挨拶(ライブ配信)
主のご降誕を心から喜びお祝い申し上げます!クリスマスの恵みが、皆さまを豊かに包みますように。
2025年最後の礼拝となりましたね。色々なことあったかと思いますが、神さまは全てを益としてくださるお方ですから、信じて歩んでまいりましょう。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・希望を抱いて新しい年に挑むことができますように。
・総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(降誕祭)
2025年 12月28日(日)降誕後第1主日礼拝
イザヤ 63章 7~ 9節
ヘブル 2章 10~18節
マタイ 1章 18~25節
江利口 功 牧師
キリストのご降誕を心より感謝・賛美申し上げます。
イエスさまがお生まれになれたのは、ナザレではなくてベツレヘムという町でした。「住民登録をせよ」という命令が皇帝から出たので、ヨセフとマリアは仕方なくベツレヘムへ向かいます。私は公務員をしていたので「住民登録」という言葉を聞くと、書類が残っているんだろうなって思い、調べて見ました。ヨセフとマリアの登録台帳が残っていたら面白いですよね。ベツレヘムでの登録台帳が見つかっても面白いですよね。調べて見ますと、残念なことなんですが、当時のユダヤでの登録台帳は残っていないんですね。イスラエルの気候風土を考えると仕方のない事だそうです。紙が傷んで残らないんですね。でも、乾燥した地域では、残っているんです。エジプトの台帳は残っているですね。今日、週報(同左)にその台帳の写真を印刷しました。ここには、ちゃんと、人の名前(というか家族構成)が書かれているんです。少し、当時の状況を垣間見ることができました。
でも、考えて見れば、私たちは、今、こうして印刷された聖書を持っていますが、もともとのものは、古いボロボロの紙になっているんですよね。今となってはボロボロになっている紙に記載されいた文字を、私たちは呼んでいるん。旧約聖書はもっともっと古いんです。
聖書の言葉は、神さまを信じる人達によって、間違わないように書き写されてきました。そして、印刷技術が登場し今日のように印刷されたものを私たちは手にすることができるようになったんです。
神さまの言葉だからこそ、昔々の人たちが丁寧に、大切に、書き写してきたんです。今日お読みした、ルカによる福音書も、実際は、古い古い紙に書かれていた文字なんですよね。それを読んでいるって思うとわくわくしませんか?
さて、イエスさまの出産が近づいた時、ヨセフとマリアは、ナザレからベツレヘムへ向かいます。住民登録のためでした。グーグルで距離を見ますと、ナザレからベツレヘムで徒歩だと146KMと出ていました。当時は、どの道を通っていたのか分かりませんが、現代では1週間前後かかるかと思われます。
私は、大学4回生の時に阪神淡路大震災を経験しました。地震があってしばらくしてから大学に行くことができるようになりました。電車が途中までしか行かなかったので、阪急の西宮北口という駅から歩きました。だいたい大学まで片道15KMの距離なんです。往復で30KMですよね。道路状況や心理的不安も重なってのことですが、凄く疲れたのを覚えています。解説によっては、私が往復した距離(約30KM)というのが一日に歩く距離だそうです。これを何日も歩くんですね。もちろん、マリアは身重ですので、早く着くことよりは、安全と休息を優先した旅だったと思います。ですので、10日くらいかかったのかも知れません。マリアはロバに乗って移動していたと思いますが、お腹をさすりながら「聖霊によって宿った子なのに、どうしてこんな旅を強いられるかのかな」って言っていたのかも知れませんね。
でも、それだけじゃないんですね。ベツレヘムについても、落ち着いて休める場所がなかったんです。「宿屋には彼らが泊まる場所がなかった」と書かれています。
聖書の訳では「宿屋」となっています。英語でも「inn」という言葉が使われています。ただ、ここで使われている「宿屋」という単語は、善きサマリア人の話の中で出てくる「宿屋」とは単語が違うんですね。「宿泊施設」とも家の「客間」ともとれる意味の広い単語なんです。恐らく、間借りしようと思ったけれども、そのような場所もなく、家畜小屋で休まざるを得なかったということだと思います。
「家畜小屋」や「飼い葉おけ」という言葉を聞くと、外にある家畜小屋をイメージしますが、これも少しイメージが違っていまして、当時は家の一画に家畜を眠らせる場所もあったと言われています。
いずれにせよ、大事なのは、御子が生まれた場所はどこか・・・それは、「神の御子は整った環境ではなく、相応しくない、尊ばれているとは思えない場所でお生まれになりましたよ。」ということです。
さて、イエスさまがお生まれになった夜、羊飼いが訪れました。そして、月日が流れた後、今度は、東方から博士たちがやってきます。羊飼いはみ使いの知らせ、博士たちは、メシアを示す星を見てやって来たというのですから、「この子はいったいどんな人生を歩むのだろう」って、ヨセフとマリアは思い巡らせいていたと思います。
ところが今度は、ヨセフにみ使いが夢を通して、「エジプトへ逃げなさい」って告げるんです。「ヘロデが御子を殺そうとしている」と聞くんです。またまた、大変な旅が始まります・・・。ナザレに帰れる方が良かったのかも知れませんが、道中も危険ですよね。やはり、王の支配の及ばない地域(エジプト)に逃げるしかなかったんです。でもこれは聖書に預言されていたんです。
これが、イエスさまがお生まれになった頃の出来事ですが、イエスさまが、大人になり、宣教し始められた時、イエスさまは、「人の子は枕する所もない」とおっしゃっていました。イエスさまは、「郷里では受け入れられず、石を投げられそうになり、また、殺されそうになり、宗教指導者達から試され続けます。」好意を寄せてくれる人が沢山いた一方で、いつも敵がいるんです。みんな権威、権力を持った人達です。そして、最後には、聖書の預言通り、「十字架で死んで行かれるんです」。
イエスさまの歩みは、神の御子に相応しいとは思えない事が多くありました。しかし、このことの意味をヘブル人への手紙はこう記しています。
『多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。』(ヘブル2:10)
多くの人を栄光に導くために、イエスは数々の苦しみに合わなければならなかったのです・・・それが相応しい姿だったのです・・・そう言っているんです。
これは、正しい人が苦難を通して救いに相応しい姿となる必要があったという意味です。
戦後、貧しかったころ、兄弟が多い家庭では、上の子は、自分のしたい事を諦めて、下の兄弟たちのために家計を助けていたと聞いたことがあります。私の母も、6人兄弟の長女でして、下の兄弟たちのために大学に行くのを諦めたと言っていました。
兄弟のために学校を諦めた人は多かったと思います。でも、そうやって、兄弟が救われていったんですよね。
イエスさまは、人間となられ、長子として、自らの栄光を捨てて、私達に祝福を与えようとされました。そのために苦難の道を歩まれたわけです。その姿こそ、神の目にかなう相応しい姿であったのです。ヘブル人への手紙には、そのキリストが「栄光と栄誉の冠を授けられたのを私たちは見た」と書かれています。
多くの子らを栄光へと導くために、救いの創始者イエス・キリストは「数々の苦しみを通して」神の目に「完全な者と」なっていかれたのです。この姿こそ、「ふさわしい」姿だったんですね。それが、お生まれになる時から、ずっと続いていました。
燭火礼拝の時に、お読みした、コリントの信徒への手紙第2の8章9節をもう一度お読みします。
『あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。』
私たちは、今、恵みの中にいます。それは、イエスさまが貧しくなれたからです。「主の貧しさによって、私たちが豊かになった」このことを忘れてはならないと思います。
イスラエルの人々が待ち望んだ救い主は、この世の「政治的支配者」から解放してくれる人でした。イスラエルの人々は、自分達の中から英雄が現れ、政治的に自分達を解放してくれて、強い、神の国イスラエルを立てる人を待っていたのです。でも、そのような救い主であれば、ダビデのように、普通の人でも可能だったと思います。しかし、私たちを支配しているのは、悪魔です。また、私たちの根本的な問題は、「罪」なんです。この罪から救い出すのは人にはできないんですね。そして、この罪を解決しないと、人類は決して救われません。そして、その支配に気付いていないこと自体が問題なんです。
ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブル2:14~15)
この「罪」から救い出すことができるのは、神の御子、イエス・キリスト、ただお一人だけなんです。そのためには、数々の苦しみを受ける必要があったんです。
イエスさまは、私たちのために、数々の苦しみを通ってくださいました。それは、私たちを救うため、ご自身が貧しくなられることによって、私たちが豊かになるためでした。
本当の愛というのは、自分が貧しくなる、数々の苦しみを通るということなんでしょうね。そういった人の姿も美しいですよね。
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キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 (フィリピ2:6~9)
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください