10月11日 聖霊降臨後第20主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 教会の庭のキンモクセイが一斉に咲きました。香りが漂っています。キンモクセイが咲くと秋の深まりが始まったと感じます。自然は素敵ですよね。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)

前奏

今週のお祈り


・夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
・熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(神は怖い?)

2026年10月11日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝
 イザヤ  25章  1~ 9節 (旧1097頁)
フィリピ  4章  1~ 9節 (新 365頁)
マタイ  22章  1~14節 (新  42頁)


●招いた人にはや来てもらいたい
 皆さまも、結婚式や披露宴に招かれたこと、あるいは、結婚式や披露宴を準備し、人を招いたことあるかと思います。
結婚式を主催する方は、何か月も前から準備します。「出席してくれますか?」「●月●日、大丈夫ですか?」そういった調整をして、それから、招待状を送るのが通例かなと思います。
そして、同時に、式・披露宴の内容を考えます。スピーチしてくれる人にお願いし、演出を考え、そして、来てくださる方の席を決め、さらに、飲み物や食事の準備をします。食事も〇〇定食というわけにはいけませんから、やはり、よい料理を提供します。
どうしてそこまでするのかと言いますと、やはりお祝いの日だからですよね。自分達だけではなく、多くの人(親しい人たち)に来てもらって一緒に喜んで欲しい。そういう思いがあって招くわけです。ですので、その日に招いた人たちから次々と「行けません」と言われると悲しくなります。

●譬え話の説明1
 今日のイエスさまが語られた譬え話でも、王が盛大に王子の婚宴を催したのにも関わらず、断る人達の姿が描かれています。
 家来を遣わし、婚宴の準備ができたので呼びにいったのにも関わらず「来ようとしなかった」と書かれています。え?って感じですよね。そこで、王はどうしたのかと言うと、別の家来を遣わして『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。』、つまり、最高の料理を準備してまっています。さあ、婚宴に来てください!という最高の招きであるのに、人々はその招きを無視した・・・のです。ここで「招きを無視した」とありますが、これは「大切なこととして扱わなかった」「気にも留めなかった」そういう意味があります。そして、婚宴に出席せずに何をしたのかと言いますと、畑に出かけた、商売に出かけたと書かれています。めっちゃ日常の生活ですよね。そのような日常を選んだくらい、気にも留めなかったというのです。
ここでのポイントは、王の招きと日常を比べた時に自分の日常を優先してそちらを選んだことです。
 さらに、イエスさまの譬えでは、王の遣いの者を乱暴し、殺した人もいたと書かれています。これは、先週のぶどう園の譬えと通じるものがあって、神の遣いを迫害する人の姿が譬えられています。
 さて、王の遣いの者を殺した人達に対しては裁きが降ります。王は、その人達の町に軍隊を送って、町を焼き滅ぼしたと書かれています。厳しい制裁がくだされました。
 次に王は、家来たちに『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』と命じます。“どんな人”でも招きなさいと言います。相応しい家柄の人や良い人を招いたのではありません。悪い人も招いたんです。その結果、婚宴の席はいっぱいになりました。

●譬え話しの説明2
 ところが、イエスさまの話しはそこで終わりません。婚宴の中に、礼服を来ていない人が一人いたというのです。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか?」と尋ねます。しかし、その人は何も答えることができませんでした。彼は、外に放り出されてしまいました。ここでも、厳しい王の姿が描かれています。
 この礼服がどのような服だったのかは分かりません。「当時は王が全員に礼服を配ったのに、その人はそれを着ようとしなかった」という話もあります。ただ、これは確証がないので、むしろ、服そのものを想像するよりは、この譬えで何を言おうとしているのかを考える方がいいと思います。

●キリストの義を頂いた私たち
 この譬えの王は、父なる神さまのことです。そして、王子とはイエスさまのことです。先週の、ぶどう園の譬えでは、主人は息子を遣わしますが殺されてしまいます。これは、十字架のイエスさまを表していました。今日の婚宴の譬えは、そのイエスさまが復活された、そして、その復活したイエスさまの再臨が婚宴に譬えられています。同時にそれが世の終わりの時、裁きの時でもあります。
 そのことと、この譬えを重ねて考えるならば、礼服というのは、イエスさまが十字架を通して私たちに与えてくださった「義の衣」の事を指しています。
一箇所聖書を見たいと思います。ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節(新346頁)。
『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。』。
 ここに、「キリストを着る」という言葉が使われています。これは、アダムとエバに与えられた「皮の衣」と似たところがあります。共に、私たちが神さまと再びまみえることができるように、神さまが準備してくださった「義の衣」です。私たちは、その義の衣を感謝して頂く必要がありますし、この義の衣なしには、つまり、否定して私たちは神さまとの関係を回復することができません。これが相応しい礼服です。
 もちろん、その衣のために一つの命が失われ、その血が流されているのです。

 私たちが神の国に相応しいとされるのは、私たちが立派だからとか、あの人よりましだからではありません。みんな同じ罪人です。“キリストを着る”それが相応しい人の姿なんです。

 今日の譬え話には、王の厳しい姿が描かれています。先ほどもいいましたが、これは厳しい神の姿です。新約の時代になり「神は愛」ということが強く押し出されて語られるのですが、この厳しく報いる神さまも私たちの信じている神さまであることを忘れてはなりません。
 ただ、厳しい神、ゆえに、怖い神に映るのは確かなんですが、びくびくして過ごす怖さではないということを忘れてはいけないなと思います。

●公務員の時の話
 私は、以前、県の職員をしていました。そして、最後の2年間は、市役所に出向しました。そして、ある施設に配属されました。出向が決まった時に、ある上司から「あそこの施設のトップは、ちょっと難しい人から大変かも知れないと」と言われました。実際に、能力のある方でした。ただ、筋の通らないことが嫌いで、そういうことがあると怒るんです。時に、怒鳴ることもありました。
 そういった部署ではありますが、イベントの時などは、みんなまとまっているんです。上司が怖いからです。でも、イベントはよいものになります。もちろん、みんな市民のためにと思って働いておられるので、嫌々やっているわけではありません。ただ、「その日はちょっと・・・」とか「その役はしたくありません」とか、そういった、私事(わたくしごと)を言いにくい空気は確かにありました。恐れというのは、時に、人を動かす力になるわけです。

●招く神
 でも、今日の譬えの王は、恐れを利用して婚宴の席を見たそうとしているのではありません。準備したから来なさいと、強引に連れて来たのではなくて、招くんです。そして、それに答えた人が集まってくるんです。
 神さまは、私たちをびくびくさせて従わせたい方ではありません。地獄をちらつかせ、律法を振りかざし、「律法を守らないと地獄に落ちるぞ」と言う方ではありません。むしろ、律法も福音も「招き」なんです。律法は私たちのあるべき姿を示しますが、私たちが失っている姿も浮彫にします。では、どうしたらいいのでしょうか?と求める人に、「福音」を提示します。愛する独り子があなたのために十字架で贖いとなりました。そのキリストを救い主として受け入れるならばあなたは永遠の世界に生きることができます。その招きです。
 ただ、最後、裁きがある時に、その招きを受け入れなかった人は、神の国に入ることができず、神の栄光の外に放り出されてしまうのです。

●神は怖い方なのか(創世記から)
 神さまは怖い方でしょうか。ある意味「はい」と言わなくてはなりません。でも、それは聖さ(義しさ)のゆえです。
 聖書の中で、神さまを「怖い」と言った最初の人物は誰かご存じですか?アダムです。彼は神さまの命令を守らなったのですが、彼は罪を犯した後、神さまが園の中を歩く音を聞いて彼は隠れました。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』と答えています。アダムは神さまを恐れたのです。では、神さまが、剣をもってアダムの所にやって来たのでしょうか?そうではありません。神さまは『あなたはどこにいるのか』そうおっしゃったのです。これは“どこにいるのかを探し出して何とかしてやろう”という気持ちから出た言葉ではありません。隠れてしまったアダムに対する「招き」であると言えます。確かに、権威ある者としての声ですので怖いのは当然です。でも、それは、「何で隠れているのか」という声、「出てきなさい」という関係の回復を促す声です。
 もちろん、アダムには「死の定め」が食べた時から生じています。そして、男に女にも、そして、蛇にも裁きが下されています。でもそれは、「お前などもういらない」という裁きではありませんでした。「再び、あなたを元に戻します」という福音の言葉が加えて与えられていました。
 もし、アダムが怖くてもっともっと神さまから遠ざかろうとしたらどうでしょうか?彼は福音の言葉からもっともっと遠ざかってしまうのです。もちろん、神さまは、もっともっと、アダムに近づいていかれると思います。それは、アダムが命を回復するためです。

●神さまから離れる人は自由を失う
 神さまから人は離れます。一つは、アダムのように怖くて離れる人。もう一つは、神さまの存在を否定、もしくは、無視して、神さまを神さまとして扱わなくなる人です。
 その人たちは、「宗教は怖い」と言い、また、「宗教なんて人が作ったものだ」と考えます。そして、「私には必要ない」と考えます。
神さまから離れる人の姿には、もう一つあります。それは、信仰を持っていても神さまより、日常を大事にする人です。そこに共通していることがあります。
人は仕事、家、お金、健康、人からの評価など、この世のものを大事にしてしまう傾向があります。もちろん、仕事は大事、家族も大事、人間関係も大事、お金も健康も大事です。聖書は、それらを捨てなさいとは言っていません。むしろ、託されたものとして大事に用いなさいと教えています。
 でも、そういったこの世のものが、神さまを超えて自分の支えにしてしまうと、“それを失うことに”恐怖を感じるようになります。
 たとえばお金があれば大丈夫という信仰を持つと、それを失うことが恐ろしくなります。健康であることが自分の支えであると思うようになると、病気になると怖くなります。人からの評価が自分の土台になってしまうと、嫌われることが怖くなります。
 この世のものを土台にすると、最後、それを失うことが怖くなり、自由を失ってしまうようになります。この世のものは、追っては来てくれません。私たちがひたすら求めなくなくてはなりません。でも、神さまは追い求めて来てくださいます。大事なものを持っておられる方なのに、追い求める来るのです。

 家も、家族も、お金も、健康も、この世的なもので大切なものは沢山あります。でも、それらは、本当の私たちの支えにはなりません。ですので、神さまは、いつも信仰者である私たちに「あなたはどこにいるのか」と問われるのです。「あなたは、それに支配されていませんか」「私の愛に留まっていなさい」とおっしゃるのです。

●神さまは怖いのか
 神さまは怖いのか、確かにそうです。神さまは、愛の神か、確かにそうです。私はそれは自然界にも似ているなと思います。自然は人を癒します。また、美しいし、雄大です。でも、一方で自然が猛威を振るうことがあります。地震、火山の噴火、津波、土砂災害、台風・・・そういったものに遭遇すると私たちは恐怖を覚えます。自分達が無力であるということを実感します。では、自然は怖いのかというのとそうではありません。それはある一面なんです。自然は美しいし、私たちを育み、癒す力を持っています。神さまが創造されたからです。でも、自然をあなどってはいけないのです。
私たちの命も同じです。生きているって本当に素晴らしことです。ただ、罪人である私たちには死が訪れます。その時、失う恐怖を私たちは感じます。でも、神さまは、その私たちに永遠の命を約束してくださるのです。
神さまは条件付きで永遠の命を与えようとしているのではありません。永遠に生きるようにいつも、誰もを招いておられるのです。無償で招き続けておられるのです。
私たちの罪を全て背負い十字架にかかってくださったイエスさまの姿を見れば、裁きの怖さがわかります。でも、それは、愛の招きの姿でした。「あなたの命は贖われました。さあ来なさい。私を信じ私と共に生きなさい。」という福音のメッセージです。十字架は、怒りの神と愛の神が同時に現れた場所なんです。

●招き
 今日の譬え話を聞いて、私たちは、神さまとの豊かな交わりに招こうとする神さまの姿を覚えたいと思います。それは、まだ信じていない人を招こうとする声。そして、私たち自身に「あなたはどこにいるのか」「わたしとの交わりを優先しなさい」という招きの声です。私たちには永遠の神さまがいます。私たちを支える唯一のお方です。神さまのいらっしゃるところにはいつも命があります。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください