9月27日 聖霊降臨後第18主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 今日は敬老の日を覚えての礼拝です。教会で年配の方と共に礼拝に与れること感謝です。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)

前奏

今週のお祈り


・夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
・熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(恐れず受け入れる)

2026年9月27日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝
 エゼキエル 18章 25~32節 (旧1322頁)
フィリピ   2章  1~13節 (新 362頁)
マタイ   21章 23~32節 (新  41頁)

●凝り固まった心
おはようございます。ここ数年のことなんですが、息子と時々、マクドナルドのことで議論になることがあるんです。どういう議論かと言いますと、「マクドナルドのハンバーガーは身体に良いか?」ということです。私は、若い頃、マクドナルドが大好きで、特に、ビックマックをよく食べていました。でも、食べた後、お腹の調子が悪くなることが何度かありましたので、ほとんどマクドナルドにいかなくなりました。でも、子どもは、友達とマクドナルドに行く機会が結構あるんですよね。そのような時、私は、自分の経験から「マクドナルドは身体に悪いよ」と言ってしまうんです。すると、息子は「それはお父さんにとってであって、みんなに当てはまるわけではない」と言うんです。確かにそうなんですが、私は、引き下がれなくて『そもそも論』を展開します。「脂や添加物の話、また、材料の質」のことを言うのですが、すると息子は「それはお父さんの時代であって、今は、味も品質も変わっているかも知れないじゃないか」と返してきます。確かにそうですよね。昔からずっと同じなわけありません。
もちろん、どちらの主張が正しいのかそれは分かりません。ただ一つ、このことから言えることがあって、それは、私は古いの経験で今も生きているということです。子供達に言わせれば「考えが狭くなっている」「損をしている」ことになります。
「これはだめ」「こうしたら成功する」そういったことを最初から決めてしまうと、その先にあるものを見ようとしなくなり、結果的に狭い世界の中で生きることになってしまいます。
●この世界はそんなものではない
 確かに、自分が小学生の頃を思い起こすと、世界が輝いていたように感じます。今よりもずっと広く感じていたような気がするんです。例えるならば、両開きの窓が大きく開いていて、その向こうに広い景色が見えていた感じです。
「これをしたらどうなるんだろう」「あそこに行ったら何があるんだろう」そんな風に、ワクワクすることが沢山ありました。未来を恐れず選択出来ていたような気がします。
でも、段々、経験や知識が増えていくと、「こうなるに決まっている」「こなって欲しくない」「こういうことをしたら結果はだいたいわかる」そんな思いが増えて来て、気がつくと、大きな部屋に小さい窓をあけて外を眺めているような感じになっているんです。
こんなやりとりがあって、最近は、少しですが「これまで選ばなかった選択を、試しに選んでみよう。その結果を見てみよう」そんな風に思えるようになりました。もちろん、“神さまを信頼して、試しに、その世界に一歩踏み入れて見る”そのような感じです。でも、不思議なことに、思ったこととは違う結果になることがあるんですよね。思っていた景色とは違う世界を見ることが出来たりするんです。

●私たちの心
 神さまは、この世界をお造りになりました。そして、世界をお造りになってそれで終わられたのではありません。今も、この世界を支え、導き、働き続けておられます。今でも神さまの創造の御業は続いているんです。その神さまが約束されていることは、私たちの人生は必ず益となるようにしてくださるということです。たとえ私たちが「失敗した」と思える選択や結果になってしまったとしても、その結果、「私の人生はこうなるに違いない」そんな風に思えたとしても、その未来を変えてくださるのが神さまなんです。神さまを信じる人の未来は閉じていません。
 なのに、その私たちを不自由にしてしまうのが、選択する恐れです。「これがわたしの得た結論」他にも諦めや、恐れや、欲望が、選択する力を私たちから奪い不自由にしてしまいます。

●バビロン捕囚の話
 昔、イスラエルの民は、バビロンという国に捕囚されました。最初、一部の人だけが、バビロンに連れていかれたのですが、その時、エゼキエルという預言者が立てられました。彼は、バビロンで神の言葉を語ります。その内容の一部が今日、読んで頂いた御言葉です。エゼキエルは、バビロンの川のほとりで幻を見ます。イスラエルの民の偶像礼拝の姿、また、神の栄光がエルサレムの神殿を離れていく姿・・・そういった悲しい幻を見ます。
 神さまは、エゼキエルを通して、民が心を改めてご自身に立ち帰るように何度も語られました。しかし、民はエゼキエルの言葉に耳を傾けませんでした。実は、聖書を読むと、神さまは初めからエゼキエルに「この民は頑なで、あなたの言葉を聞こうとしない」と語っておられました。
 では、どうして聞かないと分かっているのに、神さまはそれでも「立ち帰れ。」と語り続けられるたでしょうか。
 それは、神さまが民を見放す方ではないからです。神さまは、背を向け続ける民に対しても、なお手を差し伸べ、なお呼びかけるお方だからです。さらに、どんなことがあっても共にいる神さまだからです。
 そして、その神さまは、エゼキエルに対して希望をお語りになります。それは、神さま自らが、頑なな民に再び命を与えるために働かれるということです。
 その彼らの石のように固くなった心をわたしが取り除き、新しい心を彼らに与える・・・その約束が語られて行くのです。
 神さまは、語り続ける、そして、最後には、人の心を内側から変えていかれる。これが聖書全体を通して語られている福音です。

 実は、エゼキエルがバビロンで神の言葉を語る一方で、エルサレムでは、エレミヤが民に神の言葉を語っていました。もちろん、民は聞きません。エレミヤは何と「バビロンに降伏するように」勧めます。なぜなら、強大なバビロンと戦っても勝つことはできず、死者が増えるだけからです。また、下手に隣国ど同盟を結ぶと、その国の神を拝むようになるからです。実際に、エゼキエル、エレミヤの時代、人々は偶像の神々を拝んでいました。聖書の神さまを信じてはいますが、唯一の神さまだけを信じるのではなくて、現実的な“見える祝福”をくれる神さまも信じていたのです。
 彼らは、長年偶像礼拝をしてきたことで、それが日常になってしまっていました。神さまの教えをないがしろにした結果、不正がはびこり、不道徳に満ちていきます。イスラエルの民は偶像礼拝に陥ることで、国もまた弱体化していったんです。そこにバビロンという大きな国が攻めて来たのでした。
バビロンに攻められたのは、自分達の霊性が堕落したのが理由なのに、その原因を、自分達の先祖のせいにさえしていました。さらに、自分達が被った災難を神さまのせいにもしました。また、ご利益主義というのでしょうか、しっかり御言葉に生きていないのに、大丈夫神さまはすぐに助けてくれる・・・そんな安直な考えにもなっていました。
エゼキエル書18章29節からこう書かれています。
それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 神さまはイスラエルの民を見捨てず、心を入れ替えるのを待っておられました。でも、先ほども言いましたが、彼らが心を入れ替えないことはご存じでした。も、神さまは、お語りになります。従わない彼らは、裁きを受けます。でも、神さまは、希望の未来を提示されます。
 エゼキエル書11章19~20節にこう書いてあります。
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」
 彼らの頑なな心に対して、神さまが、あなた達に新しい霊を授け、新しい心を造りだすと宣言されていたのです。そして、再び、わたしとあなた達との関係は回復するとおっしゃったのです。神と民との麗しい関係を神さま自ら回復してくださるのです。
 これは、まず、バビロン捕囚から解放されることで実現します。しかし、実際には捕囚から帰って来ても、彼らの心は完全には新しくなりませんでした。実際には、イエスさまによって実現していきます。新しい心は、聖霊の働きの中で実現していくのです。

●イエスさまによる成就
 今日の福音書を読みますと、エゼキエルの時代から何百年もたっているのに、人の心が変わっていないのがわかります。
 イエスさまがエルサレムの神殿に来られた時、祭司長や長老たちが近寄ってきます。神さまの言葉をよく知っている人、また、祭儀を通して神さまへ民を導く立場にあった人達です。イエスさまが、彼らの行いを正され、神の御心を語られた時、彼らは「自分達が間違っている」と立ち止まらないとだめな人達です。なのに彼らは立ち帰ることもなく、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問いただしたのです。自分達を問いただすのではなくて、イエスさまを問いただしたのです。

イエスさまは、洗礼者ヨハネとは誰だったのかと問いただし、続いて、二人の兄弟の譬え話をなさいます。
初めや嫌と断ったが、考え方を改めた兄。初め「はい」といい返事をしたのに行かなかった弟。イエスさまは、神さまを言葉を聞いて、向きを変える人を神さまは喜ばれる・・・そのことを教えられました。でも、宗教指導者たちは、考えをなおそうとはしませんでした。それどころか、イエスさまを排除しようと計画し始めるのです。ここに、人間の頑なさの姿が分かります。

自分の考えを変えたくない、自分の立場を守りたい、私は正しい。その思いはいつも私たちに付きまとっています。彼らは最後には、イエスさまを殺すまでにいたります。でも、そこに救いが実現していくのです。人間の罪さえも救いへと用いられて行くのです。
イエスさまは、ご自身の血によって、私たちの罪の赦しを与えてくださいました。そして、復活し、天に昇られたイエスさまは、聖霊を送ってくださいました。その、聖霊が私たちの心に働きかけ、石の心を新しい心に変えてくださったのです。ルターは小教理問答の中でこう解説しています。
自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを私は信じます。けれども、聖霊は、福音をとおして私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。それは聖霊が、この地上の全キリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そして、イエス・キリストにある、まことの一つの信仰のうちに支えられるとおりです。聖霊はこのキリスト教会において私とすべての信仰者に、日ごとにすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、私に、キリストを信じるすべての者とともに、永遠の生命を与えてくださいます。これは確かにまことです。

 エゼキエル書に約束されていたことは、こうして神さまの働きによって成就していったのです。
●恐れず受け入れる
初めにお話しましたが、私たちは、自分の力では中々意志を変えることができません。「昔はこうだった」とか「あの人はこんな人だから」とか「私の未来は決まっている」とか「結果はこうなる」とかそういった私の経験が生き方を支配していることがあります。でも、そこに神さまに委ねる心があれば柔らかい心になることができます。未来は神さまが決めておられる。そのことを意識すると恐れを受け入れることができるようになります。そうすることで、周りの人を幸せにしていくことができます。そのために、神さまの御言葉に触れること、特に、礼拝の中で、御言葉と聖餐式を通して神さまと交わりを持つことです。
 神さまは、天地の創造主です。聖書が天地という時、それは宇宙と地球ということではなく、見えるもの、見えないもの全てという意味です。神さまは、世界を造って終わられたのではなくて、今も、私たちを支え、導き、働いてくださっています。それは、私たちがどんな選択をしても、いつも未来を良いように変えてくださいます。
 私たちの頑なな心を、神さまが変えてくださいました。それは、交わりを回復するため、また、命を得るためです。その神さまが、私たちの人生を支え続けてくださっています。神さまが喜ばれるのは、その神さまを知ること、信じること、委ねることです。
救いを受けた私たちは、心が変えられました。そして、柔軟に物事を選択することができるようになっています。ですので、恐れずその選択を受け入れる。是非、やってみてください。神さまは味方です。広い世界を見ることができるようになると思います。
 人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

◆ 今週の小教理問答(主の祈り) ◆
・み名が聖とされますように。 この意味は。
 答)神の名はもちろんそれ自身聖なるものですが、われわれはこの祈りによってわれわれの間においても、これが聖なるものであるように祈るのです。
・それはどうして実現しますか。
 答)それは神のことばが正しく、純粋に教えられ、またわれわれが神の子として、みことばに従ってきよく生活する時に実現します。天におられる愛する父よ、このためにわれわれを助けてください。しかし、神のことばの教えるところと違うことを教えたり、行なったりする人は、われわれの間にあって、神の名を汚すのです。天の父よ、このことからわれわれを守ってください。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください