3月8日 四旬節第3主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 受験の季節です。若い人たちが未来に希望をもって生きて欲しいです。合格!。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会総会を覚えて。
日本の若い人たちにとって良い政治が行われて行きますように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(渇きを癒す命の水)

2026年3月8日(日)四旬節第3主日礼拝

出エジプト 17章 1~ 7節 (旧122頁)
ヨハネ    4章 5~42節 (新169頁)


  瀬戸 幸治 牧師

●水分補給が大事
昨年の9月2日に移植手術を終えて半年がたちました。今のところ問題なく過ごせていることを感謝しています。腎臓にとって一番良くないことは、脱水状態になることだそうです。腎臓は、血液をろ過して、老廃物を尿として排出する臓器です。この働きは、十分な血流と水分があって初めて正常に行われるそうです。だから医者からは、こまめに、そしてしっかり水分をとってくださいと言われています。
私はその話を聞いて、洗礼を受けて新しく生まれた、霊によって生かされている私たちも同じだな、と思いました。霊による新しい命も、キリストの血と水が注がれなければ枯れてしまうからです。
脱水状態になると、体はまず渇きを感じます。しかし、ひどくなると、渇きすら感じなくなり、知らない間に命が危うくなります。魂の脱水も同じです。神様の恵みから遠ざかるとき、私たちは、最初は渇きを感じますが、やがてその渇きにさえ気づかなくなっていきます。
みなさんはどうでしょうか。体にも魂にも、しっかりと水分をとっておられるでしょうか。今日は、魂が脱水状態になっていた一人の女性の話です。そして、その女性の渇きを完全に満たしてくださったお方の話です。

●井戸:私たちの労苦の現場で待つキリスト
イエス様は、ユダヤからガリラヤに行く旅の途中で、ユダヤ人が普通は近寄らないサマリアをわざわざ通られました。そして、「ヤコブの井戸」のそばに座っておられました。
時刻は正午です。太陽が真上から照りつける、一日のうちでも一番暑い時間でした。
その時のイエス様は、とても疲れておられました。「ちょっと休憩」という程度ではなくて、足が棒になり、喉はカラカラに渇き、ヘトヘトの状態でした。
しかし、旅をしていたら、たまたま、そんな状態になってしまった、と言うことではなかったのです。実は、イエス様には、そんな状態になってまで、そこに来なければならない理由があったのです。意図して、使命をもって、そのような状態になってまで、その井戸に来られたのです。その理由は、孤独を抱えた一人の女性に出会うためでした。
どうでしょうか。「井戸」「女性との出会い」と聞いて思い出す旧約聖書の出来事はあるでしょうか。創世記には、アブラハムの息子イサクがリベカと結婚するにあたり、アブラハムの僕が遣わされ、井戸でリベカに水を飲ませてほしいと頼む場面があります。イサクの息子ヤコブも、井戸でラケルと出会います。またモーセも、井戸でツィポラと出会います。
井戸は、ただ水をくむ場所ではありませんでした。旅人が休み、羊が集まり、人と人とが出会う場所でした。聖書では、井戸が新しい関係の始まり、人生の転機となる場所として描かれています。
でも、今日の場面は少し様子が違います。サマリアの女が井戸に来たのは、誰かと出会うためではありませんでした。人目を避けるためでした。本来、水をくむのは、涼しい時間帯の朝か夕方です。涼しい時間に、村の女たちが一緒にやって来ます。しかし彼女は、誰も来ない正午に来ました。そこには、彼女の孤独がにじみ出ています。人との関係の中で傷つき、疲れ、距離を置いて生きていたのかもしれません。
その井戸は、彼女にとって、ただ水をくむ場所ではありませんでした。人生の重さを背負って通う場所でした。毎日、水がめを持ち、同じ道を歩き、同じ井戸から水をくむ。
その繰り返しの中に、彼女の重荷がありました。彼女の魂は、長い間、脱水状態にあったのです。
イエス様は、この女性の重荷を知っておられて、こう言われました。

「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」
(4:18)。

彼女はこれまで、何度も人生を託す相手を求めてきたのだと思います。しかし、それらは一時しか、渇きを癒してくれませんでした。人は、人生の渇きを満たしてくれるものを求めて生きています。愛とか、人間関係とか、仕事とか、成功といったことです。
私たちはそういったことに希望を置き、そこに人生の意味を見出そうとします。
しかし、それらはどれも、魂の渇きを完全に満たすことはできません。私たちは知らないうちに、神様ではないものに期待し、そこに救いを求めてしまうのです。
でも、そのような私たちをイエス様は見捨てられないのです。
女性は、人生の重荷を背負って通っていたその井戸で、ついに本当に渇きを満たしてくださるお方と出会うのです。しかも、その出会いは、彼女が探していたから起こったのではありませんでした。イエス様が先に、そこまで来てくださったのです。
これは、私たちにも当てはまります。みなさんにも、それぞれの「井戸」があるのではないでしょうか。日々の生活の中で、何度も通い、何度も同じ重荷を背負い、疲れを感じる場所です。人にわかってもらえない孤独、誰にも言えない渇き、そういった「井戸」があるのではないでしょうか。
でも、そこでこそ、イエス様は私たちを待っておられるのです。

●生ける水 ― 魂の渇きを満たすキリスト
その井戸で、イエス様は彼女にこう言われました。

「水を飲ませてください。」(4:7)

ユダヤ人がサマリア人に話しかけることは普通ありませんでした。それにもかかわらず、イエス様の方から声をかけられたのです。驚いた女性に、イエス様は言われました。

「もしあなたが神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(4:11)

井戸の水は、どれほど汲んでも、また渇きます。今日飲んでも、明日にはまた水をくみに来なければなりません。しかし、イエス様は言われます。

「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。」(4:14)

ここでイエス様が言っておられる「生ける水」とは、ただの水のことではありません。
神様から来る命の水、永遠の命を与える水のことです。イエス様ご自身が与えてくださる命の恵みです。
その命の水は、私たちの努力でくみ上げる水ではありません。私たちが頑張って手に入れる水でもありません。イエスさまご自身が、恵みとして内側から湧き出るように与えてくださる水です。
その水は、すでに私たちに与えられています。洗礼において、キリストは私たちに新しい命を与えてくださいました。そして今も、御言葉と聖餐式を通して、イエス様は私たちに命の水を与え続けてくださいます。礼拝は、神様が備えてくださった恵みの泉なのです。

●水がめを置いて
この出会いの後、サマリアの女性は一つの行動をとります。

「女は、水がめをそこに置いたまま町へ行き、人々に言った。」(ヨハネ4:28)

彼女は水をくみに井戸へ来たはずなのに、水がめを置いたまま町へ向かっていったのです。
水がめを置いていったのは、本当に必要としていたものを、イエス様のうちに見出したからです。
 女性は言います。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(4:29)

これまで人目を避けて、正午に井戸へ来ていた女性が、今度は自分から町の人々のところへ行って、イエス様のことを語り始めたのです。孤独の中で生きていた彼女が、人々の中へと向かっていきました。命の水が彼女を内側から変えたのです。

この女性の姿は、私たちの姿でもあります。私たちもそれぞれに、人生の渇きを満たそうとして運び続けている水がめを持っているのだと思います。しかし、その水がめでは魂の渇きは決して満たされません。
イエス様と出会うとき、人の心には変化が起こります。今までしがみついていたものよりも大きな喜びが与えられるからです。
昨年9月に手術を受けました。私の左のわき腹にはその跡があります。病院のベッドの上で、初めてその傷を見た時に、涙があふれました。それは悲しみの涙ではありません。感謝の涙でした。十字架の上で、わき腹から血と水を流されたイエス様が迫って来るように感じたからです。
二つあった腎臓が一つになって、一つしかない命を私にくださり、私を贖ってくださったイエス様のことが、ようやくわかったように思いました。昨年は、ずいぶん医大に通いました。毎週2日、3日と、ヘトヘトになりながら医大という「井戸」に通いました。それは重荷でした。でも、そこでこそキリストは先回りして、待っていてくださったのです。
命の水は、重荷の場所でこそ与えられるのです。みなさんも、それぞれに、そのような井戸の体験があるのではないでしょうか。

●霊と真理による礼拝 ― キリストとの交わりの中に生きる
この女性とイエス様の対話は、最後にとても大切な言葉へと導かれていきます。
イエス様はこう言われました。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:23)

ここでイエス様は、礼拝とは何かという大切なことを教えておられます。サマリアの人々は、ゲリジム山で礼拝をしていました。ユダヤ人は、エルサレムで礼拝していました。どちらが正しいのか、それが当時の大きな問題でした。
しかし、イエス様は、本当に大切なのは場所ではなくて、霊と真理をもって父を礼拝することだ、と言われました。
「霊」とは、聖霊のことです。聖霊の働くところに、礼拝が起こるのです。
「真理」とは、イエス様のことです。ヨハネ福音書でイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。
ですから、「霊と真理による礼拝」とは、聖霊によってキリストご自身に出会う礼拝ということです。
 礼拝とは、サマリアの女性がイエス様を探したのではなくて、イエス様の方がサマリアへ来てくださったように、イエス様が私たちに近づいてくださり、御言葉をもって私たちに語りかけ、聖霊によって私たちを生かし、命の水を与えてくださる、その交わりの中に生かされることなのです。
まさに、今日、ここがその場所です。私たちはここに集められています。イエス様の言葉を聞き、恵みを受けています。ここに霊と真理による礼拝があります。キリストご自身がここにおられ、私たちに命の水を与えてくださっているのです。
今日もイエス様は言われます。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)

私たちは毎週、渇いた魂を持って、この泉に来ます。そして命の水をいただいて、それぞれの場所へと遣わされていきます。サマリアの女性が水がめを置いて町へ向かったように、私たちもここで受けた命の水を胸に、それぞれの場所に遣わされます。
キリストに信頼し、命の水をいただきながら、新しい一週間へと歩んでまいりましょう。



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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください