11月30日 待降節第1主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 

 アドベント(待降節)に入りました。歳の瀬が近づき、ばたばたしますが、マルタではなく、マリアのように過ごす時間を大事に持ちましょう。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会員の方々の健康が守れますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(主は来ませリ?)


イザヤ   2章  1~ 5節
ローマ  13章 11~14節
マタイ  24章 36~44節

 江利口 功 牧師
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
今日のテーマは「主は来ませリ?」です。「主は来ませリ」と言いますと、、これは「主は来てくださった」という意味ですよね。今から約2000年前、ベツレヘムという町にイエス・キリストがお生まれになりました。そして、この世界は、その恵みの現実の中に、今もあるという意味でもあります。
では、今日の説教題にはどうして“はてなマークがついているの?”と思われるかも知れませんが、それは、実は、私たちは「イエスさま方がもう一度来てくださる」ことを思い起こす季節でもあるからなんです。

待降節は、ただ、「昔、イエスさまがお生まれになった」ことを思い起こす季節ではなく、『あの方がもう一度来てくださる』ことを心に留める季節でもあります。

私たちは、ただ、「今を生きるだけ」の者ではありません。すでに来られたキリストとやがて来られるキリストの間を生きる私たちなんです。そこで、今日は、「主は来ませリ」ではなく「主は再び来たリたもう」キリストに焦点を当てて、お話したいと思います。

さて、私の車は、ノアという車で、2002年に購入した車で、既に23年経ちました。ディーラーで車検の見積もりを取りますと、40万円ちかく見積もりが出まして、「これは、さすがに厳しい」と思い近くのオートバックスに見積もりをもらいに行きました。
ノアをピットに入れて、点検をしてもらっている間、私はパソコンを開いて仕事をしていたのですが、まさに、「いつもどおりの日常」の時間が流れていました。ところがその時、大きな音で「地震警報」がなったんです。「大きな地震が来ます。安全を確保してください」という声がどこからともなく聞こえてきました。私は、キョロキョロしながら、店内の様子を見ました。でも、他の人はそれほど慌てている様子もなかったので、落ち着いて、情報源を探していますと、少し離れたところに置いてあったテレビからでした。九州の方で地震があったようです。その警報だったんです(ややこしいですね)。それでも、警告音と共に「安全を確保してください」という言葉を聞くと、やはり身構えますし、空気が一瞬にして変わります。
警告音と地震の知らせの声で、それまで当たり前のように流れていた日常の時間が、非日常の色合いを帯びた・・・そんな経験をしました。

どうでしょうか?今、皆さまのそれぞれのスマートホンから一斉にあの「警告音」が鳴り響いたら。「ドキッ」としませんか?多分、「さてさて、非難でもしましょうか・・・」とゆっくり玄関に行って靴を履き替えて出て行こうとする人はいないと思います。今、すぐ、その場で安全を確保しようと、周りの人の行動を確認して、身を守るために必死になるのではないでしょうか。

聖書を読みますと、イエスさまが再び来られる時、それは、「突然やって来る」と書かれています。聖書を読みますと、それまでの日常が、ある時、非日常に変わるというのです。そして、その時、日常が終わり、新しい世界が始まるのです。

世の終わりの時、多くの人は慌てふためくでしょう。私たちもその一員だとは思います。でも、私たちは、その時がやって来ることを知っていますし、その時、戦争や災害とは違い、これは、主の再臨なんだなって分かると私は思っています。では、私たちは、再臨の時に備えて、何をすればいいのでしょうか?

昔、ある方とこんな話をしていました。「人には必ず死が訪れますが、その時がいつかが分からないというのも何か意味があるのでしょうね・・・」。そんな話をしていました。皆さまは、どう思いますか?
私たちは、必ず死が訪れるということは知っています。でも、普段はどこかで「まだ先の事だろう」と思いながら日常を過ごしていると思います。
では、もし、自分が死ぬ時…それが何年、何月、何日まで…全て決まっていたらどうでしょうか?それって人生楽しいでしょうか??
それが、何十年も先のことなら、そのことを知った日から、急に生活が変わるということはないと思います。いつもと同じように学校に行き、仕事に行き、もしくは、家の用事をする・・・昨日と同じことが今日も続く・・・そのような感じだと思います。恐らく、見た目の生活は、今とあまり変わらないと思います。
けれども、心の中はどうでしょうか・・・「あと、何年あるから大丈夫」と思う一方で、「その日は確実に近づいている(後、何年だ)という」意識は、どこかにずっとあって、消えないはずです。楽しく過ごしていても、ふと、未来のことを考えると、少し不安になるのではないでしょうか。定められた日以降の生活設計はできませんから、先の希望を失うのかも知れません。
そう考えると、逆に「いつその日が来るのか分からない」というのは、ある意味で、私たちにとっての恵みでもあるのかと思います。
「もしかしたら生き続ける」「何かできることがある」そうした、可能性がいつも開かれている・・・だからこそ、将来を思い描き、計画を立て、希望を持って生きることができるのだと思います。

実は、聖書が語る「主の再臨」も、それと少し似ています。主の再臨は必ず来ると聖書ははっきりと示しています。でもそれが、「いつ」なのかは知らされていません。だからこそ、私たちに、神さまが創造してくださったこの素晴らしい世界で生きることができると言えると思います。
何年、何月、何日に世の終わりが来ると分かれば、誰も、未来設計はいたしません。その日に合わせて、世界中が計画していくでしょうし、自分が死んだ後ではなくて、自分の人生がちょうどその間に起こるなら、どんな風にみんな生きるのかはわかりません。全てが消化試合のようになってしまうでしょうね。もしかしたら「彗星が落ちてくる」ことが分かると世界が無法地帯になってしまう映画のように、その日が近づくと人がどうなるのかわかりません。そのような意味で「その日がいつ」なのか分からないのも恵みなのかも知れません。

忘れてはならないのは、この世界は、本来素晴らしい世界であって、神さまの前に「だめな作品」ではありません。この世界を損なっているのは、人間自身です。ですので、いつだって、この世界は変わることはできます。ただ、変わらない。それが、罪が入りこんだ世界の姿です。悪が満ちているために、本当の世界を回復されようとしている、それが、世の終わりなんだということです。
そう考えると、人生がいつ終わるか分からないのは、私たちに与えられた命を恵みの時間として希望を持って生きるためであり、世の終わりがいつなのか分からないのは、この世界が無意味な世界ではなくて、神さまの神性が豊かに現れ、神さまの愛で満ちているこの世界を享受するためにあることを感謝して生きるためではないでしょうか。

さて、イエスさまは、私たちに終わりの日にむけて、その間にどう生きるのかを教えてくださっています。

イエスさまは、他の人と違い、あなたは「目を覚ましていなさい」とおしゃっています。

私たちは、老いて、もしくは、病になり、先が見えてくると、日常と非日常の両方に生きるようになります。多くの人は、生き方が変わります。日々、感謝するようになり、また、人と人との繋がりも変わるようになります。さらに、神の恵みが見えるようになってきます。主の再臨は、寿命とは違いますが、私たちが目を覚まして生きる時に人生をよりよく生きることができるようになります。
今日の聖書箇所の次になりますが、イエスさまは、

それまで、「目を覚ましていなさい」「忠実な僕のように生きなさい」とおしゃっています。

それは、どういう生き方なのでしょうか。最後にそのことを考えたいと思います。
聖書で有名な話がありまして、それは、不正な管理人というタイトルがつけられている話です。彼は、主人の富を利用し、自分の私腹を肥やしていました。しかし、そのことがばれて解雇されそうになります。その時、彼は仕事の終わりを実感し「目を覚ましました」。彼は何をしたかと言いますと、自分の将来を確保しようとしました。彼は、友を作ろうとしたのです。自分の立場を用いて、借金を減らしたりしました。人に喜ばれる生き方を模索したのでした。聖書には、この彼の新しい生き方を主人は褒めたと書かれています。彼は「目を覚まし」「主人にとって忠実な僕となった」のです。

もちろん、悪いことをしたこの人を誉めているわけではありません。イエスさまは、この世の子らですら、この僕のように、終わりが見えると賢く振る舞うわけだ・・・。まして、あなた達は、光の子として振る舞っていなさいとイエスさまはおっしゃるんです。

イエスさまは、小さな事に忠実に生きなさい・・・そこから全てが始まりますっておっしゃっています(小さい事に忠実な人は大きなことにも忠実である)。

私たちは、神さまから色々なものを与えられ、また、託されています。命、時間、お金、立場、役割、家族、周りの人達、そして、時には、他の人にはない“賜物”というのも与えられています。それらは、「自分のもの」のようであり、また、中には「自分には関係ないこと」のように思えるものもあります。でも、実は、神さまから託されたものなんです。
不正な管理人は、解雇を告げられて、初めて気づきました。「ああ、自分は、このままでは終わってしまう。どうしよう」で、そこで彼は目を覚まし生き方を模索します。その結果、主人の財産を用いて、人間関係を回復していこうとします。イエスさまは、この喩えの最後にこうおっしゃっています。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(ルカ16:9)

これは、「不正にまみれた富とは何か?(私にとって不正にまみれた富とは何か?)」を考える必要はありません。そうではなくて、これは、喩えの最後の表現であって、イエスさまがおっしゃっているのは、あなたに与えられたもの(命、時間、お金、立場、役割、家族、周りの人達、そして、時には、“賜物”)を用いて、この世界を良いように変えて行きなさいという意味です。小さい事に忠実に生きなさいということです。

「目を覚まして生きる」とは、自分のために生きることを優先するのではなくて、イエスさまが来られた時に褒められる僕となるように生きるということです。そのために必要なのは、終わりを意識することです。すると、「目を覚ますようになり」「本当の生き方を模索するようになります」そのように生きる時、神さまからお褒めを頂くことになります。

家事、介護や育児や細かい用事など、ひとつひとつ、小さい事に忠実にこなしていくのが大事なんですね。

待降節は、ただ、「昔、イエスさまがお生まれになった」ことを思い起こす季節ではなく、『あの方がもう一度来てくださる』ことを心に留める季節でもあります。そして、目を覚ました管理人のように、忠実な僕として生きるとは何かを考える期間でもあります。なぜなら、主は、突然、やって来られるからです。
 主は来ませリであり、主は来たり給う。この間を生きる私たちです。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください