11月


7日
マリー・キュリー(キュリー夫人)(Marie Curie)

(1867〜1934)

フランスの物理学者

ポーランドのワルシャワで学校の先生の子として生まれました。苦学の末パリのソルボンヌ大学に入り物理学を学びます。

パリ大学での4年間は、家庭教師でためたわずかなお金と、故郷で数学の教師をしている父親が時々よこすほんの少しのお金で生活をしていたのでした。そのわずかな生活費で、部屋代と食費、授業料まで納めていたのです。

一冬に石炭二袋を買うのがやっとで、貴重な石炭を倹約するために、冬の夜でもストーブなしで過ごすこともあったようです。寝る時はトランクを開けてタオルやらシーツやらよそ行きのドレスまで上からかけてそれでも寒さで震えが止まらない夜もあったということです。

食事も、炊事をする材料も満足に買えませんでしたが、それ以上に貴重な時間を炊事についやすのが惜しかったので、パンとバターと薄い紅茶だけで何週間もすませたこともめずらしくはなかったようです。

そして、1893年に最優秀の成績で物理学の学位をえています。そして翌年、彼女はパリ物理学校の実験主任だったピエール・キュリーと出会います。自然や田舎が好きで、お金や快適な暮らしを求めず、物理の研究に情熱をそそぐところなど、共通点の多い二人は出会った翌年に結婚しました。

そしてウラン鉱石から目には見えない不思議な光線がでていることを発見した彼女は、ピエールの手伝いもあって、ウラン鉱石から、その光線を取り出すことに成功しました。その光線を母国・ポーランドから名前を取って、「ポロニウム」と名づけました。しかしポロニウムを取り出しても、まだ鉱石から別の光線が出ていました。マリーは娘の世話をし、女学校の先生をしながらも、ピエールと研究を続けました。そして1902年とうとう、夫妻は放射線物質「ラジウム」を取り出すことに成功したのでした。

キュリー夫妻はこれらの功績を称えられ、1903年にノーベル物理学賞を受けました。しかし不幸にも、ピエールは1906年に交通事故で亡くなくなってしまいました。

彼女は晩年、死んだ夫のあとを継いでパリ大学ラジウム研究所キュリー実験室長となり、パリ大学最初の女性教授となりました。1911年には、1903年に最初のノーベル賞受賞に次いで、再びノーベル化学賞を受けることになります。このときキュリー夫人は「この栄誉は、夫ピエールとの共同研究によりその土台が築かれたもので、私へのおほめの言葉は、そのままピエールへの賛辞であると考えます」とピエールに功績を譲ろうとし、いっそう参会の人々を感激させました。

そして1934年、彼女は白血病に冒され永遠の眠りにつきました。享年67歳でした。
彼女が生まれ故郷のポーランドにいた19歳の時、彼女は金持ちの家に雇われて10歳になる少女の家庭教師をしていました。やがてクリスマスになって、大学へ行っていたこの家の長男が休暇で帰ってきました。そして、彼女の美しさと機智あふれる人柄に好意をもち、プロポーズをしたのです。

ところが、それを聞いて両親は大反対。父親のほうはカンカンに怒って散々彼女を罵倒し侮辱したのです。このことによって、彼女は結婚の望みは一切すて、パリへ留学し、一生を科学に捧げることになったということです。

もしこの一家から長男の嫁にと、温かく迎えられていたら、おそらく科学者にもならず、ましてやラジウムの発見という偉業もなく、歴史は変わっていたでしょう。
第一次世界大戦には、放射線技師による軍医務室を編成し、エックス線装置をのせた「ブチ・キュリ−」と名付けられた自動車をマリー自ら走らせ、戦場で負傷した軍人の治療にあたり活躍しました。17才になっていたイレー ヌも母を手伝います。最初は1台しかなかった「ブチ・キュリー」は、人々の善意の資金が集まり数百合にもなり、100万人以上の人が診断され恩恵を受けました。
ラジウム1グラムに相当する放射能量を1キュリーと呼び、長い間、基本の単位として用いられてきましたが、通常使うには大きすぎるので、現在では元素の崩壊1回を基本にして1ベクレルと呼ぶことになっています。1キュリーは37億ベクレルに相当します。
1898年から1902年までの4年間、キュリー夫妻はラジウムの存在を証明するための努力を続けました。4年間で得たラジウムは、なんと10分の1グラムしかありませんでした。しかし、そのために二人は鉱石8トンを煮沸し精製したのでした。

実験室は、以前は医学部で解剖室に使用していたが、老朽した古い倉庫。床板は張ってないし、屋根からは雨が漏る。冬の寒さは戸外となんら変らない状態であったようです。煮え立つ鉱石や薬品からはものすごい煙が立ち、目にはしみるし、のども痛くなるといったようす。 この倉庫の中で二人は実験を続けました。時に夫のピエールは絶望して、研究の一時中止を言い出しますが、妻のマリーは頑として実験をやめようとはしませんでした。その苦心の成果が、ラジウム10分の1グラムだったのです。
夫妻はラジウム発見の大功績からは1ペニーの金も受けなかったのでした。

「 そんなこと、できるもんですか 」とキュリー夫人は語っています。「 そんなことをしたら科学的精神に反します。それに病気の治療に使うのでしょう。病人の足元につけ込むなんて、できやしません 」いかにもクリスチャンらしい無私無欲の精神で彼女はきっぱりといいきったのです。
キュリー夫人は教育についても独自の考えを持っていました。大学の同僚とともに、語学、芸術、科学、体育など、特に実技を中心とした共同運営のユニークな学習塾をつくり子弟を教育したのでした。全人教育を目指したものであり、娘イレーヌもここに2年間通っています。当時のフランスでは、現在のような能率だけを重視した専門科目偏重や、詰め込み教育が蔓延していたのでした。
キュリー夫人は、計算や読み書きの訓練は必要だが、積極的に行動する心、人を思いやる心は、自然に触れることや芸術によって育まれると信じていたのでした。そして、何よりも大切なのは健康であると考えていました。キュリー夫人自身が自伝のなかで次のように述べています。「 子供達の教育について言えば、私は体育を主とし、ほんの少しの時間を学科のために残しておけばそれで十分だという意見を持っておりました 」

11月


7日
アルベール・カミュ(Albert Camus)

(1913〜1960)

フランスの作家

フランス領アルジェリアに生まれました。彼がまだ幼い時に、フランス人入植者の父が戦死、貧しい子供時代を送りましたが、その後苦学してアルジェリア大学を卒業。数々の仕事を渡り歩きながら、劇団を作り演劇運動を始めています。

1938年にはアルジェリアを離れフランスのパリに行きましたが、フランスがドイツに敗れたために1940年にアルジェリアに戻り、ドイツへの抵抗運動に参加しながら、小説「異邦人」等の作品を発表し、この作品は、としてサルトルをはじめ多くの人々に「独軍占領以来最良の書」激賞されています。

1942年にふたたびドイツ占領下のパリに出て演劇活動をつづけ、自作の「誤解」などを上演し、戦後は「カリギュラ」を上演、ドイツ人の暴力と不正を暴き、これに反抗する自分の気持ちを述べた「ドイツ人への手紙」を書きました。

そして、占領軍への抵抗を背景にして、ペストの流行と戦う人々の姿をいた大作「ペスト」を発表するにおよんで、フランス国内はもちろん、諸外国にまで熱狂的な反響を喚び起し、その名声はついに世界的なものになりました。その後も「戒厳令」「正義の人々」等の戯曲を発表しています。

しかし、1952年のエッセイ「反抗的人間」が、サルトルとの論争に発展しています。サルトルはマルクス主義と革命を追求したのに対し、彼は暴力を否定し、「反抗」こそが社会を変革すると説いたのです。

そのため、彼は孤立してしてしまいますが、以後、持病の肺病と闘いながらも「転落」等を発表し、1957年44歳という異例の若さでノーベル文学賞受賞しています。

そして1959年の末頃から、以前から構想を練っていた小説「最初の人」の執筆にとりかかりましたが、翌年の1月4日、執筆先の別荘からパリへの帰宅途中、不慮の自動車事故のため亡くなってしまいました。47歳の若さでした。
彼は、同乗していた車が道路わきの木に激突して亡くなりなくなってしまいましたが、彼は亡くなる前に執筆中の作品について「1960年は私の小説の年となるでしょう。すでにプランは立ちました。私は真剣に仕事にかかりはじめました。仕事は長びくでしょう。でも私はやり遂げるでしょう」と語っていたということです。
異邦人
主人公ムルソーは友人レエモンの女性とのトラブルが元で、浜辺で殺人を犯してしまいます。けれども、彼は殺害の直接の原因は、照りつける太陽なのだと、かたくななまでに赦しを拒みました。その彼が、死刑判決を受けるまでをち密な心理描写で描いた作品で、「不条理」の文学の最高峰とされています。
ちなみに、彼は、先日結婚されたタレントのセイン・カミュさんの大叔父にあたるそうです。


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