法華寺

 「東大寺」が総国分寺「金光明四天王護国之寺」と呼ばれたのに対し、「法華寺」は総国
分尼寺「法華滅罪
と呼ばれた大寺でありました。
 法華寺が
誕生した経緯は、藤原氏の始まりと言えば歴史書が教える「中臣鎌足」です
が藤原氏の権勢を高め磐石にしたのは「藤原不比等」で、その不比等の邸宅を不比等
亡き後娘の光明子・光明皇后」が引き継いで皇后宮となり、その皇后宮が宮寺、大和
の国分尼寺、法華寺と変遷していったのであります。なお、
光明皇后の母君は有名な
女傑「
橘夫人(県犬養橘三千代)」であります。

 法華寺は東大寺並みに「造法華寺司」という役所まで組織して造営されただけに総国
分尼寺
の風格を備えた大規模な寺院であり、その整備は延暦元年(782)の造法華寺司
廃止の頃には完了していたと思われます。   

 壮大な伽藍だった
総国分尼寺の面影は今はなく、こじんまりとしていて「清浄な
寺」にふさわしい静かな佇まいとなっております。
 尼寺である法華寺の寺名の由来は、女人成仏を説く「法華経」から取り入れられたの
でしょう。法華経といえば大乗仏教の基本的な経典で、「聖徳太子」、「最澄」、「日蓮」
が重要な経として崇拝されました。  

 法華寺は昔、「法花寺」と書きましたが、中国最古の王朝の「夏」が、天下中央の思想
から「中夏」、その後「中華」となりました。その中国で「華」の略字として「花」が作られ
ましたが、蓮華・栄華・豪華・清華・繁華・華麗などの言葉は花には換えられなかっ
たように中華は「中花」となりませんでした。ではなぜ、大寺院の法華寺が法花寺と記
されたのでしょうか。

 
「光明皇后」は仏教を厚く信仰された
慈悲深い方で社会福祉に大変貢献されました。
施薬院、悲田院」を開設されたことは当時としては画期的な事業でありましたことで
しょう。
 光明皇后は聡明なうえ、光明子といわれるくらいの光り輝く美貌だったらしく夫の
「聖武天皇」は皇族の女性以外は皇后になれないのに臣下出身の光明子を皇后に取り立
てられました。民間出身の皇后の第一号であります。しかし、臣下出身の皇后には皇
族側の代表である長屋王の反対が予想され、起きましたのが有名な「長屋王の変」であ
ります。また、娘の阿倍皇女は女性皇太子の第一号でありました。

 

 私が「法隆寺」で一番推奨する仏像「橘夫人念持仏」は、光明皇后が母親の形見として
納められたものです。現在、国の宝である「東大寺正倉院」の御物、「興福寺西金堂」に
安置されていた「十代弟子像、八部衆像(阿修羅像)」などがお目に掛かれるのは「光明
皇后」の功績があればこそです。「正倉院展」が毎年秋に開催出来ますのは光明皇后が
聖武天皇の遺愛の品々を東大寺に献納されたからでしょう。もし、亡き夫が来世も現
世と同じように生活できることを願って天皇陵に納められておりましたら形を留める
ものは数少なかったことでしょう。

 古くは、法華寺を東へまっすぐの路が「佐保路」と呼ばれその道を進むと、「東大寺
転害門」に突き当たります。しかし、歩くには少し距離があり過ぎます。「転害門」は
別名「佐保路門」とも呼ばれておりました。

 兵火や地震で伽藍は大きな被害を受けました。その伽藍復興の歴史は、南都焼討
ちの東大寺を大勧進となって復興に努めた「俊乗坊重源」の鎌倉年間の復興、西大寺
の中興の祖と崇められた「叡尊上人」による建長年間の復興、さらには、慶長年間に
「豊臣秀頼」の母「淀君」の発願で「片桐具元」が建築奉行として復興いたしましたのが現
在の伽藍であります。秀頼が奈良の多くの寺院の修理をいたしましたのは秀頼の亡父
秀吉の菩提を弔うためと伝えられておりますが法華寺だけは淀君の強い法華寺への帰
依によるものでしょう。
 法華寺は叡尊上人の影響で「真言律宗」のお寺となっておりましたが現在の宗派は
「光明宗」となっております。

 

 


               東   門  

 「東門」は「赤門」と呼ばれてい
るだけに写真で見るよりも赤色
の門になっております。

 一間一戸の門で、現在境内へ
の通用門となっております。
 
 奥に見える建物は「から風呂」
です。

 

 
    石 標

          「総国分尼寺 法華寺門跡」の門標
      でしたが今回訪れますと
      「
光明宗 総国分尼寺 法華寺門跡」に
      変わっておりました。

 

 築地塀が「筋塀」であるのは格式ある
門跡寺院の証です。
 左の石標
には「不許酒肉五辛入門内」と
刻まれております。門跡尼寺ならです。
 なお、禅宗寺院では「葷酒山門に入るを
許さず」の石標です。

 
 門 標

 
               軒 丸 瓦
 
     鬼 瓦

   地元ではここを「法華寺御殿」と呼ばれる
  だけに風格を表す「軒丸瓦の文様」です。
 

   「鳥休め」の文様も
  「菊の御紋章」です。


        龍の木鼻


        木 鼻

 

 右側(東の方)にある門が
「東門」(通用門)で、向こう
に見える門が「南門」です。
東門、南門ともに境内の南
側にありますが、正門が南
門で、その南門の東側にあ
るということで東門と呼ば
れております。

 

     
           南 門
  
      石 標

  「南門」は正門だけに東門より格が上である「四脚門」です。四脚門とは角の控柱
(側柱)が4本あることを言います。一方、「八脚門」の柱はすべて丸柱となります。
 「総国分尼寺 法華滅罪寺」と書かれた「石標」が立てられております。
 
正面に見えますのは「本堂」です。

 
   木  鼻

 
         礎  石

 「礎石」の一部は旧金堂の礎石を流用しているとのことで角柱の大きさに対し礎石は
大き過ぎます。 

 
    腰付鐘楼 (右側の建物は本堂)
 

 


      軒下の木組
 

 「袴腰付鐘楼」は普通周囲に「縁」が付きますが、その縁がなくすっきりしたもので
簡素な建物となっております。   


      木 鼻


           連 子 窓   

  「連子窓」に青色、窓枠(唐戸面)に黄色を塗るのは平安時代以降で京都の寺院には
多いですが古都奈良では珍しいといえましょう。

 

 

 
          石 畳          歌 碑

 石畳の右側には
会津八一(あいづや
いち)の歌碑があり
 「ふじはらの 
 おほききさきを 
 うつしみに 
 あひみるごとく
 あかきくちびる」
と刻まれております。

 「庭園・客殿」への入り口で公開日以外、石畳には立ち入り禁止です。 
 「切り石敷き」の石畳で、左側には「礎石」を加工したような「蹲踞(つくばい)」が
見えます。
   「庭園・客殿・慈光殿」公開日
     5月 1日〜   5月20日
    10月25日〜11月10日

    
     蹲踞・蹲(つくばい)
   
    庭  園

 蹲踞(つくばい)とは茶室に入る前に身を屈
めて手を洗い口をすすぐところですが法華寺
の場合は添景物として用いられております。
 相撲でよく聞く蹲踞(そんきょ)から来た言
葉でしょう。

    庭 園    上記の庭園の写真はお寺の許可を得て「絵葉書」から転写しました。

 


    後の建物は本堂


  花一輪のみ


     庭 園

 手入れが行き届いた庭を訪れた時(10/10)は茶室のように可憐な花一輪のみでした
が庭園は花園ではないので粋人が眺めれば素晴らしい情景かもしれませんが。

  
              本  堂

 玉砂利を引き詰めた広い南庭は、掃き目がきれいに掃き清められており、尼寺なら
ではの清清しい印象です。深い静かな境内ではセピア色した古風で簡素な「本堂」に対
ポツンと建っている白い燈籠が強いアクセントとなっております。  
 
 本堂は慶長元年(1596)の地震で倒壊、奉行の片桐具元が慶長六年(1601)に古材を再
用して当初の講堂跡地に講堂として建立したのが現本堂となっております。しかし、
当初の金堂跡からすると講堂跡というには金堂跡より後方に離れ過ぎております。そ
こで、食堂跡ではないかともいわれております。
 とはいえ、金堂は、時代が下ると講堂と合わさって「本堂」となり、本堂が「金堂・
講堂」両方の機能を兼ねるようになります。しかし、両堂の機能を受け継いだのです
が金堂より講堂の方を重要視されたのか「秋篠寺」の場合も講堂跡に本堂が建っており
ます。  

  講堂として建築されたので中世の本堂形式にはなっておりません。正面の柱間は両
端が広くて、中の同寸法の五間が狭いのは異例ですがこれに似た形式に室生寺、浄瑠
璃寺があります。 

 「本堂」は「間斗束」で、「向拝部分」には「蟇股」と新旧の建築様式となっております。
頭貫の端は「木鼻」で、縁下には「亀腹」が設けられております。
 
 
野屋根を採用していないのに屋根勾配が急で、屋根がもう少し緩い勾配であれば古
都らしい落ち着いた建物となると思いますが。   

 静まり返った堂内に足を一歩踏み入れると、そこは厳かな祈りの世界が広がってお
ります。
 

 現在は弘仁・貞観時代の傑作と言われる「十一面観音像」が本尊ですが
創建当時の
「金堂」の本尊は「盧舎邦仏像」であったことでしょう。


     大仏様木鼻


         大仏様木鼻


       蟇 股(向拝)

    手 挟(たばさみ)(向拝)


         縁
 
      擬宝珠

 

 左側の擬宝珠では「法華滅罪寺」と「講堂 御母寺」、右側の擬宝珠には「奉行 片桐」
などが読み取れます。御母寺の御母とは秀頼公の母淀君のことで淀君が法華寺を厚く
信仰されていたことを物語っているのでしょう。秀頼の檀越による慶長の修理は多く
の寺院で行われましたが淀君の名前が出てくるのは当寺院しか私は知りません。
 擬宝珠の銘には本堂の建築が慶長六年(1601)に建立された由来が刻まれており写真
は不鮮明でありますが現物でははっきりと見えますので、しっかりとご鑑賞ください。


        旧 礎 石

       四角い礎石

  「旧礎石(本堂の左手前にあり)」は旧金堂の礎石だったと伝えられております。が、
講堂、食堂の礎石だったという説もあります。当初の金堂跡地にはそれらしい遺跡は
見当たりませんが地名が通称金堂芝ということでした。金堂芝の由来は不明でした。

 

 

    
       十一面観音坐像 

 本尊は美貌の光明皇后の姿を写したとい
う「十一面観音像」で
 
  「榧」の一木造で弘仁・貞観時代の特徴で
ある檀像風に彩色されて
いない素木像で、
用いられた良質の榧材の木肌は緻密でこの
上ない優美さです。
 弘仁・貞観時代の傑作と評判が高いです
厨子入りの「秘仏」でいつも拝することが
出来ないのは残念です。特別開扉日を調べ
てからお訪ねください。
 
胸が膨らみ女性らしい魅惑的な肉感が薄
い衣を通して表されておるのと
腰を捻る所
作はいかにも官能性に富んでいて「秋篠寺
伎芸天像」と並んで
奈良では珍しい仏像と
言えましょう
 一般に本尊は直立不動で、腰を振るのは
脇侍が通例でありますがインドの仏像の三
曲法に倣ったものでしょう。

 左右の手の指を反らせおり、右手は人差し指と小指、左手は人差し指、薬指と小指
の指先をピンと伸ばしており、なんとも言えない魅力的な指先となっております
典の
三十二相の正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)の「仏の形相」では手を真
っ直ぐ下に伸すと膝まで届く決まりがありますのを
忠実に守られております。天衣を
摘む右手は施無畏印、左手は蓮華と蓮の葉を挿した宝瓶を五指で握るべきなのに親指
と中指で握っております。この妖しげな持ち方と言えば「法隆寺百済観音像」を思い出
します。百済観音像も宝瓶を親指と中指で摘まんでおります。

 台座からはみ出した遊足の右足は、親指を上に反らしておりこれは休めの姿勢で
なく
苦しみ、悩む衆生を救い出そうと出かけられる瞬間を表しているのでしょう。

 頭上の「化仏」の顔はエキゾチックでインド人らしい風貌です。
 

 天冠台・臂釧・腕釧と弘仁・貞観時代には珍しい両肩にかかる長い垂髪は、銅板の
切り抜きで、金属を多用していることがこの像の特徴となっております。

 彩色は頭髪、眉、髭が群青、 眼は白色、唇に朱程度ですが、黒目は普通、黒彩色
か黒い石、色ガラスを用いますのに鋼板製という例がないものです。檀像風の仕上げ
ということで最小限の彩色に留めております。    
 特に唇の朱は鮮やかなもので、先述の
會津八一の歌
「 ・・・・・あかきくちびる」
とあり、唇の朱が鮮烈だったようです。
髭があるのは女性らしい像とはいえ菩薩像だ
からです。
 
 弘仁・貞観時代の特徴である「翻波式衣文」「渦文
」を賑やかに刻み出しております。
(「
新薬師寺のお話」をご参照ください。)

 「光背」は未開敷蓮華(みかいふれんげ)(蓮の蕾)と葉を放射状に配した他に見られ
ない貴重なものです。宝瓶
に挿してあるのも未開敷蓮華と蓮の巻葉で
未開敷蓮華、巻
き葉、少し開いた葉を採用したのは
何かの意味合いがあるのでしょうか。私は取り扱
う際の破損防止と開いた蓮の花、開いた蓮の葉はスペースをとるだけでなくデザイン
的にも芳しくないので現状のデザインになったと思われます。

 台座の反花が二つあるのは異例です。   

 異国的な雰囲気を感じる像にまつわる言い伝えでは、この像はインドの仏師が光明
皇后をモデルにして刻んだ像で、像は三体造像し、二体は日本に残し残りの一体はイ
ンドに持ち帰ったと言うことです。現存するのは当像のみで他の二体は行方不明です。
しかし、光明皇后の健在は天平時代であるのに像の制作は次代の弘仁・貞観時代でひ
と時代のずれがあります。おそらく、弘仁・貞観時代に亡き光明皇后を偲んで往時の
お姿を刻まれたのでありましょう。
 当初の本尊は盧舎邦仏であったのが尼寺に相応しい十一面観音で納まったのは幸い
でした。社会の荒波に揉まれた法華寺で十一面観音だけが完全な姿で今日まで保存で
きたということはいかに大切にされていたかの証でしょう。門跡尼寺に相応しい尊像
がよく残ったもので、慶長年間の本堂再建後に本尊となったのでしょう。
 平安時代から十一面観音が本尊となる寺院が建立されるようになりましたが法華寺
の場合は金堂以外の他の仏堂に安置されていたのでしょう。 

 

   
      不 動 明 王 像 

 「不動明王像」は四臂(4本の手)という珍しいも
のです。上側の右手は施無畏、左手は蓮華を持ち
これは観音菩薩の印相といえるものでこのことは
尼寺ゆえの不動明王だからでしょうか。
 頭部右には整えられた弁髪を垂らしております。
 前方を見据えたカッと見開いた眼は玉眼製です。

 「光背」は「迦楼羅炎」と呼ばれる火炎光背で、八
部衆の「迦楼羅(かるら・ガルーダー)(鳥)」の頭部
が装飾的に付けてあるのがこれほどはっきり分か
るのは珍しいです。
 迦楼羅といえば「興福寺八部衆」ですね。それと、
「法隆寺玉虫厨子」の貴重な絵画にも迦楼羅が描か
れております。
 「台座」は「瑟瑟(しつしつ)座」で迦楼羅炎と同じ
く、不動明王専用です。 
 「ガルーダー」はインドネシアの国鳥でしたが今
は違います。

 「不動明王像」は「慈光殿」に安置されており、公開日は先述の「庭園・客殿」と同じ
期間です。

 


           から風呂 

 
 
   「浴室(からふろ)」と
   書かれた扁額

      
          「から風呂」の説明文

 「カラ風呂 」は様式上江戸時代中期の再建とされております。
 
カラ風呂は、悲田院、施薬院などの福祉施設を創設された「光明皇后」が、千人の施
浴の
ご誓願を立てられ建設されたものです。千人目は見るに堪えられない病状の患者
で、その病人の願いで患部の膿を吸うために朱色の可憐な唇を患部に当てた瞬間、病
人は大光明を放ち姿が見えなくなりましたが、実は阿閦(あしゅく)如来の化身だった
という伝説であります。

 天平時代は輝かしい経済、文化の発達を遂げた裏には色々な公害問題もあったこと
でしょう。それらを解決すべく光明皇后は、施薬院、悲田院などを設けられるなどの
社会事業に尽くされました。慈悲深い光明皇后の人柄ゆえこのような美談が生まれた
のではないでしょうか。多くの病人は薬の施しや施浴で病気が直り、光明皇后を仏と
崇めたことが十一面観音像の造営につながったのかも知れません。 

 この「カラ風呂」は、「蒸気」での蒸し風呂、サウナであります。昔の物語などにも焼
けた石に水をかける蒸し風呂の話が出てきます。しかし、法華寺は丸釜で沸かし蒸気
を発生させます。入浴中、風呂のすのこ板の間から上がってくる熱い蒸気が直にお尻
に当りお尻がやけどせぬようにお尻の下に敷いた布が、風呂敷の語源です。当時、現
在の風呂敷は平包と呼ばれておりました。江戸時代になり湯に浸かる入浴の習慣が起
きるようになり風呂での風呂敷が不要になり銭湯で自分の衣類など包んだ平包が風呂
敷と言われるようになったのでしょう。例えば、「厨子」は字の通り食器棚のことであ
りそれが平安時代にお経を納めるようになり経棚・厨子と呼ばれ鎌倉時代には仏像を
安置するようになり仏壇の原型が厨子と呼称されるようになりました。それゆえ、法
隆寺の玉虫厨子は当初「宮殿像」と呼ばれておりましたのが「玉虫厨子」と呼び名が変わ
りますのは鎌倉以降の話です。風呂敷の語源には異説もあります。
 現在、風呂敷の包み方の一つに平包というのがありそれは風呂敷を結び目なしで包
む方式で贈り物などに用います。
 それから、貴人が入浴のときに着た肌着が、字の通り浴衣(ゆかた)だったのです。
ですから、浴衣は外で着る衣装ではなかったのですが夏の風物詩となりました。
 外出着になった浴衣を和装とすれば、下着だったキャミソールは洋装と言えましょ
う。
 私のように古い人間は入浴は素っ裸で入ることで身体が癒されますが最近、バスタ
オルを巻いてみたり修学旅行では水着を着て入浴するのが現状で、これは、昔の入浴
スタイルに逆戻りしているのでしょう。盆踊りは浴衣姿が当たり前でしたがその盆踊
りも今は限られた地域のみでの実施となってしまいました。

 水に流すという言葉があるように、湯・水に浸かることが清潔になる条件だったよ
うです。法要の前に水で身体を清めることを「行水」といい、大切な宗教行事の始まり
です。鎌倉時代に中国から伝来した禅宗寺院では、蒸し風呂の浴室が七堂伽藍の一つ
に数えられ、入浴が修業の一部と考えられております。
 話は変わりますが、インドのガンジス河で、沐浴して、心身ともに清め終わって河
から上がってきた時の「衣が水で身体にぴったり付いた姿」に神々しさを感じたのか、
その意匠が弘仁・貞観時代の仏像には採りいれられております。
 日本人は「湯」に入ることが大好きな清潔な民族で、西欧にはないありがたき習慣で
す。第二次世界大戦後、全国民が空腹状態の闇市で行列が出来たのは「食べ物」と「石
鹸」の売り場だったと言われるくらいですから。

 新しい時代になって、「湯」に入る入浴が一般に普及してきました。江戸っ子が「銭
湯に行く」と言うのは正しいですが、「風呂に行く」というのは厳密に言えば間違いで、
「湯屋に行く」というべきでしょう。しかし、最近は大阪でも暖簾には「ゆ」と染め抜い
てあっても、サウナ風呂が併設されているのが当たり前となってきておりますので
「風呂に行く」と言うのも正解といえるでしょう。
 
 この「から風呂」は江戸時代の再建ですが古くから明治時代まで多くの住民に施浴さ
せていたとのことです。

 

 


          光 月 亭

 「光月亭」は梅の名所として知られる「月ヶ瀬村」にあった江戸時代の建築、庄屋宅
を移築したものです。民家の住宅を知る貴重な遺構です。 


 民族の文化遺産である茅葺屋根は、材料が茅のた
め雨漏り対策上、屋根勾配を急にしなければならな
いうえ屋根の厚みは並大抵ではありません。それよ
りも、茅の寿命が短いので手入れが大変でしょう。


     内 部

 

 

            東   庭    園  2002年 5月 3日撮影

 

 

    
      横 笛 堂

 「横笛堂」は今は宅地となった旧境
内にあったものを現在地に西向きで
移築しました。
 「横笛」は悲しい恋愛体験の後、当
寺で尼となりこの仏堂で仏道に励み
平穏な余生を過ごされたとのことで
す。
 「横笛像」は現在、本堂に安置され
ており、手紙の古紙で作られた像は
深い悲しみで哀愁のこもった像かと
思いましたが優しさに満ちた清純な
乙女の像でした。  

  


   昭和45年のお年玉郵便切手


      中の御守犬

 「犬の御守」は大・中・小の三種類があって、尼僧さんが一体一体丹精込めて作られ
たもので、出来上がると三宝の上に並べ本尊の前で七日間丁重なお祈りを捧げた後分
けて頂けるという有難い御守りです。
 由緒ある御守犬は手作りですから、同じ形のものはありません。「塑像」を
手間隙掛
けて造像した天平時代の精神を今に伝える珠玉のごとき作品です。
 御守犬はご利益(りやく)があることは間違いありません。お求めになりますと幸運
に恵まれるだけなく微笑みがちな御守犬を眺めているとその微笑みに引き込まれて心
身の疲れを癒してくれることでしょう。
 可愛い
首輪をした素朴な姿でお土産にされたら受け取った方がおおいに喜ばれ大切
に持ち続けていただけることでしょう。 

 

                         画 中 西  雅 子