挨拶(ライブ配信)
熊本で大きな地震がありました。復旧作業が早くすすみますように共に祈りましょう。
それでは、礼拝の時をお持ちましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・夏休み、子どもたちが水難事故や交通事故から守られますように。
・熊本地震の被害・復旧のために。
・戦争が終わりますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(人はパンだけで生きるのではない)
2026年8月2日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝
イザヤ 55章 1~ 5節 (旧1152頁)
ローマ 9章 1~ 5節 (新 286頁)
マタイ 14章 13~21節 (新 28頁)
「」
●この奇跡は何のために
おはようございます。
今日は、イエスさまが、5つのパンと、2匹の魚を用いて、5千人以上の人たちを養なわれた時のことを一緒に見たいと思います。
福音書を読んでいてこれほど多くの人を対象に奇跡を行われたイエスさまの話ってないですよね(4千人の人を養われた話くらい)。多くの人が見ている前で人を癒されるということは多くありますが、一度に何千人もの人を対象にイエスさまが奇跡を行われることはありませんでした。人に寄り添いながら奇跡を行っていく・・・それがイエスさまでした。では、なぜ、今日はこれほどの数の人に対して奇跡を行われたのでしょうか?
それは、この日の時の流れの中で、イエスさまの神さまとしての姿が現された・・・そんな風に見るのがいいかと思います。もちろん、弟子たちはこの奇跡に驚きました。
ちなみに、時々、2匹の魚と5つのパンの話から、「少年が2匹の魚と5つのパンを差し出したように、あなたも少なくても自分の全てを神さまに捧げるならば、イエスさまはそれを豊かに用いてくださる」という教訓として語られることがあります。もちろん、神さまが私たちの捧げものを豊かに用いてくださるというのは聖書の真理ではありますが、この聖書箇所では、そのことを言っているとは思えません。でないとイエスさまの凄さの話が、“人が捧げものをする”という人間の功績にすり替わってしまうからです。弟子達はイエスさまの凄さを伝えているのです。さらには、慈しみに満ちた神さまの姿を描いているのです。
さて、14節を見ますと、集まった人の中に、多くの病人がいたようです。もちろん、神の国のことを聞きたい人もいました。イエスさまがこの世界を何とか変えてくださるという希望を持っていた人が集まっていました。そのような中で、イエスさまは、病人を一人一人癒していたと思われます。そこで多くの時間が必要となりました。
昔(幕末の時代)、ヘボンというアメリカ人の宣教師が日本にやってきました。彼は、お医者さんだったんです。彼は、「治療する」という行為と共に“聖書の神さまを伝えるため”に日本にやってきました。当時の西洋医学は、その時の日本の医学とは違って進んでいました。また、貧しい人は、薬を買うこともできませんでしたが、ヘボンは(やはり宣教師ですね)、貧しい人にはただで治療をしていたんです。彼の治療を奇跡に感じたようで、ヘボンの所には長蛇の列ができたようです。多分、待合室もいっぱいだったと思います。
イエスさまの周りには沢山の病の人が集まっていました。当時は、薬は高いし、その薬で本当に治るかどうかはわからない。治らない病が多い、そんな時代です。そのような時代に、イエスさまは全て癒されるのです。しかも、薬を使うのでもない、切ったり縫ったりするのでもない。御心ならば治っていくんです。もちろん、愛と憐れみから、人々を癒していかれるので、お金は必要ありません。多くの人が集まらないわけがありません。そして、多くの時間が費やされて行くのは当然です。
日が暮れるころ、弟子たちは心配になってきます。病院でしたら、受付は終了いたしました・・・ってなる頃でしょうか。そんなご様子のないイエスさまを見て、心配になった弟子達は、イエスさまに提案します。15節・・・。
『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』
もしね、皆さんが病気で、イエスさまの近くに行ったとします。中々自分の所にイエスさまが来なくて、やっと治してもらそうと思ったら、弟子たちが、「かいさ~ん」って言ったら「え~」って思うし、「ずっと待っていたのに」って思うし、困りますよね。でも、イエスさまには呼び求める者の声を無視するお方ではありません。
今日の話から、イエスさまは、羊に対する羊飼いのように、私たちの魂も体も命もすべて愛と憐れみによって守ってくださるお方であることが分かるのです。
この出来事は、イエスさまのお人柄、神さまとしてのお姿が現されたとても美しい出来事だと思います。私たちはこの方を信仰しています。
私たちは、病になります。また、死にます。それは、罰のように思います。でも、神さまは、病になり、老いて死ぬ私たちを見て、仕方ないよね、と言うお方ではないということがわかります。救おうとしてくださるのが神さまなんです。この出来事からその神さまのお姿が伺えます。
とは言え、弟子達にとって、これだけ大勢の人数をどうやって養うのか???というのが問題でした。彼らはまだイエスさまがどのようなお方なのかを知っていませんでした。弟子たちは、少年が持っていた、2匹の魚と5つのパンを持ってくると、ここからが凄いですね。
人々と、グループごとに座らせ、そして、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達にお渡しになりました。すると、パンが尽きないんです。魚が尽きないんです。集った人たちの全てが満腹するのです。
私たちは、この奇跡をどのように見ると良いのでしょうか。先ほども言いましたが、私たちが捧げる小さなささげものを神さまが大きく用いてくださるということをこの箇所は教えているのではありませんね。イエスさまが、どんなお方なのかということです。
イエスさまが、パンを沢山増やすことが出来る人だ・・・ということでもありません。ここで私たちが知る事ができるのは
イエスさまは、私たちの病を治し、貧しい心を満たし、日々養い、命そのものを与えたいと願う愛の神であるということです。
先ほど、ヘボンの話をしましたが、ヘボンの行うことは「奇跡」に思われました。でも、彼にも限界があります。彼は薬を用いるしかありません。知識と技術を生かすしかありません。しかし、イエスさまの癒しには限界がありません。イエスさまは医術を用いるのでも薬を用いるのでもなく、ご自身の力・ご意志・言葉によって癒されるのです。
ヘボンより凄いのではなく、ヘボンの背後にいるのが神なんです。
以前に学んだことなんですが、創世記の天地創造の箇所を見ますと、3日目に植物が作られ、4日目に太陽が作られます。えっ?て思いません?植物には太陽が必要じゃないかって思うでしょ。でも、創世記の話から分かるのは、植物を太陽を用いて神さまは成長させられますが、太陽がなくても、神さまは植物を成長させることができるんです。植物の命も動物の命も、私たちの命も、それを養うのは、太陽の光、食べ物ではありますが、本当に成長させているのは、神さまの御心(ことば)なんです。
申命記の8章3節のみ言葉を共に見ましょう。
『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きる(生きている)」この事実を神さまは信仰をもって受け取って欲しいわけです。
悪魔が「神の子なら石をパンに変えたらどうだ?」と誘惑したときに、イエスさまは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とおっしゃいました。
よく冗談で、人はパンだけで生きるのではなく、お米も食べますというのがありますが、これは、面白いですが、大事な点が抜けています。というのは、それでは、パンとみ言葉が並列なんです。同じ位置にあるんです。聖書は、パンとみ言葉を同じ位置に置いているわけではありません。つまり、パンは肉を養い、み言葉は霊を養うということを言っていないんです。パンの背後に神さまの御心があるという意味です。
実際イスラエルの民は、自分達が作ったパンではなくて、天からのマナを食べて生きました。
ルターは、小教理問答の中で、「私たちの日毎の糧を今日も与えたまえ」という主の祈りの解説として、それは、パンだけ(つまり食事だけ)を意味すのではなくて、着る服、住む家、家族、社会、政治・・・生活に必要なもの全てが、神さまの御心(愛)によって与えられていると教えています。違う箇所では、もし、神さまが、養うことをおやめになれば、私たちは、たちまち生きることができなくなるというのです。
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」というのは、「私たちは物質(“パン”)によって生かされているのではなく、愛をもって“そのパン”を与えてくださる神(イエスさま)と共に生きているのです。」ということなんですね。
もし、わたしは生活に必要なもの全てを自分で得ていると思う人がいれば、その人の信仰は虚しいです。神さまはいつでも全てをその人から取り去ることができます。そうではなく、その糧を与えてくださる神さに感謝する信仰がその人を豊かにするんです。
もう一度言いますね。
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」というのは、「私たちは物質(“パン”)によって生かされているのではなく、愛をもって“そのパン”を与えてくださる神(イエスさま)と共に生きているのです。」ということなんです。
今日の聖書箇所から、イエスさまは(神さまは)、私たちを養おう、養おう、愛そう、愛そうとしてくださっているお方だということがわかるんです。ですので「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うのではなく」目を天に向けて「神の国とその義を求めなる」と言いのです。そうすれば全てのものが加えて与えられるのです。
パンがなくても、パンを創造することができる神さまを私たちは今日見たんです。私たちが育てなくても、天から持ってくることができるイエスさまを私たちは見たんです。そのイエスさまが、世も更けたからとか、あなただけじゃないだとか、あなたは他の人より罪人だからとか、そういった分け隔てをせず、イエスさまを必要とする人を等しく憐れんでくださるお方です。羊飼いのように、私を、私の命を、永遠の命を、喜んで与えてくださるお方だということを今日、この聖書から受け取って欲しいとおもいます。そして、イエスさまを信頼して歩んで欲しいと思います。
最後になりますが、もう一度申命記8章3節の神さまの声を聴きたいいと思います。
『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』
主は、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられたとあります。マナは天から降って来たパンです。神さまは、だれも(先祖も)食べたことのないマナを通して神さまはイスラエルの民を養いました。
ここで、あなたも先祖も味わったことのないマナを与えられたとありますよね。
イエスさまは、私たちの罪を贖い、洗礼を通して、罪の赦しを与えてくださいました。そして、私たちに、あなたも先祖も味わったことのない、マナ、すなわち、聖餐のパン(ご自身の体)とぶどう酒(血)を私たちに与え続けてくださっています。5千人のときと同じように、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、牧師にお渡しになり、牧師がみなさまにお配りしています。
この天からのマナは、霊的な命であり、罪の赦しであり、私たちの力です。
人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください