11月9日 聖霊降臨後第22主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 

 本日は、瀬戸幸治先生による説教です。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会員の方々の健康が守れますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(生きている者の神)

2025年11月9日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝 橿原教会

ルカ  20章 27~38節  (新320頁)

牧師 瀬戸幸治
11月に入り、教会の一年も終わりに近づきました。教会暦ではアドベント(今年は11月30日)から新しい一年が始まります。教会暦の一年が終わるこの時期には、イエスさまが地上での最後の一週間に語られた箇所が選ばれています。
イエスさまは、もうすぐ訪れる十字架の死と復活を見すえておられます。そのイエスさまは、今日、神の御心よりも自分自身に信頼を置く者を神との正しい関係に招いてくださっています。
●サドカイ派の信仰
 みなさんは、死というものをどの様に捉えておられるでしょうか。死というものを受け入れてしまってはいないでしょうか。死なない人は一人もいません。また、死んだ後で生き返った人を見たこともありません。
「人は死ぬ」それは仕方のないこと、避けられない現実として、多くの人は受け入れているのではないでしょうか。
 今日の聖書に登場するサドカイ派の人々は死を受け入れていた人々でした。
サドカイ派はユダヤ教の宗派の一つです。彼らはエルサレム神殿の祭司階級、また貴族階級の人々でした。彼らは、聖書の中でもモーセ五書(創・出・レ・民・申)だけを権威ある聖書と認めていました。そこには復活について明記されていないため、彼らは復活を信じていませんでした。
彼らにとって信仰とは、この地上で神の祝福を受けるためのものでした。「神は人を祝福し、富を与え、長寿を与える。でも、死ねばすべてが終わる」、それが彼らの信仰でした。
その彼らが、神殿で教えておられたイエスさまに反論するために尋ねました。簡単に言いますと、「ある人が子をもうけずに死にました。モーセの律法に従って、兄弟が代わってその妻をめとりました。七人の兄弟が順々に同じ女性と結婚しました。もし復活があるなら、その女性はだれの妻になるのですか」と、イエスさまに問うたのです。
この世の中の理屈で考えますと、死んだ人が生き返ったら、確かに厄介なことになりそうです。サドカイ派の人々は「そもそも復活ということは起こりえないから、モーセは兄弟が死んだ場合、兄の妻をめとるという律法(申命記25:5~6)を書いたのではないですか。」とイエスさまに言いたいのです。
この世の中の理屈で死と復活を理解しようとすると、確かにサドカイ派の言うことにも一理あると思えてくるかも知れません。しかし、サドカイ派の姿は、神さまの御心から外れてしまった罪人の姿なのです。
●神の御心
では、神さまの御心はどこにあるのでしょうか。創世記には神さまがこの世界と人間を創造されたことが記されています。でも、人間が死ぬものになるということは、神さまの創造の御心ではなかったのです。(創2:17「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」)。
つまり、人は死なないものとして創造されたのです。
神さまは、人間を「魂」と「身体」が永遠に結びついているように造られました。
例えば、歌は歌詞とメロディーが結びついていて、分けることはできません。そのように、人間も魂と身体が一つの存在として造られたのです。しかし、残念ながら人間は堕落し、死ぬものとなってしまいました。「魂」と「身体」が分離することは、本来一つに造られた存在が引きさかれる出来事であり、神さまの創造の秩序が壊れた状態なのです。
わたしたちは、肉体が終わる死を「自然の摂理だから仕方がない」と、当然のように捉えているのかも知れません。しかし、神さまからすれば、それは異常事態なのです。身体が死んで魂だけの状態になることは、神さまの御心ではないのです。
しかし、神さまはそのような状態になってしまう人間を見放すことはされませんでした。
人が死を迎え、魂と身体が分離してしまっても、その後で、再び魂と身体が完全に結合し回復する道を造ってくださったのです。
その回復の道こそ、イエス・キリストの十字架の死と復活なのです。神の御子であるイエスさまが、罪の結果である「死」という異常な現実をわたしたちの代わりにご自身の身に負われました。罪のない方が、魂と身体の分離という人間の悲惨を、十字架の上で引き受けてくださったのです。
しかし、イエスさまの死は終わりではなかったのです。三日目にイエスさまは復活されました。創造の秩序が再び正されたのです。死が命に呑み込まれたのです。イエスさまが魂と身体の壊れた結びつきを永遠に回復してくださいました。
その復活のイエスさまに、洗礼によって結ばれた者は肉体の死がやって来るとしても、イエスさまと同じように魂と身体が再び一つにされる、と聖書は約束しています。その身体は今の身体とは違い「栄光ある体」(フィリピ3:21)と聖書では表現されています。
わたしたちには、この地上での死はまだ残っています。でも、神さまは、その死すらも祝福の手段に変えてくださったのです。

しかし、本当に大切なことは、永遠の死が取り除かれたということではないのです。
もちろん永遠の死が取り除かれることは重要なことです。しかし、神さまの御心の中心にあるのは「罪によって壊れてしまった神と人との交わりを回復し、人を本来のいのちに生かすこと」なのです。死が克服されるのは、神との関係が回復された結果として起こる恵みなのです。
●サドカイ派の問題
その神さまの御心がわかると、今日のサドカイ派の問題が見えてきます。
彼らの問題は、死後の復活を信じなかったということよりも、神を「人間の力ではそうすることもできない罪と死の現実の中にいるわたしたちのために、生きて働き続け、共に生き続けてくださる神」として信じていなかったことにあるのです。罪と死の現実を前に「神を必要とする者」として神の前に立っていなかったことが問題なのです。
彼らは、神さまを信じているようでいて、実際には自分の頭で理解できる範囲に、神さまを閉じ込めてしまっていたのです。また、復活を否定することで死を越えて働く神さまの力を否定していたのです。
つまり、神の民でありながら、神さまとの交わりに生きていなかったということです。
それがサドカイ派の問題なのです。自分の考え、自分の信仰をイエスさまに押し付けて反論する彼らの姿は、神さまの御心を忘れ、神さまとの関係そのものを拒む罪人の姿なのです。
そんな彼らに、イエスさまは、復活した者はもはや死ぬことができなくなって、天使に等しい者になる、と語られました。つまり、神が創造された本来の完全な人間になる、と教えてくださいました(36)。また、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きている」(38)と、神さまの御心を示してくださいました。

今日の聖書箇所には小見出しがついていて「復活についての問答」とあります。でも、イエスさまは、単に復活の有無を言われたのではありませんでした。神さまとの関係を問題にされ、神さまと生きる歩みへと招かれたのです。
だから、イエスさまが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(37)と言われるのも、単に「死後の復活はある」と証明しようとされたのではなくて、「神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブと同じように、わたしたち一人ひとりとも永遠に生きた関係を持ち続けてくださる方なのだ」と、宣言してくださったのです。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、決して完璧な信仰者ではありませんでした。
神さまの言葉を疑い、この世の出来事に恐れを感じ、神さまの導きから外れてしまうこともありました。
アブラハムは、神さまから「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束されたのに、約束を待てずに自分の力で子をもうけようとしました。ヤコブは、神さまの祝福を約束されていたのに、神さまを信頼しないで、兄エサウと父イサクをだまして祝福を得ました。
それでも神さまは、ご自身の約束のゆえに、彼らを見放すことなく共に歩まれました。
神さまの約束は、人間の弱さや失敗によって取り消されることがないからです。彼らが弱くても、神さまはその人生を導き、最後まで「わたしがあなたの神である」と言い続けられたのです。そして、その神さまは、彼らの死後もなお彼らと共におられる「生きている者の神」なのです。
わたしたちの歩みも同じではないでしょうか。自分の罪や、弱さの中で神さまに信頼を置けなくなり、つまずくのではないでしょうか。でも、神さまはわたしたちを見捨てず、キリストのいのちの内に生かし続けてくださるのです。
サドカイ派は「自分の頭で理解できる神」を求めていました。わたしたちも、サドカイ派の人々の様に、この世の理屈や自分の経験・理性の中に神さまを閉じ込めてしまうことがあると思います。全能の神さまを、力の無い神さまにしてしまうことがあると思います。
でも、イエスさまは、今日「わたしたちのために生きて働いてくださっている神さま」を示してくださいました。イエスさまは、神さまご自身がいのちの源であり、今も生きておられ、死を越えてわたしたちと関わり続けてくださる方であることを示してくださいました。
神さまは、過去に世界を造って終わった方ではなく、今も御言葉によって世界を支え、わたしたち一人ひとりを生かしておられます。キリストの十字架の死と復活を信じる者は、神さまとの関係が死によって終わることはありません。キリストのいのちの内に生かされ続けるのです。
そして、神さまとの関係は、生きている間だけでも、死んでからでもありません。わたしたちと共に生きてくださる神さまとの関係は、洗礼を受けた時から、もうすでに始まっています。そして、この先もずっと続いていくのです。
ですから、わたしたちは「いつか復活する」ことを待つだけではありません。すでに今、神に義とされた者として、この世にあって新しいいのちを生き始めているのです。
わたしたちの日常のくらしの中に、生ける神が共にいてくださっていて、神がわたしたちを離れないという事実が、悲しみや、不安の中にあっても、わたしたちを立ち上がらせる力となるのです。


●生きている者の神
今日、イエスさまは、主なる神は「生きている者の神」だと言われました。
「生きている」というのは、単に息をしてこの地上を歩いているという意味ではありません。聖書が語る「生きる」とは、神さまとの関係の中に生きることです。
罪の中にある人間は、自分では生きているように見えても、神との交わりを失っていて、霊的には死んでいるのです。しかし、神さまはその死の中にキリストを送ってくださいました。キリストはわたしたちの罪と死を背負い、十字架で死なれ、復活によって新しいいのちを開いてくださいました。
そして、洗礼によって、わたしたちはキリストに結ばれ、古い自分に死に、キリストと共によみがえった者とされました。わたしたちは、今、キリストのいのちの内に生かされているのです。
「生きている者の神」とは、そうしたキリストのいのちにおいて、わたしたちを新しく生かし続けておられる神のことなのです。
わたしたちは、神の前で神と共に生きています。そして、これからも永遠に神と共に生き続けていくのです。それが十字架の死と復活の福音なのです。










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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください