意見陳述書より

第二回期日(2015年11月19日)、原告口頭意見陳述は、スライド(15枚)を映しながら、代理人の朗読という形で行われました。ここでは、スライドの枚数を減らし、体裁を一部変更しています。
                         20151121 更新



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  今、避難生活を送っています。あの東日本大震災の直後、被災地ではない神戸で、私は自宅から逃げ出しました。21年間、平穏に暮らしていた我が家から、なぜ避難せねばならなかったか。悪夢のような2か月半をお話ししたいと思います。

「悪夢の始まり」
事の始まりは隣家の完成を目前にした2010年初冬。隣家外壁から、沢山の配線(図1)が出ているのに気づき、作業員に聞くと、室外機が1列に設置されるとのこと。多数の機器が一斉に稼働したら、と不安を感じ、道路側に一部設置してほしいと、施工会社に要請しました。しかし、聞き入れられず、このままでは設置されてしまう、どうしたらよいのか、一週間ほど考えあぐねた私は、思い切って御近所の署名を集め、すぐに施工会社に再考を求めました。
 
 
   
  
 
 結果は虚しく、機器群は計画どおり設置されました。この配置図(図2)を見たある有名な建築評論家は「あまりの異様さに思わず息をのんでしまう」と表現しています。 

そしてエネファームの試運転が始まり、そんなに大きくはないけれども不快な騒音のため庭に出るのが憂鬱になりました。室内では特に問題なく過ごしていましたが、2週間ほどして隣家が入居したその翌日、早朝に目が覚め、その日以来、不眠となりました。寝室では眠れず、部屋を変えてみても眠れません。「しばらく眠れなくとも、いずれ眠れるはずだ」と軽く考えていましたが、3日たっても4日たっても、昼も夜も一向に眠気は起こらず、疲れはてて眠っても2時間ほどで目が覚め、、これは尋常ではないと感じました。数か月前に、エコキュートの低周波音についてNHK報道があり、もしやと思い、低周波音について調べてみると、被害状況がぴったり当てはまりました。そのころ、敷地境界のエアコンは1台も稼働せず、エネファームだけの稼働でした。心配していた騒音ではなく、まさか締め切った部屋の中での低周波音が原因とは思いもしませんでした。
 
 
 
「嵐のような日々 不安と絶望」

 
心療内科で受診し、入眠剤で1日 4〜5時間眠れるようになりましたが、次第に痩せていき、2か月半で体重は7kgほど減少しました。またイライラ、胸の圧迫感、動悸などいろいろな症状が次々と加わりました。外出すると帰宅が嫌になり、寒風の中、公園のベンチで時を過ごしたこともありました。自宅では眠れず、昼間もまどろむことさえ困難で、家の中では常に動き回ってやり過ごすという状況でした。隣家のエネファームを破壊したい衝動、隣家の人々に危害を加えたい衝動にも駆られましたが、転居までじっと耐え忍びました。もちろん、転居もすんなりと決まったわけではありません。家族3人のうち、当初、症状のあったのは私一人。そして私は専業主婦、娘は学生、夫は既に退職。これからの生活を考えると余分な出費は許されず、避難を躊躇しました。
 
 
   
家から逃げられないのであれば死にたいと言う私を夫は理解できず、私は夫に自殺か離婚か転居かを迫りました。夫は私の剣幕に驚き、漸く事態の深刻さを悟りました。それでも夫は、自宅を離れたくなく、高機能の耳栓を購入し、ペアガラスや防音カーテンの検討を始めました。騒音と違って低周波音は防音により事態は悪化するので無駄だ、と主張する私と、また口論になります。そのストレスで夫の持病であるアレルギーが悪化し、薬の副作用で目と皮膚がただれ、医師が入院を勧めても夫は拒んでいました。気が狂いそうだったと後で語っておりました。私は夫のあまりに酷い状態をみると、私一人が我慢すればすむのだと転居を迷い始めました

 
    さらに娘が倦怠感で起き上がることができなくなりました。ベッドにずっと横たわり、昼も夜も朦朧と過ごす娘が心配でしたが、私とは全く異なる症状で娘の状態が低周波音によるものとは気付きませんでした。ある日、娘は大事な所用があり、気力を振り絞って外出しました。すると、外出先では普段と変わりなく過ごせ、しかし帰宅すると、また倦怠感に襲われるということが数度あり、娘の症状も低周波音によるものではないかと、避難を決意しました。
 私は長期間の疲労のためか、転倒して肩の亜脱臼をおこし、引っ越しを延期しました。体調はますます悪化し、口を開けると炎が出てくるかのような灼熱感で、もう限界だと思い、避難先に寝具を運びこみ、娘を連れ出しました。感覚だけで決めた避難先でしたが、もしここでダメなら、どうすればよいのか。大きな不安を抱えて、暖房も照明もない避難先で娘と二人で過ごしました。数日間、泥のように眠りこみ、ここが安全な場所だとわかって安堵しました。

 
  また、娘はすぐに元気を取り戻して学業に戻り、娘の症状も低周波音によるものであったと確信しました。暫くして夫が合流し、時間をかけて健康を回復して我が家は危機的状況から脱することができました。釈迦の毒矢の教えの通り、まずは矢を抜き、健康を取り戻すことを急務とした避難でしたが、避難生活は現在も続いており、資産を取り崩しながら生活をしています。 
この問題のパイオニアである臨床医、汐見医師は低周波音による被害は「地獄の苦しみ」と述べ、被害者も「拷問」と形容しますが、同居する家族にも理解されず、私は二重三重の苦しみを味わいました。また、当方の居住する神戸市は民民不介入を口実に測定にも相談にも応じず門前払い。エネファームの被害など聞いたことはないと言われ、生活相談でも法律相談でも「難しい」の一言。まったく暗黒の海に投げ出されたようでした。 
 
   
  「仲間と手を繋いで」 

 理解され難いこの被害を訴える為、私はホームページを立ち上げ、同様な被害者を探すことにしました。ほどなくして何人かの人から連絡があり、お互いに情報交換しながら、解決のために協力し合うことにしました。みな、事業者と交渉しても「あなた一人。神経質。生活騒音はお互い様」「低周波音はエネファームからは発生しない」「参照値以下で問題なし」といった対応で、被害者仲間の一人は「これ以上、苦情を言うな」と所有者である隣家に調停を起こされ、泣く泣く転居しました。法規制はなく立証困難であることを事業者は熟知し、所有者から「裁判をしてみろ」「被害を立証しろ」と言われる被害者もいました。そのような状況で、事業者や所有者とどのように交渉したらよいのか・・・。すがる医師も、専門家もおらず、素人の私たちがどのように因果関係を立証できるのか・・・。

 自宅に住むという基本的な権利が侵害され、それに伴う経済的損失、精神的苦痛等に苛まれながら、法律にも自治体にも守ってもらえず、被害を否定する事業者と対峙するしかありません。社会的関心を集める事が、この被害の解決に繋がると考え、仲間とともにNPOを立ち上げました。
 
 
   
そして各地に点在する被害者仲間とともに知恵を出し合い、各方面に働きかけました。少しずつ成果は表れ、国会で質問主意書が出され、神戸市を含む複数の県議会・市議会で一般質問がなされ、自治体HP広報で低周波音についての注意喚起が掲載されました。
 
  
2001年   エコキュート販売開始
2009年 エネファーム販売開始 
 2011年  エコキュート据付ガイドブック発行
 2012年 消費者庁(事故調調査対象) 国会質問主意書 高崎市議会質問 
 2013年 日弁連意見書 
 2014年  神戸市市議会質問  豊中市議会質問 事故調報告書
 2015年  和歌山県議会質問  高崎市広報
 
   そして、消費者庁事故調は、201412月、エコキュートの低周波音が健康被害を及ぼす可能性があると公表し、この被害が事業者のいう「神経質、気のせい」というようなものではないことが明白になりました。後発のエネファームは各地で被害が次第に表面化し始めています。それでも事業者は「気のせい」「受忍限度内」と主張し、いまだに近隣に配慮のない杜撰な設置を行なっているようです。設置者が先住者への配慮をしていたら、製造者・販売者が設置場所について注意喚起していたら、この被害の多くは防止されたはずです。それがなされなかったために、何の咎もない当方家族が地獄に落とされ、しかも尚、その解決のために長い時間と多くの労力を費やすことになりました。今までの精神的苦痛は言葉では表せません。

 
 今回も多くの支援者が傍聴してくれています。この方たちは単なる支援者ではなく、被害の当事者でもあり、自らの被害を解決するために現在、闘っていらっしゃいます。他にも、長い間、この被害に苦しみ、人生を翻弄されてきた多くの被害者のために当方の事例が役立つことを祈って、これからの裁判を闘っていきたいと考えております。 
  エコキュート   エネファーム
2001年 販売開始   
2008年  横浜市被害者 自殺  
2009年  高崎市被害発生 事故調調査事案  販売開始
2011年  ★前橋地裁★盛岡地裁★横浜地裁★和歌山地裁 提訴  
2012年  ★名古屋地裁 提訴  
2013年    
2014年  ☆公調委横浜市  ☆新潟県公害審査会  ☆奈良県公害審査会
2015年  ★埼玉地裁提訴(8月) ☆埼玉県公害審査会  ★大阪地裁提訴(6月)  ☆愛知県公害審査会 ★東京地裁 提訴予定(11月30日)

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