1月11日 主の洗礼日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 今日はイエスさまが洗礼を受けられた時のことが礼拝で語られます。私達に主は何をお語りになるのでしょうか?今日は、瀬戸幸治牧師先生がお話くださいます。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


新しい年、良い事が沢山ありますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(心に適う者)

2026年1月11日(日)顕現後第一主日礼拝
            牧師 瀬戸幸治
聖 書 イザヤ42:1-9、マタイ3:13-17

●変わらない評価を求めて
 先日、新聞の記事に、採用活動(就職活動)にもAIを活用する時代になったことが書かれていました。大手企業の話ですが、応募する学生は、まず「AI面接官」という、パソコンの画面に人間の姿をして現れるAIの面接官の質問に答えるのだそうです。その面接に合格すれば、ようやく人間の面接官による面接を受けることができるそうです。
ついに機械にまで評価される時代になったのかと複雑な気持ちになりました。

 わたしたちは、ずっと誰かから評価されて生きています。
生まれた瞬間に体重を量られ、大きいだの小さいだのと評価されます。
歩くのが早かった、しゃべるのが遅かったと成長が評価されます。
学校に入れば成績で評価され、仕事に就けば成果が評価されます。
「何ができるか」「どれだけできるか」が、その人の価値であるかのように見られます。
 年をとれば、今度は逆に「どれだけできないか」で介護認定の評価を受けます。この世の最後を迎えても「あの人の人生はどうだった」とか「あの人の葬儀は立派だった」とか、勝手な評価を受けます。

 人は、いつも他者と比べられ、いつも人の評価を気にして、一喜一憂しながら生きているのではないでしょうか。
 
 やりきれないのは、評価は、評価する人によって変わりますし、時代によっても変わってしまうと言うことです。つまり、自分の人生に最後まで責任をもってくれる評価は、ただの一つもないということです。

●洗礼は神からの変わらない評価
 でも、一つだけ変わらない評価があります。それは、人からの評価ではなくて、神さまからの評価です。しかも、神さまは、その評価を見える形で示してくださいました。いつでもわたしたちは、その評価を振り返ることができるのです。それが、みなさんが受けた「洗礼」です。

洗礼とは、わたしたちが「神さまを信じます」「これからはクリスチャンらしく生きていきます」と、決意を表明した“しるし”ではありません。
洗礼は、わたしたちが神さまに何かを示す行いではなくて、神さまがわたしたちのために働いてくださる出来事です。

ルーテル教会の洗礼は、頭に水を注ぐことが多いかと思います。水そのものに力があるのではありませんが、神さまの言葉と約束が水と結びつくとき、そこに救いの出来事が起こるのです。

洗礼において起こっていることは、「罪の赦し」です。
神さまは洗礼を通して、「あなたの罪は赦された」と、はっきりと宣言してくださいます。わたしたちがどのような状態にあっても、洗礼において神さまが語られた言葉は永遠に変わることはありません。

また、洗礼は「死と復活」の出来事です。ルターは、洗礼とは「古い人が溺れ死に、新しい人がよみがえること」だと説明します。洗礼によって、罪に支配されていた古い自分は死に、神の前に生きる新しい人として立てられます。

そして、洗礼は「神さまに属する者」とされる出来事です。洗礼を受けた者は、神さまのものとされたのです。洗礼とは、わたしたちが神の国に移されることなのです。孤独の中にあるときも、信仰が弱っているときにも、「わたしは洗礼を受けている」という事実が、わたしたちを神さまのもとにつなぎとめるのです。

洗礼は、神さまが、罪を赦し、命を与え、わたしたちをご自身のものとして引き受けてくださる出来事です。わたしたちの存在そのものに最後まで責任を持ってくださる出来事です。
 
「あなたは、わたしのものだ。あなたの罪は赦されている。あなたは、わたしの前で生きる者だ。」と、神さまが、そのように評価し、宣言してくださるのです。
 人の評価は変わります。昨日は褒められても、今日は責められることがあります。しかし、洗礼による神さまの評価は変わりません。信仰が揺らぐ日もあるかもしれません。でも神さまの評価はいつも同じなのです。

●わたしたちのために義を満たすキリスト
 今日の聖書日課は、イエスさまが洗礼を受けられた箇所です。

洗礼は罪の赦しのためのものです。でも、イエスさまに罪はありません。
イエスさまが洗礼を受ける必要はあったのでしょうか。
 洗礼者ヨハネ自身も「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と、戸惑いました。ヨハネは、イエスさまには洗礼を必要とする罪がないことを分かっていたのです。

 それでもイエスさまは言われました。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。(15節)

 ここで言われている「正しいこと」とは何でしょうか。
ギリシャ語を見ると「正しい」という言葉は「義」と訳される言葉が使われています。イエスさまはこう言われたのです。
「今は、止めないでほしい。義を満たしきることが、我々にふさわしいからです。」

「義」とは、一言でいうなら「神の御心にかなったあり方」と言えるかと思います。つまり、イエスさまが洗礼を受けられたのは、神さまの御心を満たすため、あるいは、神さまが意図されている結果をもたらすためだった、ということです。

では、神さまの御心とはなんでしょうか。
ヨハネによる福音書で、イエスさまはこう言われています(6:38-40)。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 イエスさまがヨハネから洗礼を受けられたのは、ご自分のためではなくて、全部わたしたちのためだったのです。
わたしたちのために、罪人の列に並び、罪人の代表としてわたしたちの立場に立ってくださいました。そして、わたしたちの歩む道を先に歩んでくださったのです。

イエスさまの洗礼は十字架の死と復活へとつながっています。イエスさまは、神さまの救いの道を歩み通し、神さまの御心を満たしきってくださいました。
わたしたちは、洗礼を受けて、そのキリストと一つとされています。そのことによって、わたしたちは神さまとの関係が回復され、神と共に生きる命(永遠の命)をすでに得ているのです。

コリントの信徒への手紙二5:21にはこうあります。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
 わたしたちのために、イエスさまは洗礼を受けられたのです。

●「心に適う者」とされて生きる
 イエスさまが洗礼を受けた直後、天から声が響きました。
「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(17節)

 この声は、イエスさまに向けられたものです。しかし、それだけでは終わりません。洗礼によってキリストと一つにされたわたしたちにも、この声は向けられているのです。

でも、ちょっと考えてみてください。
 この一か月のご自分を振り返って、自己評価してください。
 この声は、自分に対する声でもあると、自信を持って手を挙げることができる人はいるでしょうか。どうですか。

 この一か月、
 愚痴ばかりつぶやいていたかもしれません。
感謝よりも不満が多かったかもしれません。
 信仰者らしくなかったと、反省する言動があったかもしれません。
 神さまのことを忘れていた日があったかもしれません。

 そうしたことを思い起こしても、神さまはわたしに「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」と言ってくださっているにちがいない、と言えるでしょうか。

 正直に言えば、自分の歩みを根拠にするなら、そんなことはとても言えないのではないでしょうか。

 しかし、洗礼を受け、キリストに結ばれている者は、自分の敬虔さや、出来、不出来ではなく、「キリストのゆえに、この言葉は、わたしへの言葉でもあります」と、答えることができるのです。

 なぜなら、神さまの評価は、わたしたちの信仰の強さや、熱心さによって決まるものではないからです。神さまは、わたしたちが立派だから、よくできているから、「あなたはわたしの愛する子」と言われたのではありません。

罪人であるわたしたちのために、御子イエス・キリストが、罪人の列に並び、洗礼を受け、十字架の死と復活の道を歩みきってくださったからこそ、この言葉が、わたしたちにも向けて語られているのです。

洗礼は、わたしたちが神さまを選び取ったしるしではありません。神さまが、「あなたを見捨てない」「あなたを失わない」と、決して取り消されることのない約束を与えてくださった、恵みのしるしなのです。

だからこそ、わたしたちは、人の評価や自分自身の評価によって、自分が何者であるかを決め続ける必要はありません。
洗礼において語られた、神さまの言葉こそが、わたしたちを評価し、支え続けているからです。

「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」
この言葉は、今日も、洗礼を受けたわたしたち一人ひとりに、変わることなく、語り続けられているのです。

●洗礼に生きる
 洗礼は、「あなたの罪は赦されている」「あなたは、わたしの子だ」という、神さまの取り消されることのない宣言です。
それは、過去の一瞬の出来事ではなくて、今日も、今も、生きている言葉です。

わたしたちは、自分の歩みを振り返って、誇ったり、落ち込んだりします。
しかし、そういう自分を見つめ続けるのではなくて、洗礼において語られた神さまの言葉の中に、わたしたちは、すでに置かれているのです。

礼拝において、み言葉を聞くとき、聖餐にあずかるとき、わたしたちは、「罪の赦し」と「新しい命」という、洗礼の恵みを、繰り返し受け取っているのです。そして、「自分はすでに神の子とされている」という事実に、神の言葉によって、いつも呼び戻されているのです。

人の評価も、自分自身の評価も、日々変わっていきます。
しかし、洗礼において語られた神の言葉だけが、わたしたちが本当に何者であるのかを示し続けているのです。

「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」
「これは」のところには、洗礼において、あなたの名前が入っていることを忘れないでください。 

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください