。
どちらも南部出身の大統領が後を継いだ。
どちらの後継者の名前もジョンソンだった。
リンカーンの後継者、アンドリュー・ジョンソンは1808に生まれた。
ケネディの後継者、リンドン・ジョンソンは1908に生まれた。
リンカーンはは1865に亡くなり、アンドリュー・ジョンソンは1875に亡くなった。
ケネディは1963に亡くなり、リンドン・ジョンソンは1973に亡くなった。
どちらも金曜日に撃たれた。どちらも頭を撃たれた。どちらも撃たれた時妻の隣に座っていた。
どちらも南部出身の犯人に撃たれた。
リンカーンを撃ったブースは1839に生まれた。
ケネディを撃ったオズワルドは1939に生まれた。
どちらの犯人も名前が三つ(ファーストネーム、ミドルネーム、姓)で知られており、名前の文字は15文字だった。
ブースは劇場から逃げ、倉庫でつかまった。オズワルドは倉庫から逃げ、劇場でつかまった。
どちらの犯人も裁判の前に殺害された。
リンカーンはフォード劇場で射殺され、ケネディーはフォードのリンカーンに乗っている時に射殺された。

2月


12日
チャールズ・ダーウィン

1809〜1882

イギリスの博物学者で進化論者

イングランド西部のシュズベリに医者の子として生まれました。10歳頃から昆虫に興味を持ち、昆虫の他にも貝殻や、植物、鉱物の標本を集めていました。その後、エジンバラ大学の医学部、ケンブリッジ大学の神学部に学び、卒業してビーグル号という海軍の測量船に乗り込み、南半球一周の旅に出るのでした。

ビーグル号は、アフリカの西を通って南アフリカの東海岸へまわり、赤道直下にあるガラパゴス島へと向かいました。彼は、そこで14種類ものアトリ科の鳥、フィンチの変種が各々の変種毎に群島のあちこちの特定地域に繁殖しているのを発見したのです。彼は、元々は1つの種類であったこの鳥が、長い年月の中でそれぞれの環境に合わせて変化したのだと考えたのです。

ビーグル号はその後、オーストラリアの南を通過して、インド洋に出て、1836年にイギリスに帰国しました。彼は、膨大な標本と共に航海中に行なった諸観察から、種が変化する可能性を考えるようになり、1859年「種の起原」を出版しました。彼は、この本で「生物は下等で簡単なものから次第に高等なものへと進化する」ことを豊富な実例によって説明し、人間もまた猿に似た動物から進化したと説いたのです。

彼の進化論は、内容が科学的でしかもそれが豊富な実例によって裏づけられてうあたため、強い説得力を持っており、大きな反響を呼び、この学説は世界に広まっていったのでした。

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