挨拶(ライブ配信)
本日は教会総会です。私たちの教会のこれからの歩みを考えます。その前に、宣教の意味を今一度、み言葉から聞いてみましょう。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・信徒総会を覚えて。
・衆議院選挙があります。日本を背負う人達が選ばれますように。
・世界の戦争が早く終結しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(小さな塩・確かな光)
2026年2月8日(日)顕現後第5主日礼拝
イザヤ 61章 1~9a節
ヘブル 8章 7~13節
マタイ 5章 13~20節
先週、私たちは「幸いである」というイエスさまの言葉を聞きました。イエスさまは、座って語られました。それは、想像してもらえれば分かりますが、上から命じる姿ではなく、人に寄り添い、親身になって語ろうとしておられる姿です。そして、マタイはわざわざ「“口を開き”教えられた」と記しています。ここには、群衆の「イエスさまは何を語られるのだろう」という期待、そして、イエスさまご自身が、今まさに民に語りかけ始められるその瞬間の重みが「口を開かれた」という言葉の中に込められているように思います。
だからこそ、今日の御言葉、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」も、そんな風に、“今、私たちが直接イエスさまご自身から聞いている”そんな風に受け取って欲しいのです。
礼拝は、私たちが中心で、神さまに何かをしてさしあげる場ではありません。むしろ、学校に行けば先生が前に立っておられるように、病院に行けば、お医者さんが座っておられるように、教会の礼拝は、イエスさまご自身が語り掛け、聖餐においてご自身が私達と食卓を共にしてくださっている場なんです。
私たちは、礼拝で告白し、賛美し、祈ります。しかしそれは、イエスさま抜きで起きている出来事ではありません。イエスさまとの交わりの中で起きている出来事なんです。
さて、今日の御言葉でまず大切なのは、イエスさまが「なりなさい」と言っておられるのではなく「である」と言っておられることです。私たちは「地の塩にならなきゃ」「世の光にならなきゃ」そうした“課題”として受け取りがちです。でも、イエスさまがここでおっしゃっているのは、私達の状態です。
救い(永遠の命)と同時に、神さまが私たちに与えてくださった身分、与えられた私達の姿をイエスさまは宣言しておられるんです。
今、受験のシーズンです。うちの子も今年受験で、先日、一つ目の高校を受けてきました。
私は、高校入試の時に、私立と公立を受けました。公立はギリギリでしたので、私立に行く可能性は十分あったんです。ただ、私立には抵抗がありました・・・。なぜなら、校則が厳しかったからです。一般的には学校は、生徒を育てるために校則を定め、指導します。しかし、私が行きたかった公立高校は、本当に自由だったんです。髪型も自由、服装も自由、日中に門を出ても何も言わない学校でした。もちろんその分、自分というのをしっかり持っていないと流されてしまう危険性はありました。
厳しい学校がいいか、自由な学校がいいか、そのことは別として、一つ確かなことがあります。それは。その学校に入学した時から、その学校の生徒であるということです。成績がどうとか、校風に沿って学んでいるか、それ以前に、身分は最初に与えられているわけです。
昔、「3年B組金八先生」というドラマが大ヒットしましたよね。物語は確かクラスの生徒たちに起こる様々な課題に対して、金八先生がどのように関わっていくのかが中心だったと思います。もちろん、金八先生の厳しさも描かれていましたが、それは、愛ゆえの厳しさだったと思います。生徒たちは恐らく、「あの金八先生のクラスで良かった」と生涯言い続けると思います。
私は、「塩である」「光である」というイエスさまの言葉も似ていると思います。
イエスさまは、山上の説教でまず「幸い」をお語りになりました。傷つき、重荷を負い、足りなさを感じながらイエスさまのもとに集まって来た人々に向かって、イエスさまは「あなたがたは幸いです」っておっしゃったんです。色々なことがある。でもあなたがたはいつも神さまの憐れみと慈しみに包まれていますよっておっしゃいました。これは、あなたは神の民であるという宣言です。そして続けて語られたのが、
「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という言葉です。これも同じように、宣言なんです。課題を与えられたのではありません。
イエスさまは私達の羊飼いです。私たちはその群れです。イエスさまの群れである私たちはここに集まり、み言葉を聞き、聖餐式に与り、整えられて、再び「地の塩、世の光」として遣わされて行きます。
モーセという人は、シナイ山で神さまから言葉を受けている時に顔が輝きました。そして、民の前に来た時には、その輝きのために人々は恐れさえも感じたと書かれています。私達も同じだと思います。直接的な光を放つことはありませんが、福音の光を受けた私達は、イエスさまによって、「地の塩」「世の光」となるのです。
イエスさまはこうもおっしゃっています。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」
私たちが、イエスさまの贖いに、喜び、神さまの愛を確信する時、私達の目はまっすぐにイエスさまを見るようになり、その輝きが世を照らしていくのだと思います。
一方でイエスさまは、続けて、少し厳しく感じる言葉をおっしゃいます。
「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」また、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
この言葉は確かに厳しいですよね。傷口に塩を塗られたように、痛みを感じるかも知れません。
イエスさまは、こうおっしゃっているんですね。「天の父が完全であるように、あなたも完全なものとなりなさい」このような言葉を聞くと
「わたしは“立派”ではないし“完全”でもない」「わたしは立派にもなれないし、完全にもなれない」と嘆きたくなりますよね。
では、私たちはイエスさまに捨てられるのでしょうか?決してそんなことはありません。イエスさまは、最後まで、私たちの善き羊飼いでいらっしゃるんです。
大事なのは、律法が語る「完全」が私たちを絶望させるためではなく、そこから福音に気付き、しがみつけるようにさせるために語られているということです。
たとえば、道路標識が外に掲げられているならば、それを守らなかったら、即違反です。でも、道路標識が外になく心の中にあったらどうでしょうか?道路標識が持つ意味が代わりませんか?道路標識は罪を指摘し、私たちを裁くものではなく、私達に「何が大切かを思い出させ続ける声」となるはずです。
律法も同じです。律法が、外に掲げられていた時、私たちを責め、私たちを有罪にし続けるものでした。しかし、イエスさまの十字架によって、律法は「私たちを裁く剣」ではなく「足元を照らす灯」となったんです。律法が無くなったのではありません。なくなれば、何でもオッケイになってしまいます。そうではなくて、私たちを責めるものではなく、導くために与えられたものとなったです。
「完全であれ」どう考えても無理です。でも、考えて見てください。神さまの目にいつ私たちは「完全」とされたのかを。それは、私たちが努力した結果だったでしょうか。そうではありませんよね。私たちは、イエスさまによって完全にされました。洗礼によって、神さまの目に「完全」とされました。今から、約2000年前、イエスさまが十字架で勝ち取ってくださった贖いの恵みが、洗礼を通して私達に与えられました。私たちは神の目まえに完全なんです。
私たちは、言っていることと、やっていることと、あるべき姿との間にギャップ(隙間)があります。言葉と行いと姿が一致していません。これが罪人の姿です。でも、隙間のない方がおられます。それが、キリストです。
イエスさまは、人々を完全に愛し、律法に完全に従い、父なる神さまの前に従順に歩まれました。そして、最後にその完全さを私達にくださったのでした。十字架でご自身は罪人となり、私達罪人を義とされたのです。
だから、神さまは、イエスさまの衣を着た人を、義人とし、完全とみなしてくださいます。これが、福音で、救いの中心です。
「地の塩」、「世の光」でイエスさまがおっしゃっる言葉に含まれる厳しさは、福音から離れさせたないため、福音とは何かを知るため、隣人を大切に生きる私達にするためのイエスさまの諭しです。
私たちは、「3年B組イエスさま学級(羊飼いの群れ)」の生徒と言ってもいいのかも知れません。
イエスさまは、私達の問題といつも向き合ってくださっています。私たちの苦しみはイエスさまの苦しみでもあります。私たちの喜びはイエスさまの喜びでもあります。
私たちが、イエスさまの前にこうして集まる時、イエスさまは「あなたたちと共にいる」と、その確かさを感じさせてくださり、赦しの言葉、励ましの言葉、そして、罪の赦しと霊的パンを与えてくださいます。
私たちが、こうして、毎週、日曜日に礼拝に来ることは、毎日学校に通う以上に大事なことだと私は思います。なぜなら、イエスさまご自身と交わるからです。
この世の生涯では、私たちは見た目に不完全です。古いアダムが残り、ちょっとしたことに怒り、嫉妬し、憎しみます。敵を愛する力もありません。「だめなわたし」って思うかも知れません。しかし、その時、イエスさまは何とおっしゃるのかと言うと、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とおっしゃるのです。私たちはまたこの「幸いである」という声の前に座るのです。
私たちが、罪と闘うのは、罪とは何かを教えられるからです。そして、福音にいかされるためです。私たちは弱い、でも、小さな塩であることは確かです。そして、私たちが輝かす光は、私達の輝きではなく、確かな光、福音の光です。共に社会は必要としているのです。
私たちは、神さまの目には義とされ完全にされています。そして、復活する時に、本当に完全な姿を与えられます。
「地の塩です」、「世の光です」というのは、課題ではありません。イエスさまの群れに入った者の、必然的な状態です。私たちは、小さな塩でしかないかも知れません。でも、その少量の塩でも大事なんです。光も同じです。暗闇ではどんな小さい光でも大事なんです。
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」
今日の礼拝という「授業」で、主が私達に語ってくださった言葉です。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください