10月26日 宗教改革主日

挨拶(ライブ配信)

 

 私たちの教会はルーテル教会で、ルターの宗教改革から始まった教会です。歴史の授業でならっていても、ルーテル教会と繋がっていないことあるかも知れませんね。私たちは当時の伝統を大切にして礼拝を守っています。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会員の方々の健康が守れますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(神さまに喜ばれる生き方)

2025年 10月26日(日)宗教改革主日礼拝

ヨハネ    8章 31~36節

 江利口 功 牧師
●今日は宗教改革記念礼拝
おはようございます。
今日は、宗教改革を覚えての礼拝です。今から、500年ほど前、マルティンルターという、一人の修道士であり司祭が、当時の教会の在り方について、「このような教えで本当にいいのか」と声を上げました。
当時のカトリック教会は、「罪の赦しをお金で買うことができる」と言って、免罪符というものを売っていました。また、「人間の善い行いを神さまは見ておられ、その行いによって人は天国に行ける」と教えていました。その教えにルターは疑問を感じていたんです。
ルターは「私たちがよりどころとすべきなのは、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しであり、その神の愛によって、神の国に迎え入れられるのだ。人間の功績ではない」と公に訴えたのでした。
ただ、残念なことに当時のカトリック教会はルターの考えを受け入れませんでした。結果的に、ルターと彼の考えを支持した人たちは、新しい教会を作っていくことになります。そのような背景で出来た教会がルーテル教会です。今日のプロテスタント教会の始まりです。

●恵みの後は自力で天国に行く教え
 当時も、「人は、イエスさまの十字架の贖いによって、罪が赦される」「天国に行くことができる」と教えてはいたんです。「神さまの恵みによって人は救われる」とちゃんと教えていたんです。でも、それだけではなかったんです。
人が自分の罪を認め、悔い改め、そして洗礼を受けることによって、罪の赦しを受け取ります。ここまでは同じです。しかし、「人が、その後(洗礼の後)に犯してしまう罪については、自分で償わなければならない」と教えられていたんです。
 つまり、「あなたは洗礼を受けて、綺麗な体にしてもらいました。これは、神の恵みです。ここからは、救われて清くなったのですから、その姿に相応しく生きなくてはなりません。もし、あなたが、罪を犯してしまったのであれば、悔い改めて、自分で償いをしなければなりません。そうやって歩みことによって、最後に天国に入れますよ」という教えていたんです。結果的に、清さを自分で獲得しなければならなかったのです。
 目の前に天国に続く一本の道があるとします。足元にある大きな大きなあながあって、それは、人の力ではどうしようもできない。それをイエスさまが埋めてくださいました。これが恵みです。でも、人がその後、罪を犯すと、穴が次々とあくんです。その度に、自分で土を運んできて、その穴をふさいで歩き続けるのが信仰者の道なんですという教えだったんです。
 ただし、良い事もありました。みんな一生懸命に善い行いをしようとするんです。献身的な人、修道士になる人も多く現れました。

でも、「善い行いをする理由」が違っていたです。

私たちはどうでしょうか?「イエスさまの赦しの中に包まれています。神さまの子供として受け入れられています。だから、神さまの喜ばれる生き方をしたい。感謝を持って行きたい」そう思います。
ところが、当時の人は、こう感じているんです。「私は、まだ、完全に受け入れられていない。だから、神さまに喜ばれる生き方をし続けて、なんとか受け入れてもらおう。」何か違いますよね。喜び・平安がありません。

●聞こえてくる声の違い
ちょっと、こんなやりとりを考えて見ました。
例えば、二人の子が家の掃除をしたとします。そして、親はその姿を見て「よく頑張りました」と言われたとします。親を怖がっている子は、親の「よく頑張った」という言葉は「それでいいねん。次からも同じ様にしなさいよ」って聞こえてきます。そして「掃除をしたら親は喜ぶんだな」って、手段として理解するようになります。
でも、親が好きな子は違います。シンプルに、“私のしたことを喜びで表現してくれた”って感じるだけなんです。そして、「また、喜んでもらおう」って頑張るんです。
例えば、二人の子がテストでいい点を取ったとします。親は良い点数を取ったと喜びます。親を怖がる子どもは「セーフ!今回は怒られない」って安心します。でも、親が好きな子は、何点であっても気になりません。点数がわたしの価値を決めるのではないからです。ただ、親が喜ぶ顔は嬉しいのです。逆に、悪い点を取った時、親が「次頑張りなさいよ」って言われたとします。親の顔色を見る子供は「最後通告」のように聞こえます。つまり、「次はないで!」って感じるんです。でも、親が好きな子は「成長を願ってくれているんだな」って受けとることができるんです。
同じ言葉であっても、違って聞こえてくる・・・ここがポイントなんです。


●神の言葉がどう聞こえてくるのか
 これが、神さまの言葉になったら、どうでしょうか。同じ、聖書の言葉でも、神さまがどう見えているのかで、聞こえ方が全然違ってきます。なぜなら、神さまは、永遠のいのちの鍵をにぎっておられるからです。
 その譬として、奴隷の子と、本当の子の違いを考えて見たいと思います。私たちの社会では、お手伝いさんはいても、奴隷はいません。でも、想像はできるかと思います。
 奴隷の子と実の子の違いって、簡単だと思います。
 奴隷の子は、用事がちゃんとできないと叱られます。用事をしても、当然のように思われます。また、必要がなくなれば、その家から追い出されてしまいます。奴隷は家にいることは出来るけれども、身分は不安定なんです。自分の価値は、自分がどう主人に従っているのかで決まります。自分がその家にい続けるためには、従い続けなくてはなりません。ですので、主人との関係はいつも“成果”で繋がっています。結果的に、奴隷の子の心はいつも不安定なんです。主人の喜びの顔は自分の身の安全の保障なんです。
でも、実の子は違います。色々な親の方がいますので一概には言えませんけど、基本的に、家は自分の居場所です。良い事をしても、しなくても、家にずっといる権利を持っています。「ちゃんとできなかったから、今日からうちの子じゃありません」とは言われません。これを自由といいます。ですので、実の子の心は平安なんです。不安はありません。良い事をした時も、悪い事をした時も、子どもは子供で、怒られることはあっても、捨てられることはありません。ですので、子どもの心は安定しています。

●ルターが回復したものとは
 宗教改革でルターが回復したのは、このことでした。当時のカトリック教会では、十字架による恵みと言いてはいても、「神に喜ばれる生き方をしないならば、あなたは、天国に入れません(捨てられてしまう)。」とそのように教えていました。神と人との関係において、主人と奴隷の子のような関係で教えていたんです。安心できないんです。
しかし、今日のイエスさまの言葉にあるように、イエスさまの十字架によって完全に私たちの罪は、全部許され、自由にされました。私たちには、愛情深い、慈し深い、神のみ顔が見えているのです。イエスさまを信じて洗礼を受けた人には「あなたはわたしの愛する子」「わたしはあなたを贖った」という言葉が天から聞こえてくるんです。
人は実の子のように神さまとの関係が回復されて、自由になるんです。善い行いは、神さまの心を惹きつけるための手段ではなくて、喜びから生じる生き方なんです。

 当時のカトリック教会の教えは、人を完全に自由にしてくれませんでした。イエスさまがせっかく十字架で死んでくださって、私たちを神の子としてくださったのに、「いやいや、天国に入れたわけではありません。良い人であり続けないと、天国に入れませんよ」って教えていたんです。

それに対して、ルターは、「イエスさまが、全ての人の罪のために十字架にかかり、洗礼を受けて、罪の赦しを得たひとは、みんな、神の子とされたんです。自由になったんです。あなたの行い、生き方によって、天国に入れるかどうかが決まるのではありません。イエスさまの十字架は、あなたの罪を完全に許したのです」と主張したんです。
ルターはただ、聖書の真理を回復しようとしただけなんです。でも、受け入れられず、プロテスタント教会が誕生することになっていくんです。

●神さまに喜ばれる生き方とは
 「自由」を受け取った私たちにとって、「神さまに喜ばれる生き方」とは何かを、聖書のことばを引用しながらお話して終わりたいと思います。

まず第一に、神さまに喜ばれる生き方とは、「神さまを完全に信頼して生きること」です。
聖書には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)と書かれています。神さまが喜ばれるのは、まず、「聖書のことばは命のことばだ。わたしを生かすために語られる、神のことばだ」と受け止めアーメン(そのとおりです)と信じることです。
聖書にこうも書いてあります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)。つまり、イエスさまが十字架で条件つきの救いをくださったのではなく、無力で罪の奴隷である私たちのために、完全な救いを与えてくださったことを受け入れる必要があります。
奴隷の私は死んだんです。「今あるのは、イエスさまの贖いによって、完全に神の子とされた私です」という確信を持つことです。わたしたちは、今でも罪を犯します。弱さもあります。でも、それによって、私たち価値を神さまは測っておられません。悪魔は、私たちの耳を奴隷の耳にして不安にさせます。物足りなく思わせます。でも、実の子の耳で聞く必要があります。

 神さまに喜ばれる二つ目の生き方は、「イエスさまのように、隣人を愛して生きること」です。しかし気をつけなればならないのは「高慢にならず、謙って歩む」ことです。善い事をすると、自分の功績を自慢したくなります。そして、「私は良い人だ。神さまも認めてくれている」と自負するようになり、人を見下してしまうようになります。良い業と高慢は表裏一体ですので、「愛に生きる時」には常に、謙ることを忘れないことが大切になります。
ミカ書(6:8)にこう書いてあります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

 そして、最後、神さまに喜ばれる生き方とは、「神さまが与えられた場所で、忠実にその役を果たすこと」です。イエスさまは弟子達にこうおっしゃっています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:6)
 イエスさまは、「わたしがあなた選び遣わした」とおっしゃっています。そして、「行って、そこで、実を結び、実が残るよう」とおっしゃいます。
 私たちが置かれている場所。職場であったり、家庭であったり、学校であったり、教会であったり、介護や看護の現場であったり・・・神さまは、「その場所で忠実に歩むこと、実を結ぶこと」を願っておられます。

 父なる神さまを心から信頼してください。神さまは、愛の神、私たちの盾となってくださる神さまです。イエスさまがしてくださったあの大きな恵みを、両手を開いて「ありがとうございます」って受け取ってください。「私は自由にされた。私は無条件に神の子だ」と確信して受入れてください。そして、その喜びから、共にイエスさまを模範として、隣人を愛して歩んで行きましょう。
自分の姿によって、自己嫌悪に陥らず、また、高慢にならないようしていきましょう。愛情深く、慈し深い、神と共に、今日も歩んで行きましょう。

神さまの言葉を、奴隷の耳ではなく、神の子の耳で聞いていただければと思います。私たちは、イエスさまによって完全に自由にされたのです。

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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください