仏陀の生涯
 

  「法隆寺について」はガイドで多くの方にお話しいたましたのでホームページに掲載す
る積りはなかったのですがガイドに同行しておりました家内から是非記載すべきと忠告
を受け急きょ掲載しました。その法隆寺の説明を作成中に大乗仏教、仏像の故郷とはど
んなところかを知りたくなりインド、パキスタンの仏教美術を訪ねることにいたしまし
た。
 インドでは同胞をボードガヤといい、タージマハルでは見かけましたがそれ以外の地
域ではパキスタンと同様に見かけることはありませんでした。そこでインド・パキスタ
ンの仏教美術について拙い文章ですが皆さんが訪れるきっかけになればいいなあと考え
記載を思い立ったのであります。しかし何分、インド・パキスタンの知識は零に等しい
ものですから予想外に手間取りました。さらに、前回パキスタンを訪れた際天候不順で
飛行機が飛ばずパキスタン最大の博物館「ラホール」に寄れませんでした。ところが、パ
キスタンのことについて調べれば調べるほどラホール博物館を抜きにしては語れないこ
とに気がつき先月急遽パキスタンを訪れましたが最高気温が48度で死者が20数名出る暑
さには驚くとともに貴重な経験をして参りました。

  インド、パキスタン共に博物館では展示品のカタログが販売されていないうえに展示
品の説明は目次程度のもので、しかも博物館によってまちまちの説明です。それと、イ
ンドのマトゥラー博物館は展示館が二つに分かれており通常はその一つのみを開放して
いますので全ての展示物を見るには2回訪れる必要があります。それと残念なのはニュ
ーデリー博物館を再度訪ねた時、海外出展のため展示品が少なくなっていたことです。

 1947年、インドが独立する際にパキスタンがインドから分離し今日に至っております。
インドではヒンズー教徒が、パキスタンではイスラム教徒が大半であることが影響して
の分離となったのでしょう。
 われわれ日本人には理解できないくらい宗教的な繋がりが強く個人もの土地問題でも
宗教的な争いになることがあるらしいです。カシミール紛争にしても宗教戦争でありま
す。わが国ではいまだかつて宗教戦争はなく強いて挙げれば「島原の乱」ぐらいでありま
しょう。わが国の戦いは序列の戦いであって真の宗教戦争ではありませんでした。
 ヒンズー教は火葬して墓は造りませんが偶像崇拝であります。インドではドライブイ
ンでも多くの仏像の販売しておりますが当然ヒンズー教の仏像です。一方イスラム教は
火葬ではなく土葬で偶像崇拝は禁止されております。また、イスラム教は禁酒を強いて
おり先月、猛暑のパキスタンで世界一汗かきの私にとって冷たいビールが飲めなかった
のは修行そのものでした。
  ガンダーラの石工はお土産用の仏像を造る程度で主に墓標の装飾板の製作に携わって
おります。

 
 「仏陀」というよりわが国ではお釈迦さんという方が通じやすいでしょう。成道された
後の呼び名は釈迦牟尼、仏、仏陀、如来、世尊、釈尊などがあります。
 成道されるまでは釈迦菩薩とか太子と呼ばれておりますが今回は成道までは太子、成
道以後を仏陀と呼称することにいたします。
 太子は釈迦族の王子として浄飯王(じょうぼんのう・シュッドーダナー)と、その妃摩
耶夫人(まやぶにん・マーヤー夫人)の間に誕生され恵まれた日々を過ごしておられまし
た。
 太子は29歳で出家され35歳で成道の境地に達せられ80歳で涅槃に入られたという当時
としては長寿を全うされました。誕生年についてはいろんな説がありますが今より
2500年くらい前に実在されていたことは間違いありません。
 太子時代は王侯貴族の身なりでターバンの前に冠、臂釧、腕釧などの装身具を付けて
いてこれが現在の菩薩の姿の原型であります。成道以降は宝冠や一切の装身具を付けて
いないのですが、仏陀だけは成道以前でも如来の姿で表現されることがありややこしい
です。宝冠ですが髪を束ねた前面に冠を付けたものでターバン冠飾とか呼ばれており私
もその呼称を使いました。「衣服の交換」で修行僧らしい質素な服装に変身されますが、
仏像が造られるようになった時、太子には王侯貴族の姿が相応しいと考えられ採用され
たのでしょう。
 出家されて剃髪されたとのことですが剃髪の太子を見ることはできませんでした。仏
像が仏陀入滅後5世紀もの長い間を経て造像されましたが入滅後直ちに造像されていれ
ば剃髪の太子が存在したかも知れません。

 入滅後の5世紀は仏陀不表現で仏陀の象徴として聖樹、聖壇、法輪、仏足跡、経行石
(きんひんせき)、聖樹と聖壇、傘蓋と払子がありますが経行石は今回初めて知りました。
 

 太子は現世に生を受ける前は兜率天で菩薩として修行されておりました。現在は弥勒
菩薩が兜率天で修行されております。
 仏陀は29歳で出家して35歳で成道されたのではなく過去の前世、前前世にわたって数
々の自己犠牲による善行の積み重ねの結果成道されたというのを表したのがジャータカ
と呼ばれ、わが国では「本生譚」「本生経」などと訳されております。本生譚は古代インド
に存在した人々に親しまれた民話や寓話の筋書きを素材にしておりますので分かりやす
く理解し易くなっております。釈迦の前世は国王、僧、女、動物などに姿を代えて自己
犠牲の布施行を説くものです。本生譚は547話と多くあります。
 一方、仏伝図とは仏陀の生涯における様々な出来事を浮彫、絵画で表したものですが
ガンダーラに多くあり逆に、ガンダーラでは本生譚はあまり好まれなかったようです。
仏伝図は絵画の遺構が少ないです。
 本生譚は遠い過去からの仏陀の伝記を浮彫、絵画で表したものですが仏伝図と同じく
絵画の遺構は少ないようです。

 本生譚、仏伝図ともにわが国の絵巻物と違うのは絵巻物は捲きながら閲覧いたします
ので元に戻ることは出来ずしかも空白が多いのですが本生譚、仏伝図は人物、動物、植
物を充填して空白をなくしているのと物語が上にまたは逆に下に進行したり、または、
反転して左に行ったり右に行ったりと煩瑣すぎる感じがいたしますが、いろいろな出来
事の発見が出来る楽しみがあります。ただ、その作品を眺めても何を表現しているのか
分らないものも多くあることも事実です。

 仏陀の生涯で大きな出来事を四つ、八つに分けまして釈迦四相、釈迦八相と言い、釈
迦四相には誕生、成道、初転法輪、涅槃があり釈迦八相は先の四相に獼猴奉蜜(みこう
ほうみつ)、従三十三天降下(じゅうさんじゅうさんてんこうげ)、舎衛城の奇跡(千仏化
現(せんぶつけげん))、酔象調伏(すいぞうちょうぶく)が加わりますが釈迦四相は変わ
りませんが釈迦八相には色んな説があります。

 

 太子、仏陀の時代とも常にガードマンとして 付き
添っているのが「ヴァジラパーニ」でわが国では「執金
剛神」と呼ばれております。手には強力な武器「金剛
杵」を持っております。
 それと、バラモン教の最高神である「インドラ」と
「ブラフマー」が仏陀の脇侍として従えております。
インドラもヴァジラパーニと同じく金剛杵を持って
おりますが本来、金剛杵はインドラの持物でした。
 わが国ではインドラは「帝釈天」、ブラフマーは
「梵天」と呼ばれております。


  ヴァジラパーニ

 

 

 例えとして適当かどうかは分かりませ
んが図のように仏堂の飾りに浮彫の石像
が嵌めこまれておりました。インド、パ
キスタンともに建物の外壁や階段の周り
に仏陀の象徴(後には仏像)、本生譚や仏
伝が所狭しと貼り付けられてその数は膨
大なものだったことでしょう。

 

  「燃燈仏授記(ねんとうぶつじゅき)」はガンダーラで多く見られます。これは仏陀の
前世の物語で、仏陀は前世、バラモンの修行僧メーガでありましたが燃燈仏から将来
には仏陀になることを授記(予言)されたという話です。


              燃 燈 仏 本 生

 


        


           燃 燈 仏 本 生

  メーガは過去仏の燃燈仏が近く都に来られることを知り是非お会いしたいと出向き
ますが燃燈仏に散華する蓮華は、王が買占めて入手出来ない状態となっておりました。

 左から進みます。
 1 右手に花、左手で水瓶を持っている花売り娘で来世のメーガ妃となる方です。
 2 右手に金袋、左手に水瓶をもっているのがメーガで、メーガはもう売る花はな
      いという花売り娘に強引に頼み有り金全部で5茎の蓮華を買い求めることが出
      来ましたが、買い求めた蓮華を散華しようにも人込みで燃燈仏に近づくことが
   できません。だが幸いなことに、降雨があり人込みも解け燃燈仏の前に進むこ
   とができました。
 3 メーガが燃燈仏の頭上に蓮華を散華するとメーガの蓮華だけが燃燈仏の頭上で
      留まったのであります。そこで、燃燈仏よりメーガに来世は仏陀になるだろう
      との授記(予言)を賜りました。
 4 燃燈仏から将来仏陀になることを予言されるとメーガは空中に舞い上がり燃燈
      仏に合掌礼拝いたしました 。
 5 降雨によるぬかるみに燃燈仏が差し掛かるのを見てメーガは髻を解きほぐして
      ひれ伏し髪をぬかるみに敷き燃燈仏の足許が汚れないようにしました。  
 

 


                過去七仏と弥勒菩薩

   上図は「過去七仏と弥勒菩薩図」ですが右の一仏が破損して六仏となっております。
左端は未来仏の弥勒菩薩です。過去七仏とは
毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶ
)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむ
ぶつ
)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。釈迦牟尼
仏以前の遠い過去に六仏が居られたということですがそれでは燃燈仏はどうなってい
たのでしょうか。

 

 「六牙象本生」は仏陀の前世の物語です。

 


               六牙象本生  全体図


      部分図


        部分図

  仏陀が前世で六本の牙がある象王(青矢印)だった時の話で、象王が一人の王妃に贈
り物をしたのをもう一人の王妃が見て嫉妬狂い死してしまいます。その亡くなった王
妃はある国の王妃として生まれ変わりました。そこで王妃は前世の恨みをはらすべく
王に六牙の象を殺して牙を取ってきてほしいと懇願いたしました。王は猟師を集め六
牙の象退治に行かせます。猟師(赤矢印)は身をひそめ隠れ待って目的の象を仕留め牙
を切り取り王の許に持ち帰りました。持ち帰った牙を王から見せられた王妃は希望が
叶いましたが前世での夫だった象王を殺害するという自分の犯した罪の深さに苛まれ
てショック死してしまうという話です。六牙の象王には傘蓋があります。
  六牙の白象の話は後述の
托胎霊夢でも出てまいります が同じ白象だったのかは分
かりません。

 

  大猿本生

  仏陀は前世で動物であったといいその動物には象・猿・鵞鳥などがありますが我が
国ではあまり好まれませんでした。 


      
大 猿 本 生


       
大 猿 本 生

  ある国の王は川に流れるマンゴを拾って食すると美味しかったので王は川上の木に
生ったマンゴを取りに行きますが猿たちがマンゴを守っていて取ることが出来ません
でした。そこで王は邪魔する猿たちを退治するため兵士に攻撃を命じました。攻撃を
受けては大変と猿王は一族の猿を安全な向こう岸に逃がすため自己犠牲の精神に則り

両岸の木の枝を手と足で掴み
両岸を繫ぐ橋となったのであります。王は猿を排除して
マンゴを取りに来たのですが猿王の危険極まりない行為に感動いたしまして直ちに兵
士に攻撃を中止させると同時に万が一猿王が落ちても大丈夫なように兵士に救助幕を
はらして猿王を逆に守ったという話です。

  1はマンゴが流れる河、2は矢を引いてまさに猿を撃とうする兵士、3は橋代わり
となった猿王、4は猿王の落下に備えての救助幕を張る兵士、5は猿王と歓談する王
です。

  他の本生譚は後述いたします。

 

  托胎霊夢(たくたいれいむ)
 「托胎霊夢」とはマーヤー夫人が白象が右脇から胎内に入り込む夢を見て太子を懐妊
したという話です。白象は太子が変身したものです。


        托胎霊夢


        托胎霊夢

   白象ですがインドでは象(青矢印)はそのまま表されますがガンダーラでは象(赤矢
)は円盤内に表されます。これはインドでは夢の中でなく現実に象が兜率天から降下
したと考えられたのではないかとも言われておりますが定かではありません。
 ガンダーラの円盤は、マーヤー夫人の夢の中での象ですよということなのかそれと
も、白象は太子そのものですから光背として付けたのでしょうか。それというのも誕
生直後の太子に光背がある物もあるからです。
 通常、マーヤー夫人は左脇を下にして横たわっておりますが左図のように右脇を下
にしているのは珍しくこれでは象が胎内に入り込むのに苦労したことでしょう。

 

  占 夢


       占 夢

 「占夢」とは仏陀の生母となる王妃の
マーヤー夫人から白象が右脇から胎内
に入り懐妊したという托胎霊夢の話を
聞いた王が、早速バラモンに不思議な
夢を占わせたところ生まれてくるのは
太子で将来は転輪聖王か仏陀になられ
るであろうと予言いたしました。
 中央の玉座に座るのが王で左側で椅
子に腰を掛けているのが王妃で、右が
占い師でありましょう。

 

  誕 生

 
                 誕 生


 ヤクシー

  マーヤー夫人は里帰りして散歩中、ルンビニ園で急に産気づき無優樹の樹枝を右手
で掴むと右脇腹から太子が誕生いたしました。夫人の右脇腹ではなく右腹からの誕生
と見えますが。太子をうやうやしく受け取るのはインドラで、その後ろで合掌礼拝す
るのはブラフマーでしょう。マーヤー夫人の右隣で介添えする女性は夫人の妹君で太
子の継母となるマハープラジャーパティーでしょう。
 マーヤー夫人は太子そのものである白象が右脇から胎内に入り同じ右脇から太子が
誕生されたのは処女懐胎を表現しているのでしょうか。
 マーヤー夫人のポーズはインド古来の樹神ヤクシーのポーズを真似られたものでし
ょう。腰のくびれによりバスト、ヒップの豊満さが一層強調されておりますが我が国
ではあまり眼にかかれない女性像であります。

 

 

   誕生の後、7歩歩かれた「七歩行」と「灌水」ですが誕生するや否や七歩行された後
灌水されたという説とそうではなく灌水の後の七歩行という説があります。
 七歩行で歩かれた足跡には蓮の花が咲いたとの説が出来、後代には蓮の花の上を七
歩行されたという説が出てまいります。

 

  「灌水」はインドとガンダーラでは違いがありガンダーラでは誕生直後の太子に産湯
(温・冷の浄水)をかけるのはブラフマー、インドラでありますがインドでは龍が行う
という違いがあり灌水の場合の龍は人間の姿で表されます。


     灌 水


           灌  水
  パキスタンでは灌水を取り仕切るのはインドラ、
ブラフマーです。左右の端にいますのがインドラ、
ブラフマーでしょう。

  一方、インドでは竜蓋を着けた2龍が灌水しております。図では太子の誕生を2龍
(ナーガ)が合掌礼拝しておりますが灌水の状況を表したものです。この時の灌水は虚
空より降り注いだといわれるものであったのかも知れません。

 
  誕生するな否や独り立ちして7歩歩んで「天上
天下唯我独尊」と獅子吼(宣言)されたということ
で、当然生まれ立ての裸の筈ですがわが国では袴
を着けております。また、インド、パキスタンで
は両手を下げているか右手を施無畏印のような形
で左手を下すのですが我が国では図のように右手
が天を左手が大地を指し獅子吼されます。
 太子の誕生日が4月8日だと言われることから
我が国ではこの日に「花まつり」が行われ花まつり
の本尊に甘茶(甘露)をかけて誕生を祝います。白
象の上に太子を乗せた像もあります。


   誕生仏像(東大寺)

 

  御者と愛馬の誕生


     御者と愛馬の誕生


    黒駒(法隆寺)

  太子が誕生すると同時に後の御者のチャンダカ、愛馬のカンタカが誕生したとのこ
とです。画像は不鮮明ですが青矢印が御者のチャンダカで赤矢印が乳を飲んでいる愛
馬のカンタカです。太子が誕生した日に多くの人間並びに馬が生まれたとのことでそ
の中で最優秀な人間が御者のチャンダカであり駿馬が愛馬のカンタカだったというこ
とです。背景の馬は多くの馬が生まれたことを物語っているのでしょう。
 黒駒は聖徳太子の愛馬でした。

 

  勉 学

  太子は勉学、武芸に優れた才能を示されたということです。特に、相撲、弓術が抜
群と言われております。太子は教室内ではなく戸外で学ばれたことでしょう。

 
       通 学

 
           勉 学

  太子は羊に乗って学友と一緒に学問所に
通学されておりました。傘蓋を持っている
のは御者でないようです。太子と御者は同
年齢で図では少し年長者に見えます。右端
は先生のヴィシヴァーミトラでしょうか。

 筆記用具には木板か石板を使用したと
思いますが筆記しやすいような材質のも
のが選ばれたことでしょう。学んだこと
を書き留める太子と先生のヴィシヴァー
ミトラです。

  競 技

 


        レスリング




     レスリング・弓術

 レスリングは相手が死ぬかギブアッ
プするまで勝負したことでしょう。わ
が国の相撲も同じで昔は相手が亡くな
るまで勝負をしたようであります。

  下段はレスリング・弓術ですが上段はい
 かなるスポーツをしているのか不明です。
 太子は弓技では鉄製の的を打ち抜いたとも
 言われております。  


      象 投 げ

 太子は右手で象を持ち上げ今まさに投
げようとしております。
 他の人物は象の尻尾を掴み嫌がる象を
引っ張ったり右手で象を叩いている者も
おります。
  なぜ聖獣の象を投擲したり苛めたりす
るのが理解出来ませんが何か深い意味が
あることでしょう。

 


        
儀 式


            
儀 式   

  この儀式はお見合でしょうか結婚式でしょうか。

 

  樹下観耕


     樹下観耕

 「樹下観耕」の代表的な彫像で、堀辰夫の名作『大和路
・信濃路』の中に「あのいかにも古拙なガンダラの樹下
思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧の境に
はいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その
太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像・・・」
と紹介されております。
 
閻浮樹の木の下で瞑想されている太子です。宮廷生活
では何不自由のない恵まれた生活だったので苦しみとい
うことを知れなかったことでしょう。がしかし、今のあ
まりにも恵まれた生活に疑問を持ち始め、思いにふける
日常生活を送るようになりました。その原因の一つには
実の母親を生後たった7日目に亡くすという運命の悲し
みもあったことでしょう。
 太子がある農業祭に出席された時農地を耕すのに苦労
する農夫とこぶ牛、耕された土の中から現れた虫は小鳥
に啄まれ、ついには、小鳥も巨鳥に食べられるという強

食弱肉の現実を見て世の中の無情に衝撃を受け心を痛めました。
 太子がますます物思いに沈むようになり父王は心配して季節ごとに快適に過ごせる
三時殿を造営したり太子が出家しないように気を遣いました。
 閻浮樹は枝を曲げ、太子に陽が当たらないように影を造ってしかも太陽が動こうが
影は変わることがなかったと言われております。

 
台座の右側に犂を引くこぶ牛(青矢印)が描かれており左端で合掌するのは太子の瞑
想の姿を見て驚嘆した父王(赤矢印)です。中央に火の祭壇があります。


         
      樹下観耕

 2頭のこぶ牛を棒で追い立てながら犂を引かして耕作しているの
で牛は苦しそうであります。
 太子は
樹下で瞑想しますが悩みは解決することなくついには出家
へと繋がってまいります。

 

  宮廷生活 


                    全 体 図


         部 分 図


      部 分 図

  父王は太子に絶世の美女に囲まれたわが国の江戸城の大奥のような生活を過ごさせ
出家を思い留まらせようとするのですが、太子は虚しさが募るばかりで気が重くなっ
ていきます。
 全体図は男女の愛の交歓像がある区切りで七つの場面に分かれております。各場面
は王子が美女に囲まれて歓楽の時間を楽しむものでありますがこんな生活も長くは続
かずますます太子は深く悩むようになっていきました。取り巻きの女性たちは歌い楽
しんでいますが王子はここから抜け出そうとしております。

 

  四門出遊

 太子は城内の者が見守る中で城を
出ようとしております。東門を出れ
ば哀れな老人、南門を出れば病人、
西門を出れば死者と遭遇して老病死
の苦しみを知り、どうすることも出
来ず悩みますが、北門を出てみます
と修行者が見えその安らかな顔に衝
撃を受け出家を決意します。
まだ、
出家の出城でないので2階の官女た
ちも機嫌よく見送っていますが左上
の父王だけは心配げに見送っており
ます。
  太子の進むべき将来が決まる重大
な出来事です。


       
四門出遊

                  

  南門を出れば腹が異常に膨れた病人(青矢印)に会うという場面でしょうか。ただ
まだ城内に太子は居られるようにも見えます。

 

 出城前夜 
      出 城 前 夜 

 出家決意   
        出 家 決 意

  太子は昼間音楽とともに踊り狂っていた官女たちのだらしなく醜い寝姿を見て宮廷
生活に嫌気がさし出家を決意します。
中央で寝台に身を横たえて寝むりこけているの
は太子妃です。右図で起き上がっているのは太子で、ついに出家を決意します。太子
には左手を腰に当てる特徴があります。
  

 

  出家踰城(しゅっけゆじょう)


        出 城


           出 城

  太子が迎えにきた御者と愛馬で城を出ようとするところです。
 妃や城内の人々を起こさないよう馬には声を立てさせないために轡を嵌めしかも4
人のヤクシー(四天王か?)が馬の脚を支えて馬の足音がしないように進んで行きます。
傘蓋をささげているのは御者です。太子まさに御齢29歳。
 眠りに入っている妃を残して愛馬に乗って城を出ていきますが父王や妃に気づかれ
ないように出ていくためになぜ寝室にまで愛馬を入れ乗っていかれるのか理解できな
いことです。このことを出家踰城と言います。

 


                  出家踰城 全体図


               出家踰城 右半分

  居城から馬の蹄の音で妃が目を覚まさないようにヤクシャが馬の脚を支え馬を持ち
上げて進んでいます。
 左側の居城から出ていく太子を馬上の傘蓋で表しております。太子は4回にわたっ
て表わされております。
 中央の樹木は樹下観耕のジャンプ樹ではないかと言われておりますがその樹木を通
り過ぎても愛馬の足を支え愛馬を持ち上げ進んでおります。
 太子が愛馬から降りられたので馬上にありました傘蓋が太子の象徴である仏足跡に
掲げられております。仏足跡の太子に跪いて別れを悲しむ御者と茫然とたたずむ愛馬
です。
 右側で下段に反転し、太子の行かれた方向にうなだれ振り返る御者と愛馬。太子が
降りられたので帰りの馬上には傘蓋がありません。御者は手に太子から妃ヘ托された
太子が身に着けていた装飾品などを持っております。

 

 御者、愛馬の別れ

 御者と愛馬の帰城


 
    御者・愛馬との別れ


     御者、カンタカの帰城

  愛馬が太子の足をなめ別れを惜しんでおります。

 御者と愛馬は帰城しましたが太子の姿は見えず、太子の傘蓋と装身具だけが妃に届
けられ妃は悲しみにくれております。右端の人物は侍女でしょう。継母はどこに居ら
れるのでしょうか。

 

  落 髪


     剃 髪

 

 太子自ら左手
で髪をもち上げ、
右手の刀で髪を
切り落とします。
その切り落とし
た髪を上に投げ
たのであります。
 


    忉利天で仏髪供養  


       ターバン供養

  太子が自分自身で髪の毛を切りその髪を空中に投げたのをインドラが受け止めその
仏髪を三十三天(忉利天)で多くの神々とともに礼拝したということですがターバン礼
拝と言われたりするようにターバン冠飾を外されただけなのではないでしょうか。と
言いますのも剃髪の太子像をあまり見かけないこととターバン礼拝と仏髪礼拝とは同
じことだからです。
 我々はターバンを被っている人をみるとインド人と思いがちですがそうではなくイ
ンドでは少数派のシーク教徒などだけで実際にはあまり見当たりませんでした。
 しかし、古代インドの王侯貴族はターバン冠飾を着けていたようであります。です
から太子もターバン冠飾を着けていたのでしょう。これらからターバン冠飾を外すこ
とが重要で剃髪することはさほど重要でなかったのではないかと思います。ところが
王侯貴族以外の人々が出家するようになってターバン冠飾を着けていないので剃髪と
いう儀式に変わったのでしょうか。
 
 左図はターバンの礼拝でありますがその歓喜の表し方は身体をくねくねさせて異常
な感じですがそれだけ驚喜が大きかったということでしょう。ただ、ターバンを忉利
天へ運ぶところか忉利天でターバンを礼拝するところかは不明です。

 これらの儀式と次の衣服の交換とは順序が逆になるかも知れません。

 

   衣服の交換


        衣服の交換

 途中で猟師に出会い太子の衣服と
猟師の衣服とを交換いたします。太
子は王子の衣服を脱いで上半身裸に
なり、左側の猟師と衣服を交換され
るところです。後ろの猟師は動物の
獲物を背負っておりますが獲物は仏
典ではカモシカということですが豚
のように見えます。ただ、インドで
は牛を、パキスタンでは豚を食しま
せん。ですから、インドのマクドナ
ルドのハンバーガーは牛肉ではなく
鶏肉を使用しております。 

 太子は修行中の菩薩ということですがもう既に光背があります。 
 煌びやかな服装から苦行林での修行にふさわしい質素な服装に変わります。

 

  仙者訪問


        
 仙 者 訪 問

 麦わらの小屋に住む仙者を訪ね多くの
教えを請いながら修行を続けていきまし
たが、悟りを開くに至るまでの満足な答
えが得られずついに仙者訪問を中止して
次に長期の苦行生活に入ります。
 右端は金剛杵を握り太子に寄り添い守
護するヴァジラパーニです。
 見事な髭の仙者に教えを乞う太子には
光背があり少し違和感を覚えます。
 もう既に、太子は菩薩の姿ではなく如
来の姿となっております。

 

  苦  行


       苦 行 像

 「苦行像」そのものは少なくラホール博物館
以外で見ることは困難であり、またこれだけ
の傑作がほぼ完全な姿で残っているのは珍し
いです。ただ、余りにも生々しくて評判の割
にはインド、我が国でも制作されませんでし
た。
あばらが見えて苦行を思わせるのは興福寺の
十大弟子の迦旃延像ぐらいでしょう。
 眼は窪み、喉骨始め全身骨の上に皮が付い
ている感じでありますがとくに腹の凹みは異
常で我が国でも腹の皮が背につきそうなとい
う例えがありますがまさにその通りの状態で
す。死を超越したすさまじい苦行ということ
でしょう。
 台座正面には燈火壇を礼拝する6人の比丘
が左右対称に表現されております。
 苦行像はガンダーラの工人だから表現でき
たのでしょう。

  

  苦行を捨てる


         尼 連 禅 河

 苦行生活を続けるも疑問点の
解決を見出せず苦行だけでは無
理と判断し苦行生活を打ち切り
にし「尼連禅河」で沐浴をいたし
ました。太子が沐浴したといわ
れる尼連禅河に訪れた時は乾季
だったので水は一滴もありませ
んでした。
 写真の中央は荼毘を取り行う
人々です。

 


   スジャーター


          スジャーター遺跡?

  太子は沐浴の後村娘スジャーターから乳粥(にゅうひ)の奉仕を受け元気になり体力
も回復いたしました。余談ですが飛鳥時代に渡来僧が持ち込んだ料理と言われる牛乳
をベースにした名物・「飛鳥鍋」が奈良の明日香で食せます。

 尼連禅河の近くにあるストゥーパ跡でありますがスジャーターの関連遺跡とのこと
で発掘調査中でした。今頃、誰の遺跡か判明しているかも知れません。
 頂上の木は菩提樹です。

 

  カーリカ龍王夫妻の讃偈


    カーリカ龍王の讃偈


           
カーリカ龍王の讃偈

  悟りを開くべき最後の瞑想のためボードガヤに向かう太子に、間もなく仏陀になら
れることを予言すると同時に、太子の威徳を讃嘆して太子に合掌礼拝をする龍蓋を被
ったカーリカ龍王夫妻。龍王は人間の姿で表現され奥さん同伴が多いように思えまし
た。
 カーリカ龍王が立つ場所は住処である井戸を表しております。
 登場人物の中でとくに太子のみが一際大きく表現されていることは単独像が生まれ
る前触れでしょう。

 

   草刈り人の布施

 
 草刈り人が差し出す吉祥草を受
取り、ピッパラ樹の下で吉祥草を
敷き詰めた金剛宝座に結跏趺坐し
てこれから悟りを開くべき深い瞑
想に入られました。
 右端はヴァジラパーニです。

 草刈り人の頭上に樹木があるの
は草刈り人が樹神であることを表
しているらしいです。


          
草刈り人の布施

 

 

  ボードガヤー


     金 剛 宝 座

 仏陀が成道されたということは仏陀の生涯の中で
も一番重要な出来事であります。
 
成道されたのが「ボードガヤー」であることからイ
ンドではボードガヤーの大精舎・大菩提寺が一番賑
わっておりました。
 仏陀が悟りを開かれました「金剛宝座」はボードガ
ヤー大塔の西壁に接してあり欄楯の隙間から覗けま
す。
 写真のピッパラ樹は、仏陀が菩提(悟り)を得られ
ました機会に菩提樹と改名されました。菩提樹は仏
教の三大聖木です。菩提樹は大木でわが国の菩提樹
とは別木です。仏陀誕生の無優樹、菩提樹、涅槃の
沙羅樹は仏教の三大聖樹(木)であります。 
 

 

  魔衆の攻撃

  苦行での悟りは得られなかった太子はピッパラ樹の下で瞑想に入りましたが、魔衆
たちが現れ太子が成道するのをいかなる手段を持っても邪魔しようと攻撃が始まりま
す。


                  魔 衆 の 攻 撃

  魔衆たちは頭でっかち、太鼓腹、大口でわめきオーバアクションで脅しておりますが
笑いを誘うようなユーモラスな顔をした魔衆たちです。
 左端にはスジャーター(青矢印)が見えます。ピッパラ樹を礼拝している人物(赤矢印)
はこの図の両端に下図の孔雀が描かれており、孔雀はアショーカ王の象徴ですからアシ
ョーカ王と考えられるでしょう。
  魔衆の表現は見事で象牙の職人が細工しただけのことはあります。

 


   上図の両端にある孔雀 


   サーンチーでの孔雀です。
 飛んできたのは3羽でしたが2羽と1羽
に分かれての行動でした。

  右の写真は聖山・サーンチーを訪れた時の孔雀で、この時間サーンチーに居たのは
私一人でした。インドのサーンチーで野生の孔雀を会えるとは幸いでした。現在、孔
雀はインドの国鳥です。我が国の国鳥は雉ですが多くの方は朱鷺と勘違いされており
ます。


      魔衆の攻撃


             魔衆の攻撃

  左図 下段の兵士は人間の姿で、両端の兵士は立派な鎧を着け槍、剣と楯を持ってい
ますが中央の兵士は上半身裸です。上の2段は身体は人間でも恐ろしい顔をした怪物で
種種雑多な武器を持っております。最上段には2面相が見えます。青矢印の顔は盾に付
いたものか少し後ろに離れて立っている人物なのか不明です。

 右図 下段には魔王の三人娘で左端はなぜ負けたのかで悩む魔王(青矢印)を慰めてい
ます
。上段には兵士だけでなく樂人も交じっており大きな石を太子に投げようとする者
(赤矢印)もおります。最上段は大地の神々でしょうか。

 

  「成道とは精神的なもので形で表現できず魔衆の攻撃を退けた場面の降魔成道を持
って成道を表しております。形と言えば服装が如来の服装に変わりますので服装で成
道を示せばよかったのですが服装はもう既に仙者訪問あたりで変わってしまっている
ため駄目でした。
 降魔浄土は成道の場面を表しますので多くの作品が見られます。 

  降魔浄土


              降 魔 浄 土


        
降 魔 浄 土

  魔王は我が三人娘による色仕掛けの攻撃に失敗をいたしましたので武力攻撃に切り
替えました。

 左図 魔王は今まさに剣を抜こうとしております。その父親の無謀な行為を止めよ
うとしているのが息子ということです。その左は魔王の娘でしょう。その左の悪魔
(青矢印)は毒蛇を持って太子を威そうとしております。台座前には身をひそめ太子を
攻撃するチャンスを狙っている悪魔がおります。

 右図 太子が右手を大地に触れ大地の神を呼び出してから戦いは太子に有利となり、
魔王を息子が戦いから手を引かそうとしております。
 台座前には戦い敗れて恐れ入りましたとひれ伏す悪魔です。

 台座には吉祥草が敷かれております。
 解脱されましたのは仏陀35歳の時でした。


                魔 衆 退 却

   左側は大地の神々でしょうか。右側はブッダガヤの聖堂からほうほうの体で逃げ出す魔衆でその狼狽ぶりの表現は見事です。

 

  四天王奉鉢


           
四天王奉鉢

 「四天王奉鉢」とは四天王が仏陀に鉢を
奉献したということです。
 仏陀は悟りを得られてからその場所で
落ち着いた生活をされ喜びに浸っていま
したが何も食していらっしゃいませんで
した。そこへ通りかかった2商人が仏陀
に供物を差し上げようとしましたが、供
物を入れる鉢が無く途方に暮れておりま
したところへ四天王が鉢を持って現れる
です。各天各々が鉢を差し上げようとし
ましたが鉢は一つで充分だと仏陀は神通

力で4つの鉢を1つの鉢に纏められたのが仏陀の左手にある鉢です。
 
四天王は仏陀の左右に二天ずつ配置されております。
 
古代インドで僧が所有できるのは托鉢用の鉢が一つと袈裟が三枚と決められたのは
仏陀の日常生活からの取り決めでしょうか。

 四天王奉鉢はインド、パキスタンでも人気のある仏伝です。
 サーンチーの四天王奉鉢は取り外されてサーンチー博物館に保管されております。

 

  梵天勧請

  「梵天勧請」はガンダーラで好まれ多くの作品があります。釈迦はガンダーラには訪
れたことがないからでしょうか。
 ブラフマーといえば古代インドでの最高神の一つで仏教に取り入れられて梵天とな
ったのであります。ブラフマーの配偶神はサラスヴァテイーといいこれまた仏教に取
り入れられて弁才天となります。
 一方、インドの古代神インドラが仏教に取り入れられて帝釈天となったのでありま
す。帝釈天といえば阿修羅と戦った修羅場で有名であり柴又の帝釈天、四天王の上司
としても知られています。釈迦に従う二大護法神となるブラフマーとインドラは様式
が違うので見分けがつき易いです。
 我が国では殆ど同一に近い様式で制作されますが、一方しか鎧を着けないことがあ
り、その場合は帝釈天です。
 釈迦は悟りを開きましたがこの教えは難解で何人にも理解できないと考え説法する
ことをためらっていました。そこでまず最初にインドラが人々のために説法をお願い
しますが首を縦に振らなかったので次にブラフマーがどうか悩める者のために教えを
説いてくださいと勧請しますとやっと説法をすることを引き受けました。この出来事
を梵天勧請と言い釈迦教が世界的仏教となるきっかけとなりました。それだけに梵天
勧請像は非常に多く造られております。


      梵 天 勧 請


         梵 天 勧 請

   禅定印を結び結跏趺坐する仏陀。左右はブラフマー、インドラです。菩提樹は仏陀
を包むように垂れ下っております。
 左図は天空に飛天が舞っております。衣が夏用の通肩かどうかは分かりません。両図
はよく似た構図ですが服装が面白いので掲載しておきました。両仏陀ともこれほど高い
肉髻は見たことがありません。 


        梵 天 勧 請

 仏陀は禅定印ではなく説
法印で梵天勧請と次の初転
法輪を兼ねているのでしょ
うか。

 右側はインドラでターバ
ン冠飾、瓔珞を着けており
ます。
 左側はブラフマーで髪が
長いという特徴があります。
これらの特徴は上図の方が
理解し易いです。

 

 

  それではと、最初の説法を鹿野苑(ろくやおん)(現在のサルナート)で行うことにな
りました。それというのも、仏陀と苦行していた仲間なら仏陀の教えを理解するであ
ろうと考え仲間が住まいとするサルナートを訪れたのです。ただ、仏陀が
苦行を止め、
しかもスジャーターから乳粥を布施されたのを見て苦行に励んでいた仲間の五人は、
苦行からの脱落だと非難して太子と袂を分けたのでありますから、もし、堕落した仏
陀が訪ねてきても適当にあしらおうと相談して決めておりました。がしかし、仏陀が
現れるとその威厳ある姿に見とれてしまい崇敬の念をもって仏陀の説法を聴聞するこ
ととなったのです。
 
鹿野苑とは名の通り鹿の群れからの命名でしょうが奈良公園に比べると頭数が少な
く見つけるのが大変という状況でした。


   東大寺南大門前の鹿


      鹿野苑の鹿

  鹿は野生ですから鹿野苑では人間に危害を加えないよう金網で人間と鹿が接触しな
いようになっております。ところが、奈良の鹿はよく馴らされていて人間と鹿が共存
するという世界的にも珍しいケースです。


       仏陀の説法を聴聞するため鹿野苑に集まった鹿たち。


          初 転 法 輪 


     初 転 法 輪

  説法のことを転法輪と言い転法輪とは字の通り法輪(ダルマ・チャクラ)をまわすこ
とが説法するということです。その最初の説法を初転法輪といいます。サルナートは
最初に説法を行ったので初転法輪の地として知られており釈迦の四大聖地の一つに挙
げられています。一般的に初転法輪を表すには台座に法輪と2頭の鹿が描かれていま
す。

 右図は降魔印のようですが2匹の鹿が蹲っておりますのでサルナートでの初転法輪
を表現したものです。今まさに
、法輪を転がして初転法輪を行おうとするところであ
りましょう。

 

  次に仏陀が他の宗教徒を神通力をもって改宗させる物語を記載いたします。

  火神堂内毒龍調伏(どくりゅうちょうぷく) 


    火神堂内毒龍調伏

   「火神堂内毒龍調伏」とは仏陀が毒龍(蛇)を
退治した話です。ある時仏陀は火を尊び、火を
祀るカーシャパ兄弟に一夜の宿を借りましたが
提供された堂には火を放つ毒龍が住みという恐
ろしい処でした。
 仏陀は毒蛇の放つ火に対してそれ以上の強力
な火を放って毒龍と対決いたします。その火勢
は屋根の明かり窓(青矢印)からも火が吹き出す
ほどでした。凄い火炎の中で仏陀と毒龍が対決
するすさまじい光景を見て、これでは仏陀が焼
死してしまうとカーシャパ兄弟は心配して弟子
たちに近くにある尼連禅河から水を汲み消火を
命じました。ところがそんな心配をよそに、仏
陀は退治した毒龍を壺に閉じ込め、その壺の中

をカーシャパ兄弟に見せましたところ釈迦の超能力にカーシャパ兄弟は感嘆して合掌
しました。
 中央の5頭の龍蓋が毒龍で前の聖台は仏陀を表しています。

 

  尼連禅河渡渉の奇跡


     尼連禅河渡渉

 「尼連禅河渡渉の奇跡」とは仏陀が尼連禅河
の川底あるいは川面を歩いて渡って見せたこ
とです。仏陀の象徴は中央にある経行石(き
んひんせき)でわが国では目にかかれない仏
陀の象徴です。この経行石の仏陀が川底か川
面を歩いていることを表しております。
 河には水鳥だけでなく鰐(上部)までいる恐
ろしいところでカーシャパ兄弟は船上から心
配そうに眺めております。
 右下の菩提樹と聖台は仏陀が無事に渡りき
ったことを表しております。

 下部の仏陀の偉業に感嘆の合掌しているの
はカーシャパ兄弟でしょうかそれともカーシ
ャパ兄弟の弟子たちでしょうか。

 

 

 右側のシーンは薪を割ろうとして斧を振
り上げようとするが斧が上がらない、その
左は斧を振り上げたが振り下ろすことがで
きない、薪に火を付けようとした火が付か
ないものでこれらのしばりが仏陀の神通力
を持って解き放たれのを見てカーシャパ兄
弟は敬服いたします。

  カーシャパの改宗


          カーシャパの改宗

 バラモン僧だったカーシャ
パが仏陀に改宗を告げる場面
です。
 神通力で奇跡を起こし
威厳
に満ち溢れた仏陀に感嘆した
カーシャパ3兄弟は弟子千人
とともに帰仏することをいた
しました。
 これらは仏教がすぐれた宗
教だというプロバガンダでは

なかったのでないでしょうか。
 
仏陀不表現、仏弟子不表現ですからカーシャパ兄弟も仏弟子となると表現されなく
なります。それと、我々が大荷葉という人とカーシャパとは違うようです。

 

  祇園精舎の寄進

  祇園精舎といえば平家物語の冒頭「祇園精舎
の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の
花の色・・・
」とありますが当時「鐘堂」が備
わる伽藍配置だったのでしょうか。
 豪商の須達多(スダッタ)長者が仏陀に精舎
を寄進すべく適当な土地を探しだしましたが
持主のこの国の太子祇陀は売ることに難色を
示しました。そこで須達多長者は太子が敷地
一杯に黄金を敷き詰めたら譲ってもよいとの
無謀な要求に従い敷地一杯に黄金を敷き詰め、
土地を手に入れ仏陀に寄進いたしました。
 図は下から牛車から黄金を降ろし次に肩に
担いで運搬(青矢印)しております。その運ば


     
祇園精舎の寄進

れた黄金を2人の者が敷地一杯に敷き詰めております。
 中央の二人の人物は
須達多長者でしょう。それから、水を注ぐのは土地を布施する
約束を表しております。
  須達多は給孤独(ぎっこどく)とも呼ばれておりました。太子の祇陀と長者の給孤独
の二人の名前をとって祇樹給孤独園(ぎじゅぎつこどくおん)精舎とも呼ばれたのを略
して祇園精舎と呼ばれるようになりました。

 

  須達多長者が祇園精舎の敷地と三つの
仏堂を寄進されたのが左図で当時はこの
ような形の建物だったのでしょうか。
 仏陀は菩提樹で表されていますが須達
多長者はどれでしょう。

 下部には黄金を敷き詰めたという証が
幽かに見えます。

 

 

  帝釈窟説法


    
   帝 釈 窟 説 法

 「帝釈窟説法」とは、仏陀が帝釈山の洞
窟、帝釈窟で瞑想している時にインドラ
が忉利天から象(青矢印)に乗って仏陀の
許に訪れ説法を要請したという話です。
 左側に居るハープをもったパンチャシ
カ(赤矢印)が先導を務め、ハープで奏で
る魅惑的な調べで仏陀を瞑想から呼び戻
したのです。

 手印は説法印ではなく禅定印でまだ瞑
想中の姿を表したのでしょう。
 さほど興味ある内容とも思えないので
すがインド、パキスタンともに好んで制
作されました。


      
帝 釈 窟 説 法


   
帝 釈 窟 説 法

 

  獼猴奉蜜(みこうほうみつ)


     獼 猴 奉 蜜

 「獼猴奉蜜」は釈迦八相の一つに数えられるも
ので猿が仏陀に蜜を差し上げたという話です。
 仏陀がバルモンに招かれた食事会から帰る途
中一匹の猿が蜜を取って来て仏陀に差し上げた
ら、仏陀は水で薄めて弟子たちとともに賞味さ
れました。猿は仏陀に蜜を受け取って貰えたの
で喜びまわっていたら、図にはありませんが誤
って穴に落ち死んでしまいます。仏陀は猿の善
行に報いて先ほどのバルモンには子供が居ない
ので猿をバルモンの子供として生まれ変わらせ
ました。猿はバルモン夫婦に可愛がられて幸せ
に過ごしたという話です。
 仏陀の象徴たる菩提樹と聖台の前に跪き合掌
礼拝するのはバラモン夫婦と夫婦の子供となっ

た猿でしょうか。
 獼猴とはアカゲザルという意味があります。

 

  幼児の布施

  仏陀も毎日その日の生活の糧を求
めて托鉢に回っておられました。托
鉢の乞食はこじきではなくこつじき
と読まないと失礼に当たります。
 ある托鉢の日、子供が遊んでいた
処の砂を丸めて仏陀に差し上げまし
た。仏陀は幼い子供に善行に感激し
て来世はすぐれた人物になることを
予言いたしました。その予言通り、
子供は現世では仏教興隆の恩人でし
かも偉大な君主となったアショーカ
王です。後ろの子供は大臣のラーダ
グプタではないかと言われておりま
す。左端の人物は子供の母親で


       幼児の布施

右端はヴァジラパーニでしょう。中央の木は棕櫚でこの話には出てくるそうです。

 

   酔象調伏(すいぞうちょうぶく)  

  「酔象調伏」とは仏陀を快く思わな
い従弟のテーヴァダッタが発情して
狂暴となった象(酔象)を放し仏陀を
襲わせ殺そうとしましたが酔象は仏
陀の前までくると仏陀に怖れおのの
き頭を垂れておとなしくなったとい
うお話です。象には鼻の先に武器を
持っているものもあります。
 悪人といえばテーヴァダッタに代
表されるらしいです。
 上段のバルコニに居る人物がテー
ヴァダッタで象をけしかけていると


         酔 象 調 伏

ころでしょう。釈迦八相の一つです。

 

  白犬の因縁


        
白 犬 の 因 縁

 「白犬の因縁」とは「吠える白い犬」とも言われ
ます。
 テーブル上に居る白い犬が仏陀に向って吠え
ているところです。仏陀は白い犬に向かってお
前は前世において金の亡者で汚く貯めた結果犬
になったと聞かせましたら犬は急におとなしく
なりクロスのかかったテーブルの下に潜り込ん
で(青矢印)しまいました。
 仏陀は犬の持ち主にこの白犬はお前の父親の
生まれ変わりであるから犬に父親が隠していた
財産のある場所を聞けばよいと教えました。

 

   火から救われたジョティシュカ


 火から救われたジョティシュカ

 写真はガラス戸に写ったライトの影響で仏陀
の姿がはっきりいたしません。
 ある時、仏陀が異教徒の家に托鉢に訪れた際
男の妻は妊娠中だったので男は仏陀に生まれて
くる子供は男女のどちらであるかを尋ねると仏
陀は生まれてくる子供は男の子であると予言い
たしました。すると、男は喜んで仏陀に多額の
寄進をいたしました。しかし、この話を聞いた
異教徒たちは面白くありません。そこで、生ま
れてくる子供は魔物であると告げ口をし子供を
降ろすよう勧めます。男は流産させようとして
妻を亡くしてしまいました。亡き妻の火葬中に
仏陀が現れて火葬の火の中から子供を無事に救

い出したという話です。炎の中から男の子(青矢印)を救いだし子供の名前をジョティ
シュカと付けました

 

  舎衛城(シュラーヴァスティー)の奇跡 

   「舎衛城での奇跡」では「千仏化現(せんぶつけげん)」と「双神変(そうじんぺん)」が著
名です。舎衛城での奇跡とは仏陀が異教徒を仏教に改宗させるために舎衛城で見せた
奇跡のことです。


      千 仏 化 現

 舎衛城の神変(千仏化現の奇跡)は異教徒
たちの挑戦に応じて仏陀の神通力を示した
一つで瞬く間に次から次へと化仏を生みだ
しましたので千仏化現といいます。また、
その一つ一つの化仏から火や水を噴出させ
て人々を驚かせました。

 蓮華座に坐し瞑想中の仏陀は,次々と化
仏を現し,その化仏の数は膨大なもので天
にまで達したといいます。
 図は蓮池よりの蓮華座上に瞑想、結跏趺
坐して説法印を結ぶ仏陀が、蓮茎が次々と
枝分かれするにしたがって多くの化仏を誕
生させたという千仏化現であります。それ
らの化仏は仏陀から枝分かれした茎で繋が
り蓮華座上に立っているか結跏趺坐してお
ります。

 

   舎衛城の奇跡


       舎衛城の奇跡

 「舎衛城の奇跡」と言われる作品は多
くありこれが舎衛城の奇跡と思われる
ものまであります。 
 
 舎衛城で奇跡を起こしたのは千仏化
現です。
 下から三段目に横一列に並ぶ小さな
化仏の状況が、これは仏陀が化仏を多
数生み出されて「千仏化現」だと解釈さ
れてるからです。
 中央の釈迦は説法印を結んでおりま
す。
 脇侍は弥勒菩薩と観音菩薩であろう
と思われますが左手を腰に当てている
ので太子とも考えられます。がしかし、
その左手に蓮華を持っていることから
すると観音菩薩の可能性も出てまいり
ます。
 右側の立像は、左手に水瓶(破損)を
持っておりますので弥勒菩薩でしょう。
 全体図は舎衛城と思われる建築物と
なっております。


   千仏化現・化仏を発する禅定仏


   千仏化現・化仏を発する禅定仏

  蓮華座に座し禅定印の仏陀の両側に、蓮華座上の仏立像を3体ずつ放射状に表して
おります。これも千仏化現でありとにかく千仏化現の多いことは事実です。

 

  双神変(そうじんぺん)

       
        
双 神 変

 

 

 「双神変」はインド、ガンダーラでは少ないで
す。双神変とは身体の上部と足元から交互に炎
と水が噴き出す現象のことです。画像は身体の
上部から炎、足元から水が出ておりますがその
水力たるや身体を浮き上がらせるくらいの勢い
があります。この逆の足元から炎が出て肩から
水が出る像はなさそうです。
 火と水は日常生活に欠かせないものだけにこ
の双神変が創作されたのでしょう。

 

   燃肩仏


      燃 肩 仏

 禅定印を結び結跏趺坐した仏陀の両肩から
火炎が立ち上っておりますので燃肩仏と言い
ます。双神変と違って肩からの炎だけで水は
噴き出しません。

 手が異常に大きいのと真丸の光背が印象的
です。 
 仏陀の左右には蓮茎から伸びた蓮華座に化
仏があり千仏化現の簡略版でしょうか。
 左右の上方には傘蓋を持ったインドラとブ
ラフマーが飛天の如く描かれていますのが変
わっております。

 

     

 

 

 この作品も舎衛城の奇跡であるとの
説もありますが違うとの説もあり見解
がわかれております。
 しかしいずれにしても、これ程の大
型作品(幅98p、高さ120p、厚さ26p)
が完全な姿で残ったということは奇跡
としか言いようがありません。

 

   「従三十三天降下」はインド、パキスタンともに数多く造られております。三道宝
階降下(さんどうほうかいこうげ)とも呼ばれており雨安居の三か月の間、仏陀は天界
の三十三天(忉利天)に昇って忉利天で再生された亡き母のため説法をして聖地サーン
カーシャに帰ってくるところを表したものです。


       従三十三天降下


     従三十三天降下


  従三十三天降下

 三十三天(忉利天)とは須弥山の頂上にあり、中央に
インドラ、頂きの四方に各八人づつの天が居りますの
で計三十三天となるところからの命名です。
 仏堂の須弥壇を守っているのは四天王ですので須弥
山全体を守るのは四天王だけだと思っておりましたが、
どうも間違いのようであります。忉利天の上には兜率
天があります。
 これら3図とも仏陀の表現に仏足跡(青矢印)か菩提
樹が使われている仏伝図です。仏足跡は履物のように
見えますが仏足跡には千輻輪相が刻まれております。

 天界と地上界が結ばれた階段はインドラが造らせた
金、水精、白銀製の三階段で中央の階段を仏陀、左右
の階段はインドラ、ブラフマーが使用したといわれて
おります。階段が一つしかないものがありますが三つ

の階段の表現はスペース的に難しかったからでしょう。

 合掌して迎えるのはブラフマー、インドラです。仏足跡のところで跪いているのは
比丘尼(赤矢印)とのことです。

 

   優填(ウダヤナ)王の造像


            
優填王の造像


 釈迦如来立像(清涼寺)

 「優填王の造像」とは仏陀が誰にも告げず三十三天に
行かれたので人々は仏陀が居なくなったことで悲しみ
にくれました。その中でも優填(ウダヤナ)王の傷心ぶ
りは異常で憔悴し切っており、見かねた臣下が王を慰
めるために栴檀で仏陀の像を造りました。その仏像を
優填王が三十三天から降下された仏陀に披露している

ところです。この「釈迦如来像」を中国僧が故国に持ち帰りましたのを、東大寺の僧
「「然(ちょうねん)」が模刻してわが国へ持ち帰り、京都・「清涼寺」に本尊として祀
られております。異国情緒溢れる「清涼寺式釈迦像」は大変な評判を生み全国各地で
清涼寺式釈迦像として摸刻されました。     

        

   死女が子を産む話


       死女が子を産む話

 若くてきれいな王妃が懐妊いたしまし
たのを妬んだ他の王妃が、バラモンを使
って若き妃が子供を産めば国に災いが起
こるであろうと王に告げ口しました。す
ると、王はそんなことになれば一大事と
子供がお腹に居る若い妃を土葬してしま
いました。仏陀は若い王妃を憐れんで墓
穴に横たわる亡き王妃(青矢印)の身体か
ら子供を無事に出産させたという話です。

 

  スリグプタの招待


  
  スリグプタの招待

 「スリグプタ」が仏陀を招待した際、落
とし穴を造りその穴に仏陀を落とし殺害
しようと企てましたが仏陀は神通力で落
とし穴を蓮池に変え何事もなく蓮華の上
を歩いて来られました。写真でははっき
りしませんが仏陀たちは蓮華の上に乗っ
ております。その奇跡におののき、スリ
グプタは仏陀の前に跪き懺悔しました。

 

 

  アパラーラ龍王の帰依 


   アパラーラ龍王の帰依


   
アパラーラ龍王の帰依

 

  「アパラーラ龍王」はスワート河を氾濫させては農作物を駄目にして農民を苦しめて
おりました。それを聞きつけた仏陀が龍王を懲らしめてやろうと龍王の許にやって来
ました。お伴のヴァジラパーニ(赤矢印)が金剛杵を岩山に打ち付けるとその轟音に龍
王が何事かと驚いて出てきたところで仏陀が龍王に懇々と諭しましたら龍王は仏陀に
帰依するようになったというお話です。龍王には龍蓋が付いております。

 

  アングリマーラの悔悛


   
アングリマーラの悔悛

 容姿端麗な少年だった「アングリマーラ」は師
の妻の横恋慕を拒絶すると、妻はアングリマー
ラを陥れようと夫に出鱈目な報告したため師は
激怒してアングリマーラに多くの人を殺し、殺
した相手の手の指を切り取りその指で装飾品を
作れと命じました。それから悪魔となったアン
グリマーラは、集団で押し掛けてこられようと
も全員を殺害してしまうので大変恐れられてお
りました。そこで、仏陀は単身でそのアングリ
マーラの住処に訪れました。アングリマーラは
仏陀を見つけ剣を持ち仏陀を殺害しようと背後
につけますが全力疾走するも徒歩の仏陀に追い
付けず、ついにアングリマーラは仏陀の神通力
に感嘆して仏陀に帰依することとなったという
話です。

 下段は仏陀に敬意を払うマガダ国の王ウダー
インです。

 

 

  アータビカの帰依


     アータビカの帰依

 ある野蛮人「アータビカ」は王に毎日、
人間一人を差し出すことを要求いたしま
した。それも毎日のことですから何十年
と続くとついに王は自分の息子を出さな
ければならなくなりました。それを聞き
つけた仏陀はアータビカに会い説法して
アータビカを仏教に帰依させたという話
です。
 中央が仏陀で左がアータビカ、右が無
事だった子供を抱く王でしょう。

 

  マンゴ園の寄贈


     マンゴ園の寄贈

 台座上に結跏趺坐して右手を施無畏印に
挙げる仏陀を中心に、両側に数人の供養者
を表しております。仏陀の両脇の人物はい
ずれも女性とみられ、左側の女性は「遊女
アームラパーリー」で手に水瓶をもってお
ります。古代インドでは遊女と言っても身
分の高い者だったらしくその遊女が仏陀に
マンゴ園を寄進したという話です。アーム
ラパーリーが水瓶を持っていますのは,彼
女の所有するマンゴー園を寄進することの
約束の証です。
 仏陀の上の木はマンゴの木らしいです。

 

  エーラパトラ竜王の訪仏


  エーラパトラ竜王の訪仏


      
エーラパトラ竜王の訪仏


    エーラパトラ竜王の訪仏

 「エラーパトラ龍王」は前世に善行を積
まず悪行を行った結果、人間から蛇に生
まれ変わりました。龍王は来世は元の人
間に戻れることを願って仏陀に会い懇願
することにしました。
 上は龍王の5頭の龍蓋上に龍女を乗せ
その龍女に仏陀のみに理解できる文句を
唱えさせて仏陀の到着を待っております。
右下は河の中を進む龍王と王妃たちでし
ょう。
 仏陀の象徴である菩提樹と聖台に龍王
が合掌礼拝していることは仏陀に無事に
面会出来たということでしょう。

 

  涅 槃

  仏陀は鍛冶職人が差し上げた食事に当ってしまいました。迫りくる死期を悟った仏
陀はマッラ村の沙羅樹林に入り右脇を下にして、頭を北に、顔を西にして右手を手枕
にし両足を重ねた状態で寝台に横たわられました。間もなくして仏陀はこの状態で涅
槃に入られました。
 35歳で成道されて涅槃に入られたのは80歳、仏陀は人生の大半を仏教の布教と伝道
で費やされて80年の生涯を終えられたのであります。このような涅槃図があるのは仏
陀が生存された方だからで他の如来には涅槃図はありません。 
 


        涅 槃 図


         涅 槃 図

  左図で説明いたしますと寝台の両側後方には沙羅樹が表されており沙羅樹が2本で
すので沙羅双樹となります。 
 後ろ側には仏陀の涅槃に手を挙げたり頭を抱えたり全身で嘆き悲しむマッラ族の人
々と比丘たちです。
 寝台前で結跏趺坐するのは仏陀の臨終間際強引に弟子になった最後の弟子須跋(ス
バドラ)でしょう。 
 仏陀に常に寄り添ってきた阿難の悲しみようは大変なものでしたが、それに比べて
阿那律は仏陀の肉体は消滅しても精神は不滅であるからそんなに悲しむものでないと
座り込んで悲しみにくれる阿難の右手を取って立ち上がらせようとしております。
 右側で杖を持っているのは遅れてやってきた大荷葉でしょう。
 思い出すのは法隆寺五重塔の涅槃図で両手を後ろに付き顔を天に向けて泣き叫ぶ者、
胸を叩き悲しみを表す者などが居る有名な「法隆寺の泣き仏」です。この泣き仏の原型
がインド・パキスタンに存在したのです。
 涅槃とは逝去を意味しますが成道をも意味します。


      涅 槃 図 


       涅 槃 像
  東南アジアには恐ろしいほどの巨大な涅槃
像がありますがインドでは存在せずこれは巨
大像に入る貴重なものです。右側には柱が林
立しており撮影にはこれ以上下がらないため
このような写真となりました。この涅槃像は
アジャンター石窟に安置されております。

  上図はインドでは珍しい涅槃図です。左から沙羅樹の中からの樹神(青矢印)、頭に手
を置く者、両手を挙げる者、長い髪の毛を前に垂らす者など悲しみを身体で最大限に表
しております。インドでは当初涅槃図は見ることは出来ませんでしたが後の時代になれ
ば表わされるようになります。

 

   納 棺


      納  棺

 納棺の前に仏陀の遺体を布で包むのです
が画像は残念ながらありません。
  棺は閉じられていますが棺の上に手を乗
せまだ別れを惜しむのは阿難でしょうか。
 右側の人物は大荷葉で次の荼毘を取り行
います。
 棺は白檀製とも言われており香木を板に
して組み立てたのではなく、形からみると
大木を刳り抜いて造られたのでしょうか。
しかし、両端が丸みを帯びているので鉄棺
だったとの説もあります。後代になると金
棺に変わります。 

 

  荼 毘


          荼 毘

 荼毘の着火が出来ず困惑しているとこ
ろへ布教のため涅槃に間に合わなかった
「大迦葉」が帰ってきて釈迦の足許に跪き
礼拝すると火が付いたという説話であり
ます。
 マッラ族の供養者が持つ棒の先は火消
し用の水カメで中には香水・牛乳が入っ

ているとのことです。薪は香木の白檀でありました。
 インドでは火葬の火を付けるのは後継者の役目であることから大荷葉が教団の後継
者を意味します。

 

  分舎利戦争


             分 舎 利 戦 争 

  中央は仏陀の舎利を祀っているクシナーラ国に分舎利を求めて攻城する王たち。城
に向かって矢を引く兵士(青矢印)が見られます。左上では円満に舎利分配が出来、分
けられて舎利を本国へ持ち帰る王、象の頭上に舎利容器が置かれております。

 

  舎利分配

 仏陀を荼毘にして舎利を祀ったのは
「マッラ族」で舎利分配の要求を拒否し
たため争いとなりましたが、バラモン
が仲裁して仏陀と関係が深かった七つ
の王国とマッラ族に平等に八つに分け
ることが決まり球形の舎利容器に遺骨
を納めました。舎利分配から外れた者
は遺灰や分配に使用した容器を貰って
辛抱したらしいです。  


     
舎 利 分 配

 

  舎利運搬


          舎 利 運 搬

  これは部分図です。華麗な文様の衣で飾った象、その象に二人の護送人が乗ってお
り大切な舎利容器は象の頭上に乗せて運んでいます。右には賑やかに踊りながら先導
するグループが居ります。
 

 

   造 塔 


                  
 造  塔 

  アショーカ王が八つに分配された仏舎利を安置した塔から塔を解体して舎利を取り出
して更なる分割をしようとしましたが、ラーマガーマ塔だけは拒否。アショーカ王も蛇
族に強固な抵抗に会いラーマガーマ塔からの舎利取り出しは断念せざるを得ませんでし
た。
 右側はラーマガーマ塔に舎利を取りに向かうアショーカ王とその軍隊。
  左側は塔を必死で守る蛇族の兵士で、これら兵士の活躍で塔から舎利が持ち出される
ことは免れました。
 ですから、七つの塔を解体してそこに祀られていた一塔の舎利を12000に分けたので
7×12000=84000 84000の塔が建立されたということです。
 当初、アショーカ王は8×12000=96000すなわち96000塔の建立を計画されていたこ
とでしょう。

 

  これより仏伝図です。

  1は太子誕生、2は二龍灌水、3は降魔成道。4は従三十三天降下でその下の5は
ブラフマー、インドラが合掌して迎えているところです。6は初転法輪、7は涅槃の
場面です。

 

  

 

 

 1は占夢の場面。
 2は四天王が右手でピースを作り太
  子懐妊の知らせに歓声をあげてい
  るところ。
 3は太子誕生。
 4は太子の七歩行で四天王が持つ長
  い布に七つの仏足跡(青矢印)を刻
  むことで七歩行を表現しておりま
  す。ここでの灌水を2龍ではなく
  四天王が行ったかも知れません。
 5は誕生した太子の将来を占ってお
  ります。
 6は太子の宮参りですがお参りする
  神様の方が太子に合掌しておりま
  す。

 

 1は白象がマーヤー夫人の右脇から胎内に
  入る場面 
 2は太子誕生の場面
 3は2龍が灌水する場面
 4は出城する場面
 5は剃髪する場面
 6は苦行と瞑想する場面
 7は降魔印でありますゆえ降魔成道の場面
  8は台座に法輪と2頭の鹿が刻まれており
  ますゆえ初転法輪の場面
 
 1の白象ですがインドでは象はそのまま表
されますがガンダーラでは象は円形内に表さ
れます。これはインドでは夢の中でなく現実
に象が兜率天から降下したと考えられたとも
言われておりますが定かではありません。ま
た、マーヤー夫人が右脇を下にしているのも
珍しくこれでは象は右脇から胎内に入るのに
苦労したことでしょう。
 2の太子にはもう既に光背が付いており太
子を受け取るのはインドラでしょう。
 4では龍王が合掌して太子の出城を祝福し
ております。

 

 

  1は太子の前世は兜率天の菩薩で天上の神々が太子に白象となって地上界に降下する
  ことを懇請している場面
 2は輿に乗った白象(青矢印)を担ぎ神々は歓喜し楽隊を引き連れ賑やかに行進してお
  ります。
 3は不鮮明ですが白象(青矢印)が降下してマーヤー夫人の胎内に入る場面ですが夫人
  は気がついて白象の方を見ているように見えます。

 これらの図の特徴は手足が細く表現されていることです。

 

   白象(青矢印)を円盤内で表すのはガンダーラの特徴です。

 

  これからはインドの「サーンチー」について記述いたします。しかし、すべてではな
くほんの一部であります。サーンチーはインド国立野外博物館と言えるものです。紀
元1世紀前後の作品を今は見ることが出来ますが、近い将来はレプリカに代わるか覆
屋で被され、青空の下で古代の作品が満喫出来なくなるかも知れません。現物がサー
ンチー博物館での展示となれば写真撮影は禁止です。インドを訪れましても
サーンチーまで足を延ばされる方はまれです。考えられることは交通の便が悪いのと
塔といえば高層建築を見慣れております我が国では土饅頭の塔では魅力がないのかも
しれません。2回目の訪問では5時間留まっておりましたら前述の野生の孔雀が迎え
てくれました。


      サーンチー第一塔(北側)


     北門の裏側

  サーンチーには第一塔から第三塔まであります。塔については次回に記載いたしま
す。黒っぽく汚れた感じでしたが現在はきれいに化粧直しが終わっております。それ
と左右の木が塔を遮っていたのが刈り込まれており今回の写真となりました。

 

  ヴェッサンタラ本生


              ヴェッサンタラ本生 全体図

   ヴェッサンタラ本生は現在の正門・北門(当初は南門が正門)にありしかも本生
譚・547話の最後に出てきますのでそれだけ重要視されているということでしょう。
この本生は布施、布施と続き布施行の重要さを表しております。しかし、我々凡人に
は理解できない内容で、ヴェッサンタラ王子はいくら布施が好きだと言っても動物や
物を与えるのは理解できますが奥さんやかわいい子供まで与えるというものです。


                ヴェッサンタラ本生
  

  左側の下段から始まり右側で上段に反転します。水差しを持った王子(青矢印)がバ
ラモンに霊験あらたかな
象(赤矢印)を布施してしまうのであります。この布施行で
父王だけでなく国民の反感を買い城外へ追放の憂き目となります。
父王に見送れなが
ら四頭立ての馬車に乗り城外へ出てゆく王子と
その家族。上段では今乗って来た馬車
までをバラモンに与えたのです。ですから、バラモンは空車となった馬車を引いてお
ります。左端の水(緑矢印)を差し上げる行為はバラモンに馬車の施しを約束する証で
す。
 割愛しておりますが図の左側では王子が一人の子供の手を引きもう一人の子供を妃
が抱っこしながらとぼとぼと村の中へと入っていくところの風景があります。 


    ヴェッサンタラ本生 部分図

  王子が一人の子供の手を引き王妃は
一人の子供を抱いております。次の左
の展開では王子家族が座って団欒をし
てしばしささやかな幸せを味わってお
ります。

 山中でのヴェッサンタラ王子家族の
幸せもつかの間で妃が留守の時にバラ
モンが訪ねてきて子供が欲しいと願う
のでした。
 下図に続く。

 


           
ヴェッサンタラ本生 全体図


        
ヴェッサンタラ本生 部分図

  食料品を調達に出かけた妃(青矢印)は子供たちに異変が起こったのでないかと胸騒
ぎがして急いで子供の許へ帰ろうとしますが獅子などに行く手を阻まれ立ち往生して
います。案の定王子は可愛い二人の子供(赤矢印)をバラモンに布施してしまいます。
その左はバラモンが棒を振りかざし子供たちを追い立てて連れて行きます。
 王子はついにはバラモンに愛妻(緑矢印)まで布施してしまいます。
 この物語はインドラがバラモンに姿を変えて王子の布施行の真摯度を調べたという
ことで最後は王子の家族4人が再会してハッピーエンドとなります。インドラといえ
ば法隆寺の玉虫厨子の施身聞偈図ではインドラが羅刹に身を変えて太子の修行を試し
ました。インドラは仏陀の護法神なのに仏陀を調べるとはおこがましいことですが仏
陀の前世においてはインドラは護法神ではなく天界の最高神だったからでしょう。

 

  カピラヴァストゥへの帰郷

  仏陀は王舎城から故国のカピラヴ
ァストゥへ帰還され父王と再会され
ます。
 仏陀は空中遊歩
の奇跡を見せて父
王を驚かせます。菩提樹、聖台の上
に仏陀の象徴たる経行石が仏陀の浮
遊を表しております。
 中央の人物は仏陀の神通力に驚き
慌てて合掌する父王です。
 右上の鳥人は何でしょうか。


 カピラヴァストゥへの帰郷

 

  竹林園での説法


    
竹林園での説法

 

 「竹林園」はビムビサーラ王が寄進した
王舎城の中にありました。
 竹林園は
仏陀が好まれ長期滞留された
ところです。
 
女性たち竹林園で仏陀の説法を聴聞
するところです。
 左右に見える植物が竹林です。

 

  デーブァ夫妻の接待


   デーブァ夫妻の接待

  

 デーブァ夫妻(中央に見える)による仏陀
を接待する風景です。
 水を汲む者、汲み上げた水を天秤で運ぶ
者、穀物を篩に掛ける者、杵と臼で穀物を
挽く者、穀粉を捏ねる者など食事の準備風
景が表れております。
 これは仏陀に食事を差し上げた善行によ
り金持となるお話です。富裕となったこと
を左上の以前の住まいと右上の現在の住ま
いの違いで表しております。

 

 

 

 帰郷説法

 

 最上段は仏陀の前世は兜率天に居られその兜率
天で説法される仏陀を表しております。

 


 その仏陀が白象に姿を変えてマーヤー夫人の右
脇から胎内に入るところです。前世の仏陀が生母
の胎内に入りそして仏陀が誕生する「托胎霊夢」で
仏陀の故郷を表現しているのでしょう。
 上段中央には白象(緑矢印)が見え、その下には
マーヤー夫人が横たわっております。

 中段は仏陀がカピラヴァストゥへ帰郷の際父王
は榕樹林まで向かいに行きました。
 
  再下段は空中に浮かぶブッダ(経行石で象徴)、
それを見て驚く父王。釈迦族の人々は仏陀の神通
力はたいしたものではないと甘く見ておりました。
ところが、空中遊泳の神通力を目の当たりにして
釈迦族の国民は驚嘆して仏陀を厚く敬うようにな
りました。

 仏陀の帰郷に父王、仏陀妃の喜びは大変だった
と思われるのに
実子のラーフラ(羅睺羅)、異母弟
のナンダ(難陀)、従兄弟のアーナンダ(阿難陀)や
釈迦族の多くの衆生までも出家させてしまいます。
今回の出家者たちから十大弟子が4人も出ており
ます。
 



    帰 郷 説 法

 

  サーマ本生


     サーマ本生

 親孝行なサーマ少年の物語です。めくらに
なった両親のため少年が水を汲みに行ったあ
る時(中央で水甕を肩まで持ち上げている少
年)、王が少年を鹿と見誤って矢を放つと矢
が当たった少年は河に落ちて死んでしまいま
す(左下の部分)。王は少年の遺体を両親の許
まで運び丁重に詫びましたがおさまりそうも
ない両親の嘆き悲しみが天上の神に届き、そ
の神がこの話に感動して不憫な少年を生きか
えさせるだけでなく両親の眼が見えるように
回復させました。
 左の後景は少年と眼が見えるようになった
両親の幸せな様子です。
 少年は前世の仏陀であります。
 これらは素材の石に象牙細工の職人が彫っ
たというだけに精細な伝統工芸が極めた作品
です。

 

                              画 中西 雅子