挨拶(ライブ配信)
受験の季節です。若い人たちが未来に希望をもって生きて欲しいです。合格!。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・教会総会を覚えて。
・日本の若い人たちにとって良い政治が行われて行きますように。
・世界の戦争が早く終結しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(イエスの凄さ)
おはようございます。今日の聖書箇所ですが、イエスさまの所にひとりの男性がやってきます。その人の名は「ニコデモ」といいます。彼は、ユダヤ人たちの議員(アルコーン:統治者、指導者)だったとあります。そのニコデモという人がイエスさまのところにやってきて、こう言うんです。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師(ディダスカロス)であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)
ニコデモは、イエスさまが人を癒したりなさる、いくつかの“奇跡”を見聞きして、これは普通の人ではない、神から遣わされた教師に違いないと思っていたのです。
ここでのポイントは、ニコデモが、「あなたのなさるような奇跡」と言わず「あなたのなさるように“しるし”」と言っていることです。
もし、私がここで、どなたかの病気を癒したとします。すると、皆さまは、“すごい”って感じると思います。いわゆる、“奇跡を起こす人”になるわけです。もし、TV局がそのことを聞きつけて私の所にやって来たとすると、おそらく「奇跡を起こす人」として番組を作るのではないかを思います。でも、中には勘違いして、私がする奇跡を、神である証しとして捉える人もいるかも知れません。その人にとっては、わたしのすることは“しるし(サイン)”に見えるわけです。
今、四旬節ですよね。この四旬節には、何か自分にとって受難とも言える事って起こりませんか?その時に、その生じた問題を、単に生じた問題として見るのではなくて、ああ、“四旬節だな”って思わされることってあると思います。もちろん、このようなこと=“しるし”ではありませんが、このような出来事があると、その背後に具体的な神さまのメッセージを感じとろうとし、神さまに心を向けるじゃないですか?そのような感じです。ニコデモは、イエスさまのなさる奇跡をみて、そこに神さまを感じ取っていたのです。
ただ、この“しるし”というのは、もっともっと、意味を含んだ、“しるし”となることもあります。
例えば、ヨハネによる福音書の2章では、イエスさまが結婚式で水をぶどう酒に変える奇跡を起こされました。でも、それは、単にワインが無くなったので、近くにあった水をぶどう酒に変えたという出来事ではありませんでした。確かに、祝宴がイエスさまの奇跡によって、盛り上がったという結果になりましたが、もう一つ、大きな意味が顕されていまして、それは、これまで清めに使っていた水を最高のぶどう酒に変えることで、儀式的な清めを終わらせ、ご自身の血による清め、そして、祝福された喜びをもたらすお方であるといことを暗に示されたわけです。つまり、時に、しるしの中には、イエスさまが、誰で、どのようなお方なのかということが顕されることもあるのです。
さて、ニコデモという人は、議員(アルコーン)であり、教師(ディダスカロス)でもありました、その彼は、イエスさまのなさることを見て、“凄い人”ではなく、“神が共におられる方”、“神から遣わされた教師”だと思ったわけです。ですので、イエスさまに教えを乞おうと思ったのだと思います。そのように近づいて来た、ニコデモに対して、イエスさまが返された言葉が、
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
という言葉でした。一見、とんちんかんな返事のように聞こえますが、これは、イエスさまのなさることを“しるし”つまり神さまからのサインだと答えに近づきつつあるニコデモに、このしるしを理解するためには、あなたは生まれ変わらなければならない、生まれ変わらないとわたしのしるしは理解できない・・・そうおっしゃったんです。
さあ、イエスさまはニコデモを真理に導こうとしておられます。ニコデモが“しるしである”と気づき、次に、イエスさまが誰かに気付かせようとしています。
まず、イエスさまは、新しく生まれ変わるということについてニコデモに説明します。ユダヤ人の人達は、イスラエルの民として生まれ、律法のもとで忠実に生き、そして、罪を悔い、また、従順に歩む・・・そうすると、終わりの日に、永遠のいのちを相続すると考えていました。しかし、イエスさまは新たに生まれ変わらなければならないとおっしゃいました。しかも、この“新たに”という言葉は“上から(の力によって)”という意味を含んでいました。イエスさまは、“新たに”と“上から”の意味を分かりやすく、“水と霊とによって生まれ変わらなければ”という風に、具体的におっしゃいました。さらに、それが、どのようにして起こるのかは見える形ではなく、風が吹くようにとおっしゃいます。この“風”という単語は“霊”とも訳せる言葉です。
つまり、イエスさまは、人が新しく生まれ変わるのは、“人間の業ではない”“神の業である”そして、人にはそれがどのようにしてからは“見える形ではわからない”という風におっしゃるのです。永遠の命は相続(つまり、出自)ではなく、上から来る恵みであるとおっしゃるのです。
私たちは、“信仰によって救われる”という風に言いますよね。もちろん、間違えではありません。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネは16節で書いていますよね。でも、ここで、わたしが信じたからという風にしてしまうと、人間の業になってしまいますよね。そうではなくて、私たちが信仰を持ったのは、神の業なんです。風がどこから吹いてくるのかは分からないように、私達の信仰は与えられるものであり、また、水と霊とによって、私たちを造り替えてくださるのは神の業なんだということを中心にいつも持ってこないとだめですよね。その上で、私たちは、受けとる手である信仰を喜び、他の人にも「信じようよ」って誘うわけです。
さて、イエスさまは、ニコデモに彼がやがて見る“しるし”について教えます。それは、イエスさまの十字架です。イエスさまは、十字架で示される“しるし”について、旧約聖書に書かれている“青銅の蛇”を重ね合わされます。この青銅の蛇の話は、ユダヤ教の人達にとって、有名な出来事でした。
イスラエルの民が、荒野で神さまを信頼せず文句を言い始めた時、神は、炎の蛇を送りました。その炎の蛇に咬まれて行く人は死んでいきました。そこで、民がモーセに救いを求め、モーセが神に憐れみを求めた時、神は、蛇を竿に掲げよと命じました。そして、「それを見た者は癒される」とおっしゃいました。モーセが言われた通りにしたところ、人は癒されて行きました。
ユダヤ人にとって、この出来事は、天を見上げる時、救いは上からやってくるという教え(教材)となっていたようです。現代でも、薬も大事、現代医学も大事、でも、神さまに癒してくださると祈ることを忘れてはならないという風に、ここから教えられることもあるようです。
私は聖書を読んでいて凄いなと思うのは、旧約聖書って、後に大事な意味を明らかにする“しるし”が多いなって思います。アブラハムがイサクを捧げるのもそうですし、アブラハムの所にやってきたメルキゼデクもそうでした。モーセが岩を打つと水が出てくるのもそうですし、天から降ってくるマナもそうです。全ては、イエスさまが誰なのかが良く分かる“未来のしるし”でした、イエスさまは、ヨナの話を通して、ご自身が3目に蘇ることを説明なさいました。旧約聖書には、隠れたイエスさまのお姿がいくつも記されているんですね。
さて、ニコデモですが、恐らく、この時点では、イエスさまが何をおっしゃっているのかは良く分からなかったと思います。でも、このニコデモはこの時から、イエスさまと弟子達側に着くようになっていました。そして、彼は、最後、イエスさまを十字架から降ろす時に、手伝っていた一人なんです。彼は、その時、もしくは、後に、目が開かれて、青銅の蛇のイメージを通して、イエスさまの十字架の姿を理解したのだと思います。それは、裁かれて死んでいくメシアではなくて、この十字架に神さまのメッセージが深く刻み付けられている、これは、神のご計画の中で起こったメシアの受難であったと理解したはずです。
次週は、イエスさまが井戸端でサマリアの女性と対話される話しです。ヨハネによる福音書の1章から4章って見方を変えれば、すごいメッセージを含んでいる話なんですね。
一章では、ヨハネは創世記の1章を思わせるように、イエスさまのことを私達に示します。この世界は、神がお造りになった、その神とは、イエスさまであった、そのイエスさまは言によって創造された。その言が人となって私達の間に受肉されたと言います。そして、単に言葉が受肉しただけではなく、旧約聖書の出来事も受肉していくわけです。
イエスさまは、カナで、ぶどう酒がなくなったという会話から、ご自身が血を流され、人の罪を清め、祝福を与える方であるしるしをお見せになられました。そして、神殿で商売人を蹴散らす出来事をとおして、ご自身こそ、生きた神殿であること、そして、死んで3日目に復活することを教えられました。そして、今日の話では、生まれ変わるという会話をしながら、ご自身が天からもたらされた救い主であることをお示しになりました。そして、次週、井戸端では、水の話をしながら、将来、ご自身が、霊と真をもって礼拝される神となることをお示しになりました。
私は、イエスさまって、わたしの全てだなって思います。この世界を造られた者、イエスさまです。そして、私に命を与えてくださったのもイエスさまです。そして、罪人である私をすくために、人となられ、そして、苦しみを受け、十字架で贖ってくださったのもイエスさまです。そして、復活し、「あなたも将来同じように復活します」と希望を与えてくださっているのもイエス様です。そして、この罪深い世界に終わりの時を定め、私たちを永遠の世界へといざなってくださるのもイエスさまです。
イエスさまは、大きく、そして、力強く、しかし、弱々しく見えるようで、揺るがない主です。そして、愛と慈しみに誰よりも優ったのがイエスさまなんです。理想や憧れを超えた、大きな存在、それが、イエスさまです。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください