10月


9日
シャルル・カミーユ―・サンサーンス(Charles Camille Saint-Saens)

(1835〜1921)

フランスの作曲家

フランス内務官吏の長男としてパリで生まれました。生後すぐに父を亡くし、母とその伯母シャルラット・マッソンの手によって育てられたのですが。この大伯母は優れたピアニストで、物心つかぬうちから彼にピアノを教えました。

彼はモーツァルトと同様に神童ぶりを発揮し、3歳半で作曲をしたといわれ、5歳のときには既にハイドンやモーツァルトのソナタを弾きこなしたといわれています。

7歳になって本格的にピアノ、オルガン、作曲を勉強し始め、10歳のとき、サル・プレイエルで2回にわたってピアノ演奏会を開き、このときに暗譜でモーツァルトやベートーヴェンの協奏曲を演奏し、聴衆を驚愕させました。

その後、パリ音楽院に入学しオルガンと作曲を専攻し、卒業後はオルガン奏者や宗教学校のピアノの先生となりましたが、1871年、フランス音楽を全世界に広めるべく、ビュシューヌと協力して国民音楽協会を創設。そして、弟子のフォーレ、フランク、ラロなどを援助しつつ、自らも多くの器楽曲を書く。この頃書かれた代表作に「死の舞踏」や「動物の謝肉祭」などがあり、また1872年の「黄色の女王」を機にオペラの分野にも手を広げ、「サムソンとデリラ」「ヘンリー8世」などの名作を生み出しました。ことに、「第三交響曲」は最大の傑作と言われ、穏やかで明るい音楽性に特質があります。

晩年は、広く世界中を旅して回り、その体験が「アルジェリア組曲」などに活かされました。また、「サンサーンスほど世界の音楽に精通している者はいない」とまで評されました。

そして、1921年12月16日、彼の愛した土地であるアルジェリアのアルジェにて、亡くなりました。

又、彼はは音楽だけでなく、ラテン語の古典文学、数学、天文学、哲学、古典劇研究などの分野においても才能を発揮しています。

10月


9日
ジョン・ウィンストン・レノン (ジョン・オノ・レノン)

(1940〜1980)

イギリスのポピュラー音楽家

イギリスの、リヴァプールのウールトンで生まれました。彼が一歳半の時、船で働いていた父親が失踪し、そして母親までもが彼を置いて別の男性の所へと行ったため、彼は母親の姉ミミによって育てられました。叔母のミミは実の子供同様に彼を可愛がり育ててくれましたが、彼はいつも母を求めていたと回想しています。

彼はエルヴィス・プレスリーにあこがれ、中学に入るとジョンは同級生と初めてのバンド、クォーリーメンを結成します。そして、教会のパーティーで演奏しているときにポール・マッカートニーと出会い。ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグズ、シルバービートルズと活動を続けていく中で、ビートルズの原形が形作られてゆき、1962年10月5日に、ザ・ビートルズとしてデビューしたのでした。

彼は、ビートルズではサイドギターを担当し。当初はグループのリーダー格としてビートルズを引っ張って行きました。ビートルズの曲のほとんどは彼とポールによって作詞作曲されました。

1966年に、彼はロンドンの画廊で前衛芸術家のオノ・ヨーコと知り合います。2年後を知る、彼は妻のシンシアと離婚し、その翌年ヨーコと結婚します。

その後、彼は自分が本当にやりたい音楽を追求し、世界に向かって平和のメッセージを発信しつづけました。1975年に、ようやくアメリカの永住権を獲得しヨーコとの間にショーンが誕生した彼は、以後は育児に専念するため活動を休止し、主夫(ハウス・ハズバンド)としての隠遁生活に入ります。

1980年になって、新たな音楽活動を開始したちょうどその年の12月8日、彼は自宅のダコタ・アパートの入り口で狂信的なファンの手によって5発の銃弾を受け、帰らぬ人となってしまったのです。40歳でした。
1965年、ビートルズはイギリスのために大量の外貨をかせいだとしてエリザベス女王からMBE勲章を受章していますが、1969年に、ジョン・レノンは、イギリス政府のビアフラへの介入、ベトナム戦争への支持政策に抗議してこれを返上しています。
レノン・マッカートニー

彼らは、デビュー前からの2人のどちらが作曲しても「レノン・マッカートニー」という名前で発表しようと約束をしていたため、ビートルズの曲の多くに「レノン・マッカートニー(Lennon/McCartney)」というクレジットがはいっているそうです。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に