1月


26日
盛田昭夫

(1921〜1999)

「とにかく思い切ってやってみようじゃないか。間違ったらまた変えるのだ。」

ソニー創業者、日本を代表する国際派経済人

1921年(大正10年)愛知県常滑市に古くから伝わる造り酒屋(銘酒「子(ね)の日松(ひまつ)」の酒造元)の長男として生まれました。幼いときから父、久左衛門から礼節と名門意識を叩き込まれます。

大阪帝国大学理学部物理学科卒業後、海軍技術中尉となり、このころ、軍の戦時科学技術研究委員会で一緒に新兵器を研究した故井深大氏(のちソニー社長)と親しくなりました。終戦後、井深氏とともに東京日本橋の白木屋デパート3階にソニーの前身である東京通信工業を設立し、取締役に就任。「大会社のできないことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう」と誓あったといわれています。

その後、苦労はありましたが、テープレコーダーやトランジスタラジオなど日本初の商品や、ヘッドホンステレオ「ウォークマン」などのヒット商品を次々と世に送り出し、井深氏と二人三脚で戦後生まれの町工場を世界的大企業に育てました。

ソニーに社名変更後の1971年社長に就き、又、18年間会長を務め、その間、音響・映像機器事業に音楽・映画というソフト事業を加えて相乗効果を発揮させる戦略を進めています。

その他にも、彼は1966年「学歴無用論」1986年「メイド・イン・ジャパン」を世界17カ国で出版。1989年「NOと言える日本」(石原慎太郎との共著)を出版するなど、その言動は国際的にも反響を呼びました。財界の外務大臣との異名もあり、米誌タイムのビジネスの世界で20世紀最も影響のあった経済人20人に日本人としてはただ一人選ばれています。

1993年脳内出血で倒れ、以後ハワイで療養。1999年肺炎のため78歳で生涯を閉じました。

※井深大(1908〜1997)ソニー創業者
早稲田大学理工学部在学中に「走るネオン」を発明し、パリ万国博覧会で優秀発明賞を受賞。ソニーの発明を技術面及び製品設計面から支える。盛田と共に世界のソニーを築く。
「SONY」の社名の由来。音『SOUND』や『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス)』と、小さい坊やという意味の『SONNY』を掛け合わせて作った言葉だそうです。
SONY設立当初のエピソード
"電気ざぶとん"は、井深が考案した冬向け商品である。これは、2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、これをレザークロスで覆ったものだ。石綿も、ましてやサーモスタット(温度を一定の範囲に保たせるための自動調節機構)といった気の利いたものは入ってない恐ろしげな商品である。さすがに、これには東通工の名前を付けるのは気が引けて、"銀座ネッスル(熱する)商会"という名を井深が付けたが、物がない時代だけにこれが売れに売れた。社員の家族総出で、ミシンをかけたり、コードをかがったりの下請け作業である。これによって新円を随分かせぎ、下請け代金を新円でもらった家族も皆大助かりであった。しかし、その分大事な毛布を焦がしたとか、ふとんに焦げ跡ができたという苦情も多く、電圧の上がる夜中など火事を起こさないかと作ったほうがヒヤヒヤしたそうである。
SONY設立当初のエピソード
設立当初は、社員全員が会社を盛り上げなければという気持ちで頑張った。その分、夜が遅くなる。あまり遅くまで仕事をしていると、白木屋の出口という出口にみな鍵をかけられてしまう。そこで仕方なく非常階段から下りると、それを見とがめた警察官につかまって絞られる者も出る始末。夜更けて非常階段から出て、泥棒と間違えられないほうがおかしいのである。苦労と言えば苦労、楽しいと言えば楽しい毎日であったといわれていまする。
「重税を納めているサラリーマンは、全体としてみれば日本国の大株主である。いまや進んでわれわれの国を守るために、本当に動かなければならないときが来ている。経営担当者である政府が弱く、われわれの出資金を使う人たちがおかしいとなると、株主としてはもう黙ってはいられない。産業人には政治はわからぬ、といわれるけれども、いまやそんなことをいって傍観してはいられない。われわれは株主として、われわれの意志の代表者を、取締役会に送り込むべきではないか。

産業人の誇りを土台として、われわれの日本国を倒産から守るパワーを持つために新しいグループとなって結集することを提案したい。」

盛田 昭夫


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