4月27日 復活節第2主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 

 連休が始まりますね。みなさまはどこかに旅行されるのっでしょうか?春に自然に出掛けた時には神さまが造られた自然を意識してくださいね。。

 

それでは、礼拝しましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


生きておられる主と交わりを持つ人が増えますように。
世界が平和になりますように。
・皆さまが健康になりますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(主は生きておられる)

ヨハネ 20章 19~31節

 牧師 江利口 功

おはようございます。
私の真ん中の子供が小学生だった頃のことです。うちの子は野球チームに所属していたのですが、ある時、私は息子と一緒に野球チームの練習に行きました。すると、チームの友達が、足を痛めていたんです。私は、「祈ってあげる」と言って、その子の足に手を当てて祈ってあげました。声を出して祈った訳ではありませんでしたが、その子にとっては「誰かに祈ってもらう」という経験がなかったようで、不思議に思ったのでしょうね。「神さま(って何)?」という感じでお母さんの方を向きました。すると、そのお母さんは、「神さまは心の中にいるのよ」って説明していました。

「神さまは心の中にいる」ってどういうことでしょうか。恐らく、祈りを否定しているのではなく、神さまに祈るという行為や神さまへの信頼そのものは「尊いこと」と思ってくださっているんだと思います。だけど、信仰の対象としての「神さま」の存在は受け入れておられないんでしょうね。その子のお母さんが思う神というのは、“人の心の中で感じとる何か”何でしょうね。

とは言っても、私は、日本の文化の中では、「神道」や「仏教」を通して、何か神さま的な信仰が日本人の生活に深く根付いているかと思います。元旦になれば、多くの人が神社に参拝しに行かれます。また、近くに、橿原神宮がありますが、平日でも境内には、まばらではありますが、参拝している人が結構いらっしゃいます。
確かに、木々が生い茂る中で、ひっそりとたたずむ社(やしろ)の周りを歩いていると、すがすがしい気持ちになります。そこに社などがあると、「神の気配に包まれる」という感覚になります。

自然の中に鎮座しておられる静かな神さまというイメージです。

今日、私は、説教題を、「主は生きておられる」といたしました。これは、単に復活したイエスさまのことを表現したいのではなくて、本当の神は、今も生きておられ、、ただ存在しているだけではなくて、生きて、人格的に私達に関わってくる神さまであるということをお伝えしたかったんです。

どうでしょうか。一般的には、「神さまはおられる」「神さまは存在する」という表現をします。でも、聖書では、加えて、「主は生きておられる」という表現をするんです。そして、この表現が実は、天と地を造られた本当の神さまを一番よく表しているんですね。

聖書を通して、ご自身を表しておられる神さまは、「存在する神(つまりじっとしている神さま)」としてでは満足されず、私達と人格的に関わろう、関わろうとされる神さまなんです。

神さまは、民を「見」、そして、民の声を「聴き」、そして、民に「語り」そして、民のために「歴史の中で介入して来られ」ます。
旧約聖書の民は、そのような生きている神さまの声を聴き、また、自分達の歴史の中に特別に介入してこられる神さまの存在を感じていました。だから、自信ががあったし、安心がありました。

旧約聖書には、「主はいきておられる」とか「生ける神」という表現が、何度も出てきますが、それは、神が、愛の神であるがゆえに行動し、憐れみの神であるがゆえに行動し、祝福の神であるがゆえに、誓いを守られて実行されるからです。

ご自身を信じる者とずっと一緒に歩んでくださるのが神さまです。

イエスさまのお姿を見ると、この「生ける神」の姿が深く現されていると思います。イエスさまは、人類を救うために、私達と同じ人の姿になってくださいました。イエスさまは、罪を犯されませんでしたが、同じ罪人の姿になってくださいました。そして、十字架で死なれることで、私達の全ての罪の赦しを与え、そして、悪魔に太刀打ちできないわたしたちのために、悪魔に勝利してくださいました。それだけではありません。

イエスさまは、人々と食卓を囲み、語り、触れ、癒し、涙を流し、仕え、他にも沢山の仕方で「生きておられる神(共におられる神)」の姿を示されました。

ある時、イエスさまは、重い皮膚病を患っていた人を癒されました。思い皮膚病の人は当時“汚れている”とされ、隔離されていました。触れた人もまた汚れるので、みんな避けていました。でも、イエスさまは、その汚れているとされていた人を“触れて”癒されたんです。イエスさまは「“わたしの心だ”清くなれ」と言ってその人を癒されています。
イエスさまが、「私の心だ」と言って、思い皮膚病の人に触れて癒されたのは、「生ける神(つまり私達の側に寄り添う神)」の姿が麗しく現されていると思います。

実は、この思い皮膚病の人とイエスさまとの関係は、私達、罪人と神さまとの関係と同じです。

日本語の「汚れている」というのは、差別や避ける(忌み嫌う)という“不快を表すような言葉(表現)”だと思います。でも、聖書で「汚れ」と訳され使われている箇所では、その意味のニュアンスが少し違うんです。聖書が「汚れている」という時、それは、神に近づけないという、対照的な位置にある状態のことを意味します。

昔、イスラエルの民は、自らの罪の赦しを得るために、犠牲の動物を捧げていました。その時には、傷のない動物を用いていました。神さまと対称的な位置にいる状態の人が、傷のない動物の命と引き換えに、神さまとの関係を回復していました。
でも、それは、来るべきメシアを表すものでした。イエスさまは、人となって生まれてきてくださり、十字架でその命を捧げてくださいました。それは、罪の赦しを与える犠牲の動物と同じでした。そのことによって、私達の罪は全て赦されました。

どれだけ良い人でも、完全に生まれてきたようでも、人は、神さまの聖なる領域に入ること(戻ること)ができません。
どれだけ良い事をしても、罪人である以上、神さまの領域に入ることができなんです。私たちが、神さまのあの聖なる領域に戻る方法はないんです。

でも、生ける神、愛と慈しの神は、その隔ての壁を乗り越えて、私達のもとにやって来て、私達と神様との関係を元に戻そうとされたのでした。

生きておられる神ご自身が、自ら私達の方へと来てくださいました。私達の罪の赦しを与えるため、そして、死と悪魔を滅ぼすために、人となって、現れてくださいました。そして、ご自身が、傷のない犠牲の動物となり、私達の罪を全て背負って、十字架で死んでくださいました。そして、私たちを完全な姿に戻してくださいました。

イエスさまは、ご自身を羊飼いに例えられました。ここにも、「生きておられる神さま」の姿があります。神さまは、私達と会話がしたい。私達の祈りの言葉を聞きたい。聖書を通して語るご自身の声を聴いて欲しい。さらに、私達一人一人の人生に深く関わりたいと思っておられます。そのことを知って欲しいと願っておられます。

神さまは、人の心の中に存在しているのではありません。また、自然界の中に静かに座っておられるのではありません。「生きておられる神さま」は“親子のように”人一人の人生に深くかかわり、共に歩んでくださる神です。

今日、お読みして頂いた、福音書ですが、復活したイエスさまは、まず、「死んでしまったメシア」ではないことを、弟子たちに証されました。そして、イエスさまが「蘇った」姿を見せ、彼らが信じる神こそ、「共にいる神」「生ける神」であるということをお示しになりました。

イエスさまは弟子達の前に現れたのですが、その時、その場所にいなかった一人の弟子がいました。トマスという弟子です。トマスは、他の弟子たちが「イエスさまを見た」と言った言葉を羨ましく思ったのか、傷を見て、その刺し貫かれた、手や脇腹の傷を触らないと“信じない”と言いました。そのように言ったトマスのもとに、イエスさまは次の日曜日に現れてくださいました。イエスさまは、ご自身の傷跡を見せて、その指で確認させて、疑うトマスを信仰者トマスへと変えられたのでした。

その時、イエスさまは、こうおっしゃっています。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

日本語を見ますと、イエスさまは、「信じなさい」と命じておられないのが分かります。「信じる者となりなさい」と命じておられます。「信じる」と「信じる者になる」とはニュアンスが少し違います。「信じる」というのは瞬間的なことで、「信じる者になる」とは状態の変化(生き方の変化)です。聖書が教える「信じる者になる」とは、私たちが神さまの声を聴き、神さまに語り掛けるようになり、自分の人生を一人で歩むのではなく、人生に介入される神と生きた交わりを持って歩む人のことです。

「生ける神さまと豊かに交わる」人こそ「生きている人」です。

神はただ存在しているお方ではありません。もちろん、人の心の中にいるお方でもありません。主は生きておられ、親のように、羊飼いのように、今日も、そして、今も、私たちと豊かな交わりを持とうとしておられる方なのです。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください