2月


11日
トーマス・アルバ・エジソン(1847〜1931)アメリカ、世界の発明王

アメリカ東部のオハイオ州ミランに生まれました(電話を発明したベルと同じ年)。父はカナダ生まれの小さな製材工場の経営者、母は牧師を父に持つ知的な婦人でした。7歳の時、ミシガン州ポート・ヒューロンに移住。小学校に入学しましたが、成績が悪く、低能児扱いをされたので、母はわずか3ヵ月で学校をやめさせもっぱら家庭で教育しました。数学はいたって苦手でしたが、物理、化学の実験はこのころから得意でした。

12才の時、鉄道の新聞売子になりましたが、鉄道会社と契約、汽車の中の1室を借りて、世界初の鉄道車内新聞を発行しはじめました。15歳の時、線路に落下した子供を助け、その子の父であった鉄道会社の電信技師に、当時最先端のこの電信の技術を教えられました。

電信の技術を覚えたエジソンは、この後ほとんど無一文の状態で全米をさまよいながらあちこちで電信技師の仕事をしました。そして21歳の時ニューヨークにたどりついて、ここで電信会社で月300ドルの仕事をもらって暮らしながら、いろいろな発明をしていたのですが、翌年株価表示機の特許を取得。これが4万ドルで売れて、彼はプロの発明家としての第一歩を踏み出すことになります。

1876年メンロパークに移るまでの6年間に、122件もの特許を得、さらに、電話機の改良、蓄音機、白熱電球、映写機、アルカリ畜電池器など次々に画期的な発明考案を行ないましたが、なかでも電球の発明とその事業化は、一般家庭に電力をとり入れる機会をつくり、今日の家庭電化文明をもたらすための礎となりました。

1878年「エジソン電灯会社」を設立、後、いくつもの会社を創りますが、1889年それらを合併させ「エジソン総合電気会社」(現ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)を設立し、1892年以降は、又、研究室に閉じこもり発明に没頭しました。

1914年67歳の時、そのエジソンを不幸が襲います。研究所が火事になって、試作品や書類など膨大な資料が焼けてしまったのです。しかし彼は「なに、また今から始めればいいんだ」と平然と言ってのけました。彼はその後も合成ゴムの研究など精力的な活動を続け、「仕事はすでに終わった」の言葉を残して84歳で亡くなりました。生涯に1300以上の特許を得ています。

エジソンの業績はこのほか、電気鉄道、無線通信、航空機などきわめて広範囲におよび19世紀後半から20世紀初頭にかけての主要な技術上の問題で、エジソンと関係のないものはないといってもよいほどです。
「天才とは99%の汗(パースピレーション)と1%のひらめき(インスピレーション)である」と言っている。
エジソンの発明になる電球のフィラメント材料として、石清水八幡の竹が使われていたことから、同八幡宮境内に記念碑が建てられ誕生日ごとに記念行事が行なわれている。

 何千回と言う実験の中から、最後に選ばれたのがこの竹でした。
   炭素フィラメント   45時間
   竹           200時間
   岩清水八幡の竹  1000時間

 タングステンに変わるまで30年間使われ続けたということです。  
エジソンがヒューロン停車場の電信係の夜間勤務に採用されたとき、彼は、昼間は睡眠をもとらないで自宅の屋根裏の部屋で実験に励んでいました。そのため夜間勤務中度々睡魔に襲われ、よく叱られたそうです。彼の監督者は一策を案じ夜中30分毎に「A」の字を送らせ、それにより彼がどうしても起きていなければならないようにしたのです。彼は数日間は真面目に起きてそれをやっていたのですが、その内に、彼は電信装置と時計をつなぎ、自動的に30分毎に「A」の字が送れるような回路をつくったのです。これで安らかに数夜を眠ることができましたが、間もなく見つけられてしまい、監督者はエジソンの才能を惜しみながらも彼を解雇しなければならなかったということです。
2月11日といえば紀元節と言い、日本の建国を祝う大きな祝祭日でした。大正11年(1922年)のこの日、東京丸の内の工業倶楽部の講堂には各界の知名の士が集まっていました。ところが、これは紀元節を祝うのではなく、この日75回目の誕生日を迎えたエジソンを祝福するためでした。
会場演壇の正面には、エジソンの写真が掲げられ、その左右には星条旗と日章旗とが懸かり、演壇には羽織、袴の渋沢栄一が巻紙に書かれた祝辞を朗読し。両側からまばゆいばかりのアークが照らされ、映画撮影機のクランクのまわる音がしています。これはエジソン翁第75回誕辰祝賀会で会長渋沢栄一翁の祝辞をフィルムにおさめてエジソン翁に贈るためでした。
この盛大な記念式についてエジソンの発明に関する記念講演会や展覧会が催され、日本国民は多くの重要な発明をして、人類に多大な幸福を与えたエジソンに感謝しエジソンの長寿を祝福しました。

2月


11日
佐久間 象山(さくま しょうざん)

1811〜1864

江戸時代末期の洋学者

信州(長野県)松代藩士で、名は啓(ひらき)といいました。父は藩の祐筆をしており、彼も幼い時から勉学に励んでいました。

数学易学を学び、23歳の時に江戸に出て佐藤一斎の門に入って朱子学を学びました。その後、藩主が幕府から海防がかりを命じられると、その、顧問となって海外情勢の研究にあたり、「海防八策」を建言しています。さらに西洋技術による国防強化を志し、江川太郎左衛門について砲術を学び、ヨーロッパの学問を学び、吸収してゆきました。築城、造船の技術もおさめ、江戸に塾を開いて西洋の砲術兵学を教え、その門弟は500人にものぼり、吉田松陰、勝海舟らが輩出しました。

その後、勝海舟の妹・順子と結婚し、1853年のペリー来航の際には、藩の軍議役として活躍しましたが。 吉田松陰の密行計画に連座し、江戸伝馬町の獄につながれ、松代に蟄居となってしまいました。

この間、彼は西洋の学問、研究に没頭していましたが、1862年に蟄居を許され、将軍徳川家茂の命により京都へ上洛し、公武合体、開国佐幕を説いて活躍中の、1864年7月11日三条木屋町で尊王攘夷派に暗殺されてしまいました。54歳でした。

彼が暗殺されたことを聞いたとき、海舟は日本の頭脳が失われたと嘆いたといわれています。
象山を暗殺したのは、「人斬り彦斎」の異名をもつ強烈な攘夷主義者の肥後の河上彦斎でした。 その後、彼は、「人を斬るのは木偶を斬るのも同じだが、象山を斬った時は身の毛がよだつのを感じ、こちらの命まで消え失せる気がした。」と感想をもらし、その後人斬りの足を洗ったともいわれています。
ちなみに、象山には「しょうざん」と「ぞうざん」の2通りの呼び方があり、熱狂的なファンも多いため、しばしば、議論のもとになっているそうです。
彼は、砲術家・科学者・医学者・言語学者・政治家・詩人・儒学者と、各々の分野で輝かしい業績を残しています。また、彼は、「日本人は世界で一番優秀な民族だ。にもかかわらず、文化がおくれているのは科学がないからだ」と考え、彼が開国を説いたのも、科学をさかんにするためだといわれています。
彼が、とくに興味を持ったのが電気で、オランダの百科辞典を手に入れ、銅線に絹糸をまいた絶縁電線や、電池を自作し。49歳のときには、電池とコイルを使って誘導電流を起こすなど、いろいろな電気の実験をおこなっています。また電信の実験を日本で始めて行ったのも彼だともいわれています。

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