挨拶(ライブ配信)
受験がほとんど終了したようです。新しい生活が始まります。神さまはどんな状況でも必ず祝福してくださいます。。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・世界の戦争が早く終結しますように。
・住みやすい世界になりますように。
・全体総会の選挙を覚えて。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(いのちの源・支配者)
2026年3月22日(日)四旬節第5主日礼拝
エゼキエル 37章 1~14節 (旧1357頁)
ローマ 8章 6~11節 (新 284頁)
ヨハネ 11章 17~45節 (新 189頁)
江利口 功 牧師
おはようございます。
「神さまは、どのようなお方なのか・・・」。このことは、私達にとっては、とても大事なことではないでしょうか?神さまがどのような方かによって、私達の生き方・あり方も変わってきますし、また、心の平安も「どんな神さまか」で変わってきます。さらに、苦しみに際しても、死に際しても、希望が持てるかどうか、慰めを得ることができるかどうか、そういったものも変わってくると思います。
例えるならば、小さい頃、「どんな先生」が担任になるかって大事ではなかったでしょうか?どの先生が担任になるかで、その一年の楽しさって違っていたと思います。
私の小さい頃の記憶を思い起こしても、いい先生のことって覚えています。後になって、良い先生にあたると、安定した一年を過ごせていたなと思いますし。楽しかったのを覚えています。
生徒のことを本当に大事に思ってくれる先生っていいですよね。
「神さまがどのようなお方なのか・・・」で、私達の人生は大きく変わります。遠い存在の神さま、恐ろしい神さま、すぐ怒る神さま、気分次第でコロコロ変わる神さまですと、生きていて、安心することもありませんし、心は平安になることはありません。私が良い子にしている時は、恵み豊かな神さまで、そうでないときは、これでもかって苦しめる。そんな神さまって嫌ですよね。神さまは選べませんから、どんな神さまであるかは、大きな関心事だと思います。
そう考えますと、神さまは聖書を通して、本当にご自身のことを表しておられます。義しい神さまでありながら憐れみと慈しみに溢れた愛の神さまが、私たちの神さまです。そのことを知識や定義を記すのではなく、実際に人類に深く関わってくださることによって、ご自身のことを教えてくださっています。
そのようなことを考えた時、私は、今日の聖書箇所は、神さまのことをとてもよく表している箇所だと思います。
さて、ある村に、マルタとマリアという姉妹がいました。よくご存じの姉妹だと思います。その姉妹に、ラザロという兄弟がいまして、そのラザロが死んでしまうんですね。
ラザロが死んでから、4日目になってイエスさまは彼女達の家に来られました。すでに、ラザロは墓に納められており、みんな悲しみの中にいました。
イエスさまが到着すると、姉のマルタがイエスさまを迎えます。21節を見ますと彼女はこう言います。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
死ぬ前に来てくだされば、わたしの兄弟は助かったのに・・・」そのような彼女の思いを感じます。
そのように言ったマルタに対して、イエスさまは、こうおっしゃいます。
「あなたの兄弟は復活する」
イエスさまの言葉に対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。
つまり、マルタは、終わりの日に神さまがラザロをよみがえらせてくださる・・・永遠のお別れではない・・・そのような希望を持っていたようです。
でも、イエスさまは、ここでもう少し違ったご自身の姿をお示しになります。イエスさまは、こうおっしゃいました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
「わたしは復活であり、命である。」これって、分かるようで、意味をつかみにくい不思議な言葉ではないでしょうか。「わたしは復活する」とか「わたしは人を復活させる」というのなら分かります。けれども「わたしは復活である」「わたしは命である」とはどういうことなのでしょうか。
これは、イエスさまが、命の源(そのもの)であり、命も死も支配する者であるという意味となります。ですので、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」、とおっしゃるのです。
例えるならば、私たちはバッテリーで動く電化製品のようなものです。バッテリーが切れると電気製品は動かなくなります。そういう時には、充電しなおさなくてはなりません。充電できてもまた切れて動かなくなります。でもどうでしょうか?電化製品をコンセントつまり電源にさすとどうでしょうか。そうすると、バッテリーを気にせず、ずっと動きます。つまり、イエスさまを信じる人は死はないのです。スイッチを切ると電化製品は止まりますがいつでも再起動できる状態にあります。これが死と復活、そして、今の私たちの状態です。
私たちの命はイエスさまの命と繋がり、永遠にエネルギーが供給されます。
ただ、ここでイエスさまをコンセントのように思って欲しくはありません。今日皆さまにお伝えしたいことは次のことで、私達が利用する電気は、石油や風力、水力、太陽光など色々ありますが、それらは、全部、太陽のエネルギーがないとダメなんですね。太陽は全てのエネルギーのおおもとです。ですので、イエスさまは、太陽のような存在(太陽に優る存在)ということです。「命のエネルギー」に満ちたお方、それがイエスさまです。
そして、もう一つ、イエスさまは死を支配しておられるお方です。アダムとエバに「とって食べたら死ぬ」とおっしゃったのか神さまでした。つまり、死を定めたのは神さまです。
つまり、神の御子イエスさまは死に支配されていないだけではなくて、死という事実の支配者でもあるということです。
私達のこの身体は、いずれ死を迎えます。でも、私達の命は、もはや死に支配されていません。なぜなら、イエスさまと一つとなっているからです。
ですので、私達にとっての死は、全ての終わりを意味しません。もちろん、死は恐ろしく、また、周りの人にとっては辛く、悲しいことです。けれども死は私達とその人との間の「永遠のさようなら」ではないのです。
イエスさまは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「このことを信じるか。」とおっしゃいました。
このイエスさまの言葉に、「はい」と答えたいですよね。
「神さまがどのような方か・・・」それは、私達にとって大事なことです。イエスさまは、命の源であり、死さえ支配しておられるお方です。イエスさまはそのようなお方なのですが、もう一つ、今日の聖書箇所から、私たちが知ることができる神さまの姿は、「寄り添う神」「涙を流される神」です。
イエスさまは、涙するマリア、そして、周りのユダヤ人たちも涙しているのを見て、ご自身も涙を流されました。なぜでしょうか?イエスさまはこの後、ラザロを蘇らせることをご存じでした。手を取って「大丈夫だよ」ってニコって私達ならするじゃないですか?でも、イエスさまは、涙を流されたと書かれています。それは、愛する者の死が深い悲しみであることには変わらないからです。それは、信仰を持っていても変わらない事実です。
イエスさまは、その人の死の現実に寄り添ってくださって、涙されたのでした。
涙されるということは、どういうことでしょうか。必ず何とかなさるということではないでしょうか。
初めに学校の担任の先生のお話をさせていただきましたが、私達の時代、厳しい先生が多かったと思います。でも、その背後に愛情があったと思います。近年は、寄り添う先生が大事で、厳しい先生はあまり流行りません。でも、厳しさの背後に愛情がある先生こそ、本当にいい先生だったと思います。
神さまは、義なる方なので厳しいです。そのようなお方なので、「罪をなかったこと」にすることは決してなさいません。でも、愛なる神さまは、義と愛とを同時に成り立たせることをお考えになりました。それが、十字架です。賛美歌の歌詞にもあるのですが、十字架というのは、神の義と愛が同時に示された姿なんですね。
神さまがここまでする必要があるでしょうか。しなくても、誰も文句は言えません。でも、神さまの義は、罪人を滅ぼすことで満足する義ではありません。罪に正しく向き合い、そして、同時に、赦しを与える・・・そのためには、罪のために裁かれ、呪われ、苦しみ、痛みを負う人、同時に、罪の赦しを与えることができる聖なる存在が必要でした。それが、イエス・キリストだったのです。
イエスさまが十字架で死んでくださったその姿に、神さまの義が二つ現れています。一つは、罪は罪として裁ききる神さまの義。そして、もう一つは、捨てておかないという義なる神の姿です。すなわち愛です。
人間の不義は、神の御子を十字架につけてしまいました。しかし、神さまのご計画は、その人間の企てのさらに上をゆき、そのことを通して、神の義を示されたのでした。十字架こそ、神の義と愛の現れたところなんです。
神さまとはどんなお方でしょうか。神さまは、この広大な宇宙をお造りになったお方です。また、神秘に満ちた生き物をお造りになったお方です。また、ご自身に似せて私達を造り命を与えてくださったお方です。
でも、それだけではありません。命を与えただけではなく、育み続け、寄り添い、人となってくださいました。そして、私達と同じ現実の中に生きてくださり、涙を流してくださったのです。
それが、この世界をお造りになった神さまです(私たちの神さまです)。
先週、生まれつきの盲人の目を開かれたイエスさまのお姿を見ました。人々は、彼が見えなくなった原因を追究しようとしました。彼が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからか。そんな風に考えました。でも、そう考えると、では、人を造った神さまのことで疑問が生じます。それは、「なぜ、取って食べてはならない木を置かれたのか」という質問と同じです。
イエスさまは、人々に、おっしゃいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
聖書は、神が何をなさったのかを見るように教えます。隠された神秘ではなくて、現された奥義を見なさいと教えます。
すると、神さまの素晴らしさ、大きさ、豊かさが良く分かります。十字架で死んで行かれた、神の御子を見るだけでいいのです。ここに神さまのすべてが表されたのです。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください