10月


3日
タウンゼンド・ハリス(Townsend Harris)(1804〜1878)アメリカの外交官。幕末の駐日公使

ニューヨーク州サンデーヒルに生まれました。生まれは貧しかったのですが、ニューヨークで乾物の商店を開いたのを手始めに独学で商人の道を歩み、サンフランシスコで皮革の貿易商人となるや、中国、インドシナ、タイ、インド、香港、エジブトで活躍しました。

1846年に市の教育委員会委員長の役に就き、1847年に、経済的に困難な学生のために、初の授業料無料の市立大学(フリーアカデミー、現在のニューヨーク市立大学CCNYの前身)をつくりました。彼のこの試みに対しての周囲の風当たりはたいへん強いものでした。無料の教育など庶民や移民、貧民の子供に役に立つものかと、多くの人が考えていたのです。けれどもハリスは、「全ての人に門戸を開こうではないか。」と主張したのです。(現在、CCNYの卒業生のうち8人がノーベル平和賞を受賞しています。)

その後、彼は1854年、清国寧波領事を経て日本駐箚総領事に任命されました。彼は、早くから日本に関心を寄せており、ペリーの話を耳にした直後、時のアメリカ大統領ピアスに、「私は独身で身軽です。それゆえ、どんな困難にも打ち勝てるはずです」と自分を日本総領事にしてもらうよう直訴したと言われています。

彼の最大の任務は「日米通商条約」の締結でしたが、彼の要求に対して幕府は誰一人として、このアメリカの商人と真剣に議論しようとしませんでした。そこで彼は、アメリカの兵力を動かす覚悟があることを幕府に通達します。もちろん、彼は一隻の軍艦も持っていないどころか、兵を動かす権限もなかったのですが、これに驚いた幕府は、井伊直弼の決断で勅許を受けないまま「日米通商条約」に調印することになりました。

商人から転じて外交官となった彼は、アメリカの利益を最優先にせず、公正に日本の国際化のために常に正論を通しました。それゆえ、日本に対してアメリカとだけでなく、いかなる国とも貿易してよいと認めています。この時、彼がアメリカの利益を最優先に交渉を進めていたら、もし、彼以外の人物が外交官だったとしたら、日本はアメリカの植民地になっていたかもしれないとも言われています。

また、彼は幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めたりもしています。

しかし、1862年、アメリカの外交方針変更により解任され帰国、(帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれさだかではありません。)74歳で亡くなりました。生涯独身でした。

ニュ−ヨ−ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所に、彼の墓石はあり、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されているそうです。
当時、日本で通じる外国語といえばオランダ語だったので、ハリスはオランダ語のできる書記としてヒュースケンを連れだっての来日したのですが。ヒュースケンは1861年プロシア使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪(まき)河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死亡しています。幕府はヒュースケンの母に1万ドルを贈り、事件を落着させています。
唐人お吉

彼が、軍艦サン・ジャシント号に乗ってオランダ人ヒュースケンを通訳に伊豆下田に着任したころ、幕吏のはからいで下田奉行の命により大工の娘で芸妓斎藤きち(通称は唐人(とうじん)お吉)が、政務多忙を極め病床にあったハリスの看護のため玉泉寺に送られ妾となっています。 ハリス52歳お吉17歳でした

お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。51歳でした
ハリスとお吉と牛乳
お吉は、ハリスが牛乳を欲するのを知り、禁を犯して下田近在から、和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです。その時ハリスが15日間飲んだ9合8勺の牛乳の代価が1両3分88文之は、米3俵分に相当したといいます。 このことが日本における牛乳売買の初めといわれています。
また、ある資料によると、ハリスが護衛の武士に一度ステ−キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返し、これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めたという話が残っています。


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