挨拶(ライブ配信)
9月も半ばになり、秋も近づいて来ました。暑い夏でしがた思ったよりはましだったかなと思っています。季節の変わり目です、体調を整えてお過ごしください。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・教会員の方々の健康が守れますように。
・新しい総裁が選ばれますが良い総裁が選ばれますように 。
・戦争が早く終結しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(信仰によって)
本日は証し礼拝で個人情報もはいっていますので、桜井教会でいたします説教を掲載します。
2025年 9月14(日)聖霊降臨後第14主日礼拝
創世記 4章 1~12節
ヘブル 11章 1~ 4節
ヨハネ 6章 26~35節
江利口 功 牧師
おはようございます。
私は、中学生の時に聖書と出会い、「これは神さまの言葉だ」「真理の言葉だ」って確信しました。でも、すぐに教会には行きませんでした。どうして教会に行かなかったのかと言いますと、自分に自信がなかったからです。私は、教会は「きよい人の集まり」だと思っていました。「クリスチャンは鍛え上げられた戦士」のように思っていました。ですので、「きよい人になるぞ」という決意がないと、教会に行ってはダメだと思っていました。
そのような私が、教会に行こう、礼拝に行こうと決心したのは、憧れからです。「愛のある人になりたい(そんな人に変わりたい)」って思ったからでした。教会に行けば、聖書の教えを通して愛する人になれるノウハウを教えてもらえると思っていました。
ところが、実際に教会にいってみると、そのような「きよい人」の集まりではありませんでした。人間臭い人の集まりでした。
「人間は罪人ですから」という言葉や「そのためにイエスさまが十字架で死んでくださったんです」という言葉は、その時の私には、どこか諦めのように、また、開き直りのように聞こえました。
しかし、信仰生活を送るようになり、そして、牧会に携わるようになり、ようやく聖書の真のメッセージが分かるようになりました。それは、人間は自分の力では神さまの目にかなうことは出来ない。そのような者にはなれないということです。自分のしていることが分からない存在だということです。
聖書は「罪人である」という現実は、変えられないと教えています。でも、それで終わりではありません。その私達のためにキリストが十字架で死んでくださり、私達に完全な罪の赦しを与えてくださったのです。そして、復活の体、そして、永遠の命を与えてくださいました。これが、福音で、私たちを変える本当の力です。
イエスさまは十字架で私達を罪から解放し、黄泉に降られ、閉じ込められていた人たちに勝利を告げられました。完全に死から解放してくださったのです。そして、再び来られる時に、悪魔を滅ぼされ、罪と死と悪魔から私たちを完全に解放してくださるのです。私たちは、すでにこの恵みに与っており、その約束が完成する時を待っています。
信仰は「よし、頑張るぞ!」という気合いでも決心でもありません。神さまの約束(見えない確かな真理)に身を委ね、それを人生の拠り所(確かな下支え)とてして歩むことです。
もちろん、私たちは、諦めて生きるのでも、開き直って生きるのでもありません。イエスさまを知り、イエスさまの生き方を知った時に、わたしも同じように生きたい(なりたい)と願うようになります。ですので、私たちは、神さまの望まれる姿を目指します。ただ、私たちを根本的に変えるのは、私達の内側に働く神の力、神の愛であるといことは忘れてはいけないと思います。私たちの善い行いは、御霊の結ぶ実であって、それは、いのちに根差すことによって、自然に生じてくるものなのです。
この夏、日照りで野菜類の育ちが悪かったそうです。教会の方で野菜を本当に上手に育てる方がいらっしゃいます。その方とお話をしていると野菜のことを良く知っておられるのがわかります。その方は、ほんとうに手間を惜しまず、上手に(美味しく)野菜をお作りになるんです。また、別の方ですが、その方も野菜を育てるのが上手なお方なのですが、その方は、ある貸農園で一区画を借りて野菜を作っておられました。同じように一区画を借りて野菜を育てる人から「なんで、そんなに育つのですか?」と尋ねられたそうです。その時は、ありきたりの答えを言ったそうですが、本当は「信仰をもって、祈って育てているからって言いたかった」っておっしゃっていました。
愛情深く作物を育てると、必ず、良い実りができます。これは必然のことです。やはり、私たちが、御霊の実りを生じるのは、私達の力ではなくて、私たちを育ててくださる神の力、愛情があるからです。神さまが育ててくださるならば、良い実がならないわけないですよね。必ず、私たちは変えられて行きます。
太陽の光を浴びる時に、そこに神さまの大きな恵みの力を感じる。花や木、また、鳥の鳴き声、さえずりを聞く時に、そこに神さまの美しさや優しさを感じる。それと共に、イエスさまが私達の罪を背負い十字架にかかり贖ってくださったという一番の恵みの事実を喜び生きる。この神さまの憐れみと愛に私達が根差す時に、当然のように私たちから良い実りは生じてくるんですよね。
神さまは、聖書を通して、ただ「厳しい生き方の基準」を私達に課されたのではないんですね。私達を「全く新しい生き方へと招かれた」んです。イエスさまを信じ、洗礼を受けた時に、私たちの「古い人」は死んだんです。そして、今生きているのは、神さまによって新しく造りかえられた「新しい人」なんです。それが私達です。
私たちは、「わたしのこの部分を変えて欲しい」、「この性格が変わったらいいのになって」部分的な変化を願うかも知れません。でも、神さまは、私たちの全部を変えてくださったんです。そう見えるかどうかは、問題ではありません。私たちは、そのように変えられたんです。
今日は、敬老の日を覚えて礼拝していますが、長い年月を信仰をもって歩んでこられた方の姿って、本当に素敵だなって思います。その人の性格がどう変わったのかということではないですね。神さまを第一とされる姿、み言葉を第一とされる姿、祈りを大切にされる姿、礼拝を大事にして来られる姿、そういった立ち振る舞いと言いますか、一つの一つの姿に重みがあるなって思います。もちろん、その方々が、決して、苦しみや悲しみない人生であったわけではありません。かえって、家族のことで悩まれたり、病気で苦しまれたりと、色々なことで試練に遭われて来られました。でも、神さまのみ言葉を信じて歩み続けておられるのが素敵だと思います。
今日、創世記の4章のカインとアベルの話を読みました。カインもアベルも同じように、神さまの前に献げものを持って来ました。しかし、神さまは、アベルの献げものに「目を留め」、カインの献げものには「目を留め」ませんでした。「目を留める」というのは好意を示すという意味です。聖書の本文には詳しく書かれていませんが、伝承では、アベルの献げものに天から火が降ってきたのではないかとも言われています。自分のものが選ばれず、他の人のものが選ばれると私達の心は穏やかではなくなりますが、カインも同じように感じたようです。カインの心は怒りでいっぱいになりました。
では、二人の違いって、何だったのでしょうか?カインは「大地の実り」、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を持って来たのですが、何が違っていたのでしょうか?ヘブライ人への手紙を見ますと、「そこにそれぞれの信仰が現れた」というのです。
私は、この箇所を読み、人の信仰というのは、はっきりとは見えませんが、行動になって顕われてくるのだなと思いました。
今日お読みしたヘブライ人への手紙の続きの6節にはこう書かれています。『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。』とあります。
また、3節には『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。』とあります。
世の中には、クリスチャンでなくても良い人が沢山います。でも、聖書は、神さまが喜ばれるのは「神さまを信じ、神さまと共に歩む人」だと語ります。
神さまが喜ばれるのは、この世界の造り主は神さまであることを信じること。そして、神さまの約束を信じ、御手に委ねて生きる人です。使徒信条の一番最初に私たちが告白していることです。
この前、そういえば、人間って全然酸素を合成したり造りだしたりしていないのに、地球上の人間や動物が呼吸できているってすごいなって思いました。全部、植物が酸素を造りだしているんですよね。人間が一生懸命造りださなくても、こうしてバランスが保たれていることに感動しました。
太陽の光を浴びる時に、そこに神さまの大きな恵みの力を感じ、花や木、また、鳥の鳴き声、さえずりを聞く時に、そこに神さまの優しさや美しさを感じる。そして、私達に必要なものを全て与えてくださるお方であり、全てを必ず益となるように向かわせておられるということを信じることが大事なんですね。
『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。』『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。』と書いてあるとおりです。
神さまは見えません。私達の人生も先のことはわかりません。でも、私たちは、聖書の言葉(神さまの約束)を知っています。見えていない事実(事柄)、これをみ言葉どおりに信じて生きることが信仰なんですね。
今日の福音書でイエスさまはこうおっしゃっています。
『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』(ヨハネ6:26~27)
イエスさまは、あなたはパンを求めて私の元にくるが、見えないパン、命のパンを求めなさい。とおっしゃっています。大事なものは見えないんですね。でも、その見えないものを信じ、受け入れる時に私たちは生きるものとなります。見えないものを信じる、それが、信仰者の姿です。
私は、最初、信仰とは頑張りだと思っていました。きよい人になるように頑張ることが信仰だと思っていました。でも、実際は、信仰とは、見えないものを信じて生きることだと分かりました。
今日は、敬老の日を覚えての礼拝ですが、わたしは、信仰の先輩方の信仰の輝きは、色々な試練を乗り越えて、それでも、神さまが大好きで、神さまとずっと一緒に歩み続けておられる姿だと思っています。ヘブライ人への手紙の11章は、何度も「信仰によって」という言葉が続きます。「信仰によってノアは」「信仰によってアブラハムは」「信仰によってモーセは」と歴代の信仰者の姿を現しています。同じように「信仰によって、〇〇姉妹は(兄弟は)」という言葉が私達の中に語り継がれて行くのだと思います。それが、続く私達の力となっていくのだと思います。私達の人生も「信仰によって」一つ一つ選んで歩んで行きたいなって思います。
この後、聖餐式を行います。イエスさまは、『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』とおっしゃり、これこそ、永遠の命へ至る食べ物でであるとおっしゃいました。このパンと葡萄ジュースは単なる記念ではありません。ここにイエスさまの命があります。私たちは信仰によって、差し出される恵みを感謝して頂きます。見えるものに頼りがちな私達に、イエスさまは、今日、見えないが確かなものにいつも目を向けていなさいとおっしゃいます。そこに私達の本当の命があるからです。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください