2月


4日
チャールズ・リンドバーグ(1902〜1974)アメリカ、飛行家

「翼よ、あれがパリの灯だ」

アメリカ、飛行家

ミシガン州デトロイトに生まれました。父はスウェーデン系移民で下院議員、ウィスコンシン大学機械工学科を中退し、飛行学校に入学、郵便飛行士となります。そして、懸賞金2万5千ドルの、大西洋無着陸横断飛行に挑戦するため、セントルイスの事業家の資金援助で特別機を注文製造し、1927年5月、単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」号に乗り、ニューヨーク=パリ間を33時間30分で飛び、大西洋無着陸横断飛行に成功しました。

一躍世界の英雄となり、ローン・イーグル、ラッキー・リンディといわれる。1929年5月中南米親善飛行の途中知り合ったメキシコ駐在大使の娘、アン・モローと結婚、アンは夫の副操縦士となって一緒に各地を飛行しています。

1932年(昭和7年)には、北太平洋経由で日本にも飛来し、翌年には、北極探検飛行を成し遂げています。しかし、この年、2歳弱の長男が誘拐、殺害されるという悲劇に見舞われました。アメリカでは、この悲劇的な事件を機にリンドバーグ法が成立しています。

息子を失った哀しみの中、彼は1935年から39年はヨーロッパで過ごし、フランスで医師A.カレルに協力し、人工心肺の第一号機を開発、ドイツではナチス党のH.ゲーリングから、名誉勲章を授けられ、帰国後、アメリカの第2次世界大戦参戦を反対したため、親ナチスとして非難されますが、後、軍顧問として戦線に赴き、空中戦にも参加しています。

第2次世界大戦後、准将に昇進し、空軍や航空会社の顧問を務め、53年、単独飛行の回想録「翼よあれがパリの灯だ」を出版(1954年ピューリツァー賞受賞)。「飛行と人生」等の著書もある。

夫人、アンもエッセー集「海からの贈り物」等で知られる作家です。

※リンドバーグ法
 複数の州にまたがる誘拐犯行を連邦犯罪として取り締まる法律。

1927年5月20日午前7時52分、チャールス・リンドバーグは、スピリット・オブ・セントルイスと名づけられた飛行機に搭乗、ニューヨークを出発。燃料積み込み重視のため、非常用パラシュートもなし、サンドイッチ5個と1リットル弱の飲み水を携えただけの命がけの飛行だった。総飛行距離約5800キロメートル、33時間39分のフライトの末、翌 21日の午後、「翼よあれがパリの灯だ」という名セリフとともに、パリのル・ブールジェ空港に到着。初の単独無着陸大西洋横断飛行に成功した。さて、アメリカに国民的英雄が帰還する時、必ず行われるのがニューヨーク市のウォール街でのパレード。その際、高層ビルの窓から紙吹雪をまいて歓迎の意を表すのが伝統となっている。同市衛生局の統計によると、1920年代、第1次世界大戦の終了ムードの中で、大統領を招いての凱旋パレードが行われた時の紙吹雪の量は155 トン、1960年代、初めて宇宙空間を飛んで帰ってきた宇宙飛行士の パレードでは1000トンだったが、リンドバーグの凱旋パレードでは 1800トンという史上最大量の紙吹雪がまかれたという。
この当時、3機が大西洋無着陸横断飛行計画を立てていました、みな高名なパイロットで、副操縦士を同伴しており、飛行機もまた高性能の三発機だったのですが、試験飛行の段階でことごとく失敗しています。しかし次に名乗りをあげたリンドバーグは
無名の青年で、飛行機は単発機の上、燃料を積むために無線機、燃料計も取り外してのチャレンジだったのです。当然ながら、副操縦士もおらず、単独飛行を行うというこの計画は、多くのアメリカ人の失笑を買い、ばか者呼ばわりまでされる程だったと
いわれています。
リンドバーグは、九州、福岡の名島飛行場が開場した翌年の昭和6年9月17日に、婦人を伴ってシリウス号で名島飛行場に飛来している。夫妻はその夜、呉服町(現・博多区店屋町)の片倉ビルの共進亭ホテルに泊まり、博多っ子の大歓迎を受けた。夫妻は博多の名産、博多織や博多人形を贈られたが、特に原田嘉平さん作の「桃太郎」が気に入ったという。というのも、夫妻はアメリカに満一歳になったばかりのオーガスタ君を残していたからであった。この「桃太郎」は、オーガスタ君を喜ばせたことだろうが、その半年後にオーガスタ君は自宅から誘拐され、惨殺死体で発見された。

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