2月22日 四旬節第一主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 受験の季節です。若い人たちが未来に希望をもって生きて欲しいです。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会総会を覚えて。
日本の若い人たちにとって良い政治が行われて行きますように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(揺るがない主)

2026年2月22日(日)四旬節第1主日礼拝

創世記  2章 15~17節
     3章  1~ 7節
ローマ  5章 12~19節
マタイ  4章  1~11節

おはようございます。
四旬節に入りました。聖壇の布も紫色に変わりました。四旬節というのは、イエスさまが私たちのために十字架で死んでくださったことを覚える期間です。ただし、それは、知識として覚える期間ではなくて、“わたし”のこととして、改めて神さまの愛に立ち帰る大事な期間です。キリスト教会ではこの期間を大事にしています。是非、この期間を大切に過ごしてください。

さて、四旬節という言葉ですが、この「四旬」というのは「40」を意味しています。そして、聖書の中では「40」という数字はよく出てきます。たとえば、ノアの方舟の話では、「40日40夜」雨が降り続いたとあります。出エジプト記では、モーセは、シナイ山で「40日40夜」神の臨在もと過ごしたとありますし、イスラエルの民が荒野でさまよった期間は「40年」でした。
聖書で「40」という数字が出て来る時、それは、「試練」の期間であったり「備え」の期間であったりします。共通しているのは、「その期間に人は霊的に深く研ぎ澄まされる」ということです。そして、その期間は、神さまのご計画の中で起こる出来事であるということです。
今日の聖書箇所を見ましても、イエスさまは荒野で「40日の間」断食されたとあります。そしてその後、悪魔の誘惑を受けられたのですが、聖書を読むと“聖霊”が荒野に導いて行ったというのがわかります。
そして40日後。イエスさまの苦しみが最もマックスとなった状態の時、悪魔の誘惑する声が聞こえて来たのです。
長期間の断食で空腹になった時の心の状態って、想像できるかと思います。しかも、周りは何もない「荒野」です。理性よりも本能が全面に出てくる時だと思います。

私たちは、「荒野」にいるわけではありません。でも、長い期間、しんどいことや悩み、苦しみが続くと、場所はこの世界であっても、心は「荒野」にいるような状況になってくると思います。そのような時、普段は見えてこないもう一つのわたしの姿が「揺さぶられて」表に出てきます。

たとえば、心に余裕がなくなってくる時ありますよね。忙しすぎたり、疲れていたり、また、嫌なことが連続すると、普段はそんなことでは怒る事ないのに「つい人にあたってしまう」そんなことありませんか?
また、体が元気で健康な時は、口から出てくる言葉は「未来は明るいんだよ」って元気な言葉なのに、大きな病気にかかると気持ちが落ち込んで、不安になり、口から出てくる言葉が「暗いトーン」になってしまう。これも誰にでもあることです。
信仰についても同じことあると思います。困った時には「神さま、神さま」って祈るけど、問題が解決すると、祈りを忘れてしまうことありますよね。また、試練が続くと、神さまを疑うようになります。「神さまって本当いるのか」「神さまは愛ではなく、優しくない神さまなのか」って感じるようにもなります。また、熱心に信仰していても、他の事に心が向いてしまうと、神さまから遠く離れてしまう。このように、「状況によって信仰が揺らぐ」ということを私たちは良く経験するかと思います。
心に余裕がなくなる時に露出しやすいのは、私たちの肉の弱さです。その時に「何が求められるのか」、「何が大切になってくるのか」を見て行きたいと思います。
さて、イエスさまは洗礼を受けられた後、荒野に行かれてそこで40日間の断食をなさいました。そして、イエスさまが極限状態になられた時、悪魔がやってきて、イエスさまを誘惑してきました。
聖書には3つの誘惑が記されています。一つ目は、「石をパンにかえること」二つ目は「飛び降りて見ること」そして、3つ目は「悪魔を拝むこと」です。この3つの誘惑を見るに際に、一つのキーワードに注目して見ると、見やすくなると思います。そのキーワードとは何かと言いますと・・・それは。
「待てない、今すぐに」です。
悪魔の一つ目の誘惑は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑でした。
40日断食すれば、もう体の限界です。目の前に食べ物があったら、気づいたら口に入れているような飢餓状態です。「何か食べたい」「今すぐに食べたい」このよう状態になっています。これは「味見」と称して「つまみ食い」をするのとはちょっとレベルが違いますよね。もう、本能が支配しています。
空腹になれば人は食べ物を盗んだり、奪い取ったりします。理性は正常に働かない状態になります。イエスさまもそのような状態でした。しかし、イエスさまは、神の子ですから自分でパンを造りだすことができるんです。石をパンに変えることなど朝飯前です。
イエスさまは、この天地をお造りになりました。すべてを「ことば」でお造りになりました。そのイエスさまが石をパンに変えることなど大したことありません。「命じる」だけでいいんです。
でも、今日の箇所とは違う箇所になりますが、“イエスさまが群衆におっしゃった言葉”覚えておられますか?
「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか思い悩んではいけません」とおっしゃいました。
何故でしょうか?なぜ、思い悩んではいけないのでしょうか。イエスさまはこうおっしゃいました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである」。父を最後まで信頼し続けなさいということですよね。なぜなら、神さまは人とは全然違う、慈しみと愛に満ちたお方だからです。
ですので、イエスさまが石をパンに変えるということは、どういうことを意味するのでしょうか・・・。それは、「子」が「父」を信頼しなくなった(捨てた)ことを意味します。
イエスさまはおっしゃいました。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と書いてある』
世の人たちは、パンと神さまを別々にしています。しかし、私たちは、“必要な糧は全て神さまから来ると信じています”。ですので、イエスさまは、「日毎の糧を今日もお与えください」と祈りなさいと教えられます。
羊飼いは自分の群れの羊を牧草地へと導いて行きます。羊は、羊飼いが連れて行く場所でお腹を満たします。もちろん、良い羊飼いは、羊のお腹の状態を知っていますので、必ず(何とかして)食事を糧を与えようとします。でも、もし、羊が、羊飼いの声を無視して自分の力で餌を探し始めたらどうなるのでしょうか?結果的に餓死するか、獣に襲われたりします。羊に大切なのは羊飼いに着いて行くこと。羊飼いはそのために、羊を鞭や杖を使って教育します。
詩編23編にこのような言葉があります。『主はわたしの羊飼い。わたしには何も欠けることがない。』
ここで「欠けることがない」と言っていますが、これは、“満ち足りていて何の問題もない”と言っているのではなく、「主は、どんな状況になっても、私を必ず満たしてくださる」という信頼を表現しています。

私たちの人生においても、「石をパンに変えたくなる時」あると思います。それは食べるものだけに限らず、固い状況を柔らかいパンの状態にしたくなる時沢山あります。問題があれば、早くなくなって欲しいし、お金がない状況では、そのような苦労をしなくていいようになって欲しいと願います。不安があれば、すぐに解決することを願いますし、病気になれば、すぐにでも治りたいって思います。「待てない(もう待っていらなれない)」「今すぐに」って私たちは思うわけです。
多分、石をパンにする力があれば、私たちは、すぐに「神さまの時」を待つこともなく、すぐに安心を造りだそうとすると思います。

イエスさまは、石に命じることでパンに変えることができます。でも“ご自分のためには”なさいませんでした。必要を全て知っている(誰よりも知っている)神を信じておられたんです。このような信仰は美しくないでしょうか。

「神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」これは、「あなたの必要を全て(誰よりも)知っている、神の声を聴いて歩み続けなさいということです。そして、これは、良い羊飼いであるイエスさまの声を聴いて生きて行くということになると思います。

さて、二つ目の試練は何だったでしょうか?それは、神殿の屋根に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」という誘惑でした。悪魔は続けてこう言います。「そうしたら聖書に書いてある通り、神はお前を助けるはずだ」。
これは巧妙な誘いで、神さまを信頼(御言葉を信頼)している姿に見せかけて、実は、神さまを試す行為なんです。
昔イスラエルの民は、エジプトを出て、荒野で生活していましたが、彼らは「神さまはなぜ私たちをこんな所こ連れて来たのだ」とか「本当に神が私たちの見方であるならばそれを証明して見せよ」そんな勢いでモーセに迫ることがありました。ここまでくると信仰者の美しい姿ではなくて、むしろ、不信仰で神さまより自分を上に置いている姿です。
しかし、私達であっても、ここまではないにしても、試練が続く時、苦しいですよね。人生が上手くいかない事ばかり起こる時、信仰していて本当に意味があるのかって思います。それは、暗い(深い)闇の中を歩むようなものです。
先ほど詩編23編の言葉を引用しましたが、詩編23編にはこうも書かれています。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
詩編23編では「正しい道に導かれる」と言い、でも「死の陰の谷を行く時もある」という風に言っています。「しかし、わたしは災いを恐れない」と信仰告白しているんですね。「正しい道」とありますが、これは、ゴールは青草の原であったり、命の泉であったりしますが、そのために通っていく道のことだそうです。そして、大きな道よりは“羊飼いが”知っているルートだそうです。つまり、羊には、「え、この道?」って感じなんですが、羊飼いにとっては、それが最善の道で、その先に、素晴らしい場所が広がっているのを知っているんですね。
羊飼いを最後まで信用して羊のようであれと聖書は言っています。イエスさまは子供のように神の国を信じなさいとおっしゃいますが、小さい子供は本当に親を頼ります。不平を言っても、親の選ぶ道をついて来ます。
試練が続く時(連続する時)、「これ以上待てません」「今すぐに終わらせてください」って思います。「死の陰の谷」というのを「深い闇の中」に変えて読むと、「深い闇の中を行く時もわたしは災いを恐れません」ってなると思います。羊飼いは、羊の限界を知っています。だからこそ、私たちが超えることができない試練はないと聖書は言うのです。でも、その道を通るとその先に新しい何かが待っているんです。
3つ目の誘惑。それは、完全に「父」を捨てるということでした。私達でいうならば、「神」を捨てるということ。そして、この世的な喜びこそ、わたしの喜びだと考えその手っ取り早い繁栄を求めて進んでいくことです。
イエスさまにとって、悪魔を選択することは、神さまの御心である、十字架の道を捨てることです。イザヤ書の53章に次のようなみ言葉があります。
彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。(イザヤ53:11)
私たちは、手っ取り早い祝福を好みますよね。でも、祝福は手っ取り早くこないんです。でも、耐えることは豊かにされることです。信仰は本物に磨き上げられます。それだけではなく、多くの実りを経験していきます。
悪魔は、この試練の後、イエスさまから離れて行きますが、最後にイエスさまが十字架にかかられた時、再び現れてきます。父なる神さまは、イエスさまを死の陰の谷を通らせました。しかし、それは神の道でどうしても通らなければならない道でした。イエスさまは、「わたしの願いではなく、あなたの御心どおりに」とおっしゃり、「父」を信頼して歩まれました。十字架で死なれましたが、復活されました。そして、イエスさまは主となられ、多くの人が神との関係が回復された姿を見ることができたのでした。
私は、今日の説教題を「揺るがない主」といたしました。それは、「わたしたちには揺るぎない主がいらっしゃる」ということを覚えたいからです。私たちの心も気持ちも信仰も「揺らぎます」。しかし、揺らがない人が一人いて、それが、イエスさまなんですね。荒野の試練は私たちの日常の試練です。その試練をイエスさまは同じように体験してくださいました。だからイエスさまは私達の弱さ、苦しさを十分味わってくださったのです。そのうえで、「私の声を聴いてついて来なさい」とおっしゃるわけです。神の口から出る一つ一つの言葉は、羊飼いであるイエスさまの言葉でもあります。私たちは、自分の信仰を信頼するのではなくて、「揺るがない主がいらっしゃる。だから勝利することができる」という信仰を持ちましょう。

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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください