挨拶(ライブ配信)
6月19日は教会の献堂60周年記念日で、本日はそのことを覚えての礼拝です。神さまがこれからも橿原教会を祝福してくださいますように!
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・イランとアメリカの戦争が終結しますように。
・住みやすい世界になりますように。
・ナフサ不足の影響下にある人達のために。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(神の宿る場所)
2026年6月21日(日)献堂60周年記念礼拝
列王記上 8章 22~30節 (旧541頁)
エフェソ 2章 14~22節 (新354頁)
ヨハネ 2章 13~22節 (新166頁)
●献堂60周年を迎えて
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン。
本日、私たちは橿原教会の献堂六十周年を覚えて、主の前に集まっています。まずは、この会堂を通して、神さまが私たちに恵みと平安を与え続けてくださったことを感謝したいと思います。また、この礼拝堂が、多くの人にとって、救いを頂く場所となり、祈りの場所となり、恵みに与る場所となってきました。そのことをほんとに嬉しく思います。
こうして、献堂60周年を迎えるにあたって、私が改めて感じていることがあります。それは、会堂というものは、単なる建物ではなくて、神さまを求める人の想い、熱意がずっと込められている場所だということです。
10年前、私たちは献堂50周年を迎えました。そして、今日、60周年を迎えていますが、この10年を振り返る時、やはり、大きな出来事の一つは、“新型コロナウィルスによって世界中が混乱した”ことだと思います。
あの時、私にとって辛く感じたのは、礼拝に集うことの意味が、社会の中で小さく受け止められたことです。生活に必要な買い物は限定的な形で認められても、神さまを礼拝することの必要性は理解されませんでした。
命を守るための配慮は必要ですので、仕方のないことでした。でも、そのような状況で、私たちは家族だけで小さく礼拝をこの会堂で守り続けていました。すると、「後ろの方でいいので一緒に・・・」と言ってくださる方がいらっしゃったんです。そうして、小さいな集まりながらも礼拝は守られ続けました。
また、しばらくは、多くの教会が礼拝を閉じていましたので、礼拝している教会を求めて来られた方もいらっしゃって、この会堂で、私たちと一緒に礼拝に与って帰って行かれたかもいらっしゃいました。
改めて今思い返しても、神さまを信じる人達が、神さまの宮で礼拝したい、祈りたいという思いは、なくならないのだと思います。むしろ、困難な時にこそ、かえって強く、また、美しく現れるんだなって思います。
確かに、家でも礼拝はできると思います。でも、神さまの宮で、共に礼拝を守りたい、祈り、賛美したいという思い、さらに、聖餐の恵みを受けたいという思いは、いつの時代もあるもの(消えないもの)と思います。
●浦上天主堂の歴史
今年の3月の末に、わたしは、近畿福音ルーテル教会に所属している子供達を連れて長崎市に研修旅行に行きました。26聖人記念館、大浦天主堂、浦上天主堂を見学してきたのですが、浦上天主堂の歴史を聞いてびっくりしました。
皆さまは、キリスト教が禁止された時代のこと、ご存じだと思います。その時、浦上に住む人たちは、隠れて信仰を守り続けました。そして、禁教の時代が終わるころ、宣教師の人たちは戻って来て(長崎市内の南に)大浦天主堂を建てます。それは、外国人のためでした。でも、そこに、「同じ信仰を持つものです」と言って、隠れキリシタンの人たちがやってくるんです。禁止令が出て約250年後のことです。神父さんにとって、それは大きな感動だったろなと思います。そうして、後に、浦上の信徒の人たちは、浦上という北の町に、浦上天主堂という礼拝堂を建てました。長い間隠れて信仰を守り続けて来た人達にとっては、大きな喜びだったと思います。
ところが、そうやって建てられた浦上天主堂は、近くに原爆が落とされて、会堂は壊されてしまうんです。
やっと建てた礼拝の場所を失ってしまいます。それでも、信徒の人たちは諦めません。もう一度、そこに、会堂を建てるんです(神さまの宮を建てるんです)。こうして、今の会堂が建てられました。
●神の宮を建てたい想い
コロナ禍の体験もそうでしたし、また、浦上天主堂を訪れた体験からもそうですが、どの時代も、信仰者に共通の思いがあるのだと思います。それは、神さまの宮で礼拝をしたい。みんなで礼拝したいという思いだと思います。神さまのみ名を呼び、そして、恵みと祝福を頂く場所、み言葉を聞き、共に祈り、主を褒め称える場所を人は必要としているのだと思います。
今日、お読みいただいた、旧約聖書の話は、ソロモンという人が神殿を建てた時の話です。実は、ソロモンの父、ダビデ王が神殿を建てたいという思いを持っていました。それまでは、幕屋という移動式の神の宮で、もちろん、それでもいいのですが、本格的な立派な神殿を建てたいと願っていたのです。しかし、神さまは、そのダビデではなくて、彼の子、ソロモンに神殿を建てさせます。今日、読んで頂いた箇所は、その神殿が奉献される時の話です。
契約の箱が運び込まれ、至聖所に安置され、多くの犠牲が捧げられて、儀式が進んでいきます。すると、雲の柱がその神殿に満ちたんです。神さまの臨在が豊かに現れたんです。是非、ご自身の聖書を開き、確認してください。旧約聖書、541頁、列王記上8章26節~29節です。ソロモンはこう祈っています。
「イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。」
ここで、ソロモンは、神殿についてこう告白しています。「天も、天の天もあなたをお納めすることはできません」って。つまり、神殿であっても、礼拝堂であっても、人の作ったもの中に、全知全能の神さまが納まるはずはありませんということですね。お納めする場所ではなくて、「主が臨在される場所」、臨在する場所として主が約束してくださっている場所、それが、神殿であり、礼拝堂なんですね。
ただ、ソロモンがこうして、喜んで建てた神殿も後に、隣国に攻められ、連れていかれ、神殿はなくなることになります。長い年月が経ち、彼らは解放され、この地に戻って来て、もう一度、ここに神殿を建てようとします。そうして、神殿が建つのですが、
だんだん、神殿を司る人達の罪の思いが強くなり、祈りの家から、商売の家へと変わっていくのです。
●本当の神の宮を与える神
実は、こうなることは(つまり腐敗することは)、旧約聖書の中ですでに預言されていました。人の宮は完全ではないんですね。なんど、旧約聖書の預言を見ると、そこに、“本当の神殿を回復する人”が現れてくるという約束がありました。実は、それがイエスさまだったのです。預言では、突如、その人はやってくる。その時、誰が耐えうるだろうか・・・そのような預言の言葉があります。
マラキ書の3章をお開きください。旧約聖書1499頁です。
『見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。』これは洗礼者ヨハネのことです。『あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。』これが今日の、福音書の箇所の出来事ことです。『あなたたちが喜びとしている契約の使者
見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し
レビの子らを清め 金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を 正しくささげる者となるためである。』
この預言のとおり、イエスさまは、エルサレムの神殿にやって来られました。それは、腐敗した神殿を清めるため、それだけではなくて、真の神殿を民に与えるためでした。
なんと、真の神殿こそ、人となられたイエスさまご本人でした。
しかし、主の裁きに耐えられない人達が、イエスさまを十字架で殺してしまうのです。でも、そこに神さまの大きな御業が表されました。
イエスさまの十字架とは、まずは人間の罪が現れた場所です(自ら犠牲に進んだのではありません)。人は神さまを受け入れることができず、拒み、追い出そうとします。彼らは、イエスさまを十字架に付けます。本来なら、それは裁かれて当然の罪です(マルコ19章6節)。神さまの命を奪う罪ですから重罪なんです。
けれどもそこで驚くべきことが起こりました。イエスさまは、十字架の場所を、私たちへの裁きの場所とはなさいませんでした。そうではなく、イエスさまは十字架を退けず、むしろ、赦しの場所、憐れみを示す場所、私たちに救いを与える場所となさったのです。
本当の愛が現れた場所となりました。
旧約聖書を見ましても、人はずっと、神さまを呼び求める場所を必要としてきました。しかし、神殿を司る人たちが腐敗し、中には、礼拝する人たちも腐敗します。神さまは、そこで、真の神殿、神の宿る宮を私たちに与えてくださいました。それが、イエスさまでした。
イエスさまの体は神さまの宮だったのです。
神さまは本当の神の宿る宮となってくださったのです。
イエスさまが十字架で死なれ、そして、復活され、天に昇られ、聖霊が降った時に、新しい時代が訪れました。それは、神殿ではなく、教会の時代です。
今日、お読みしたエフェソの信徒の手紙2章にはこう書いてあります(新354頁)
『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。』
イエスさまは、人の罪と神の義を十字架上で一つとされました。続いて19節。
『従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。』
昔、人々は神と共に交わる場所を求めて、宮を建てました。そこに、神さまは臨在され、民を祝福し続けてきました。しかし、神さまは、本当の神殿を与えようとされました。それが、イエスさまによって実現します。イエスさまは、神殿ではなくて、自由に民の間に宿られました。そして、人々を癒し、慰め、悪霊を追い出し、神の国を実現させていかれます。そして、最後に本当の神の国と造り上げるために、十字架で私たちの罪を全て赦し、神さまと交われるようにしてくださいました。そして、聖霊なる神さまを贈ってくださいました。私たちの群れの中に、聖霊なる神さまは宿っておられます。この群れが聖なる宮となっています。そして、ここが大事なのですが、聖霊なる神さまだけではなく、イエスさまご自身が、聖餐を通して、ここに臨在する約束をしてくださっているのです。
私たちは、今、豊かに、聖霊なる神さまの宮とされ、そして、礼拝の場所で、イエスさまと豊かに交わることができるのです。
礼拝堂と私たちは一つです。ともに、神の宮となっています。
●最後に
この会堂は、ノルウェーの宣教師の人が、この地で福音を宣べ伝えたいという熱い思いをもって建ててくださいました。それから、多くの何人もの牧師、宣教師の人がこの教会を守り、福音を語り、救いを与え続けてくださいました。そのような中に、今の私たちもいます。
献堂六十周年は、過去を懐かしむだけの日ではありません。これまで主の恵みに感謝し、今、この時代に、私たちに与えられている使命を受け取り、近隣の人、次の世代の子どもたちのために祈っていきたいと思います。
近年、AIの存在が大きくなり、これから先、人は、AIがなくては生きて行けない状態にまでなっていくのではないかとわたしは思います。その時、AIは神のような存在になってしまうかも知れません。
でも、AIの普及は逆に、人の罪によって嘘を造りだす道具になっていきます。私は、将来、人々は、本当の情報はどこにあるのか探し始めると思います。そして、偽りではなくて、変わらぬ真理を求めると思います。そして、聖書に戻ってくると思います。そして、神の臨在を求めるようになると思います。
私は、橿原教会が、イエスさまが再臨されるまで、神の宮であり、み言葉と聖礼典が正しく与えられる教会であり続けて欲しいと願っています。
人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、
キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください