TOPページ

拳龍会について
 ◆拳龍会のあゆみ
 ◇流祖について
 ◇道歌
 ◇拳の大要八句

道場紹介

拳龍会のあゆみについて、拳龍会初代会長 廣川弘先生が、大阪工業大学空手道部創設30周年記念に際して寄せられた文章を抜粋する。

*****************************************************************

糸東流空手道流祖 摩文仁賢和先生 及び 大阪工業大学空手道部 並びに 拳龍会

初代主将、初代拳龍会会長 廣川 弘

 かって、大阪工業大学空手道部は、糸東流の正伝を伝承した。流祖を語らずして我々は無く、この誇りを知らずして我が部は無い。 以下、私の見た流祖の人物像を記し、あわせて大阪工大空手道部とOB会、拳龍会との関係を明らかにしておく。

● 鬼大城(オニオーグスク)琉球史上に燦たる勇将である。
 三山鼎立の沖縄戦国時代にあって、尚巴志王に仕え、逆臣亜摩和利が、王女を人質に己の城に立て籠もった時、それを救出するなど数々の大功を立て尚巴志王の三山統一(1429年)に大いなる力を致した。

● 17代目の孫、賢和先生は明治22年にこの名家、摩文仁家に生まれた。(この摩文仁の丘は、かの大東亜戦争の沖縄決戦に於いて、牛島中将以下、幾多の将兵が自決した所であり、海に挑む絶景にあって、近くには有名な「ひめゆりの塔」がある。)
 幼少の頃は虚弱であり、「このまま育つであろうか」と危ぶまれたと聞くが、10才の頃、先祖の武勇伝に発奮し、首里手の大家、糸洲安恒先生の門をたたいた。以来10年。刻苦精錬の功は、やがて「賢和じゃなくて喧嘩だ」と言われるほどに逞しく成長した。
 18才の時、中国南派拳の大家、那覇手の東恩納寛量先生に師事され、兄弟子の宮城長順先生と共に、東恩納門の双璧と言われた。
 やがて、母校沖縄水産学校の教員を経て、同校および師範学校、警察講習所、その他で空手の指導に当たるや、傍ら同好の士を集めては道一筋の研究に余念なく、新垣派の棒術、多和田派の釵術等各流各派を研究、沖縄古来の武術の殆どを渉猟し尽くした。
 かくて大正7年、空手術研究会を設立、その当時の有様を松濤館の創設者、船越義珍先生はこう述べておられる。
 「摩文仁賢和君は私の竹馬の友で、近世稀に見る空手研究家であり、現在の専門家中怱々足るものである。かって郷里に居た頃は、県下同好の士を集め、君は首里で私は那覇で、各々会を組織して互いに青少年を励まし、殆ど寝食を忘れると言うふうな不眠不休の体であった。次から次と伝え聞いて馳せ参ずる者多く、昼夜門人の出入りが絶えなかった。君は温厚篤実な君子人で、未だかって流派の争い等は微塵も念頭に置かず、知らざるを知らずとして、先輩後輩を論ぜず、自分が知らないものがあれば、後輩にも頭を低く垂れて教えを乞い、謙遜至らざる無く、一旦覚えた後はこれを私することなく、早速会に提供して相互の研究に資し、全く旧式の秘密を脱して開放主義をとり、かくて久しき間に蒐集した材料は余程の数に達し、今日各種の手を多く知っていることにおいて、確かに天下第一人者と言っても敢えて過言ではなかろう。研究の傍ら、首里、那覇合同演武会を開催して公衆の批判を仰ぎ、至らざる所あれば直ちにこれを正し、互いに長を採り短を補う態度に出たため、見る人皆感心して世評も好く、誰一人として非難攻撃する者はなかった。…以下略」
 大正10年、久邇宮、華頂宮の御前演武、大正13年、秩父宮、高松宮の御前演武、大正15年、大日本武徳会講師等、その間の武歴一際赫々たるものがある。
 次いで、昭和2年、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎先生が沖縄に来られた際、その請いに応じて二日間にわたり宮城長順先生と共に空手の術技を披露したが、さすがの嘉納先生も驚嘆の目を見張り、「攻防自在、全国に宣伝しては」と勧められた。

● ここに賢和先生も意を決する所あり、昭和4年の本土進出となったのであるが、再び両先生がまみえた時、嘉納先生は「貴方には今直ぐにでも柔道四段を出せる」と言われ、賢和先生は「貴方には空手四段を出せます」と、呵々談笑されたと聞く。
 後年、各種の小説に、柔道と空手道を対決させて面白くしているが、そのような事実は一度もない。それぞれに道を極めた達人たちの間にあっては、もっと共通な心の通いがあり、深い信頼感の湧くものであろう。
 そして師は(以下略称させていただく)居を大阪に構えて、関西空手術研究会を創立、宮城先生の剛柔流を称え、専ら空手道の公開、出版に当たりながら、関西大学、立命館大学、同志社大学の各空手道部師範を歴任、幾多の門弟の指導育成に務められたが、その功もようやく整い、まさに充実の段階に至らんとして、いよいよここに「守」の段階より「破」の位を迎えるに至った。
 即ち昭和9年、恩師、糸洲、東恩納両先生の頭文字を戴いて「糸東流空手道」を創始したことにある。
 この道に志して30と数年、その間一身一家を忘れ、寝食を忘れ、広汎なるこの道を極め尽くして、今初めてなる「糸東の流れ」であった。

● かくて関西空手術研究会は日本空手道会と改称、糸東流は全国に拡がり、東洋大学、明浄学院を加え、弁護士会、その他の職域団体を含めて、それこそ東奔西走の毎日が続いた。
 しかし間もなく、日支事変より第二次世界大戦(昭和12年〜20年)へと、その様相も次第に熾烈化すると、趨勢の致すところ、全国的な苦難の時代が訪れた。
「空手に先手なし」とする不滅の大訓は、逆に当時の闇雲なる攻撃精神を標榜する柔道や剣道の後塵を拝し、空手を唐手として中国拳法と同一視する軍部の偏見は、空手道をして常に日本武道の「まま子」扱いにすることをしか知らなかった。(狭量なる国粋主義は、ボクシング、レスリング、果ては野球や、サッカー等、殆どのスポーツに及んだ。)
 まず、徴兵による人材の不足、空襲による道場の焼失、物価高、食糧難、交通難等、国家的保護を何ら受けなかった空手道界は、一様に経営難を来した。

● 昭和20年8月、終戦と共に世の中は一変したが、この余波は尚数年におよびマッカーサー軍政下における武道界は、おしなべて生活苦に至る深刻の度を加えた。丁度、私も学校武道禁止令で柔道部の修行を閉ざされ、生江町の道場に通ったのは、この年の11月頃であったが、練習生は私一人、師は、師範席の柱にもたれて、うつらうつらとして居られる。適当にサボろうとすると、「はいもう一度」と言われたまま、又眠っておられる。
 翌春、中学生(旧制)が3名入門した。この中に現在の拳龍会主席師範、梅沢芳雄君がいたのであるが、ここに4名の門人となり、この時はじめて、肘当六法の分解を教えて頂いた。
 「受身が出来るか?」「ハイ」右に左に、内に外に、分解は応用をはらんで立て続けに投げられた。
 破れ畳のもうもうたる埃の中で、3ヶ月の不満も一瞬に吹っ飛んだ。後で、「君は受け身が出来るので、私も勉強になる」と言われた時、一生の師はここに決まった。
 “この師をば 成る程えらみとりたらば わが思わくは すててつとめよ”
 私にとって、今も師の教えは絶対である。全力をもって吸収しようとしたし、これこそ私の誇りである。為に人から、君の空手は剛情流だと言われたこともあるが、知らざる者は言え、この頑固な私をして何故かくも思はしむるのか、この偉大なる師の人格を知って頂きたい。
 やがて復員その他で、ぽつぽつ道場を訪れる先輩も増して来たが、それぞれ生活に追われて相変わらず練習生はこの4名、私は組手もできるし、師から直々教えていただいてよかったが、師の生活は決して楽ではなかった。そこで勧誘した。
 友達と言う友達皆に誘ったが、この食糧難の最中に、戦後の空腹を抱える連中に………。何故私がこれ程熱心なのか解らないらしい。
 それでも、一人二人と門人は増加して、やがて道場も手狭を感じた頃、時に昭和21年の9月、私は空手道部を創設した。
 曰く、「武勇こそ男児の徳也、宜しく日本男児たるもの、この敗戦日本に許された唯一の学校武道、空手道によって再び士風を呼び起こそうではないか!」一大反響を呼んだ。日数を経ずして部員の数は200名を超え、その練習は何よりもの壮観を極め、この刺激は各大学に飛び火した。
 先ず関西大学の空手道部復活、関西学院、大阪府大、近畿大学……等、相次いで空手道部が誕生した。(武徳会は解散され、学校武道は禁止中であったが、空手道に関しては明確化されていなかった。そこで、東西各大学空手道部を自主的に結成、これ等が中心となってGHQと交渉、この半年後に正式に認められた。これは逆から見て、かかる組織が先行した為に成功したとも言える。)
 師の喜びは一通りではなかった。率直な師の喜びに応えるため、我々も又、一丸となって頑張った。
 友寄、坂上、渡辺、崎尾の諸先輩も復員して、しばしば道場に来られるようになると、活気は門外にあふれて昼夜を問はざるに到り、昭和22年、師は師の母校、養秀中学の名をとって生江の道場を「養秀館」と名付けられた。
 しかし、生来の無欲、恬淡、道一筋に生き甲斐を求める師に、世俗の小智の入りよう無く、生活は相変わらずそれほど楽になるようには見えなかったが、これ全身胆の人、如何なる苦しみの中にあっても、「心」は誰よりも「おおらか」であり、良き師の妻「かめ夫人」と共に、どんな大金持ちも及ぶ所ではなかったろう。

● 昭和23年4月、大阪工大空手道部のOB会を「拳龍会」の名をもって創立した。その結成の理由は、当時の会則に、
 “第二条 目的の三、日本空手道会の後援団体として、斯道の普及、発展、研究に寄与する。”と明記されている。
 これは一般のOB会の会則では異例のことであろうが、これこそ我々が、単に一空手道部のOB会として閉じこもることではなく、また個人個人の力でもなく、組織をもって一丸となって積極的に師の労に報いたいと、当時の部員すべてが考えたことであった。
 我々の間では、常に師のことを「おやっさん」と呼んでいた。だから、この「おやじ」を抜きには空手の何も考えられなかったし、ただ師として奉るだけでは済まされない心情であり、戦後の日本空手道会の動きは、即、拳龍会の動きであった。 然しながら、我々にとって一番負担となったのは、この糸東流の厖大な技術面である。師の如き大家にして初めて消化し得るものであって、到底我等凡人の守り得るものではない。何とか簡易化して欲しい、狭いながらも奥に触れるものをと考えた。師も大賛成であり、当時の50を超す形の中から、17の形を選び、これを中心に形成したのが現在の拳龍会技術組織である。
 昭和25年、中定馬左也君が大淀拳龍会を設立、
 昭和26年、藤井公晴君が尼崎拳龍会を設立、
 養秀館を中心に拳龍会も順調に発展した。
 さて、再び昭和22年にさかのぼるが、甲賀流忍術十七世、藤田西湖先生と共に、中之島中央公会堂に於いて、戦後はじめての忍術と空手道の公開演武を行ったが、満場溢れんばかりの盛況であり、その後も毎年演武大会を開催した。
 その頃、或いはもっと以前からか、藤田先生の南蛮殺倒流柔術を研究しておられた師は、その後、合気道をはじめとする日本武道全般の研究に至り、私が館を訪れると、待っていましたとばかりに稽古相手にさせられた。道場も板の間となると受け身も楽ではなかったが、お陰で師の「離」の段階を看ることができた。
 空手の中に合気、導引の術を活かしたい。この師の念願はそれまでの空手道の「技術」を「法」として結実して行ったのである。 もともと糸東流は、自然体を重視する美しい品のある流派であるが、それが尚強調された。まづ歩幅(スタンス)が狭くなり、両足が連なってより軽やかとなり、「一寸合抜けの間合い」は入り身の技を次々と生んだ。しかも、ここぞと思うときに発揮される空手道の「きまり」は冴えに冴え、師の円熟はここに極まるの感があった。(拳龍会柔法はこの時の教えによる。)

● 昭和25年の10月、学校武道禁止令が解け、各校の柔道、剣道その他の部も復活、翌26年頃よりの武道界は、近代スポーツの形態をもって可成の活況を呈して来たが、一方空手道界は逆に流派の分裂があったり、中にはインチキ空手道も横行して、各種大会その他も、統制のとれない状態にあった。そこで師は、この状態を懸念され、「このままでは駄目だ、今こそ空手道界は共に手を取り合って、これが発展に力を尽くすべきだ」と志向され、せめて京阪神だけでも先ず実現したいと、各種各派の道場に呼びかけられた。
 私も、師の手紙を持って某道場(特に名を匿す)を訪れたが、返答を得られず、後で耳にしたことは「糸東流は非実戦的であり、我が○○流の相手ではない」とその弟子達に言ったことである。
 若気の至りであった。早速、中定、梅沢の両君と連れだって、練習試合を申し込んだが、応じられず、お互いに自由組手をもって見学に供したが、数日後その道場は閉鎖した。
 うっかり師にもらして叱られた。「仮にインチキであったとしても、世間の目はそんなことで左右されるものではない。害毒はもっと他にあり、例えば君等の匹夫の勇、其の方がずっと大きい。それが解らなかったら、君は人を倒せても自分を活かすことは出来ないだろう」と言われた。
 この言葉は今も私の胸にあり、常に私の行動を律したが、今考えても私の人生にとって最も役に立った言葉である。
 昭和27年春のOB会総会の後、30名ばかり期せずして養秀館を訪れたが、師は何となく沈痛な面持ちで、
 「空手道界の結束は緊急を要するのに、今尚この状態です。全て私の力の至らないところで、もっと別の政治的、経済的な力に頼らねばと考えるが、それにしても、若し空手道界の純性を失ってはと心配です」と相談された。
 私には師の心情が痛いほど分かる。空手道をこよなく愛し、その将来を考えれば、考えるほど、この悩みは尽きないのだ。そこで私も申し上げた。
 「すべての物事には機があります。柔道や剣道にしても、長い歴史の間には、常に統一と分裂を繰り返した筈です。分裂も、幾多の流派がお互いに切磋琢磨している間は良いとして、やがてそれに頑迷、固陋の弊害が現れると、自然、機と共に熟し統一されます。しかし同時にこの統一が馴れ合いとなり、またその中心が独裁、権力的になると、この弊害がまた分裂の機運を呼びます。すべて人間の歴史も、この統一と分裂の繰り返しで発達したもので、柔道も、剣道も、何時また分裂の時代が来るかも分かりません。空手道は未だ日も浅く、無理な統一は逆効果かと思います。今大切なことは、この糸東流の内部をしっかりと固めて、来るべき統一の時代に備えることです。しかしながら、その上でも大切なことは、何時、如何なる時代においても、いたずらに時代に便乗するのではなく、正しいものを正しいとして残し、次の時代に譲り育てる土中の芽です。幸いに拳龍会はアマチュア団体です。常に時代に超越して、それが出来ます。時代に剛の面は我々に任せ、先生はその分だけ時代に柔に、機運に乗って糸東流を大きくしてください。・・・・・・」
 師はじっと聞いて居られた。師を理解せざるものへの怒り、力至らざる自らへの怒り、何時の間にか涙溢るるものを感じ遂に絶句した。
 その時、後ろから「そうだ!」の声を皮切りに、「我々でやろう」全員の声が錯綜した。
 師の目にも光るものがあった。「有難う、頼みます」

● 思えば、この言葉を聞いたのが最後だった。昭和27年5月23日、師は永眠した。偉大なる師のポテンシャルエネルギーは、この死の瞬間迄この道の修行に励まれての夜であった。
 その月の終わり、師の本葬は、拳龍会葬をもって荘重に執り行われた。
 「師よ、照覧あれ、不肖の遺児ここに幾千、未だ師の志を継ぐに到らざるといえども、何時の日か、大樹大河となりて、永遠の糸東の流れに師の恩に報い参らせんことを・・・・・・。」
 遂に師を容るるに到らなかった世の中への怒り、弔辞を読む私の全身はうち震えた。
 夜、一堂に会してお互いの意志を確認した。
 「本会は、糸東流空手道流祖、故 摩文仁賢和先生の遺徳を顕彰し、広く学生、社会人を含める一般斯道修行者の育成につとめ、心技両面にわたる正しい空手道の教えを、歴史的にも、永遠化したいとの念願をもって結成される団体である。」
 今日、拳龍会の会則のはじめにうたわれるこの一文は、この時に成り、以後会則の全面変更に従って、一般社会人に対する行動を強化した。
 先ず昭和28年、梅沢芳雄君が三洋電機、電電公社の師範となり、翌29年私が八尾拳龍会創立、次いで30年、藤井公晴君の鈴鹿拳龍会の創設、昭和39年には真鍋勉君が枚岡拳龍会設立、拳龍会は糸東流の名門として幾多の俊秀を輩出した。

● そして一方、昭和39年に全日本空手道連盟が発足するや、日本の空手道界も漸く大同団結して、世界の空手道として処するの体制を確立した。即ち、糸東会、剛柔会、和道会、日本空手協会、連合会の五大会派を中心に充実され、各都道府県を単位として結成される空手道地域団体、全国大学学生空手道連盟、全自衛隊空手道連合会、および全日本実業団空手道連盟をもって構成されるに至ったのである。
 かかる時代の動きは、我々にも当然、組織の再編を迫られる。拳龍会は、今や一大学のOB会としては、余りにも大きくなりすぎた。
 ここに昭和45年、我々は充分の論を尽くして、大阪工業大学空手道部OB会と、糸東流拳龍会との二団体への発展的分離に踏み切り、OB会会長には、小島康明君を推して純学連組織に、拳龍会は一般社会人を含める糸東会組織でと、それぞれの組織と道の中にあって、今まで以上の助け合いを期することとしたのである。
 想うに、今や世界の空手道は決河の勢いである。しかしながら今一度、今日の隆盛の踏み台となった流祖の功績を振り返りたい。それは、今日までの苦節の時代を通じて尚、ひるまず、その道を守り通してきた先達の心であり、気概である。同時に又、余りにも報われることの少なかったその偉大なる功績である。

昭和52年 大阪工業大学空手道部 創設30周年記念 OB会名簿に寄せて記す

(抜粋)

COPYRIGHT © 2004 KENRYUKAI    ALL RIGHTS RESERVED