挨拶(ライブ配信)
今日は、小雨ですが小学校の運動会が開催されるようです。競技の間、神さまが晴れ間をくださいますように!
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
・熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(最も重要な掟)
2026年10月25日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝
レビ 19章 1~18節 (旧191頁)
1テサロニケ 2章 1~ 4節 (新374頁)
マタイ 22章 34~40節 (新 44頁)
●監獄ミュージアム
おはようございます。先日、奈良市にあります「奈良監獄ミュージアム」に行ってきました。奈良に監獄があったということを知らなかったので、知ってびっくりしました。これまで近くを車で何度か走ったことがあったのですが、まさかそんな施設がそこを少し入ったところにあるとは思ってもみませんでした。鹿のいる奈良公園を超えて行き、すこし静かな街並みになってきたなと思ったところで、突然、赤レンガ造りの古い塀が現れるんですね。目の前に現れた時は「お~」っていう感じでした。奈良は、古いお寺や神社というイメージがありましたので、明治・大正時代を感じさせる赤いレンガ造りの塀や建物を見た時には感動しました。
この建物は、1908年に完成したそうで、当時は、近代的な監獄だったようです。最後は少年刑務所になったそうですが、それでも、2017年まで、この施設(監獄)は使われていたんです。2017年ですよ。
門をくぐって中に入り、そして受付を通っていきますと、人が少なかったこともあったのでしょうが、周りが塀で囲まれた静かな空間で、そこに放射状に伸びた監獄がありました。それ以外は、庭のような感じで、ほんと静かな空間でした。そして、実際に監獄の中に入っていきますと、小さい部屋が両サイドにいくつも並んでいるんですね。部屋を覗いたりしながら、静かな廊下を歩いて行くのですが、つい最近までここが使われていたんだなと思うとリアルと言いますか、いろんなことを考えさせられました。
あまり詳しくお話するよりも、是非、一度、足を運んでもらう方が良いと思いますので、是非、お出かけ下さい。お勧めの場所です。
●自由って何だろうか
古い時代、悪い事をした人達には、それに応じた“刑罰”というものが課せられていましたよね。痛みを負わせて苦痛を与えるという感じです。もしくは極刑であれば死刑ですよね。そういった体罰を与えるのが昔は主流だったのですが、近代では“苦痛”ではなく“自由を奪う”という刑罰に変わったそうです。
鍵がかかっている狭い部屋でずっと過ごします。食事の時間も、眠る時間もきっちりと定められています。もちろん、労働もあります。そのようにして生活や行動が制限されているわけです。とはいえ、ず~と施設を見学していますと、制限されている自由っていったい何なのだろうか・・・そんなことを考えさせられました。
テラスにある椅子に腰を下ろして、庭を眺めながら、息子と「この施設」のことや「自由な生活って何か」を話していました。食事も栄養を考えて出てきます。働くと言っても、足に重い鉄の塊が引っ付いているわけでもありません。病気になれば見てもらえるし、一応、お風呂にも入れます。ただ、そこに入れられないと分からない苦しさがあるんでしょうね。それっていったいなんなのでしょうね。
ここに入っていた人達は、世間でいう決まりを破ってしまって、ここに収容されたんですよね。で、刑が済めば、また、社会に戻ることができます。施設の解説では、出所した人達は、その後、大きく二つに分かれるっていうんですね。それは何かといいますと、出て来た自分を温かく迎えてくれる家族や社会がある人とそうでない人だそうです。帰る場所がなかったり、迎えてくれる人や社会がない場合、再び罪を犯してしまう人もいるそうです。
そう考えた時に、私たちが暮らしている社会は、その人達にとって本当に「自由」な世界なんだろうかって思わされました。
この監獄ミュージアムのHPには、こんな言葉が掲げられていました。
「誰しも心の片隅にある「自由」への問い。行動や時間を制限された被収容者たちの生活を知るうちに、あなた自身も「規律」に縛られているのでは?「自由」とは?と問いを巡らすミュージアム。見終わった時、今の自分からの解放感を得るかもしれません。」
この言葉は深いなって思いました。監獄にいた人たちは自由を奪われていた。しかし、監獄の外で暮らしている私たちは本当に自由に生きているのか?そんなことを考えさせられる空間、それが、この施設なんですというんですね。
確かに、受刑者の人たちは自由がなく厳しい規則があります。起きる時間、働く時間、食べる時間、寝る時間など細かく定められています。それに従う必要があります。一方で、私たちは、確かに自由です。でも、どこか不自由を感じるのも事実ですよね。私たちって、社会の見えない何かに縛られていると思います。例えば時間に縛られたり、評価に縛られたり。実は、そんな、見えない何かに縛られているのが私たちだったりするんです。
●私たちの現実
でも、実はそれだけではなくて、私たちは、もう一つの「不自由」な状態にあると教えているのが聖書なんです。もう一つの「不自由」とは何でしょうか。
それは、私たちが罪によって神さまと離れている現実。また、隣人を愛する力を失ってしまっている私たちの姿です。
これは、霊的な意味での「不自由」です。聖書を読みますと、人は最初、エデンの園にいたとあります。ここは、神さまと共に生きる空間。何不自由ない喜びの世界でした。しかし、人が善悪の知識の木から取って食べた時、人の中に罪が入り込みました。罪人のままで永遠に生きてはならないと、神さまはエデンの園から人を出されました。そして、今の私たちの社会があります。
イエスさまはおっしゃいました。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)。
奴隷というのは、主人の支配のもとに給仕させられ、自分の思い通りに生きることができない人のことですよね。私たちは奴隷の状態にあり、イエスさまはその主人こそ「罪」だと言うのです。「罪」が人を支配しているんです。
これって悲しい現実ではないでしょうか?でも、イエスさまは「そのあなたをわたしが自由にする」とおっしゃるんです。イエスさまだけが私たちを自由にできるお方なんです。
●愛する力を完全に失っている
今日の聖書箇所でイエスさまはこう言っておられます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
わたしは聖書を信じるようになった時、新しい生き方を教えてもらったような気がしました。「愛する」ということがどれだけ素晴らしい生き方なのかがわかり、本当にそのように生きたい、頑張ろうって思いました。
でも、なぜか教会では、イエスさまの十字架、イエスさまの十字架って言うわけです。初めは何のことかわかりませんでした。
でも、しばらくして、私たちは罪人で、その罪を背負ってイエスさまが十字架で死んでくださったということが分かりました。でも、まだ、そのことが何を意味しているのかはわかっていませんでした。
初め、罪を犯したので、その犯した罪を背負ってくださったのがイエスさまだったという程度しか理解していませんでした。つまり、わたしの部分的な罪をイエスさまが引き受けてくださったくらいでした。
でも、後にわかりました。神さまを愛し、隣人を愛する。本当にこの素晴らしい生き方が、私にはできないんです。その力を失っているんです。そう理解できたとき開放感を感じました。
●不自由を知らせるため
刑務所に入っている方って、ある程度の自由はあります。たとえば、部屋に一日ずっといることって私たちにもありますよね。では、刑を受けている人と何が違うのかと言いますと、外に出ようと思っても鍵がかかっていて絶対に出れないってことです。私たちは、一日家にいることはあっても、外にでようと思えば出れる状態です。でも、でないだけです。これは自由です。
同じ様に部屋にいる状態でも、刑を受けている人は外に出ようと思えば鍵がかかっている現実を実感します。ここが大きく違います。本当に(完全に)自由を失っているんです。
会堂の後ろにキッチンがありますよね。私たちは、いつでもキッチンに入れます(今日もそう思っています)。でも、用事がなければ入れません。でも、もし、キッチンだと思っていたら、壁に描かれた絵だったらどうでしょうか?見た目は、本当にキッチンがあるかのように思うんです。いつでも、行けると思います。じゃあ、そのキッチンに実は入れないということが私が知らせようとしたらどうしたらいいでしょうか?簡単ですよね。キッチンに入りましょうと私が言えばいいのです。
罪人となっている私たちに神さまは、本当の生き方を教えておられます。それが、律法です。でも、その律法は同時に私たちに無理だ、その力がないと教えるんです。
●私たちを自由にするために
では、どうやってイエスさまは私たちを自由にしてくださるのでしょうか。先ほど、監獄の話をしましたが、監獄に入れられた人は、自分の力で外へ出ることができません。出たいと願っても無理です。その人が自由になるために必要なのは、誰かが外から鍵を開けてくれることです。
私たちも同じです。誰かが外からやって来て、私たちを救い出してくれなければならないんです。それが、イエスさまでした。
神さまを愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。これは本当に素晴らしい掟です。こんなふうに生きることができたら、どれほど幸せな世界になるでしょうか。しかし、私たちは、自分の心を見た時に、どれだけ愛に生きても、やはり、心の奥底に「自分」があるんですよね。それが、罪の奴隷となっている私たちの姿なんですね。
神さまは律法を通して、神を愛し、人を愛しなさいと命じておられました。イエスさまは、人となられて、「忘れてないか?愛に生きているか?」そのことを伝えるために人となられたのではありません。イエスさまはこうおっしゃっています。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12~13
イエスさまは、私たちを解放するために、自由にするために、神さまなのに人となられました。私たちは、罪の奴隷であり、病人なんです。ですので、イエスさまが助けに来てくださったんです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
これは、イエスさまが人となられて生きられた姿そのものです。そして、神さまの前に完全に歩まれ、私たちの贖いのために十字架で死んでくださいました。そして復活されました。ここに完全な愛があります。
私たちは自由にされています。この地上で生きる間、まだ、原罪は残っていますが、私たちは、罪からも死からも悪魔からも解き放たれているんです。だからと言って、自由に、好き勝手に生きたらいいということではありません。私たちは、神さまを愛し、隣人を愛して生きるということを求めて生き続けるのです。
●最後に
監獄ミュージアムって、作った施設ではなく、実際の施設だからこそ、日常の当たり前の世界から、もう一つの現実の世界に触れることができたのかなって思いました。私は、神学校の卒業旅行でイスラエルに行きましたが、やはり、実際にイエスさまが歩まれ、奇跡を起こし、そして、捉えられ、十字架で死んでいかれた場所だったからこそ、心に響くことが多かったのだと思います。
エルサレムでイエスさまは、人間にとって最も重要な掟を教えられました。そして、同じエルサレムで、その掟を守ることのできない私たちを救うために、十字架でご自身の命を捧げてくださったのです。
私たちにとって神さまとの関係を回復する最も重要なものは、掟から、イエスさまご自身に変わりました。天国の扉の鍵を開けるのは私たちの力では無理でした。イエスさまが人となってその扉の鍵を開けに来てくださったのです。
そのイエスさまが、今日も私たちに命じておられることを最後に見たいと思います。ヨハネによる福音書15章5節(新198頁)をご覧ください。
『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』
私たちは、イエスさまと繋がることによって、愛に生きることができるようになっていきます。
人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください