唐招提寺のお話 |
古都奈良の大寺で更新が遅れておりました「唐招提寺」もやっと出来、私の目標も |
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栄叡、普照の二人が鑑真和上に我が国の伝戒の師として弟子の紹介を懇請しました |
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鑑真和上の渡航歴をまとめますと |
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754年「聖武上皇」は今後、授戒伝律は一に和上(鑑真和上)にまかすとの詔を出され、
何故か同じ天平勝宝8年(756年)に、鑑真和上と東大寺の「良弁上人」が大僧都に任ぜ
大僧都に任じられてから二年三ヶ月後の758年、鑑真和上は「淳仁天皇」から大僧都
鑑真和上亡き後は弟子の「義静」「如宝」が唐招提寺の伽藍の充実に尽力しており、 |
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唐招提寺は多くの文化遺産と広大な敷地を所有するためか、「唐招大寺」と勘違いさ |
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![]() 扁 額 |
「南大門」は昭和35年の復元です。
現在掲げられている「勅額」は複製で「孝謙天皇」の宸筆である実物は講堂内で拝見 |
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![]() 蟇 股 |
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短い「飛檐垂木」と長い「地垂木」は古代寺院の特徴です。三棟造は法隆寺東大門、 |
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南大門を潜るとすぐに南大門と接近して同規模の中門が建っていましたが地震に |
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天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけです。ただ、法隆寺の場合 |
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「金堂」は天平時代では唯一の遺構という価値が極めて高い建築です。この度10年 金堂は珍しく白壁の間が全然なく、扉と連子窓だけと大型の扉口が相まって、堂 |
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天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる「大型仏壇」という閉 堂内で法要を行う場合は金堂の扉は外開きとなりますが庭儀の場合は当金堂のよ
天平時代からの変化は金堂の両脇に回廊が取り付くことと金堂の間口が長くなり |
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江戸時代に屋根は2.8m高くなり、穏やかな屋根勾配ではなくなりましたが我々日 |
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上記の左の写真は南大門からで豊かな自然に抱かれた金堂、中の写真はホームページ |
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![]() 扉 絵 |
金堂の天井画は華麗 |
![]() 四間一花(宝相華文) |
利用して一つの宝相華を描く四間一花で、大型の宝相華文となりますが法隆寺では |
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柱の径は正面の最大幅の1割2分が決まりであり、16尺(中央間)×1.2=約2尺 |
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![]() 蟇 股 左の写真は8本の円柱で壮観な眺め となっております。 |
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基壇は沈下しており当初は5尺くらいの高さがあったと思われるのと二重基壇で
今回、金堂の垂木の伐採年代が781年と判明いたしましたので金堂の造立はそれ以 |
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和様の小屋組が明治の修理 |
それから、ばらした部材を再度組み立てるのにも木の癖が出ていて苦労されてお |
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天平の甍(いらか)と天平の鴟尾(しび)は多くの人々を惹きつけて止まないもので
甍といえば瓦、鴟尾のことですが井上靖氏の『天平の甍』とはこの鴟尾からの命
化粧された大屋根は青空のもと太陽の光をうけて輝き威風堂々とした屋根となっ |
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中国の建築様式の移入で、 |
だんと姿を消していき、鎌倉時代になって中国から請来した禅宗様建築が採用されて |
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天平時代の建築の特徴は、縦の線が強調され、縦の線である柱が太く、横に走る長 |
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すべて国宝と言う「金堂」内の9体の尊像について述べますと 盧舎邦仏坐像を挟んで安置されている千手観音立像、薬師如来立像は、盧舎邦坐像 次に材質の違いですが 脱活乾漆の技法は中国から学びました。「金」と同価格と言われた材料「漆」の確保と 天平時代、「木彫像」が少ないのは霊木信仰時代のため「一木造」でなければならず素 |
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金堂に祀られている盧舎邦仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当た 上記の3尊と「講堂の本尊・弥勒如来坐像」とで、「東の薬師如来立像」、「南の盧舎 それと、金堂の3尊は天下の3戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野 |
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「盧舎邦仏坐像」は3.05mもあり、 |
るもので後世になると縵綱相がない如来像が多くなります。 |
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天平時代後半ともなりますと国家財政が破綻した影響で、造像が国家的な事業から |
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「千手観音立像」は5.35mもある巨大な |
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慈悲を最大限に表現しています。 |
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「千手観音立像」の「持物(じもつ)」について記述いたします。 |
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20.錫杖 |
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1.三叉戟(戟鞘) |
千手観音は大脇手が42手、小脇手が958手の筈ですが平安時代以降は大脇手42手だ |
中央の「合掌印」ですがインドでは合掌して「ナマステ」という挨拶があります。我々 |
「四天王奉鉢」とは四天王が釈迦に鉢を奉献した |
![]() 四天王奉鉢 |
千手観音に向かって右上の持物から説明いたします。 |
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これより千手観音に向かって左側の持物を上から説明します。 |
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「薬師如来立像」は3.37mの「木心乾漆造」で |
光背の身光が像に対して大き過ぎて不釣り合いとなっておりますが頭光は合ってお |
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平安時代には木彫像が盛んとなりますが我が国では良質の木材が豊富にありこの |
「梵天立像」は「木彫一部乾漆造」でこれから |
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た形の「荷葉座」が用いられます。しかし、この時代はまだ蓮の葉は刻まれておらず、 |
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「増長天像」は右手に金剛杵、左手は腰に当 |
開口(阿形)です。 |
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「戒壇」とは3段の壇で形 |
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ものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説とがありま |
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仏塔はインドの 「サーンチーの仏塔」 |
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「鐘楼」は創建当時は「楼造」で二階 |
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「講堂」は平城京の「東の朝集殿」が下賜された建物で、平城京の宮廷建築の唯一の
鑑真和上の弟子が講堂の梁が折れるのを夢
で見て鑑真和上の入寂が近いことを |
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左の写真は柱間が13尺の等間だったのを両脇間を11.4尺に縮減したものです。 |
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「鼓楼」は境内唯一の2階建 |
鑑真和上が持参された「仏舎利」を安置されたので「舎利殿」とも呼ばれておりました。 |
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「舎利」を安置した1階部分は |
2階部分は「連子子」が隙間なく詰まった |
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鼓楼の2階から行われる「団扇(うちわ) |
おりますが正式名は「梵綱会(ぼんもうえ)」で、昔、法要中の覚盛上人に蚊が止まって |
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![]() 馬 道 |
桁行19間の僧坊を分割して、10間を「東室(ひがしむろ)」、8間を「礼堂」に転用さ |
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「経蔵」は唐招提寺の創建以 |
経蔵ですが経典が納められていた証拠は無いと言われておりますが鑑真和上の時 |
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「校倉」の形状はよく見られますと校木は大面 |
り鼠害から守るため鼠返しが付けられていたことでしょう。 |
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「宝蔵」は創建当時に建築されたもので心去りの良材で造営されております。 |
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「松尾芭蕉」が「鑑真和上」を偲んで詠んだ句「若葉して御めの雫拭はばや」です。 |
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「御影堂(みえいどう)」は「興福寺旧一乗院門跡の宸殿」が初代の奈良県庁、裁判所 |
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前述のとおり「鑑真和上」は幾多 |
送っておられたと想像されますのに何とも穏やな顔をされており優しさと気品に満
鑑真和上の弟子僧「忍基」が講堂の梁が折れるのを夢で見て師の遷化が近いことを |
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奈良市内に存在する古都名刹で、この |
![]() 境 内 |
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境内の奥まった所にあり荘厳な佇まい |
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