挨拶(ライブ配信)
*クリスマス燭火礼拝のご案内・・・12月24日(水)午後7時から
今日はクリスマス礼拝です。待降節第4主日ではありますが、夜の燭火礼拝に来れない方にとっては、大事な礼拝の人なりました。キリストの降誕は私たちを解放するためであるという福音に豊かにならせて頂きましょう。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・希望を抱いて新しい年に挑むことができますように。
・総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(罪から救うとは)
2025年 12月21日(日)待降節第4主日礼拝
イザヤ 7章 10~16節 (旧1071頁)
ローマ 1章 1~ 7節 (新 273頁)
マタイ 1章 18~25節 (新 1頁)
江利口 功 牧師
主のご降誕を心から賛美いたします。
私が小学生の時のことなんですが、ある時、友達が、私にこんな質問をしてきたんです。
「あなたの前に壁があります。その高さはどのくらいですか?」
皆さまだったらどうお答えになりますか?その時、私はこう答えました。「学校の校舎位の高さの壁」って。すると、その友達は何と答えたのかと言いますと「それは、あなたのプライドの高さです」って言いました。ガーンって感じでした。
もちろん、これは、ちゃんとした心理テストではなく、ジョークのようなテストだと思います。でも、自分でもそう感じているだけにショックでした。
ガーンってなった私・・・次にどう考えたかわかりますか?「よし、次、誰かに同じことを質問されたら、初めて聞いたかのような振りして、『こんなに低い』って答えよう」って思ったんです。これも、また、負けたくないというプライドなんですよね(;^_^A。ほんと、私に付きまとっています。
考えて見ると、私は昔から「人に負けたくない」という思いは強かったと思います。同時に「人に褒められたい」「人によく思われたい」という思いも強くありました。これは、強さや成長につながると言えば繋がりますが、足を引っ張る事も多いんですね。
これは、程度の差はあっても、誰もがそのように思うのではないかと思います。「人からどのようにみられているのか」って気になりませんか?人の評価が気になるのは自然のことだと思います。
確かに、自分より優れた点を持つ人って沢山います。なのに、私たちは、人の評価の中で生きています。「あの人は凄いよね」と聞くと「私は凄くない」「私は劣っている」って思います。しかし、よ~く考えると、他の人の評価に振り回されながらも、“最終的に”自分に点数を付けているのは自分自身ってことはないでしょうか?
実は、これは、神さまとの関係が壊れているので起こる症状なんです。
聖書は、「罪」という言葉を良く使いますが、「罪」とは、
「神を恐れず、愛さず、信頼しない・・・そのように、神さまから離れた状態」のことを言います。その結果、私たちは、自己中心的になり、神さまの言葉ではなくて、自分の考えを信頼して行動するので、それが、見える罪となって顕われてくるんです。
イエスさまは、この神様との関係を回復するために、人となって生まれてくださったんです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17節)
聖書は正しく生きることを教えています。でも、「もっと頑張って、自分の力で良い人(できる人)になりなさい」と神様は言っているのではなくて、「私を信じ、愛し、信頼しなさい」とおっしゃるんです。
神様が人として、私たちと同じ姿になってお生まれになってくださったのは、犯してきた罪を全て許すため、そして、イエスさまを通して、神さまの愛を知り、神さまとの関係を回復するためでした。
聖書の言葉は生きています。神様の言葉は、私たちの口から出てくる言葉とは違って命が宿っています。その御言葉が私たちの内に働きかけ私たちを変えて行くわけです。ですので、毎日、生きた神の言葉として触れて欲しいなって思います。イエスさまは、2000年前にお生まれになり、十字架で私たちの罪を全て背負って死んでくださいました。その恵みは今もこの世界を覆っています。イエスさまは、過去に生きていただけの方ではなく、今も、み言葉を通して私たちを交わりを持つお方です。
このイエスさまの言葉が、私たちを罪から解放するのです。
聖書に、パウロという人が登場します。新約聖書の後半に多くの手紙を書き残しているのがパウロです。このパウロという人は、エリートだったんです。自分でも「非の打ち所がない」と言っています。しかし、そのパウロが、イエスさまと出会ってこう言っています。
わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。(フィリピ3:7~9)
つまり、パウロは、自分がかつて、追い求め来た「誇り」「正しさ」「肩書」「実績」「人からの評価」これらのものを、イエスさまと交わりを持つことで、「不必要なもの」と思うようになりましたって言っているんです。イエス・キリストを知る事のあまりにの素晴らしさが彼を変えたと言っています。
私は思うのですが、人の評価が気になるというのは、恐れからだと思います。「出来る人であれば人気がでる」「褒められる」「正しく生きなかったら人生がどうなるか分からない」「恥ずかしさ」「人が離れて行ってしまうのではないか」そんな恐れがあるのではないかって思います。
でも、結果的に、その恐れは、自分を不自由にしてしまっているんですよね。
先ほどのパウロの言葉をもう一度読みますね。
わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
イエスさまは、私たちを罪から解放するためにお生まれになりました。それは、罪を全て背負うため、そして、神さまとの関係を回復して、私たちが自由になるためです。
もちろん、そういった、プライドや評価に対する恐れを手放すことって簡単ではないと思います。
しかし、聖書は、「捨てる」という行為を求めているのではなくて、キリストを掴みなさいと伝えているんです。
溺れている人が、自分の力で何とかしようとしてあがいているのを見て、「こうやって泳ぎなさい」とか「もっと頑張れ」って言ってもだめですよね。助ける人は何と言うのかと言いますと「私の手を取りなさい」って言いうんです。
神様を信じ、愛し、信頼する時に、私たちは恐れから解放され、新しい生き方が始まります。今日の聖書箇所に登場するヨセフもそんな状態だったと思います。イエス・キリストの誕生(正確にはマリアの胎に宿った時)に関しては、ルカという福音記者とマタイという福音記者が記していますが、ルカはマリアの視点で描き、マタイはヨセフの視点で描いています。同じ出来事ですが、夫と妻、それぞれの視点で描かれていて、印象が少し違っています。マリアは、「困惑」しながらも「お言葉どおり、この身になりますように」って受け入れています。一方で、マタイが記しているヨセフは「困惑」というよりは「絶望」に近い思いが想像できます。
当時、ユダヤ教では、「結婚」の前に、「婚約」という期間を過ごします。この期間は、法的・社会的には、すでに夫婦とみなされている状態でした。ただし、一緒に住むことはありませんので、この期間に子供を授かるということはありませんでした。逆に、子供を身ごもるとなりますと、法的・社会的に「正しくない夫婦」というレッテルが貼られます。婚約した相手との間の子であれば、「恥」になり、婚約した相手の子でなければ、「大きな罪」となります。もちろん、裁かれるのは妻と、その相手の男性です。これは死罪に値する事です。
「正しい人ヨセフ」にとっては、一番、大切な時期に、「マリアが身ごもっている」と聞かされるのです。マタイは「聖霊によって身ごもっていることが明らかなになった」と書いてはいますが、ヨセフにとっては、いくらマリアが信仰的であったとしても、それを完全に受け入れることは難しかったと思います。
この事態をどう受け入れるべきなのか。この時の、ヨセフの心は、「怒り」ではなく「恐れ」であったと聖書は記しています。ヨセフは正しい人でした。恐らく、非の打ち所のないような人だったし、正しく生きることを常に求めて来たと思います。でも、どうしても、身ごもった事実を世間に知らせなければなりません。「聖霊によって宿った」と言っても誰も信じてくれないでしょう。「誰かの子である」と言えば、マリアは死罪にあたります。では、「自分の子である」と言えば、これまで築きあげて来たものが一挙に崩壊します。そこで、ヨセフはひそかに縁を切ろうとします。自分もマリアも人から悪いように評価されないためです。でも、この時代、子供と母親だけでは、生きて行くことは非常に難しいのです。
「自分の正しさ」を取るか「自分たちはどう思われてもいい」立場を取るのか、ずっと思い巡らすんです。ヨセフはこの狭間に立たされます。
しかし、ここで、神の声がみ使いを通して聞こえてきます。み使いは夢の中でヨセフに語ります。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
この言葉を聞いて、ヨセフは未来を神さまに委ねました。「正しい人」と言われたヨセフが「人から悪い評価される人」となることを選びました。
「正しい人」として生きるのではなく、愛するために、自分が正しくないと評価されてでも、相手を受けいれることを言うのです。
これは、イエスさまの姿と同じです。イエスさまは、私たち罪人を引き受けてくださったのです。聖書にこう書いてあります。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2:6~9)
イエス・キリストは今から2000年前、人としてお生まれになりました。それは、全ての人を罪から救うためでした。罪から救うとは、私たちの罪をご自身が全て背負い神様との関係を回復すること。また、私たちがイエスさまを通して神さまを信じ、愛し、信頼できるようになるためです。神さまとの関係が回復していくと、私たちは、自分の評価に恐れることは、少しずつではあるかと思いました、消えて行きます。
パウロは、手紙の中でこう言っています。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピ3:12)
パウロは、さらに、完全なものになろうと頑張っているのがわかります。同時に、イエスさまを捕らえようと頑張っているの分かります。
私は、ちょっとずつですが、そのような恐れから解放されてきたような気がします。私は私でいいんだ。恐れなくてもいいんだ。そんな風に思えるのは、イエスさまのおかげです。私は、イエスさまに出会って本当に幸せだったと思います。
イエス・キリストは誰かの救い主ではなくて、あなたの救い主です。あなたを、罪の縄目から解放し、本当のあなたに仕上げてくださいます。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください