高梨の古城跡(四篇)

 

三島郡神谷荘高梨村地内小山の頂上(いただき)に古城跡あり平澤の城と称す。文明年中146957長尾民部大輔(たいふ)能景(よしかげ)の三男長尾但馬守景長(かげなが)の居城たり。

景長は()(じん)(ゆう)に秀で能く領民を撫育(ぶいく)。故あり一族長尾越前守時景が養子となり魚沼郡坂戸に移る。

〔因みに記す、景長は後景良(かげよし)改む、享禄元子年1528正月十五日四十六歳にて病死す。坂戸山の(ふもと)(ほうむ)る。戒名(けい)(りょう)(いん)長桑(ちょうそう)(だい)禅定門と()

国民を治むるに功労ありし由にて、魚沼(へん)の民間には今尚()の戒名を仏壇に置き、尊敬する見たり。長子越前守政景(まさかげ)遺跡(ゆいせき)相続す〕。

  次で上杉家の将高梨源五郎頼春(よりはる)の居城と。当家は信濃国高井群高梨の城主にて新田家(にったけ)の一族なりしが、父高梨(初め飯沼氏)政頼、

長尾信濃守為景(ちなみ)あるを以て当地に移れ。頼春は永禄年中155870川中島の(えき)に比類なき働きして戦死す。

嫡男将監(じょう)頼賢(よりかた)家督を()当城に居す。文禄二巳年1593蒲原郡笹岡(ささおか)の城へ移りしに乱国の折なれば領民収納(しゅうのう)を怠る。

頼賢憤怒して割番(わりばん)名主(なぬし)四人を斬首(ざんしゅ)にせしより領民一揆騒動城郭に放火す。頼賢は討死し家族は鏖殺(おうさつ)せらる。笹岡へ移封以来廃城となる。

高梨一族の後裔なるもの古志三島両群中所々(しょしょ)の民間に散在して相続す。何れも平澤氏を(おそ)(受け継ぐ)

城跡は今畑に開き本丸跡の中央に石祠(ほこら)あり、此(ふもと)に二つの大池あるを平澤の池と称し蓴菜(しゅんさい)の名産を(いだ)す。