仏塔のお話 

 「塔」とは古代インドの「ストゥーパ」が中国での音読みで「卒塔婆
(そとば)」、「塔婆」 、
「塔」と略されて変わっていきました。ただ、
我が国で仏塔といえば接地面積の割には
大変高い建造物をイメージいたしますがインドの
ストゥーパとは饅頭型の円墳であっ
て高さも低く
我が国での古墳時代の円墳のようであります。 
 塔といえば舎利塔を表しましたが現在では電波塔、鉄塔、太陽の塔など多くの塔が
出来ておりますのでここでは仏教的な塔を「仏塔」と表現いたしますが「塔婆」もよく使
われております。それと、重と層とは同じ意味ですが使い分けをされております。
三重塔と表現いたしますが三層塔とは言わないのと高層建築と言いますが高重建築と
は言わないのも同じです。しかし、使っては駄目ということではありません。それか
ら、階とは各層に床のある場合の表現ですが床が無くても階が使われております。

インド


         ストゥーパ(サーンチー第一塔・北塔門)   

 「サーンチー第一塔」は仏塔の源流で昨年までは伏鉢の表面が黒ずんで汚れておりま
したが化粧直しが終わり(2007)、朝日に輝く幻想的な塔に生まれ変わりました。
 
偉大な仏陀を象徴する神聖なストゥーパだけに高さ70mの丘の頂上に設置されてお
ります。
 ストゥーパを礼拝する繞道に設けられた階段は南側のみで、現在は北側が正面です
が当初は南側が正面だったことでしょう。我が国の古代寺院は一部の例外を除いて正
面が南向きですが鎌倉時代になると浄土系寺院では浄土の思想で東向きとなります。
 ストゥーパの塔内は密封されていて立ち入ることはできず実用的な建造物ではあり
ません。 
 
 
現在、東西南北の4塔門にぎっしりと釈迦に関する物語が刻まれておりますが特に
北側の塔門には優れた彫刻が残っております。塔門の素材である硬い石に精緻な彫刻
を刻みこんだエネルギーには驚かせられます。汚れていた彫刻もきれいになりました。 
 塔頂にはかすかに平頭と傘蓋が覗いております。

 「仏陀の生涯」をご参照ください。


   ストゥーパ(サーンチー第二塔)


  ストゥーパ(サーンチー第三塔)

 「サーンチー第二塔」は伏鉢の上が欠失
しておりしかも塔門もありません。
 塔内には「高僧の舎利」を納めた舎利容
器が安置されていたとのことです。
 第一塔と第三塔は隣接しておりますが
第二塔は少しだけ離れて存在します。

 「サーンチー第三塔」は南塔門のみ
があることから第一塔も同じく当初
は南塔門が正門だったことでしょう。
 塔内には「十大弟子の舎利」を納め
た舎利容器が安置されていたとのこ
とです。 

 
     ダーメーク仏塔

 「ダーメーク仏塔」はインド最大のストゥ
ーパだと言われております。基壇の直径は
28m、高さは43.6mを誇り、伏鉢鼓胴部は
石積みで2段の円筒形となっております。
 8カ所の仏龕(青矢印)には仏像が残って
おりません。 

 ダーメーク仏塔は仏教の四大聖地の一つ
「サルナート」にあり仏陀が梵天勧請により
最初に説法された場所として著名です。
 鹿の園ということですが鹿の数は少なく
奈良公園の鹿の比ではないです。 


    アジャンター第10窟

   
     アジャンター第26窟

  「アジャンター第10窟のストゥーパ」は紀元前の造立だけにシンプルなスタイルで
す。2段の基壇上に半球状の伏鉢を置きその上に平頭、当然あった筈の傘蓋が欠落し
ております。初期の特徴である装飾彫刻、装飾画、仏像などは一切刻まれておりませ
ん。このストゥーパは上座部仏教(小乗仏教)時代の塔と言えるでしょう。

 「アジャンター第26窟のストゥーパ」は舎利崇拝から仏像崇拝に変わる時期に造営さ
れたのでしょう。基壇に龕を設けその龕の中に仏陀坐像を安置して舎利の代わりに仏
像を納めた仏像舎利となる過渡期のものでしょう。
 高い円筒形の基壇となったため伏鉢が上に押し上げられました。半球状から円球状
に近づいた伏鉢には男女の飛天などの装飾彫刻が施されております。伏鉢に彫刻を入
れることはストゥーパが装飾的建造物に変わりつつあるということでしょう。
 石窟内は奥が円形となっております。

   
     アジャンター第19窟


    エローラ第10窟

 「アジャンター第19窟」は高い基壇上に円球状の伏鉢となりしかも平頭と傘蓋が一体
化しております。
 仏像を祀った基壇部分が上へ上へと高くなり伏鉢は仏像の天蓋のようになっており
ストゥーパから仏像に主体性が移っております。
 我が国の仏塔の伏鉢は半球状でインドの古代のしきたりを踏襲しておりますがその
伏鉢は高層塔の屋根上にぽつんと乗っております。

 「エローラ第10窟」は大きな仏龕で基壇が見えません。塔の前に仏龕を設け脇侍を従
えた仏像を安置しております。
 仏龕はストゥーパから前に張り出た状態で構築されており仏像とストゥーパとは各
々独立したものという考えでしょう。傘蓋は欠失しております

 

     
      現物ですが合成写真


 模作(タキシラ博物館)

 パキスタンの「モラモラドゥ」の仏塔です。
 円形の基壇と仏像が刻まれた四重基壇の五重基壇の上に伏鉢、平頭、七個の傘蓋が
ありますが傘蓋が一際目立っております。相輪と仏像を祀る基壇とが同格に扱われて
いるように見えますが実際にガンダーラにはこのような仏塔が存在したのでしょうか。
 多重基壇で各重に仏像があるのは中国式仏塔の原形でしょうか。ただ、傘蓋が高く
なっており我が国でも見られる仏塔に近いですが中国、韓国の相輪は相対的に低いで
す。それと、中国、韓国ともに傘蓋の数は決まっていないようです。 

 

ミャンマ

 「ミャンマ」には昔々に行きましたが適当な写真
はありませんでした。
 上座部仏教では極楽往生できるのは僧侶のみで
あるのに在家の信者までが来世には極楽へ行ける
ことを願っているようです。その願いを叶えるた
め最高の供養である仏塔、仏像を金色に保つよう
にと収入の多くを寄進しております。
 インドのストゥーパと違って相輪の先が鋭く尖
っているのが特徴といえます。なお、ストゥーパ
のことをミャンマでは「パコダ」と言います。

 ガイド活動で記載しましたように法隆寺に興味を抱き法隆寺について調べると当時
の仏教伝道のルート・インド、中国、韓国についても調べてみたい衝動にかられ韓国、
中国を訪れましたが法隆寺ボランティアガイドを実施したため東南アジア訪問はお休
みとなりました。それと、韓国、中国を訪れた際はホームページの作成など考えてお
りませんでしたので仏塔の適当な写真がありません。今後中国、韓国を訪れて鮮明な
写真と入れ替えをする積りです。

 

 

中 国 

 「中国」では楼閣建築の上にインドのストゥーパを揚げたのが仏塔の始まりだと言わ
れております。楼とは2階以上の高層建築のことです。しかしながら、我が国の古代
の鐘楼は2階建てですが鎌倉以降には柱だけの建物となりますが呼び名は鐘楼を維持
しております。閣とは四方が見通せる建築構造を言います。

 
       銀 閣 寺

 我が国で人が階上に上がることが出来
る現存最古の楼閣建築と言えば「銀閣寺」
です。この楼閣建築にインドのストゥー
パである相輪が載って中国式層塔が考案
されましたが実際の中国の楼閣は階数の
多い高層建築です。 
 唐代までは方形の楼閣建築が流行いた
しました。
 中国式仏塔は当初、銀閣寺のような木
造建築でしたが火災で焼失することを避
けるため木造塔から塼塔(レンガ塔)に変
わっていきました。それで、中国には現
在、多くの塼塔が残っております。
 

 古代から伝わる神仙思想すなわち、高い場所には神が宿る思想から高い所へ登り天
と交わることによって不老長寿のご利益を期待した影響で高層建築が建立されました。
その高層の楼閣建築の頂部に「承露盤」という容器を設置して天から授けられた「露」を
集めました。その集められた露は「
甘露」と言いそれと飲むと不老長寿のご利益がある
ということでした。
インドでは釈迦誕生の際龍が釈迦の灌水に甘露を使用したと言わ
れております。その流れをくんで我が国でも釈迦の誕生を祝う4月8日の灌仏会には
生まれたばかりの釈迦像に甘茶を注ぎます。この承露盤が傘蓋と似ていたので傘蓋を
露盤と呼んでいたのがいつの間にか最下部の四角い露盤のみを露盤と呼ぶようになり
ました。ということは、承露盤がインドのストゥーパと入れ替わったことになります。
それと、ガンダーラでは高い基壇のストゥーパがありますのでそれが中国に伝来して
高層の楼閣建築の応用となったのでしょう。 


   慈恩寺大雁塔


  香積寺善導塔

    永祚寺双塔

 中国の仏塔は各階が独立しておりその階毎に仏像を祀り礼拝されていたことから考
えますと金堂と塔が一緒になった仏堂的仏塔といえます。それと中国では見張り台的
な要素を兼ね備えておりこの考えは我が国の仏塔とは大きく違います。
 
 時代を経ると四角、六角、八角、十六角の仏塔が出来ておりますが我が国では八角
の仏塔で残っているのは後述の「安楽寺三重塔」だけであり我が国で八角と言えば
「法隆寺夢殿」などの八角円堂が思い浮かびます。八角円堂は個人を祀る仏殿ですので
仏塔と同じ性格の建物といえるのではないでしょうか。 

 「慈恩寺大雁塔(じおんじだいがんとう)」は塼造、四角七層で逞しい姿です。
この大雁塔は玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典などを収蔵するために建立されま
した。階段で最上階まで登れ西安の町が眺望出来ます。

 「香積寺(こうしゃくじ)善導塔」は四角十一層ですが創建当初は十三層だったと言わ
れております。唐時代の建築です。 

 「永祚寺」ですが私は遠望しただけで建物についての知識は持ち合わせておりません。
文字通り2つの塔があることから通称「双塔寺」とも言われます。
 慈恩寺大雁塔、香積寺善導塔は層塔ですが後述の「談山寺十三重塔」のような塔を
「簷塔(えんとう)」といい2階以上の階高を低くくして屋根(庇・軒)を重ねただけの塔
のことです。永祚寺塔は13層の簷塔かと思いましたが、高さが53mもあり、最上階の
13層からは太原の町が一望することができるらしいので簷塔ではなく層塔です。  
 簷塔の写真は持ち合わせておりませんのでいずれかの時期に撮影して参ります。      

談山神社十三重塔 


  十三重塔(談山神社)

 多武峰(とうのみね)・「談山神社」は有名な
「藤原鎌足」の菩提寺だった「妙樂寺」がもとでした。
 屋根の桧皮葺が約40年ぶり(2007.11)に葺き替
えられきれいにお化粧直しをし、亭々とそびえる
「十三重塔」となっております。

 この仏塔は多檐塔(たえんとう)といわれるもの
で初重の軒(軸部)は高いのに二層以上の軒高が低
い構造形式でまるで軒(屋根)が積み重なったよう
に見えます。簷とは庇のことです。石塔を見本と
したのでしょうか。
 九輪の輪が7個と異例です。
 
 塔の全景写真の撮影場所はここしかありません
が現在後ろに見えます「権殿」が修築中のため背景
が工事足場となり華麗な十三重塔の撮影は今しば
らく無理です。

  

 

韓 国 

  
     定林寺跡五層石塔 

 韓国も中国と同じく古代の木造塔は残って
おりません。ですから、これからの韓国の仏
塔は石塔のみの紹介となります。

 「定林寺跡五層石塔」は高さ8.33mで、屋蓋
石が深く我が国の木造塔に似ており特に
「法隆寺五重塔」に近いと言われております。
 初重は長方形の花崗岩で構成されており高
いので目立ちます。材料の石が垂直方向に組
まれておりますのは天へ天への上昇志向を表
したものでしょうか。それとも、この組み合
わせの方が見栄えが良かったからでしょうか。

  「仏国寺」には東に「多宝塔」、西に「釈迦塔」が並んで
立っております。
 多宝塔の素材は花崗岩という硬質の石材で、高欄な
ど複雑な構造の石塔をよくぞ仕上げられたものだと感
動すら覚えます。このような精巧極まりない石塔を造
ることが出来たのは道具もさることながら高い技術力
を持った素晴らしい工人が居たからでしょう。
 方形の台座上に下から方形、八角形、円形の組物、
八角形の屋根さらに相輪が乗っております。後述の我
が国の多宝塔の下層が方形、上層が円形というイメー
ジと合いますが塔の持つ意味は違うことでしょう。
 我が国では良質の木材が入手出来ますので石塔は少
ないです。それに比べ韓国では木材といえば松の木が
ほとんどです。


     多 宝 塔(仏国寺)

   
     釈 迦 塔(仏国寺)

 

 「釈迦塔」は屋根の出が石塔らしく少なく
なっております。多宝塔に比べ簡素ですが
直線的な構造で男性的な趣きがあり両塔の
対比は見事としか言いようがありません。
 材質は花崗岩の二層基壇です。我が国で
の二層基壇は飛鳥時代の特徴で「法隆寺の
金堂、五重塔」の基壇がそうです。
 塔身は三層で相輪の数は少ないです。 
 「東大寺の大仏開眼供養」の752年に建立
されたそうです。

 

 「感恩寺双塔」は三層石塔で双塔は
約30m離れて立っております。
 相輪は破損欠失して鉄竿が差されて
おりました。
 双塔以外の堂舎は見当たりませんで
した。
 後述の我が国の双塔伽藍「薬師寺」の
モデルではないかと言われております。

 

       双 塔(感恩寺)


        芬皇寺石塔

 


    狛 犬


        仁 王 像

 「芬皇寺(ふんこうじ)石塔」は
634年に創建された四天王寺式伽藍
の塔で、石組の積壇上に安山岩を塼
築のように積み上げています。現在
は三層でありますが当初の層高は七
層とも九層とも言われております。
 現存最古の石塔と言われている貴
重な仏塔です。
 基壇の四隅には狛犬(石獅子)をお
き、第一層塔身の四面には龕室があ
りその石扉の左右には花崗岩に仁王

像を彫刻して嵌めてあります。
 「狛犬」ですが狛犬の源流はインドの獅子でありますが高麗(こま)から我が国に伝わ
ったとき犬のように見えたので高麗犬と呼ばれました。それではなぜ、高麗犬が狛犬
となったのかについては地名の高麗は狛とも表示されたからだという説と我が国での
狛犬は当初、白色の犬で制作されたので白に獣偏を付けて狛犬となったという説もあ
ります。

 

日 本

  
    五重塔(法隆寺・北面)


   三重塔(薬師寺・西面)

  我が国の仏塔ですが先述で塔婆から塔になったと言いましたが塔婆はお彼岸やお盆
などに祀られる木製の「角塔婆」、「板塔婆」があり先祖供養で用いられます。この塔婆
は五輪塔にもなっておりますのでわが国独特のものと言えましょう。我が家は浄土宗
ですから板塔婆を祀りますが宗派によっては行われておりません。五輪塔は我が国で
考案されましたが五輪の思想は中国から伝わったものです。
五輪とは天地万物を形づ
くっております地、水、火、風、空を表しております。
 
 我々日本人に愛される建物のナンバーワンは色褪せた「仏塔」でしょう。中国のよう
に階上へ上がれる構造ではなくあくまでも礼拝するための仏塔だけに見栄え良く造ら
れておりますので素晴らしい眺めであります。
現在もそうですが我が国では仏塔を宗
教的建築物としてではなく風景の一部分として眺める傾向があります。確かに、遠く
から眺める仏塔は魅力的であります。二層以上には床もなく実用的な構造になってい
ないのに
高欄が設けられておりますのは装飾のためであります。

 
我が国と中国の大きな違いは中国では仏塔が宗教的な施設のみではなく階段が設置
され最上階まで登れる
展望台としての目的がありましたが、我が国では仏塔そのもの
が寺院であって仏塔内には僧侶といえども立ち入ることは許されませんでした。
イン
ドで仏塔が造られた時は仏陀の象徴として仏塔が崇められ
、我が国でも古代はインド
と同じ考えで
したがそれが現在では仏塔は境内を荘厳する装飾的な役割となってしま
い、寺院の中心的な建造物に戻ることはありませんでした。
 古代の仏塔は聖なる建築である例えとしては先年法隆寺でガイドをしていた時のこ
とですが、ある方が五重塔の基壇に腰を掛けていたため厳しく叱責を受けていたこと
がありました。
 中国式仏塔が伝わって来たにも関わらず釈迦のお墓の精神を尊重して2階以上には
床を設けない1階建の三重塔、五重塔を釈迦塔として造立いたしました。百済からの
渡来人が造立に関わって建設された当時の飛鳥寺塔が、我が国で多く見られる木造塔
の原形と考えると、我が国最古の飛鳥寺は韓国で考案された木造塔が源流かも知れま
せん。ただ、中国、韓国ともに古代の木造塔が一つも残っていないだけに結論付けは
できません。その点、我が国には古代の木造建築が多く残されていることは幸せです。
我が国でも19世紀になると人が上れる五重塔が建立されており「興福寺五重塔」は室町
時代の再建ですが最近まで上らせて貰えたそうです。

 古代の仏塔は心柱を守る建物です。五重塔でも三重塔でも構いませんが見栄えが良
い建物でないと有難がられることがなく、礼拝の対象としても相応しくありません。
古代の我が国では舎利を崇拝するより塔を崇拝する方が好まれたのではないでしょう
か。それというのも神木信仰があったことと当時は土葬であって火葬の習慣もなく現
在のように遺骨を礼拝の対象とは考えもしなかったと思われます。  

 平安時代の我が国では仏塔が流行いたしまして「浄瑠璃寺」辺りを現在は「当尾」です
がその昔は数多くの塔があったらしく「塔尾」と書かれておりましたのと京の都でも仏
塔が多く造立され「百塔参り」が盛んに行われたとのことです。

大官大寺跡 

  木造塔は三重塔から十三重塔まで建立
され、「大官大寺」には九重塔、東大寺や
諸国の国分寺には
七重塔が建立されまし
た。現在残っているのは三重塔と五重塔
ですが
「十三重塔」では先述の談山神社が
唯一の遺構です。
 大官大寺は
天皇の寺院ということで
明日香ではずば抜けて大規模を誇ってお
りましたが今はその面影もなく、金堂と
講堂のあった辺りは畑になっており周囲
はのどかな田園風景です。


      大官大寺跡

  飛鳥時代の寺院は国家鎮護の寺院ではなく私寺でしたので仏塔は仏陀そのものとし
て崇めました。次の時代となると国家鎮護の寺院となり建立された仏塔は崇めるとい
うより権威の象徴に重きが置かれ七重塔、九重塔などの高い仏塔が建立されました。

 我々がよく目にする三重塔、五重塔は先述の多檐塔に対して多重塔とか多層塔と呼
ばれます。
 多重塔は難しい建造物であり基本的な構造は変わらない保守的な建物です。金堂・
仏塔に用いられた木組の「三手先」は金堂、本堂では使われなくなりましたが仏塔だけ
は現在まで用いられております。我が国は、中国に比べ降雨量の多く、また中国のよ
うに雨に強いレンガや塼造りと違って木材と土壁で造られております。これらを風雨
から守るためにも深い屋根でなければならず、その深い屋根を支えるには三手先が必
要とされました。ただ、我が国の特徴である屋根の出が深いことは機能的な面だけで
なく視覚上の美しさの表現をも兼ね備えております。 
 屋根の反りとしても中国のような大きな軒反りではなく吹き込む雨から土壁を守る
ため優しい軒の反りとなります。が、兵庫県の「浄土寺浄土堂」は軒反りがなく軒は一
直線となる屋根となっておりますがそれはそれで男性的な厳しさがあり見応えがあり
ました。
 保守的な建物、仏塔とはいえ建築上不利であるにもかかわらず今だ平行垂木を使用
しております。 

 多重塔は一層ごとに積み重ね式で建築されますので一体化した建築ではありません。
本来、各重ごとに柱がなければならないのですが裳階には柱が無いので一重として計
算されないのです。多重塔の二層以上には床がありませんので何階建てというのは間
違いですが日常、何の疑念もなく階の言葉が使われております。ですから、仏塔にお
いて
通し柱は一本もなく唯一の通し柱は後述の心柱だけです。

 我が国は地震列島といわれ、頻発に地震が起きておりますが仏塔の倒壊はただ1塔
のみでしかも毎年訪れる台風での倒壊も数塔です。
 仏塔が何故地震に強いのかはっきりとしたことは分かりませんが仏塔の各層がヤジ
ロベイのように左右交互に揺れるので倒壊しない、とか重心の最高点と最低点は不動
でその間が左右に湾曲するので倒壊しないや心柱が仏塔の揺れを抑えるなどの説があ
りますが近い将来決定的な答えが出ることに期待いたしましょう。
 仏塔の建築では釘の使用は最小限に止めております。更にその釘は日本刀を同じ工
法で造られた千年くらいの長期に耐えられるものです。余談ですが日本家屋の寿命は
30年とか40年とか言われているのは釘の寿命から割り出したものとも言われておりま
す。釘を使わない仏塔といえば後述の「西明寺三重塔」で、通常古代の建築は最小限の
釘しか使わず、しかも建築の木組は積み木のように組んでいますので損傷した部材の
取り替えも簡単に出来、長期保存が可能なのです。このように、古代の建造物は積み
木のように簡単にばらして移築が出来ますので古代の建造物は不動産ではなく動産と
言うべきでしょう。後述の「切幡寺大塔」は住吉大社神宮寺から解体移築されました。
 底面積に比較してのっぽの仏塔が倒れずに生き永らえてきた雄姿には驚かされます。
しかし、何分背の高い仏塔だけに雷が苦手で被害は結構あり670年の法隆寺の火災も
五重塔に落ちた雷が原因でした。  


 連子窓が盲連子となっておりますのは塔内の壁画を守るためでしょう。仏堂の堂内
に壁画を描くことが段々と薄れていきますが塔内に壁画を描く伝統は続いているため
です。

 仏塔の中備として中の間には間斗束か蟇股、脇の間には間斗束か蓑束だったのが近
世になると「東照宮五重塔」のように初重の四面すべての中の間、脇の間に蟇股を入れ
ております。その十二個の蟇股には十二支の動物の彫刻が施されております。禅宗様
式の仏塔は詰組ですので何も入りません。
 
 平安時代ともなると仏堂の和様化が起こり建物の周りに縁が設けられ堂内の床も土
間から板張りとなりました。この傾向は仏塔にも及んでまいります。床下には「亀腹」
を築き、柱は亀腹に設置した礎石の上に立てます。
 「四天柱」は平安時代になると三重塔では省略されますが五重塔では常に設けられて
おります。
 室町時代から屋根の最上層だけを禅宗様の扇垂木とするものが現れて参ります。こ
のように和様に禅宗様の一部を取り入れた仏塔がほとんであるため和様とは言わず
「折衷様」にひとくくりにした方が理解し易いと思われます。禅宗様とは中国から請来
した様式で仏殿内は昔のままの土間床です。禅宗様の仏塔内は土間床でしかも仏塔の
周りには縁を設けたりはいたしません。

  古代の仏塔では正面性を示さず四面が正面ですが、舎利崇拝から仏像崇拝へと変わ
りますと祀られるのが仏舎利から仏像となり仏像の安置状態で正面が決まってまいり
ます。その場合塔内に祀られる仏像は顕教の四方仏か密教の四方仏が多いです。この
ことは仏塔が仏殿に変わったことを意味します。

 釈迦のシンボルの舎利ですが舎利と言えば釈迦の遺骨を指しますが東南アジア全域
で釈迦の舎利と言われるものが数えきれないくらい多くあり真偽のほどが疑われます。
さらには、釈迦の髪の毛、歯や釈迦が身に着けていたものまでが舎利と扱われました。
ついには、これ以上釈迦の舎利とは言えなくなりそこで考えられたのが釈迦の舎利よ
り釈迦の教えである経典の方が重要という解釈をして経典を納める法舎利が出て参り
ます。
 
 古代の仏塔は寺院のシンボルで絶対になければならなかったものですが中世になり
ますと浄土宗と浄土真宗では仏塔を建立することをせず、曹洞宗系寺院でも仏塔の建
立は多くありません。
  

相 輪


  サーンチー第一塔 


     サーンチー第一塔

 モラモラドゥ

 「相輪」についてですが「傘蓋」は日差しが強いインドでは釈迦
が暑かろうということで日よけ傘を奉納したのが傘蓋の起こり
です。本来は傘の形をしていなければなりません。また、傘蓋
は貴人のシンボルで傘の数で位を表わしております。
 左図のように何本かの傘蓋を並べ立てたり右図のように重ね
る形式がありました。現在我々が目にするのは傘蓋が九輪で積
み重ねる方式です。
 「相輪の輪(傘蓋)」を九重に重ねたのが通例であったので
「九輪」と呼ばれるようになりましたが九輪の輪の数は「当麻寺
東塔、西塔」はともに8輪、「長保寺の多宝塔」も同じく8輪で、
「談山神社の十三重塔」は7輪と珍しくこれらは九輪と呼ばれる
前の話でしょうか。
 九輪の「九」は大日如来、阿弥陀、阿閦、宝生、不空成就の五
如来と観世音、弥勒、普賢、文殊の四菩薩を合わせた9仏を表
す、または阿弥陀の極楽浄土の九品仏を表しているとか言われ
ますが確たる証拠はありません。
 
 優雅で格調ある様式美を誇る「水煙」のデザインは我が国独自
のものでしょう。それから、水煙の文様は火焔でありましたの
で火焔とも呼ばれておりましたが火という字を嫌い水煙といた
しました。火焔そのものの水煙は後述の「明王院五重塔」に記載
しております。
 仏教伝来当初は相輪全体を露盤と呼んでおりましたが現在で


 相輪(法隆寺五重塔)

は露盤とは最下部にある四角形のものを指し相輪全体を「九輪」や「相輪」と呼んだりし
ております。本来は最高部にある宝珠に仏舎利を納めるものですが我が国では宝珠以
外に納めたケースの方が多いです。
 「東大寺の東西塔」の高さは約100メートルということで相輪だけでも27メートルも
ありました。東大寺大仏殿を出た所に原寸大の模作が設置されておりますのでご覧く
ださい。天平当時、仏塔の高さは50メートルくらいが平均でした。

心 柱 

 「心柱」の役割ですがあくまでも相輪を支えるものであり構造的には建築とは関係な
く独立して建っております。
 心柱が高いものでなければならないのは、中国では高い所に神が宿る思想があるよ
うに我が国でも神籬(ひもろぎ)
、神の依代などと言われる高い垂直物(木)は神と人間
とを結びつける桟(かけはし)でありまた、高い神木には神が宿るという思想によるの
ではないでしょうか。
 我が国の巨木信仰は仏教伝来以前の縄文時代に遡るらしいです。柱とは建築の構造
材というより天上と地上を繋ぐものと考えられておりましたから
神を一(ひと)柱、二
(ふた)柱と数えるのでしょう。その昔、塔を刹柱と言っていたのは柱が重要視されて
いたからでしょう。それと、心柱も刹柱と呼ぶこともあります。
 聖なる心柱は塔そのものですから塔屋は心柱を保護する中尊寺金堂の鞘堂、覆堂の
ようなもので形状に関係なくどんな建物でもよいのですが仏陀の象徴として見られる
塔だけに見栄えが重要で我が国では塔身のほうが目立つ存在となっております。

 
 
我が国の神道では祭礼の際仮設の祭場を造り決まった社殿はありませんでしたので
固定した神木が選ばれたのでしょう。
 
 「
伊勢神宮の正殿(しょうでん)の床下にある心御柱(しんのみはしら)は御神体とい
う信仰を手本にして心柱を掘立式にしたのでしょうか。伊勢神宮では心御柱が最初に
掘立式で建立され式年遷宮後も心御柱は覆屋で保存されております。
 しかし、掘立式の心柱は間もなく基壇上の心礎
に立てられます。その訳は、我が
国では宮殿、神社などの建築は短期間で建て替える習慣に対し寺院建築は礎石を用い
永続性の建物を目指しているのに掘立式の心柱では耐用年数が短く不適格だからです。
 その心柱も平安時代になりますと初重の天井上に立てるようになりなります。
それ
は、仏塔に納められるものが仏舎利から仏像舎利へと変革したので心柱を初重の天井
上に揚げ初重内に仏像を祀るスペースを確保する必要があったからです。この方式は
五重塔でも採用されるようになりました。初重内に釈迦如来以外の仏像が祀られるよ
うになりますと仏塔は仏陀の象徴ではなくなり仏堂的仏塔となりました。  
 心柱が初重天井上に建てられたのは後述の「
一乗寺、浄瑠璃寺の三重塔」と海住山
寺五重塔
」が早く浄瑠璃寺塔にいたっては4天柱も省略されていて初重内はすっきり
したものになり初重内に薬師如来が祀られております。

 心柱は2本繋ぎか3本繋ぎとなっているのが通例です。その訳は重量のある相輪を
支えるには太い木材を必要とするため一本の原木ではどうしても先が細くなるので太
さが要求される心柱は繋がざるを得ないからです。

 心柱と塔屋とが連結されていないとはいえ塔屋の最上層では露盤と密着させて雨仕
舞いをしております。そこで起きる問題ですが、仏塔の組物の接合部は現在のように
少しの隙間もなくがっちりとなっていないので組み合わせが食い込んでいくことと木
材の乾燥、収縮などが重なり塔屋が下がってきます。一方、縦の方向(繊維方向)の収
縮はほどんどない心柱のため、年数を経ると塔屋が下ることによって心柱が五重目の
屋根を突き破り屋根と露盤の間に隙間が生じ、雨漏りが起きます。そうなると心柱を
塔屋の下がった分だけ切り落とさなければならない難問題が起きます。
 心柱は当初、掘立形式であったのが耐久性を考えて基壇の心礎上に建てられるよう
になりついには東照宮五重塔のように四重目から吊り下げる心柱が考案されました。
こうすれば心柱を切り落とす手間がなくなりしかも心礎は不要となりましたが心柱が
相輪を支えるという本来の役目は果たせなくなりました。 

心 礎 

 
   地中式・五重塔の心礎(橘寺・飛鳥時代)

  「橘寺五重塔」の心礎は
掘立式で
基壇の1.2mほど
掘った地下に埋められて
おります。直径90p 深さ
10cmの孔が穿ってあり、
その孔に心柱を入れます。
周囲にある三ヶ所を穿っ
た半円孔は心柱を支える
「添木孔(青矢印)」です。
地下の心礎は初めて目に
する珍しいものでした。

           基壇上式・心礎(野中寺・白鳳時代?)

 心柱を立てる場合、掘立式では心柱の根元が腐食して長持ちしないので長期的な保
存を考え礎石、心礎は
基壇上に設置するようになりました。
 基壇上の礎石群の中でも心礎は大きめの石が使われております。
 「野中寺塔」では舎利を納めた舎利容器を心礎に穴(赤矢印)を開けそこに安置されて
おりました。舎利容器を納める穴と添木を立てる穴がある心礎は珍しいと言えるでし
ょう。


   礎 石(本薬師寺東塔・白鳳時代)


   塔心礎(秋篠寺・天平時代)
   柱を自然石上に立てていましたが、
 礎石に枘を造り柱がずれるのを防ぎ
 ました。心礎も舎利が心柱か相輪内
 に安置されるようになりますと図の
 ように枘を造りました。

 基壇上に礎石、心礎が設けられたのは「本薬師寺」が最初ではないかと言われており
ます。その心礎には水と落葉がたまっており心礎内は確認できませんでした。
 本薬師寺は礎石を残すのみとなっております。

多 宝 塔

  我が国で仏塔と言えば多層塔(多重塔)
か多宝塔です。
 「多宝塔」は平安時代、我が国で考案さ
れた独特のもので先述の韓国仏国寺の多
宝塔とは建立の趣旨が違うようですが韓
国の多宝塔についての知識は持っており
ませんので不明です。
 多宝塔は密教と共に普及しました。
保守的な仏塔の中でこんな装飾的な塔が
誕生したのは美術を重んじる密教だから
でしょう。  
 昔、外壁が漆喰仕上げの「宝塔」という
ものがありましたがその外壁の漆喰が風
雨で損傷するため、漆喰の被害を防ぐ


  根本大塔(金剛峰寺・昭和12年再建)

解決策として裳階が付けられたのが多宝塔と言われております。多宝塔の一階頂部の
白色亀腹は宝塔外壁の漆喰の名残でしょう。
 多宝塔は一重の建物に裳階が付いたもので二重塔ではありません。平面では下層の
裳階部分が方形で上層が円形と独特の形状をしております。屋根は上下層とも方形で
下層屋根に白色漆喰の亀腹が載ります。上層屋根を通例、扇垂木するため難事業だっ
たことでしょう。
 下層の両脇間を連子窓にすることが多いです。板敷き床で周りに縁を設けます。 
  多宝塔は上層は円形で屋根が方形のため屋根の四隅では軒の出が大きくなりますの
で木組は「四手先」となっております。 
 下層の裳階が方三間のものが多宝塔、方五間のものを大塔といいますが大塔も多宝
塔の一種です。大塔といえば後述の「根来寺大塔」しか残っておりません。

 密教系寺院でも天台宗系の寺院は三重塔が多く、真言宗系の寺院でも多宝塔だけで
なく三重塔、五重塔も建立されております。
 神仏習合になると多宝塔は神社にも建立されました。それは、単層の神社の境内で
は多宝塔とバランスがとれて雰囲気的にマッチするからであり、五重塔では塔だけが
目立ち過ぎて恰好がつかないからでしょう。

 「多宝如来」の多宝塔に「釈迦如来」を招き入れた2如来が並座で祀られました。それ
がいつの間にか多宝塔は大日如来の三昧耶形(象徴)と変わっていきました。真言宗で
は最初から大日如来を祀りました。 
 
 多宝塔は当初から仏舎利を奉安せず仏像を祀りましたので初重内部をすっきりした
空間にするために心柱を初重天井の上に立てました。
 多宝塔は仏塔の四面が正面というものとは違い当初から仏像を安置したため正面を
持つことになります。しかし、仏塔も舎利崇拝から仏像崇拝に変わると正面を持つこ
とになります。

切幡寺大塔 


       四手先(上層)   


       切幡寺大塔(二重塔)

        上層の間口は3間

  初重の間口5間(2,3,4は出入口)

  「切幡寺(きりはたじ)」は徳島県阿波市に所在し四国八十八個所の十番札所です。
ただ、本堂までは333段の階段を登るうえ、大塔は本堂の左後方の山腹を切り開いた
高台にありますのでさらに数10段登らなければなりません。
 「切幡寺大塔」は廃仏毀釈の際「大阪の住吉大社神宮寺の西塔」を買受け、解体移築さ
れたものです。二重塔の唯一の遺構という価値ある塔が残ったのは当時の住職さんの
決断があらばこそでその功績は大きいです。
 「二重方形大塔」の出入口は正面は3戸ですが他の3面は1戸です。
 柱は層塔ということで初重と上層ともに丸柱です。多宝塔は初層の裳階部分の柱は
角柱であるのに後述の「慈眼院多宝塔」のように室町時代頃から裳階部分の柱が丸柱と
いうのが出て参ります。これは裳階は従属的な建物ではなく二重塔と考えて裳階部分
も丸柱となっていったのでしょう。
 初重は方5間ですので大塔ですが何故か上層が方3間となっております。通常、仏
塔と言えば方3間で稀に後に出て参ります上層が方2間というのもあります。
 初重が方5間ならば上層も柱間を縮めて方5間にせねばならないのに上層が方3間
というのは多宝塔が下層に比べ上層が細くなっていることを意識されてのことでしょう。
また、上層の組物は四手先で、通例、仏塔は三手先ですが多宝塔の上層が四手先にな
っていることを意識して設計されたのでしょう。
 相輪は最頂部に宝珠を置き、九輪の上にある四、六、八葉から多くの風鐸を吊るし
た宝鎖を吊り上げておりこれは多宝塔の相輪形式です。仏塔では四、六、八葉が水煙、
竜車となります。興味尽きない大塔でした。
 天台系寺院での多宝塔は二重塔形式で建立されたことがあるそうです。

仏塔の伽藍での配置変革について

塔を3金堂が囲む  
 
我が国最初の寺院「飛鳥寺」は伽藍の中心に「仏塔」がありその仏塔を東、西、北側の
「3金堂」が囲んでおりました。現在、この伽藍形式の寺院は残っておりません。

塔と金堂が一直線

 「四天王寺」は現在、西方の出入口ですが
当初は南の正門・南大門が出入口でした。
 南大門を潜ると天空に聳える五重塔がま
ず最初に迎えてくれます。仏塔が伽藍の中
心から外れますが仏塔が金堂より前方にあ
り、まだ仏塔優位も崩れておらず左右対称
性も守られております。
 四天王寺は戦後の再建ですが建築様式は
聖徳太子が建立された時代様式で再建され
ております。五重塔の五重目の屋根勾配は
後世強くなりますが当塔は創建当初の穏や
かで軽快な屋根となっております。 
 講堂が回廊内の配置となっております。


  四天王寺(南西からの撮影・合成写真)

塔と金堂が並列


     法隆寺(東北からの撮影)

 信徒たちの仏教に対する願いは
塔崇拝より仏像崇拝でした。その
過渡期では塔と金堂が対等になり
ました。
 左右対称を厳守する中国に対し
て我が国では7世紀には「法隆寺」
で左右対称を崩して金堂と塔を並
列に並ぶ非対称伽藍となりました。
 仏像を直接拝みたいという願望
が強くなりましたがまだ僧といえ
ども堂・塔内には立ち入りことが

出来ず法要は堂・塔前の広場で行う庭儀でありました。
 現在、講堂は回廊内にありますが創建当初は回廊外でした。
 堂塔撮影は北側(裏側)からでしか出来ませんでした。

双塔形式


    東塔・西塔(当麻寺)


      西塔・東塔(薬師寺)
 仏塔は東と西の双塔となり金堂が伽藍の中心
を占めるようになりました。仏塔は金堂前方の
東西にバランスよく建っております。これらの
伽藍様式は白鳳様式ですが天平様式になります
と双塔は伽藍内どころか伽藍外の建立となりま
す。 

  

 

さざえ堂

  「飯盛山さざえ堂」はユニークな仏塔で、中国では階段を登り各階の仏像を礼拝しな
がら登っていきますが、さざえ堂も螺旋通路を登りながら仏像を礼拝するという珍し
い構造の仏堂です。
 飯盛山にある「白虎隊の墓」を目当てに訪れる方が多いですが私みたいにさざえ堂を
目的で訪れる者は居ないようでした。それというのも、さざえ堂内に立ち入られる方
は少なく堂前でガイド説明を受けるだけで素通りでした。

  
       さざえ堂

 
 飯盛山から「鶴ヶ城(青矢印)」が遠望出来ま
すが教えていただかなければ見落とすところ
でした。

 建物の外壁も独創性に富んだ螺旋状に造られております。

  
 入口、これより右繞礼拝が始まります。


     入口からの登り通路です。

 左図では三十三観音をお参りしながら登るのですが今は観音さんはどなたも不在で
した。右図は頂部(緑矢印)でこれより下りとなります。

 左図は下り通路です。右図は間もなく出口で入口とは別です。
 堂内は螺旋状の昇降通路が二重螺旋となっており登りと降りとは別々の通路で参拝
者が行き違うことがないよう工夫されております。

 

羽黒山五重塔


     三 神 合 祭 殿


     正 面

 「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」とは月山(がっさん)、羽黒山、湯殿山(ゆど
のさん)の各祭神を一同にお祀りした神社でこの三神合祭殿にお参りすれば三神社を
お参りしたご利益があるとのことです。2000mの高山である月山をはじめ雪深い地
域であるため参拝者の苦労を憚ってのことでしょう。
 茅葺屋根の風雅な三神合祭殿は、修築中で雪国での屋根の保守管理は大変なこと
でしょう。茅葺屋根の難点は雨守対策のため厚さをこのように2mくらいにしたう
え屋根勾配を急にしなければならないことです。これ程巨大な宗教建造物で茅葺屋
根を見るのは初めての経験でした。 


      五 重 塔(羽黒山)

 

       初重部分


        神 橋
 朱塗りの神橋が樹林の緑と相俟って見事
なコントラストです。

  随神門をくぐり石段を下り祓川に架かる神橋を渡っていくと10分程度で「五重塔」
に到着です。参道から少し逸れた所で欝蒼と茂る老杉の大木に抱かれて立っておりま
す。これよりさらに約2400段の階段を登っていきますと先述の三神合祭殿に到着しま
す。私には約2400段の階段は天まで届きそうな高い階段に思え横着して三神合祭殿へ
は自動車で上がりました。
 これほど豪壮な五重塔が存在するならば多くの堂舎が存在した大伽藍だった筈です
が五重塔以外の建物はなく見渡す限り杉の老木のみが茂っておりました。それにして
もいつまで見ていても飽きない五重塔がよくぞ廃仏毀釈の悲劇を免れたものです。た
だ、この周辺には人影もないので保安上問題が無いのか心配になりました。
 素木造、柿葺という耐用年数が短い造りだけに歴史的建造物の維持管理には人知れ
ないご苦労があることでしょう。
 心柱は初重天井から立てられております。

 

安楽寺三重塔

 
    八角三重塔(安楽寺)

 「安楽寺」は長野県別所温泉街にありますが静か
な落ち着いた寺院でした。
 「八角三重塔」は本堂より杉の大木の間を上がる
と後方の山腹に建立されており、このように仏塔
は伽藍の後方の山腹に建立されることが多くなっ
ていきます。
 「八角の塔」でも「八角の建物で裳階付」でも
「国宝禅宗様仏塔」でも唯一の遺構です。裳階付き
なので四重八角塔のような外観です。
 和様の仏塔の場合総ての屋根が平行垂木ですが、
当塔は禅宗様の定法通り扇垂木でしかも裳階まで
もが扇垂木とは驚きです。八角の建物を六枝掛、
扇垂木で仕上げることが出来たのは格外の力量を
もった番匠(大工)が居たからでしょう。
 窓は花頭窓ではなく和様の連子窓でありますが
二重、三重に縁、高欄がない禅宗様式で貴重な仏
塔と言えます。
 古代の仏塔は四方に入口がありますが当塔は裳
階の正面のみに「桟唐戸」の入口があります。

 自然豊かな清浄のなかで訪れる人々に優美な佇まいを見せております。屋根は淡い
曲線でまるで8枚の羽根が羽ばたいているようで天高く舞い上がって行きそうに見え
ました。 

 

大法寺三重塔

 「大法寺」はその昔、門前を街道・
東山道が走っており、通り過ぎる旅
人が素晴らしい「三重塔」に魅入られ
て、何度も何度も振り返って別れを
惜しんだので「見返りの塔」という俗
称があります。 
 目と鼻の先に先述の「安楽寺」があ
り、どうして緑の濃い山里にこのよ
うな優れた三重塔が2塔も保存出来
たのでしょうか。   
  三重塔は本堂の左後方の山腹に必
要な底面積だけを切り開いて建立さ
れ木々の間に挟まれた自然に抱かれ
ております。


      三 重 塔(大法寺)

 当塔の裏側の高台が撮影場所で、そこは眼下に広がる「塩田平」を見渡せる絶好の
位置です。 
  仏塔の正規の組み方は三手先ですが当塔は初重だけを二手先にして初重の平面を
広げたため安定感のある良い姿をなっております。
  当塔は我が大阪の四天王寺の番匠(大工)によって建立されたとの言い伝えがあり、
親近感を抱かせる塔でした。

 

     

西明寺三重塔

  
       三 重 塔(西明寺)

 「西明寺(さいみょうじ)」は湖東三山の一つ
で、山間に位置するだけに透き通るように澄
んだ大自然の中にありました。
 国宝指定の「本堂」「三重塔」は釘を使用して
いないと説明されておりましたがそれは長期
保存を考えた古の工人達の知恵でしょう。
  三重塔は本堂の西側で、通例である本堂よ
り高い位置に建立という考えを重んじたのか
高い石壇上に立っておりました。
 三重塔は洗練された様式美で日本美人のよ
うな佇まいです。前庭が広く、明るい雰囲気
の全体像が眺められ、屋根が大きく反るうえ
初重の軸部が高いのでまさに浮かび上がるよ
うな感じがする印象的な塔でした。
 水煙が欠失したままでした。
 紅葉の名所としても著名で紅葉のシーズン
は最高の眺めとなっていることでしょう。

 

常楽寺三重塔

  「常楽寺」は拝観料を各自で指定の箱に
納めて入ります。訪れた時は私の貸し切
りの境内で静かな空間が広がっておりま
した。
 「三重塔」だけでなく「本堂」も国宝指定
です。
 本堂は堂々たる建物でその本堂をすり
ぬけて階段を上がると西南の背後の高台
に三重塔は立っております。塔の前庭は
狭く一望することは出来ませんが階段下
から眺める塔はしっとりと落ち着いた気
品漂う魅力溢れるものです。三重塔では
珍しく桧皮葺ではなく本瓦葺の屋根です。
 縁は地表から低い位置にあるのに擬宝
珠付きの高欄が巡っているのは塔を荘厳
するためでしょう。
 水煙はシンプルな美しさでした。

 
   三 重 塔(常楽寺・東側) 

 

明通寺三重塔

  
     三 重 塔(明通寺)   

 「明通寺(みょうつうじ)」は山号を「棡
山(ゆずりさん)」で「棡」とは「譲葉(ゆず
りは)」のことです。
 日本海側では国宝指定の建築は珍しい
のに明通寺には「本堂」「三重塔」の2棟も
ある名刹寺院です。
 三重塔は本堂の右手前に位置します。
石段を上がると僅かに切り開かれた空地
に建築されていた地味な佇まいでした。
1270年に再建されたもので回り縁が付き、
屋根は桧皮葺です。
 初重には大仏様の猪目(ハート型)の付
いた「拳鼻(こぶしばな)」があり現存最古
の遺構として著名です。拳鼻とは手の拳
を横から見た時に似てることからの命名
で木鼻の一種です。
 心柱は二重目で止め初重内部には柱が
一本もありません。初重には仏像をお祀
りするいわゆる仏像舎利であります。

 余談ですが明通寺はNHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台「小浜」にあります。
 

 

石山寺多宝塔

 「石山寺」境内には奇妙な岩石が目に
付きます。その岩石は天然記念物に指
定されている硅灰石(けいかいせき)で、
この石が寺名の起こりとのことです。
建物はこの硅灰石の上に建てられてお
ります。
 「本堂」に設けられた、紫式部が『源
氏物語』を執筆した「紫式部源氏の間」
の前を通り過ぎ階段を上ると「多宝塔」
に到着です。
 「多宝塔」は我が国で考案されたもの
で数多く造立されました中でも現存最
古という遺構です。
 我が国の三大多宝塔と評判だけに優
美な姿には思わずため息が漏れます。
また三方から眺めることが出来、感動
を覚えること間違いなしです。


      多 宝 塔(石山寺)

 
    硅灰石

 裳階部分が大きいだけにどっしりとして安定感に富んで
います。
 『硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、
その熱作用のために変質したものです。この作用によって
通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅
灰石となっているのは珍しいものです・・・・。』と説明
されておりました。「花崗岩と接触し・・・」とあるように
寺内には硅灰石と花崗岩がありました。
 多宝塔から少し行くと見晴らしのよい「月見亭」に出ます。
石山の名月を観賞するため月見亭と名付けられているとの
ことでした。 

 

教王護国寺五重塔


     五 重 塔(東寺)

 「五重塔」は高さ約55mと我が国最大の塔高で
京都の空に高くそびえており京都のシンボル的
存在といえます。南北一直線でならぶ堂宇です
が五重塔は金堂に向って右手前にあります。
塔と金堂との関係で言えば後述の醍醐寺も同じ
伽藍配置です。
 最大の仏塔だけに写真撮影は難しかったです。
境内には多くの樹木が植えられていますのと築
地塀が塔に接近した東・南側にあるなどどうも
近くで眺めるものではなく遠くから眺めるもの
だと思いました。昔の旅人にとってこの仏塔は
京の都のランドマークだったことでしょう。江
戸時代の再建でありますが板唐戸、両脇間は連
子窓、間斗束など古代の様式を踏襲しておりま
す。全体的に伝統的な技法を継承しており木組
は太く圧倒される迫力あるものでした。
 境内の東南隅に建てられておりますが堂々と
しており壮観な眺めでした。

 

醍醐寺五重塔

 「醍醐寺」は上醍醐、下醍醐とあり山頂に
ある下醍醐まで登るのはきついですが西国
三十三箇所第11番札所で多くの方がお参り
されています。国宝指定の「五重塔」と
「金堂」は上醍醐にあります。
 五重塔は京都で現存する最古の建造物で
す。相輪と塔身とで見事なバランスが取れ
ており均整のとれた美しさで有名です。
 塔の前庭が広く威風堂々とした塔全体が
詳細に眺められるという素晴らしい風景で
京都では珍しい伽藍配置です。
 屋根を支える垂木が中国の技法で「丸地
垂木と角飛檐垂木」の組合せが地垂木、飛
檐垂木ともに「角垂木」に代わる最初の建
造物として著名です。
 垂木が我が国独特の角と角の組合せとな
りこれ以降この方式が主流となります。
 豊臣秀吉で有名な「醍醐の花見」のシーズ
ンは境内が人で埋まる賑わいとなります。


    五 重 塔(醍醐寺) 

 

海住山寺五重塔

 
     五重塔(海住山寺)

 
      初重(裳階部分)

 「海住山寺(かいじゅうせんじ)」は京都府に
位置いたしますが奈良市に近い距離にありま
す。山を上って行く必要があり山岳寺院その
ものでした。
 時代は「三重塔」が多くなるだけに「五重塔」
は貴重な存在で、鎌倉時代唯一の五重塔です。
しかし、三重塔を意識したのか三重塔の高さ
位しかない小振りですが均整のとれた美しさ
を湛えた塔です。
 五重塔で「裳階」付きは「法隆寺塔」との2塔

のみで、当塔の裳階は吹き放しですが法隆寺の裳階には壁が設けてあります。吹き放
しの裳階は珍しいです。ただ、裳階の屋根ということなのか塔屋の瓦葺ではなく銅板
葺でした。 
 仏塔は古風を守り「三手先」ですが当塔は小ぶりな形ゆえか「二手先」でした。
 心柱が初重の天井に立つ最初の五重塔です。 

 

浄瑠璃寺三重塔

 

          
              三 重 塔(浄瑠璃寺)

 「浄瑠璃寺」は北が正面で、小山に囲まれた決して広いとはいえない境内の、中心に
位置する宝池(苑池、阿字池)の周辺に国宝指定の本堂、三重塔がひっそりと建ってお
ります。しかし、このすっきりとした伽藍配置が浄瑠璃寺の最大の魅力とも言えるで
しょう。

 
「三重塔」は高さ16.0mという小振りな塔で浄土式庭園西側の高台に建っております。
三重塔の遺構の中で、初重と三重目の間口の逓減率は一番小さく、初重の間口
100とすると、
三重目の間口は82です。
しかし、木立に囲まれているのでずんぐ
りと
は見えずしかも、桧皮葺きの大きい屋根なので安定感に富んだ建物となっており
ます。  
 
華やかさをみせている朱塗りの塔は、木立に見え隠れしながら背景に溶け込んで素
晴らしい眺めです

 相輪の高さは、塔高の約三分の一の時代に、三割七分もあり少し長いような気が
いたします。  
 塔には必ずある四天柱がないのと心柱が初重の天井上に設けられている構造は、当
時としては革新的構法であります。初重内には構造材はなくすっきりとした塔内(厨
子)となっており時代の先端をいく建物となっております。ただ、四天柱は三重塔だ
から省略出来たのであって五重塔では構造力学的に不可能です。このような構造にな
ったのは本尊の薬師如来像を祀るために金堂の内部
のような壁、柱のない空間を確保
したからです。
 
 
部材の斗、肘木はすべて同寸法で造られております。

 

室生寺五重塔

     

              五 重 塔(室生寺)   

 「室生寺」は奈良県宇陀郡室生村という村に存在するだけに、喧騒の都会とは違い秘
境の世界です。ただし、春の石楠花(しゃくなげ)、秋の紅葉、雪景色のシーズンなど
は一変して人々で大変な賑わいとなります。私は石楠花、紅葉の僅かな時期だけは避
けることをお勧めいたします。
 「五重塔」は室生寺では最古の建造物と言われておりますがどうして本尊を祀るお堂
より先に建立されたのでしょうか。
 高さは16.2メートル、屋外の五重塔では我が国最小の塔で、弘法大師の一夜造りと
の伝えがあります。塔高は通例の五重塔の高さの三分の一で設計されております。 

 
    相輪(室生寺)  

  女人高野ゆえ女性の拝観者が圧倒的に多いようです。鮮
やかな自然と渾然一体となった堂塔が自然の一風景となっ
ており、この室生寺の象徴的な景観が女性にとってたまら
ない魅力となっているのも要因の一つでしょう。
 真言密教では「多宝塔」ですが、女人高野では五重塔が似
合っております。
 石段が仏像の裳懸座のように見えます。石段を上がりな
がら眺める塔は最高に美しいです。
 裳階がないので女人高野らしい優しさがあります。   
 水煙の代わりに「受花付き宝瓶(赤矢印」)で、その上にあ
るのは「八角形の傘蓋(さんがい)(緑矢印)」と珍しい形式の
ものです。インドの傘蓋が我が国では輪と変わりましたが
インドの傘蓋の面影を残したのがこの八角形の傘蓋と言え
るでしょう。 

 

興福寺五重塔 三重塔


    五 重 塔(興福寺)

 「興福寺」は藤原氏の氏寺として威容を誇った広
大な境内地が、今はこじんまりとなって奈良公園
の一角にあるように見えますが、そうではなく奈
良公園が興福寺の境内だったのです。廃仏毀釈は
興福寺にとっては大変な災難でしたが世界に誇れ
る庶民の憩いの場「奈良公園」が誕生したのであり
ます。
 鎌倉時代に制作された国宝彫刻24件のうち11件
が興福寺にあり「慶派の博物館」の様相を呈してお
ります。こんなことを書けばお寺から敬虔な寺院
であって博物館ではないと怒られることでしょう。
しかし何といっても、運慶、快慶などの慶派とい
えば興福寺です。
 「五重塔」は焼失と再建が繰り返されて室町時代
の復古建築です。塔高50.1mは五重塔としては
「東寺五重塔」に続いて我が国二番目の高さを誇っ
ております。
 「仏塔」は天平時代には伽藍内から外に出る新形
式の伽藍配置となった最初の塔で、これ以降は

この形式で寺院が建立されるようになります。しかしまだ塔(釈迦)崇拝が残っていた
のか伽藍の東側に回廊で東金堂と五重塔を囲む塔院という区域を設けておりました。
塔は時代とともに色んな場所に建立されるようになり、ますます装飾的な建築となっ
ていきました。
 西塔は建てられずじまいでしたが東が上位ですので最初に東塔が建立されたのでし
ょう。
 建築と言えばその時代の趣向、技法が採用され「南都焼討ち」後の復興が、東大寺で
は大仏様の技法が用いられましたが、興福寺は平安時代の約300年が藤原時代と言わ
れたことを重要視してか何時の場合も和様建築で再建されました。塔の形態は時代が
下ると寸胴に近い形になり重々しくなりますが、当塔は創建時のスマートな古代の姿
を踏襲して見栄えの良い塔となっております。
 奈良公園のシンボルである五重塔も廃仏毀釈時代には売りに出され、「相輪」をスク
ラップにした程度の金額で売買が成立しました。というのも購入者はただ相輪の金物
だけを欲したからです。そこで、五重塔に火を付けて相輪の金物だけを回収しようと
計画しましたが、近くの人家に類焼する恐れがあると反対され、無事に残されたとい
う嘘のような本当の話です。
 近世に階段が設けられ最近まで上れることが出来たそうです。


   三 重 塔(興福寺)

 平安時代に創建された「三重塔」は和様化の現われ
で初重に周り縁が付くようになった初期の建築です。
再建も平安時代の建築様式で施工されています。
  各重の間口の逓減率は、「五重塔」の初重、四重、
五重が、この三重塔の初重、二重、三重に採用され
ており、初重と二重目の間口の逓減率が大きくなっ
ていますのが、図でお分かりになるでしょう。
このことは、裳階を意識したのかそれとも初重を出
組にして初重内部を広くとるための工夫だったので
しょうか。法起寺(ほうきじ)三重塔も法隆寺五重塔
の初重、三重目、五重目の形をそのまま用いて造ら
れております。  
  この三重塔も五重塔と同じように廃仏毀釈時代に
は売却されかかったようです。
  南円堂の西側の低い土地にあるため人目につきに
くいので見過ごさないよう是非お訪ねください。 

 

薬師寺三重塔  

   
    東 塔(薬師寺)

  西塔(さいとう・昭和56年再建)

  「薬師寺」は従来の慣習では都が移るに従って寺院も移築するのですがその場合、寺
院造営には伽藍配置、建築、仏像などはその時代様式に倣うのが慣行であります。し
かし、本薬師寺の様式を踏襲して着工されると言う前例のないことを実行しました。
すなわち、
天平時代、寺院の形式は「仏塔」を回廊外に建てますが薬師寺は藤原京に建
てられた本薬師寺の双塔を伽藍内に配置する建築様式を踏襲して建立されました。

のように伽藍内に「双塔」がある形式を薬師寺式伽藍形式や白鳳伽藍形式と言います。
  金堂を伽藍の中心に設置し、三重塔を南北の基本軸よりずらさなければなりません
が、塔を後の時代のように装飾品扱いには出来ず塔の処遇に苦慮されたことでしょう。
そこへ韓国から本来一塔でよいのに双塔形式の情報が持たらされましたのでその情報
に飛びついたのは当然でしょう。この双塔形式は天平時代には原則となりますが、天
平時代の双塔は伽藍外に建立されます。

  「東塔」「西塔三重塔であるのに屋根が六つあり、一見六重塔に見えますが、屋
根の三つは
裳階(もこし)という庇状のことです。各層に裳階があるのは東南アジア
にも存在しません。

  木造塔は、間口が方三間のうち中央の間が両脇間より広いものが普通ですが、当塔
は方三間が等間隔です。しかし、裳階の方では中央の間を脇間より広くしてあります。
また、三層目は方二間と異例ですが同じ形式が
法隆寺五重塔当麻寺三重塔
法起寺三重塔にも見られます。
  東塔は730年建立で創建時唯一の遺構です。しかも天平時代の官寺の重要な建物の
中でも唯一の遺構という貴重なものです。
 高さは34.1m、相輪の高さは10.3mです。
  非常に均整のとれた美しい東塔を「竜宮城」と称されたことは納得出来、当時の人が
描いた乙姫様のいらっしゃる華麗な竜宮城とのイメージと合ったのでしょう。
ただ、竜宮城は名の通り竜王の住まいです。

 
         水煙(薬師寺・東塔)


  天童   天女       天男
  この三体の飛天は子供の天童、母親の
 天女、父親の天男であると闊歩された方
 がいらっしゃれ大変感心いたしました。
天童は坊主頭で蓮の蕾を両手で捧げており
ます。
 天女は頭が小さく、右手で刹管を支え左
 手で散華のための華盤を捧げております。
 天男は跪き変わった頭巾を被り横笛を奏
 楽しております。健康的な家族の飛天と
 いうことであれば親しみが湧いてまいり
 ます。

 天平創建の東塔の「水煙」は年代ものだけに画像では不鮮明となりましたが価値ある
東塔のものを掲載いたしました。水煙の大きさは高さ193p、下辺の長さ48pです。
 果てしない空間の零芝雲上に雄飛する東塔の飛天が、1300年も前から今日まで天空 
で散華奏楽をし続けてきたことは奇跡としか言いようがありません。

 「裳階()」を取り除いた三重塔の断
面図です。「初重の間口()」の42%
が「三層の間口()」です。そのため、
とんがり帽子のようですが、裳階があ
るため安定感のある美しい姿となって
おり
多くの人に感動を与えております。
 これとは逆に
浄瑠璃寺の三重塔
「初重の間口」の84%が「三層の間口」で
す。   

 お寺では修学旅行生に対して東・西
塔は裳階が三重に付いたものであり、

「六階建て」ではなく「三階建て」ですので「誤解(五階)」のないようにとの解説をされて
いるとのことです。結論をいえば屋根の数ではなく柱が何本あるかです。図のように
一重ごとの
積上げ式建築で縦の柱が三本しかないので三重塔ということになります。

  

 

当麻寺三重塔 東塔・西塔

 「当麻寺」は古代の双塔が存在する唯一の寺院で極めて貴重なものです。
 当麻寺では左右対称の伽藍配置の原則を気にせず通常考えられない伽藍配置となっ
ております。
 さらには、中世、当麻寺は基本軸が南北から阿弥陀信仰の東西に変わりますが「本
堂」の東西軸より「東大門」は南にずれております。東大門は本堂の東西軸に建設でき
る地形ですがずれているのは何か深い訳があることでしょう。


  東塔       西塔

 「東塔」「西塔」は金堂より離れた台地に
あるうえ、双塔は向かい合わず東西軸が
一直線でなく少しずれているうえに両塔
の地盤にも高低差があります。両塔は遠
望出来ますが近くでは樹木が遮り塔の全
景を眺めることは難しいです。    
 山が迫った丘陵地に建つ両塔は約50m
離れているだけですが障害物があって東
塔から西塔へはぐるっと回らなければ行
けません。天平時代建立の東塔に比べて
平安時代建立の西塔の方がず
んぐりしており100年の年代差が感じら
れます。 
 塔頭「西南院」池泉回遊式庭園の「みは
し台」からの撮影です。西南院を訪れま
すと両塔が眺められる最高の眺望が味わ
えしかも西塔を借景にした庭園で抹茶が
いただけますのでどうぞ。

 「東塔」は天平時代の創建です。
 写真撮影が出来るところは東側のみで、し
かも樹木の遮蔽が少ない僅かな空間に限られ
ます。
 通常、初重から三重目まですべての面の柱
間を、三つの方三間としますがこの東塔は構
造上大変不利であるのに、二重、三重ともに
方二間で特異な構造です。「薬師寺三重塔」
「法起寺三重塔」は三重目だけが方二間です。    
 東塔の四面は中の間が扉口、脇間は連子窓
でその窓の下は白壁です。通常、塔の四面は
同形式で造られますのでどの面でも正面にも
ってこれます。ということは、正面は仏像、
須弥壇の状況で決まることになります。


    東塔(当麻寺・東側面)


      西塔(当麻寺・西北側面)

 「西塔」は25.2mで東塔より0.8m高く
なっております。
 平安時代の創建ですが、東塔創建から
百年も経っているので再建説もあります。
 我が国の場合、仏舎利は塔の地下に安
置されるのに、後に奉安された舎利は心
柱の頂上に安置されております。塔の地
下に安置するには差しさわりのある何か
があったため避けたのではなく舎利を心
柱か相輪に納める時代であったからでし
ょう。
 それとなぜか、舎利が奉安される塔は
白鳳時代なら東塔で、天平以降なら西塔
となり西塔をまず最初に建立すべきとこ
ろですが東上位で東塔が先に建立された
のでしょう。
 北側が正面となります。他の三面は立
ち入り禁止です。北側も樹木があり塔の
真下まで行かなくては全景を見上げるこ
とは出来ませんので写真撮影は不可です。

それゆえ、撮影は塔頭「西南院」の池泉回遊式庭園の「みはし台」から少し回遊した場
所からです。

 

法起寺三重塔

  「法起寺」は“ほっきじ”ではなく“ほうきじ”
と読みます。      
 「三重塔」は現存最古の遺構で、飛鳥様式であり
ます。飛鳥時代造営のままか、それとも白鳳、天
平時代の再建かは分かりません。と申しますのも
伽藍配置が塔が東側、金堂が西側で、現法隆寺の
伽藍配置とは逆になっており、塔が東側にある方
が古い形式です。ところが、法起寺塔が少しすら
りとしていないのは、現法隆寺五重塔の初重、三
重、最上層をそのまま法起寺塔の初重、二重、最
上層に採用しているからです。ですから、法隆寺
五重塔とはどちらが新旧か迷います。ただ、法隆
寺塔にある裳階がありませんので柱のエンタシス
がはっきりとご覧頂けます。 
  初重の脇間に連子窓がないのに二重、三重の脇
間は連子窓が設置されております。


     三重塔(法起寺)

 

法隆寺五重塔 


  鐘楼前からですと均整のある
 五重塔を眺めることが出来ます。


     五重塔(法隆寺・南正面)

 我が国の国宝指定の建造物の年代は近世が大半という中で「法隆寺」の建造物は、白
鳳、天平時代の建造物であります。ただ古いということだけでなく所有する国宝建造
物は18と驚くべき件数であります。
 当時、寺院の「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」です
が古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは法隆寺だけです。世界に誇れ、
歴史の重さを感じさせるのが法隆寺です。
 「五重塔」は現存最古の塔で、塔高は31.5mです。
 塔内の「塔本四面具」が和銅四年(711)に完成したとの記録があり、当然五重塔はそ
れ以前に建立されていたことになります。

 仏塔は各層の間口(桁行)の逓減率で見栄えの良しあしが決まります。当塔の間口で
すが初重の丁度半分が五層目というすこぶる安定感に富んだ見栄えの良い塔となって
おります。中国の仏塔は各階に仏像を安置して礼拝しながら上層階まで登るようにな
っているので、上層階のスペースは広くなければ用途に叶いませんので仏塔は寸胴に
近い形状となります。が、我が国では塔内は僧といえども立ち入ることは出来ません
ので居住スペースを確保する必要がなく見栄えの良い壮大な五重塔を作ることに専念
しました。中国の塔は軒の出がありませんが我が国の塔は軒の出が大きいのが特徴で
ありどっしりとした安定感を醸し出しております。
  塔高の約3分の2が塔身、約3分の1が相輪という比率で均整のある外観となって
おります。
 古代の我が国では仏舎利は塔の地下に安置されており当塔も同じ形式です。

 

慈眼院多宝塔 


     多宝塔(慈眼院)



       初 層 部 分

 「慈眼院(じげんいん)」は「孝恩寺」とそう
遠くない位置関係にあり、大阪では南の関
西空港に近い場所にあります。

 予約制とは露知らず訪れたのですが住職の奥さんらしき方が出て来られどうぞと招
き入れていただきました。
 基壇が高く、塔身が小振りな塔ですが中央の間は扉を設けるため広くとっているの
で安定感のある良い姿となっております。
 裳階部分が本来、面取の角柱であるのに丸柱となっているのは裳階が付随的な建物
と言う考えが希薄になったからでしょうか。それとも二重塔(前述の切幡寺大塔)の考
えが取り入れられたのでしょうか。室町時代から多宝塔の裳階の柱が丸柱に変わって
参ります。
 垂木は初重、上層共に平行垂木です。
 石積基壇は無いほうがバランス上良かったのではないかと思われますが基壇があれ
ばこそ建物を湿気から守れ今日まで保存できたのでしょう。
 塔の前庭には苔が植えてあり手入れがよく行き届いておりました。苔を踏むことの
ないよう注意をしながら撮影するのは初めての経験でした。
 周辺には後述の「根来寺大塔」「金剛三昧院多宝塔」「長保寺多宝塔」があり多宝塔の
メッカといえる地域です。

 

一乗寺三重塔


        三重塔(一乗寺)



      蟇 股

 「一乗寺」は鬱蒼とした山岳寺院
で、階段を上がっていくと山の中
腹を切り開いた狭い空き地に「三
重塔」が建立されておりました。
さらに階段を上がると「金堂」です。
 燃えるような紅葉の季節は最高
の眺めでしょう。訪れた時は、空
気も澄み目の覚めるような新緑で、
自然豊かな清浄さの中にある寺院
でした。

  三重塔は平安末期の建立で平安時代の貴重な遺構として著名です。塔は金堂の後方
になる筈が前方で金堂(本堂)より低い位置に建立されていると言う珍しいものです。
 塔は下からも上からも眺めることが出来ると言われておりましたが金堂は修築中
(2008年春頃まで)で残念ながら三重塔のある台地から金堂への上がり口で閉鎖されて
いたため上からは拝むことが出来ませんでした。塔の姿は見上げて眺めることしかで
きず全体像の魅力は分からずじまいでしたが二重、三重目の柱間を等間隔にしていて
安定感のある優美な姿でした。中備に蟇股が付けられた最初の仏塔で蟇股は初期のシ
ンプルな形状です。 
 初重に縁を設けた現存最古とも言われる遺構です。心柱が初重の天井から立ってお
ります。

 

根来寺多宝塔 


        大 塔(根来寺)

     大 塔(根来寺)

     根本大塔(金剛峰寺)

 「根来寺」は歴史書が伝えるように多くの鉄砲
隊を有した根来衆で知られ、豊臣秀吉に歯向か
い滅ぼされました。勇猛な戦士が全山に駐屯し
た軍事基地とは思えないほど歴史は変わり桜、
紅葉の名所で庶民の憩いの場となっており平和
そのものでのどかな境内でした。
 ただ、大塔に残る豊臣秀吉による根来攻めの
際の鉄砲の弾痕を見れば壮絶な闘いの一端を垣
間見る思いがいたしました。その意味で大塔は
歴史の重みを背負ってきたと言えます。


       弾 痕

 「大塔」は多宝塔ですが裳階は方三間が標準であるのに裳階が方五間もあります。そ
れが大塔といわれる所以で塔内はとにかく広いです。大塔形式では唯一の遺構という
価値ある塔で優美な佇まいを見せております。
 塔内は12本の円柱を円状に配置する円形内陣です。塔内に入れていただけますの
で珍しい円形内陣を是非ご覧ください。創意と工夫をこらした引違戸、連子窓は円形
に造られております。
 多宝塔の場合は仏像舎利ですので仏像の安置に邪魔となる心柱は初重天井から始ま
ります。
 四、六、八葉(受花)から鎖で多くの風鐸を吊るし隅棟と結んでいます。
 亀腹が大きく大塔をしっかりと支えております。 

 

金剛三昧院多宝塔 

 「金剛三昧院(こんごうさんまいいん)」
は「金剛峯寺」と近接しております。金剛
峯寺は人出が多く賑わっているのに対し
霊山の雰囲気が充満している別天地で、
まるで時間の流れが止まったような感じ
でした。
 「多宝塔」は上品な美しさで秀作の評判
の高い塔です。
 多宝塔の特徴である亀腹の白漆喰が際
立っておりました。
 「慈眼院」の多宝塔とは逆で下層の軸部
が低いのが特徴です。それと、裳階の柱
は慣例に従い面取の角柱です。 
 「蟇股」は簡素で初期の形式です。
 軒が深く、下重の軸部が低いだけに安
定感があり見栄えは抜群です。高野山を
訪ねられたら是非お寄りください。


     多宝塔(金剛三昧院)

 

長保寺多宝塔


       多宝塔(長保寺) 

 
         蟇 股

 「長保寺(ちょうほうじ)」は密教寺院
の三種の神器とも言える「多宝塔」
「本堂」「大門」の3棟が国宝指定となっ
ている希少な寺院ですが余り世間の方
には知られていないのは残念至極です。
 四季の自然が楽しめる樹木に囲まれ
た寺院です。
 多宝塔は上層が締まり過ぎの感もあ
りますが上層にくらべて下層が大きく
安定感のある優美な塔でした。 

 「裳階」の柱は丸柱で前述の「慈眼院」と同様です。「相輪」は「当麻寺塔」と同じく八輪
と珍しいものです。 
 余談ですが寺名の場合「保」は「ほ」でなく「ほう」と呼称することが多いようです。 

 

明王院五重塔

 「明王院」は栄光と威厳をとどめる寺院で国宝指
定の「五重塔」と「金堂」とが、法隆寺伽藍と同じ形
式で金堂を東側、五重塔が西側に並んで建立され
ております。
 五重塔は多くの費用を要するので三重塔が多く
なる室町時代の建立で、室町時代を代表する五重
塔です。ということは、当時は活気に満ちた寺院
だったことでしょう。
 初重の軸部は高いですが二層以上は低いです。  
 五重塔は非常に均整が取れた壮麗な姿で訪れる
人に束の間の幸せを与えていることでしょう。 
 中備は蟇股ではなく間斗束ですが四層目の両脇
間、五層目の柱間に間斗束はありません。木鼻も
台輪もない保守的で古風な塔です。
 基壇ではなく高欄付き縁となっております。


   五重塔(明王院)
  右に見える軒は「本堂」です。

 

 「水煙」の文様は火焔そのも
のであり、その昔水煙は火焔
のデザインが大半であったた
め火焔と呼ばれておりました
が火を嫌って水煙と呼称変更
になりました。

 

向上寺三重塔


    三重塔(向上寺)(東側)


   三重塔(向上寺)(裏側)

 「向上寺」は西瀬戸自動車道で因島市を抜けた生口島(いくちじま)北ICから近距離
にあります。車では便利ですが交通の便は悪そうでした。
 今、境内には「三重塔」を残すのみとなっておりますが訪れる価値は充分あります。
 階段を登り極彩色に彩られた三重塔を最初に見た時、息が詰まる思いでした。
 三重塔は瀬戸内海を見渡す潮音山の山腹に塔の底面積より一回り広い空間に建築
されておりました。それゆえ、撮影には悪戦苦闘しましたが、細部の装飾彫刻の種
類の賑やかさは見事でただ驚くばかりでした。
 装飾彫刻の集合体の観があり異国情緒あふれるものでした。これほどの独創性に
富んだ意匠を考え、造ることの出来た優れた工匠が居たことに感激いたしました。
他に比を見ない装飾彫刻だけを見るのも一興でしょう。
 禅宗様を基調に和様の様式を一部組み入れた塔です。


          初重は扇垂木


   二重、最上層は平行垂木 

 三重塔の場合初重、二重が平行垂木で最上層が扇垂木が通則ですが初重が扇垂木で
二重、三重が平行垂木という珍しい形式です。


            二重、最上層

 和様の跳高欄に禅宗様の逆蓮柱、和様の連子窓、禅宗様の花頭型出入口(窓?)、和様の支輪が見えます。


 二手先目に出る肘木を文様化し、
肘木の先端に若葉彫刻をつけるのは
珍しいことです。 


    肘木の先に若葉の彫刻


             初重部分

 禅宗様の繊細優美の花頭窓、禅宗様の桟唐戸、禅宗様の柱の粽が見えます。中備は
蓑束で禅宗様の詰組ではありません。
 礎盤ではなく基壇上に地長押となります。自然石の上に立つ土間床ですので縁は設
けないのが禅宗様式です。

 

浄土寺多宝塔  

 


       多宝塔(浄土寺)

 「浄土寺」は聖徳太子の創建とい
う名刹寺院です。寺院のある「尾
道」とは尾道水道と山との狭隘平
地に住宅が密集しているところで
す。迫りくる山の階段を上がって
行くと正面に「本堂」があり同じ南
向きに「多宝塔」が建っております。
本堂、多宝塔の2棟が国宝指定で
す。
 「多宝塔」は雄大にして優美な姿
でした。黒ずんだ風腐した建物ば
かりを眺めてきたので少し違和感
を覚えましたが創建当初の姿を見
るようで感激もいたしました。
 本堂の古さと多宝塔の新しさが
調和している境内ですが鳩の多い
ことには驚きました。
 多宝塔の左の建物は「阿弥陀堂」
です。

 

瑠璃光寺五重塔

      五重塔(瑠璃光寺)              美しい林池と優雅な塔 

 「五重塔」は日本三名塔の一つと言われるだけに気品ある落ち着いた風情の塔で、公
園風の林池を控えて展開する景観の素晴らしい眺めは日本広しといえども見当たらな
いでしょう。微妙に移り変わる四季折々に優雅な塔がいつでも見れるとは山口の人が
妬ましくなりました。三名塔の二つは本瓦葺ですが当塔は桧皮葺でありそれがまた周
りの木々としっとりとして何とも言えない優美な、雅やかさが漂っておりました。   
 屋根の出が大きいのに比べて塔身がスリムで不安定な感じがいたしますがスリムな
塔が建築出来るようになったのはそれだけ建築技術が向上した証でしょう。軒反りは
穏やかですが五重目の屋根勾配が少しきつくなっていますのは雨漏り防止を考えた結
果で建築の保存上止む得ないことでしょう。
 初重の脇間は通例の盲連子窓ではなく連子窓という珍しいものです。
 背景の緑が桜、紅葉に変われば塔の眺めも美しく変わり違った風景となっているこ
とでしょう。
 縁は初重にも設けられておりますが高欄付きの縁は二重目のみです。高欄は平安以
降、中央で開いているのが普通ですがそのように設計されていないのはこの縁高欄が
装飾的なもので意に介されなかったためでしょう。