◎ 高梨の古城跡(四篇)
三島郡神谷荘高梨村地内小山の頂上に古城跡あり平澤の城と称す。文明年中(1469〜57)長尾民部大輔能景の三男長尾但馬守景長の居城たり。
景長は智仁勇に秀で能く領民を撫育す。故ありて一族長尾越前守時景が養子となり魚沼郡坂戸に移る。
〔因みに記す、景長は後景良と改む、享禄元子年(1528)正月十五日四十六歳にて病死す。坂戸山の麓に葬る。戒名景良院長桑大禅定門と謚す。
国民を治むるに功労ありし由にて、魚沼辺の民間には今尚ほ氏の戒名を仏壇に置き、尊敬するを見たり。長子越前守政景遺跡を相続す〕。
次で上杉家の将高梨源五郎頼春の居城とす。当家は信濃国高井群高梨の城主にて新田家の一族なりしが、父高梨(初め飯沼氏)政頼、
長尾信濃守為景と縁あるを以て当地に移れり。頼春は永禄年中(1558〜70)川中島の役に比類なき働きして戦死す。
嫡男将監頼賢家督を嗣ぎ当城に居す。文禄二巳年(1593)蒲原郡笹岡の城へ移りしに乱国の折なれば領民収納を怠る。
頼賢憤怒して割番名主四人を斬首にせしより領民一揆騒動城郭に放火す。頼賢は討死し家族は鏖殺せらる。笹岡へ移封以来廃城となる。
高梨一族の後裔なるもの古志三島両群中所々の民間に散在して相続す。何れも平澤氏を襲ふ(受け継ぐ)。
城跡は今畑に開き本丸跡の中央に石祠あり、此麓に二つの大池あるを平澤の池と称し蓴菜の名産を出す。