8月16日 聖霊降臨後第12主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 昨日は、終戦記念日でした。戦争は本当にしないほうがいいです。主がおっしゃるように平和を実現するものとなりましょう。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(求めないとわからない)


詩編   67編  1~ 8節 (旧899頁)
ローマ  11章 11~24節 (新290頁)
マタイ  15章 21~28節 (新 30頁)


●信じている・仕えている
 おはようございます。教会学校では毎月、聖書の御言葉を1節ずつ暗唱しています。今月の暗証聖句は列王記上17章1節の「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」という御言葉です。これは、預言者エリヤがイスラエルの王、アハブの前で語った言葉なんです。アハブという王はイスラエルの王でありながら、聖書の神さまではなく、異教の神々を礼拝する王でした。聖書には、それまでのどの王よりも「主の目に悪とされることを行った」と書かれています。そのアハブ王の前にエリヤが行き、彼の前で「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言ったんです。
 私はこの暗証聖句を見ながら、ちょっと気になったことがあったんです。エリヤはアハブに「私が信じているイスラエルの神、主は生きておられる」とは言わなかったんですね。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言ったのです。
 「私は神さまを信じています」という時には、神さまがおられることを認め、その神さまを信頼して生きているという信仰者の姿を表現しています。でも、「私は神さまに仕えています」という時、少し、響きが違って聞こえませんか?「神さまに仕えています」という時には、もう一歩踏み込んで、信じているということに加えて、「神さまとの関係の中で、神さまを畏れ、御言葉に従って歩んでいます」という生き方まで含まれていると思います。
 今、礼拝の前に小教理問答から十戒を少しずつ学んでいますよね。この十戒についても同じことが言えると思います。つまり、「この戒めは大切だ」と思って受け止めると「まいっか・・・」ってなりませんか?でも「神さまが命じられたことだ」と、畏れ多くそれを受け止めて実践していくと、不思議なことが起こったりするんですよね。そうやって重い腰をあげて実践したときに初めて見えてくることってあるんですよね。
 私は、今日の聖書箇所を読んでいて、「祈り」についても同じようなことがあるのではないかと思いました。

●願う・求める
 私たちは神さまに色々なことを祈ります。その多くが「願い」だと思います。「病気を癒してください」「子供達を悪いものから守ってください」「問題が解決しますように」という風に祈りますが、「神さま願う」ことはとても大切です。でも聖書は「祈り願うように」教えるだけでなく、「求めなさい」とも命じているんです。もちろん「願う」と「求める」というのは同じような意味ではありますが、「信じる」と「仕える」のように違いがあります。
 「願う」というのは、必要なものがあって、もしくは、願望があって、それを「叶えてください(与えてください)」って神さまに祈ることです(簡単に言えば)。でも、「求める」というのは、願いを打ち明けることよりも、「探し求める」得るまで頑張り続けるという意味を持っています。
 例えば、「神の国とその義を第一に求めなさい」とイエスさまがおっしゃる時、それは、「神の国とその義をください」と願うことではありません。そうではなくて、得ようと必死になるということではないでしょうか?

 今日、福音書に出てくるカナンの女性は、まさに、「願う人」から「求める人」にまで変わっていく人の姿でした。そのような、イエスさまから離れず、憐れみを求め続ける彼女の信仰を見て、イエスさまは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃったのでした。



●福音書の舞台設定
さて、今日の福音書ですが、イエスさまは、ティルス・シドンの地方に行かれたと書かれています。普段、聖書を読んでいますと、色々な地名が出てくるので(しかもカタカナで出てくるので)、右から左へと流れていくことあるかと思います。ただ、今日の、ティルス・シドンの地方とあるのはとても意味があるんです。ティルス・シドンは、異邦人の土地なんです。そこにもまた異教の神があり、それを信仰する人たちがいたんです。そのような町にイエスさまと弟子たちは行かれたんです。
なぜ、そのような異邦人の町にイエスさまが行かれたのか(普段はいかない地域です)・・・聖書には明確な理由は書かれていません。ただ、ここでは、人を射癒したり、御言葉を語る目的はなかったようです。聖書を見る限りでは「人目を避けてひとまずイスラエルの地を退かれた」という感じです。

●彼女は求める人へと変えられて行く
このカナンの女性は、イエスさまがやって来られたことを知りました。そして、恐らく、誰かから、イエスさまのことを聞いていたと思われます。彼女は、悪霊に取りつかれた娘を癒してもらうために、イエスさまの所にやってきました。彼女の願いはシンプルでした。「娘を癒してください」これだけです。しかし、彼女は、噂に聞いていたイエスさまとは違う姿を見ることなります。イエスさまは、彼女の願いを聞き入れてくださる様子もなく、黙っておられたのです。弟子達でさえ、何とかならないものか・・・と思ったほどでした。
イエスさまはこうおっしゃいます。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

「失われた羊のところにしか」・・・この「しか」という言葉は彼女にとって、突き刺さったと思います。「あなたは対象外」という風に聞こえてもおかしくないからです。
しかし、彼女は、「そうですか・・・私は対象外なのですね・・・」とその場を去ったのではありませんでした。彼女は、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。イエスさまから離れようとしなかったのです。ただ「願う姿」から「求め続ける姿」に変わっていきました。彼女は、イエスさまの憐れみにすがったのです。

イエスさまは、「失われた羊のところにしか」とおっしゃいました。これは見方を変えると「冷たいな」って感じると思います。でも、たとえば「天国は義しい人しか入れない」と聞けばどうでしょうか?「冷たいな」って思いませんよね。「そりゃそうだよね」って思いますよね。実際、天国は義しい人しか入れません。本来私たちは入れないんです。入れなくて当然なんです。では、私は対象外ですねって去りますか?やはり、そんな私を憐れんでくださいって願いますよね。すると、愛の神さまは願い求める人に「そのあなたを救う」と言ってくださるのです。

「失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉に対して、彼女は諦めませんでした。「主よ、どうかお助けください」と助けを求めました。するとイエスさまは今度は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃいます。これを聞けば、「そうですか・・・では諦めます」と言いたくなりそうですが、彼女の求める思い(何とかして娘を助けたい)という思いは、イエスさまの言葉の中に含まれている希望を見つけることができたんです。
彼女は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
彼女は、主の食卓から完全に締め出されているのではないという事実を受け取りました。そこで、「そのおこぼれだけでいいからください。それだけで十分です」と返すことができたのです。


●聖餐式にたとえてみる
例えば、聖餐式の時は、みなさまが聖壇の所に来て、パンとぶどう酒を頂かれますよね。神の家族として主の食卓から頂きます。その時、私が、みんなにあげながらも、みなさま(あなた)の前を通りすぎたらどうでしょうか。「あれ、先生、忘れてはるのかな?」と思って、「先生、先生、わたし、わたし」って言うと思います。その時に私が「義しい人しかあげれないんですよ」って言ったらどうしますか?ちょっと不服に感じつつも、「そうですか、では仕方ないですね」ってなるかも知れません。
では、聖餐のパンが、どんな病気でも治す、不老長寿のパンであればどうでしょうか?何としてでも欲しいと思いません??パンを裂いた後の粉(パン屑)でもいいからくださいっていいたくなりませんか??それが、この女性だったんです。

 彼女は、自分の娘を癒せる人は、イエスさましかいないと思っていました。ですので、求め続けたんです。彼女は、イエスさまから離れようとしなったんです。パン屑でいいから欲しい。そう思えたんです。その思い(イエスさまを誰かと把握し、憐れみを求め続けたその思い)にイエスさまは、答えてくださいました。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
 その時、彼女の娘は癒されました。彼女が帰ると、元気な娘がいたのです。

私は、今日の聖書箇所を読んで「求める」「イエスさまから離れない」って大事だなって思いました。

彼女は「救いはあなたにしかありません」と信じて、どのような状況でも(癒してもらえないように聞こえる状況でも)イエスさまから離れませんでした。

この信仰が大事だと思います。

●私たちの祈り
 私たちは、祈ります。神さまに願います。でも、願ったことがいつも叶うわけではないことも経験しています。そういう時、「主よ、なぜ願いをかなえてくださらいのですか」と思うことあるし、また、「祈っても仕方がない」「これは聞いてもらえない願いだったんだな」と諦めることだってあります。
 しかし、今日の聖書箇所から受け止めたいと思うのは、願っている結果が得られなくても、神さまから離れない(イエスさまから離れない)ということです。危険なのは「祈っても仕方がない」「祈ろうが、祈らなくても結果は変わらない」と神さまとの対話を辞めてしまうことです。

 祈りには力があります。私の経験上そう感じますし、祈りを大切にしている方の人生は何かが違っています。祈りが叶えられない時を何度も経験している人であっても、祈り続ける人は揺るぎない何かを持っておられます。
私たちにとって大切なのは、どのような状況でも憐れみを求め、神さまの側から離れないことです。「祈っても仕方がない」と諦めるのではなく、求め続けることです。

この女性は、最初、イエスさまに願いさえすれば・・・そのような思いだったと思います。でも、彼女の必死さが、イエスさまに叫び、ひれ伏し、「主よ、助けてください」と求めるまでになりました。
彼女は、救いはあなたに及ばない・・・そんな風に聞こえました。でも、憐れみを求め続けました。そして、彼女は「イスラエルしか」というのを乗り越えて、憐れみがこぼれてくる神さまを知りました。

神さまの憐れみは、本来であれば、対象とならない人をも、その翼の中に包み込んでいく愛なんです。

願い求め続けたからこそ、神さまとの本来の関係、そして、憐れみにより、それをも超えて恵みを与えてくださる神さまの姿を知ったのです。
 是非、憐れみ豊かな神さまに祈ることをあきらめないでください。神さまを信じて、あなたしか私を救える人はいないのですという思いで、イエスさまの側から離れない信仰を持って頂ければと思います。


人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください