2月1日 顕現後第4主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 本日は教会総会です。私たちの教会のこれからの歩みを考えます。その前に、宣教の意味を今一度、み言葉から聞いてみましょう。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


信徒総会を覚えて。
衆議院選挙があります。日本を背負う人達が選ばれますように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(幸いな人)

2026年2月1日(日)顕現後第4主日礼拝

マタイ    5章 1~12節

瀬戸幸治牧師


●一つの入り口
ヘレン・ケラーという人物をご存じでしょうか。彼女は、幼いころの病気によって、見ることも、聞くことも、話すこともできない状態にありました。
物に触れると、触っている感触はあります。でも、それが一体何なのかがわかりません。彼女の世界は、閉ざされていました。

ある時、家庭教師としてサリヴァン先生がやってきました。
サリヴァン先生は、ヘレン・ケラーにアルファベットを教えました。
そして、井戸の冷たい水をヘレン・ケラーの手に流しながら、もう一方の手に、「W・A・T・E・R」と何度もアルファベットを繰り返しました。

その瞬間、ヘレン・ケラーに大きな変化が現れました。
水の感覚、手のひらの文字、この二つが一つに結び付いたのです。
ヘレン・ケラーはその時のことをこう記しています。
「その生きた言葉が私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、自由にした」

一つの言葉が、沈黙と闇の世界から、光に満ちた世界へと、ヘレン・ケラーを造り変えたのです。
一つの言葉が、光の世界への入り口となったのです。その入り口から、彼女の人生は、多くの人に希望を与えるものとなりました。

ヘレン・ケラーの閉ざされていた扉が、一つの入り口から、次々に開かれていったのです。

●もう一つの入り口
どうしてこの様な話をしているのかと言いますと、今日、イエスさまも、私たちに、一つの入り口を示してくださっているからです。
 
ヘレン・ケラーにとって「WATER」という言葉が、開かれた世界への入り口となりました。同じように、イエスさまも私たちの閉ざされた世界を、一つの言葉によって開いてくださいました。

それが「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」という御言葉です。

今日の聖書箇所は、マタイが記す、イエスさまの最初の説教です。山上の説教(マタイ5章から7章)の最初の部分です。「八福の教え」と呼ばれているところです。
そして、「心の貧しい人々は、幸いである。」という最初の祝福は、他のすべての祝福へと開かれていく入り口なのです。

みなさんは「八福の教え」をどのように受け止めておられるでしょうか。
これは、クリスチャンが身に着けるべき“八種類のスキル”ではありません。
また「こうなったら幸せになれる」という条件でもありません。
「こうなりましょう」という努力目標でもありません。

「八福」は、「心の貧しい」という入り口に立った人に、次々に与えられていく(連鎖していく)祝福なのです。


●「心の貧しい人」とは
では、「心の貧しい人」とは、どのような人なのでしょうか。
元々の聖書には「心」という言葉は使われていなくて、「霊」と言う意味の言葉が使われています。
つまり、イエスさまは「霊において貧しい人は幸いだ」と言われたのです。

「霊において貧しい人」というのは、「信仰が弱い人」「熱心ではない、ダメなクリスチャン」という意味ではありません。

「霊において貧しい人」とは、神の前で、差し出せる霊的な資産(自分の功績、正しさ、信仰の深さ、実績)を持っていない人のことです。
「神さま、私にはこれだけ霊的な資産があります」と差し出すことができなくて、だからこそ、いただくしかないと知らされている者のことです。

ルカによる福音書に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話」が記されています。二人の人が神殿で祈っていました。ファリサイ派の人の祈りは、自分の断食や献金、律法を守る行いを神に差し出す祈りでした。
一方で、徴税人は、目を天に向けることもできず、胸を打ち叩きながら、こう言うしかありませんでした。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
この人は、自分には何も誇るものがないことを知り、ただ空っぽの手で立っているのです。「心(霊)の貧しい人」とは、彼のように、霊的な必要を神によって満たしてもらわなければならない人なのです。

天(神)の国は、霊的に何も良いものを持っていない人に与えられるのです。

●開かれていく幸い
ヘレン・ケラーは、手に水を掛けられ、もう一方の手に文字を書いてもらいました。その二つが一つになった時に、暗闇の世界から、光の世界に生きる者へと造り変えられました。

私たちも、同じなのです。
水と神の言葉が一つになった洗礼によって、私たちは新しく造り変えられました。聖霊の働きによって、自分が「霊において貧しい人」であることを知らされ、神の国に生きる者とされたのです。

その入り口に立つとき、八福の幸いが開かれていきます。

「悲しむ人」とは、嬉しい・悲しいという感情的なことではありません。神の前で、自分が何者であるかを思い知らされる悲しみです。その人は神の慰めを受けます。

その悲しみから、「柔和な人」が生まれます。自分には正義がないことを知り、主を待つ者となるからです。その人は、地を相続するのです。

そして自分の正義を手放した「柔和な人」は、本当の義を求めて「義に飢え渇く人」になります。そのような人は神との正しい関係に置かれ満たされるのです。

「心が清い人」は、キリストによって自分の罪が覆われ、赦されている者です。主なる神をキリストの中に見出す人です。その人は、終わりの日に神と顔と顔をあわせ神を見るのです。
そして、そのような人は他者を裁かない「憐れみ深い人」となり、自身も神の憐みを受けるのです。

最後に、「平和を実現する人」とは「争わない人」ではありません。「神との関係が回復(和解)された人」のことです。その人は神の子と呼ばれます。
しかし、神の国の平和に生きる者は、この世では誤解されて、時に迫害を受けることもあります。でも、天の国はその人たちのものなのです。

イエスさは、群衆と弟子たちに向かって「あなたがたは、すでにこの幸いの中に置かれているのだ」と宣言してくださいました。

常に、欠乏や不足の中にいた群衆にとっては、自分たちが見捨てられていないこと、神の国からもれていないことを知らされる言葉です。そして、弟子たちにとっては、これから歩む道がこの世の成功や力ではなく、この祝福に支えられた歩みであることを知らされる言葉です。

この祝福(宣言)はわたしたちにも与えられているのです。
「心(霊)の貧しい人」には、天の国が与えられ、慰めを受け、地を受け継ぎ、義に満たされ、憐みを受け、神を見、神の子と呼ばれる幸いを、すでに得ているのです。

「そう言われても、実感がないわ。」と思われるかもしれません。
天(神)の国は、イエスさまが来られた時に、この世界に、すでに始まっています。でも、まだ完成はしていません。天の国が完成するのは、イエスさまが再びこの世界に来られる再臨の時です。だから、わたしたちは、まだこの世で悲しみや、苦しみも経験します。
それでも、わたしたちは神の祝福から外れているのではありません。それを、その時々の自分の気持ちや状況ではかるのではなくて、すでに幸いの内に生かされていることを、イエスさまご自身の祝福の言葉によって、確かめることができるのです。

●幸いな人
もし、信仰に迷いそうになったときは、イエスさまの最初の祝福に立ち返ってください。
「心の貧しい人々は、幸いである」
そこが、わたしたちの立ち位置です。
そこが、幸いの入り口です。

しかし、入り口に戻るのは、自分の努力ではできません。
迷い出た一匹の羊は、羊飼いが迎えに来てくれないと、自分の力では戻れないのです。
だから、大切なことは、羊飼いであるイエスさまからお世話を受けることです。
つまり、イエスさまの語られる御言葉、イエスさまがご自身を与えてくださる聖餐の前に、身を置くということです。

御言葉の説教は、私たちの貧しい姿を示し、幸いへと導きます。また聖餐によって、私たちは霊的に不足している罪の赦しと、新しい命をいただくのです。

私たちは、御言葉と聖餐によって、何度でも祝福の入り口に立ち返らせていただくのです。

 今日の説教題は「幸いな人」と付けました。
「幸いな人」とは、立派な人のことではありません。
信仰が完成した人のことでもありません。

「幸いな人」とは、何も持たずにキリストの前に立たされ、キリストの恵みによって生かされている人なのです。


































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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください