挨拶(ライブ配信)
本日はイースター礼拝です。十字架でしなれたイエスさまは復活して私たちと共におられます。その主を喜び共に礼拝をいたしましょう。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・イランとアメリカの戦争が終結しますように。
・住みやすい世界になりますように。
・新しく始まった常議員会を覚えて。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(探し物は見つかりましたか)
2026年4月3日(日)復活祭礼拝
マタイ 28章 1~20節 (新59頁)
おはようございます。
なくしたものを探した経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。「あれ、どこに行ったのかな」と少し“気軽”に探すこともありますし、「え!どこに行ったんだろう」と不安になって“必死”に探し回ることもあります。
なくしたことに気付いた時、、私たちは落ち着かなくなります。けれども、それが見つかった時、「あ~良かった」と、張りつめていた緊張がとけて、「ほっ」とします。そのような経験(安堵感)、多くの人が経験されたのではないでしょうか?
もちろん、これは物に限りません。大切な存在についても同じです。大切な人を失う、もしくは失いそうになると心は張り裂けそうになります。
聖書に放蕩息子の話(ルカ15:11~)があります。このたとえでは、息子は家を出て、父親から離れて行きます。息子は、自分の力で生きていけると思ったのだと思います。でも、父親は、そうは思っていませんでした。実際に息子はボロボロになって帰ってきました。その息子の姿をまだ遠くからではありますが見つけた時に、父親は走りよって、息子の所に行き、抱きしめ接吻したと書かれています。
何故、抱きしめたのでしょうか。もちろん、“帰って来たことの嬉しさ”、“失われたと思っていた者が見つかった喜び”があったと思います。でも、それだけではないと思います。“もう離さない”という隠された思いも込められていたと私は思います。
さて、探していた大切なものが見つかった。それは何を意味するのでしょうか?それは、ただ「あった」ということだけではありません。「失われた ままではなくな」ということですよね。そしてそれはもう一つあります。
それは、「ずっと共にある」ということです。
イエスさまが十字架で死んで行かれ、墓に葬られた時、弟子たちは大切な人を「失った」という喪失感でいっぱいになりました。それまでイエスさまと共に歩んだ日々。イエスさまの口から出てくる沢山の言葉。その力や慰め。そのすべてが戻ってこないのです。それだけではありません。弟子たちは、イエスさまを失い、神の国を実現していく希望をも失ったのでした。
安息日が終わり、朝を迎え、婦人達は、イエスさまを納めた墓に向かいます。「失なった方を求めて」墓に行きます。しかし、何と、主イエスの亡骸はそこにはなかったのです。
み使いが現れ、婦人達にこう言います。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
「あなた達は、十字架につけられたイエス(つまり、死んだイエス)を探しているが、あの方(つまり十字架で死んだイエス)はここにはいない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げるのです。
そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで、お目にかかれる」と告げます。
婦人達は恐れと喜びでいっぱいな中で、他の弟子達の所に行こうとしますが、そこで、復活したイエスさまと出会います。声をかけたイエスさまに婦人達は近寄り、足を抱き、ひれ伏しました。
この様子を現したみ言葉には、失った人を見出した婦人達の喜びが描かれています。彼女達は、近寄って行き、そして、イエスさまの足を抱き・ひれ伏したと書かれています。その彼女達のしぐさには、いっぱいの喜び、その喜びを肌でも感じたい、また、離さない、もう離れないでという、色々な思いが重なっているように感じます。かつ、甦ったイエスさまに対する畏敬の念が、身をかがめる動作に豊かに表されていると思います。
さて、イエスさまは、こうおっしゃいました。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
おそらく、ガリラヤで会おうというのは、また、新しくガリラヤから始めようという意味だと思います。弟子達を集めて福音の訪れを告げ知らせ始めたガリラヤ、そこから、もう一度、今度は、成就した福音を告げ知らせるために、弟子達を再び派遣されるようにイエスさまはなさるのです。さらに、これまでは、“わたしについてきなさい”とおっしゃたイエスさまですが、ガリラヤで再び出会ったイエスさまは、今度は弟子達に、
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
とおっしゃり、今まで通り、神の国の言葉を広めていくのですが、今度は、霊的にイエスさまが共にいてくださって、聖霊の働きと共に、宣教していくという、新しい始まりを告げておられるのです。
弟子たちは、イエスさまの十字架の上で息を引き取られた姿を見て「希望を失った」と思います。また、墓に納めた時に「もう終わった」と思っていました。けれども、終わっていませんでした。婦人たちは、「大切な人を失って悲しんでいた」と思います。けれども、失っていませんでした。
イエスさまは、甦られたのです。これが神さまです。
今日は、復活祭ですよね。復活の主はただ「わたしは死んでいなかった」と文字で示したのではありません。「今も生きている」という事実をお示しになると同時に、「あなたがたと共にいる」とずっと共にいることを教えておられるのです。
探していた大切な物が見つかった。それは何を意味するのでしょうか?それは、
「ずっと共にある」ということですよね。
復活の朝の出来事は、今の、私たちに何を示しているのかと言いますと、イエスさまは、今も、そして、ずっとあなたと一緒におられますという事実なんです。
イエスさまを墓の中に探してはいけません。と天使は言いました。同じことを聖書は言っていて、それは、「聖書の文字の中にイエスさまを探してはいけない」ということです。イエスさまは、私たちの傍に今もいらっしゃるのです。
神さまが「光あれ」と言われた時、光があったように、イエスさまが「わたしはあなたと共にいる」と言われるのであれば、本当にそうなのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスさまの言葉を聞いて、私たちは、聖書を開いてイエスさまを探すのでしょうか?イエスさまは、そんな小さなお方でしょうか?イエスさまは天地をお造りになった神です。その方は、聖書の文字の中に納まるお方ではありません。聖書の文字は、この世界を支配しておられるイエスさまを証ししている書物なのです。
この世界は、三位一体の神の力で覆われています。聖霊なる神さまがこの世界を覆っています。イエスさまは、神の右の座につき、この世界を支配しておられます。そして、何より、父なる神さまがこの宇宙全体を支配し、星の運航をも定め、自然の摂理も命もすべてその手の中に納めておられるお方です。私たちは、宇宙を見ても、自然の摂理を見ても、この世の現象を見るとき、いつも、神さまを見ているのです。
さて、今日の説教題を「探し物は見つかりましたか」とさせていただきました。私は幼い頃から神さまを探していました。永遠の命を探していました。また、ひとつの真理を探していました。今思えば、私は人生で一番欲しくて探していたものを見つけることができたと実感しています。さらに言えば、私は自分の力で見つけたとは思っていません。探していた私に、神さまが「探し物は見つかりましたか」と優しく声をかけてくださり、そして、ここにありますよって、聖書を示してもらったと確信しています。そして、今、私は学べば学ぶほど、聖書が“人の知恵や力によって書かれたもの”ではなくて、“神の霊の導きのもと”で書かれた書物であると感じています。
私が聖書を学んで、とても嬉しかったのが、「いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったイエスさまが、聖餐の場で共にいらっしゃるということです。イエスさまの永遠の命と私たちは交わることができるんです。これは本当に素晴らしいことだと思います。
理性はそれを否定するかも知れません。しかし、信仰は喜んでそれを受けとるのです。
婦人達は、初めて復活したイエスさまを見た時、近寄り、足元に身をかがめ、そして、足を抱きました。私は、これが、生ける神さまとの交わりだと思います。聖餐式を通して、私たちは神を礼拝し、厳かに、聖餐を通してイエスさまに触れることができるのです。
イエスさまは、復活して、その後、どこかに行かれたかたではありません。今も、神の右に座し、この世界を支配し、そして、み言葉による約束どおり、私たちのために聖餐の場にいてくださっているのです。信仰の弱い私たちのために、目に見える、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)を通して「罪のゆるしとわたしの命を受けなさい」とご自身を与えてくださっているのです。
復活祭は、ただ過去に起こった出来事を想起してお祝いしているのではありません。復活祭は、今も主が生きておられ、私たちと共にいてくださっているという事実を知らせる時です。弟子たちは、墓の中に主を探しましたがいらっしゃらかった。私たちもイエスさまを聖書の中に見つける必要はありません。神さまは、聖書の中ではなくて、この空間を満たしておられれます。
この後、聖餐式を行いますが、よみがえられた主が今ここにおられ、婦人達が足を抱いてひれ伏したように、私たちも喜んで触れることができる、その時なのです。
探し物は見つかりましたか? 探しているものが見つかったらそれはどういう意味になりますか?それは、大事なものが、ずっと、あなたと共にあるということです。イエスキリストは復活されました。それは、ずっと私たちと共にいるということです。
お祈りします。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください