挨拶(ライブ配信)
本日は、召天者記念礼拝です。今日は色々な方との出会いに感謝する一日としたいですね。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
・熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(神によって生きている)
2026年11月1日(日)召天者合同記念礼拝
ルカによる福音書 20章 27~38節
●写真と手紙
本日は、召天者合同記念礼拝にお越しくださりありがとうございます。こうして、皆さまと共に、先に召された大切な方々を覚えて、礼拝の時が持てますことを嬉しく思います。今日は、先ほど、お読みしました、聖書の御言葉の中から、「すべての人は、神によって生きている」そのことをお話したいと思います。
先日、牧師館の一部を改修いたしました。家を片付けないといけないこともあって、少し、自分の古い荷物の整理をしていました。「ついでにアルバムを整理するか」そう思って、いくつかのアルバムをデジタル化して保存し、そのアルバムを処分していきました。
アルバムには、小さい頃の写真、学生の頃の写真、社会人になったころの写真、そして、結婚した頃の写真など色々と貼ってあったのですが、そういった写真の中に、私と一緒に写っている祖父母の写真や母の写真も出て来たんですね。母の写真を見た時には、「どんな風にその時の私を見ていたのかな」と思いました。また、「私を育てるの大変なったやろなぁ」とも思い、“申し訳なく”、でも、“感謝な気持ち”になりました。
今日、先に天に召された方を覚える日ですが、皆さまもご自宅に色々と写真や思い出のものってあるかと思います。普段は、忙しく、あまり気にすることはないと思いますが、一年に一度、こうした「立ち止まり振り返る」時があるっていいですよね。手紙やメッセージカードのようなものがあれば、それを読んで頂くのもいいかも知れませんね。
写真を整理しながら、祖父母が写っている写真、母が写っている写真、そういったものを懐かしく思っていますと、母親が私に宛てたメッセージカードも一緒に貼ってありました。手紙って不思議ですよね。写真は、その時、その瞬間のその人の姿を映し出していますが、自分に宛てられた手紙、特に気遣って語るように書かれたメッセージなどは、時を超えて、今、また語り掛けてくるような気がするんです。手紙やメッセージは、その時のその人の想いに触れることができますし、なぜか、今も語り掛けてくるような力を持っています。皆さまもそのような経験をされたことあるのではないでしょうか?
亡くなった方は、私たちのそばにはおられません。でも、本当に、存在しなくなられたのでしょうか?死によって全てが終わってしまったのでしょうか。死というのは、もの凄い力を持っています。でも、その力を克服し、私たちに永遠の完全な命を約束してくださったのが、イエスさまなんです。
そのイエスさまは、はっきりとこうおっしゃっています。
「すべての人は、神によって生きている」
人は、自分の生命力で生きているのではなく、神によって生きている。…これが聖書のメッセージなんです。死は私たちの前に大きく立ちはだかります。そして、人は死を前に無力な存在です。でも、私たちが永遠の命に思いを馳せることができるのは、それは、単なる希望からではありません。私たちの感覚の中に与えられた神さまからの贈り物なんですね。「死んで終わらない。信じるものは死んでも生きる。そのことを信じるか」これが、神さまの問いかけです。
●婚姻の質問
イエスさまが、どうして「すべての人は、神によって生きている」とおっしゃったのは、ある問いかけから始まります。それは、サドカイ派という人たちからの問いかけでした。
色々な宗教がありますが、その一つの宗教の中でも、宗派というのがあります。仏教も、色々な宗派がありますし、キリスト教でも同じです。イエスさまの時代、ユダヤ教の世界でも、色々な解釈がありました。その一つがサドカイ派という人達でした。このサドカイ派という人達は、復活を信じていない人達なんです。さらには、死後の世界も信じていないとも言われています。死後の世界を信じていないってどんな信仰なのかなとも思うのですが、そういった方々でした。
その人たちが、イエスさまに尋ねるんですね。簡単に言いますとこうです。“ある一人の女性がいて、死別したので次の人と結婚しました。それが続いて、7人の人と結婚した場合、復活した世界では、誰の妻となるのですか?”そのような質問です。
イエスさまは、こんな風にお答えになりました。「次の世では、めとることも嫁ぐこともない」そうおっしゃったんです。つまり、「次の世では、男性と女性とは、婚姻関係で繋がっていません」そう教えられました。そして、「復活した人の姿は、み使いと同じ様に今の私たちとは違う存在となります。」そのようにもお教えになりました。
でも、それだけでは、彼らは納得できないと思います。そこで、イエスさまは、彼らがとても大事にしている聖書の言葉を引用なさいました。それが、出エジプト記に書かれている「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉でした。
●どんな話
モーセという人の名前は、一度は聞いたことあるかと思いますが、聖書の中では、とても重要な人物です。サドカイ派の人にとっても重要な人物でした。
昔、ある時、そのモーセが羊の群れを飼いながら、荒野を歩いていると、不思議な光景を目にします。なんと、柴が燃えていて、そこに、主のみ使いが現れたんです。多分、モーセはびっくりしたと思います。恐らく「誰だ、誰なんだろう」って思ったと思います。すると、燃える柴の中から「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という声が聞こえて来たんです。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、親子三代、神さまに特別に選ばれ、特別に愛され、特別の祝福を受けて来た族長たちです。「その彼らの神である」モーセの前に現れたんです。
神さまはモーセに、「アブラハムに誓った約束を、わたしは今実現する、あなたを通して実現する」とお語りになったんですね。とにかく、モーセの前に、ご先祖さんたちの神さまが現れたわけです。ここから、出エジプトという壮大な神の奇跡が始まっていくのですが、詳しい事は省略させていただきます。
イエスさまは、この燃える柴での出来事、つまり「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉から、『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』とおっしゃったんですね。
●神がおっしゃる時
最初に写真の話をいたしましたが、召天者記念礼拝の時に、こうして写真を並べていますと、時々、この写真はどなたの写真なのかと尋ねられることがあります。わたしは、「この方は誰々さんです」とか「この方は誰々さんの奥さんです」とか「この方は誰々さんのお母さんです」とか言って紹介いたします。皆さまも、前に並べてある写真を見れば、「母親だ」「父親だ」「お爺ちゃんだ」「おばあちゃんだ」「兄弟姉妹だ」とか、そんな思いで見ますよね。そして、他の人に紹介するならば「これは母親です」とか「これは父親です」と言って紹介しますよね。でも、あまり、「これは母親でした」とか「これは父親でした」という表現はしないと思います。なぜなら、亡くなったとは言え、親子の関係、兄弟の関係、そういった血のつながりは終わらないからです。
私たちが亡くなった人の写真を見せて、たとえば「これは母です」と言った時、それは、途切れることの無い永遠の血のつながりがあるからですよね。しかし、神さまと私たちとは違います。神さまが「アブラハムの神である」とおっしゃるとき、それは、永遠の血のつながりではなく、その人の存在が神の前に今も(そして永遠)に続いていることを意味しています。神さまは、「アブラハムの神だったわたし」「イサクの神だったわたし」「ヤコブの神だったわたし」という経歴を紹介しておられるのではなくて、わたしは今もアブラハムもイサクもヤコブの神であるとおっしゃっているのです。
●みんな過ぎ去って行くのか
私たちって大切な人を失いたくないじゃないですか?大切な人を失ったら悲しいですよね。ずっといて欲しいって思います。これは愛だと思います。神さまも同じです。いやそれ以上です。神さまって永遠なお方です。神さまを信じる人がこの世に何人いたとして、また、何千年に渡って信仰者がいたとしても、みんな、永遠の神さまの前を過ぎ去って行きます。最後は、必ず、神さまお一人になります。そんな風に神さまは人をお造りになるとは思えません。「神によって生きている」とイエスさまはおっしゃいましたが、これは「神の力によって生きている」という意味があり、また、「神さまとの関係性の中で生き続けている」という意味でもあります。
●神によって生きている
私たちは、写真を見ると、亡くなった方を思い出します。手紙を読むと、今もその人が語りかけてくるように感じることがあります。しかし、私たちの記憶には限界があります。年月がたてば、薄れていきます。そして、いつかは私たち自身も、この地上を去っていきます。では、そのとき、亡くなった方の存在そのものも、すべて消えてしまうのでしょうか。イエスさまは、そうではないと語られます。
神さまは永遠の方です。私たちが忘れても神さまは忘れることはありません。アブラハムが亡くなって何百年もたっていても、アブラハムの神であり続けておられるように、神さまにとって、先に天に召された方々も今も生きて神の御前におられるのです。今は、どのような姿なのかはまだわかりません。でも、未来に、私たちは共に復活し、再び会うことができるのです。
神によって生きているというのは、私たちが死を克服できる力があるからでなく、また、霊魂が単に不滅であるからということでもなく、神さまがいらっしゃるから、私たちは永遠なんです。神さまは、永遠に、「わたしはあなたの神である」とおっしゃってくださっています。
人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください