11月23日 聖霊降臨後最終主日礼拝

挨拶(ライブ配信)

 

 教会暦の一年が終わります。自主からは、アドベント、待降節がはじまります。今日は、最後の主日として、義なる方がお生まれになることを待ち望む季節を過ごすことになります。今日は、イエスこそ私の義・・・このことを覚えて礼拝いたしましょう。。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

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前奏

今週のお祈り


教会員の方々の健康が守れますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(思い出してください)

2025年 11月23日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝

エレミヤ  23章  1~ 6節
コロサイ   1章 11~20節
ルカ    23章 33~43節

 江利口 功 牧師


父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
先週、ある家の庭に生えていた一本の木の話(たとえ話です)をいたしました。覚えておられますか?その木は、毎年、美味しい実を実らせ、家族を喜ばせていました。しかし、色々な果物がスーパーに並ぶようになり、だんだん、家の人はその木の実を食べなくなりました。何年か経ち、とうとう、その木を切ってしまうんですね。
その後どうなったか覚えておられますか?切った後、ある夏に猛暑になるんです。家は、直射日光に苦しむのですが、その時、その木が、ずっと強い日差しを遮っていてくれたことに気付くんですね。また、ある時、不作で果物がとても高くなるのですが、その時、家族は、木の実を食べていた頃のことを懐かしく思いだします。そして、その木が安定してずっと家族に果実を提供していたことに気付くんですね。また、さらに、昔、水害が起こった時のことを思い出します。家族の人は、その木の根が家の土地全体に根を張っていたために、水害から守られていたことを思い出すんです。
そういったことを通して、家族の人たちは、その木が、家族を守り、家を支え、果実を提供する恵みの木だったことに気付くんです。 
私のたとえ話では、その後どうなったか覚えておられますか?数年後、庭を見ると、芽が伸びていることに気付くんですね。それは、その木が毎年実らせていた実が落ちて、そこで芽吹いたものでした。家の主人は、その木を大切に育て、子供達にも決して、切ってはならないよって教えたのでした。

さて、ちょっと想像して欲しいのですが、この木の側に、立札を建てるとしましょう。その時、その立て札に、何と書いたらいいでしょうか?その家の主人なら何と書くでしょうか?こう書くのではないでしょうか?

「我が家の恵みの木」

この木こそ、私たちの家に恵みを一方的に与えてくれる祝福の木だ。これこそ恵みの木だ。そのような告白の言葉を掲げると思います。
一度は切ってしまったけれども、この木こそ、私たちをずっと、守り続けてくれる恵みの木だという喜びの込めた表現をするのではないでしょうか?しかも、ずっと、そのことを忘れないよに。
今日、読んで頂いた、エレミヤ書ですが、将来、お生まれになってくる、イエス・キリストのことを預言して、こう書いてありました。できれば、一緒にお読みしたいと思いますので、聖書を開いて頂けるでしょうか?エレミヤ書23章5節、6節です。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。(エレミヤ書23章5~6節)

これは、当時、イスラエルのために、祝福と繁栄をもたらす、義なる王が現れてきますよという約束でした。でも、これは、霊的な、全人類的な預言でもありまして、それが、イエス・キリストを表していました。
エレミヤ書では、「主は我らの救い」と書いてあります。これは、深く解釈したがゆえの翻訳でして、もとのヘブル語では「主は我らの義」と書かれています。「主は我らの義」とありますが、これは、「主は義なる人です」と、主の正しさのことを言っていません。「主は我らの義」とありますので、「主がなさったことこそ、わたしの義である」という意味です。
先ほど、木の名前を「我が家の恵みの木」とするでしょうと言いました。「この実は美味しい」と掲げるのではなくて、「この木は、家族に恵みをもたらす木です」という告白の言葉を掲げたわけです。この言葉には、自分達の無力さと、この木の素晴らしさが表現されています。
では、「主は我らの救い」と預言された、イエス・キリストとは誰か。それは、彼は正しい方ではなくて、彼こそ「わたしに義をもたらすお方」であるという告白なんです。つまり、「わたしの義・わたしの救い」なんです。

パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章30節でこう教えています。

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

パウロは、私たちの内には、神に誇れる義、神に認められる義は一切なく、その私たちのために、キリストが、私たちの義を贖うことで勝ち取ってくださったと言っています。

私たちって、普段、良い事したな、悪いことをしてしまったなって、思うのではないでしょうか?良い事した時には、少し、心が軽くなり、悪いことをしてしまった時には、後悔と共に、気持ちが重くなる、「どうしてしてしまったのかなぁ」って思いますよね。もちろん、人の前に、善を行うように頑張るのが私たちの使命なのですが、そのような浮き沈みする私たちの感覚よりも、もっと、素晴らしいものを神さまはくださいました。
それは、イエスさまが私の代わりに獲得してくださった義が、今、私の中にあるという信仰です。このことを信じる人を神さま喜ばれ、その人を義とされます。これは、揺るぎない喜び、確信です。
「自分には誇れるものがない」と感じてもそれでいいのです。むしろ、その方が良いのかも知れません。大事なのは、その私だけれども「イエスさまのゆえに私は神さまに受け入れられている」と理解することです。その時に、平安が訪れます。良い時、悪い時に浮き沈みするのではなく、ずっと、私たちは、神さまの前に正しい存在なんだ・・・この認識が大事です。
そして、私たちが神の前で義とされる土台は、私たちの感覚や出来事ではなく、キリストご自身です。誠実さや忠実さも必要ですが、確実な義、つまり、イエスさまが私の代わりに勝ち取ってくださった義を信じて喜び続けることを忘れないで欲しいと思います。
さて、先ほど、「我が家の恵みの木」と立札を立てるという話をしました。それは、その家の人たちからすると、その木に対する喜びの表現(信仰告白)ですよね。では、イエスさまはどうだったでしょうか。旧約聖書、エレミヤ書では、来るべき王、後に、祭司であり、預言者であるとも言われてきました。そして、「主は我らの救い(義)」と書かれていました。では、イエスさまが十字架にかけられた時に、掲げられた言葉は何だったでしょうか。それは。罪状書きに記されていました。こう書かれていました。


「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」

もちろん、これは、本当にそう思って書いたのではなくて、ある意味、「そんな風に言っていた者の最後の姿がこれだ」という思いで掲げられています。
人々は、「神の子なら自分を救って見ろ」とか、「十字架から降りて来てみろ」とかいって、嘲りました。イエスさまのために掲げられた言葉は、人が褒め称えている言葉ではありませんし、実際に見た目には、本当にそうとは思えない姿でした。
でも、実際は、旧約聖書には民を導く王は、罪人として蔑まれる姿になっていくという預言が書かれていました。でも、その人を、神は誰よりも、全ての物に優り高く上げるという約束が書かれていたんです。

さて、今日のルカの福音書ですが、イエスさまのことを、見た目の姿そのままに受け止めた人と、そうではなく、イエスさまの本当の姿を感じ取った人の姿が描かれています。その二人は、イエスさまの丁度、両隣に、同じように掲げられていました。
十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスさまをこう罵って言います。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

一方の犯罪人は、逆にこう言います。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

全然、違いますよね。そして、その犯罪人はこう言います。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

この人は、大切なことを二つ言っています。

一つは、十字架で血だらけになって、無力な姿をさらしておられるイエスさまを見て、「永遠の王」だと見ていたことです。他の人は、イエスさまを見て、「たいそうなこと言っていたが大したことなかった」と思って、イエスさまを見ていました。しかし、この人は、イエスさまの見た目の姿ではなく、隠された姿の中に、「神の永遠」を見ていたのです。信仰によって、イエスさまが神の御子だと捉えていたんです。
そして、彼はもう一つ、「わたしを思い出してください」と言っています。これは、神さまの前に一番の謙りの姿であり、同時に、そのような中でも、神の憐れみを求める人の姿でもあります。
「思い出してください」という言葉は、「助けてください」という言葉より、謙った言葉ではないかと私は思います。
「助けてください」「わたしを天国に入れてください」そのようなことを言う資格は私には全くない。だからこそ、「思い出してくださるだけでいい」それは、最大限の謙遜な思いですし、同時に、「思い出してくださるだけでもそれは恵みです」という憐れみを求める心だと思います。これは「小犬だってパン屑を頂きます」と言った異邦人の女性の言葉とよく似ています。これは

神さまが一番求めておられること、また、喜ばれる言葉なんです。

イエスさまは、この犯罪にこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

これは、「このような人こそ、神に義とされる人である」ということを言い表しています。
自分を誇ろうとする人、自分を誇りたいと思う人は、イエスさまに近づくことができません。神さまから見た、本当の美しい姿(義の姿)を手に入れることはできません。神さまがお聞きになりたことばは、このような私を憐れんでくださいという謙った心です。神さまの前に無力であることを知り、そして、神さまにこのような私を憐れんでくださいという思いが、神さまが一番喜んでくださる姿です。

わたしは罪人です、あなたは、わたしの義です。あなたの義がわたしの義となりました。今日、そのことを覚えていただければ幸いです。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください