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- 2020年8月5日
今井清博様、関西支部の新しいHP を立ち上げて下さり有り難うございます。そして、おめでとうございます。これから維持、管理が大変でしょうけど宜しくお願い致します。
それから今までのHP の管理をされていた(故)島寛さんと療養中の棚池康信さんにも、お礼と感謝を申し上げたいと思います。長い間、有り難うございました。
いま、コロナ禍の中で人々が直接、気楽に会えず、お盆に向けて益々、行動が慎重になって来てますね。
ビアパーティーが中止になるそうで、寂しいです。このHPの投稿欄などを活用して 賑やかになりますように、と祈っています。
「そよ風」より
- 2020年8月5日
「ビフォーアフター」
早朝から夕方まで日に何度もラジオを聞くのが我が家の習慣となっています。今年に入ってからは、コロナ関連のニュースばかりが耳に入ってきます。なかでも、不要不急の外出を避けるようにとの注意が日に何度も流れます。
それで、果たして私は困っているのだろうか、ライフスタイルがどのように変わったのか、改めて考えてみました。
元々買い物が苦手な私は、人出が少ない時間帯を見計らって目的の店に入り、あれこれ迷わずリストに書かれた必要な品だけ買って、寄り道せずにサッサと帰宅するタイプ。それよりもオンラインで注文してカードで支払うのが性に合っています。
人混みも苦手なので、デパート、カラオケ、映画館、ファミレスなど不特定多数が集まる場所に出向く機会は滅多にありません。
友人知人と会って話すのが好きで、よく少人数単位で自宅に招きますが、それよりも、一人で過ごす時間が多いのです。ウォーキング、ストレッチ、ガーデニング、読書、DVD鑑賞、音楽を聴く、エッセイ、部屋の模様替え、断捨離、暮らしの道具の手入れなど、一人ですることは幾らでもあります。
生活だけにフォーカスすると、何一つ困らなかった。これが結論です。大きな変化があったのは、見えない領域、つまり思考回路と時間の感覚と価値観です。もし私が認知症にならずに元気で20年後を迎えられたら、この2020年を思い起こして、一体どんな想いが湧き上がるのでしょうか。
それにつけても総会とビアパーティが開かれないのは寂しい限り。"卒業しても二水生"との再会を待ちわびる日々、これこそが大きな変化でした!
「オリーブ」より
- 2020年12月21日
本日、からたち関西が届きました。
ご執筆いただいた皆様、ありがとうございました。
知らないうちに、これまで以上に「からたち関西」を一文字一文字じっくりと読んでいました。
人と会えることの有難さを心から感じた一年になりました。
この冊子だけで繋がっている先輩、後輩の皆様、
来年の総会&ビアパでは、1年分の会費で、お得に2年分楽しみましょう。
中村祐之(36期)
- 2021年2月3日
辞世の漢詩
南部健一(13期、仙台市在住)
昨年六月に詩吟仲間の友人Eが他界した。彼の吟を最後に聴いたのは亡くなる半年前の12月の納吟会だった。吟はつぶやくように始まり消え去るように終わった。
旅館寒燈獨不眠
客心何事転凄然
故郷今夜千里思
霜鬢明朝又一年
私はEがこの高適(こうせき、盛唐、765)の「除夜の作」を辞世の吟詠に選んだと思った。 「旅館」は「病室」で、「故郷」は妻がひっそり自分を待つ「我が家」であろう。
――病室の寒々とした薄明かりを眺めていると、次々に過ぎ去った日々が思い出される。明日の命も知れないこの身には、一刻一秒が愛おしく到底眠れない。あの世へのひとり旅の寂しさが身に沁みる。今夜は大晦日、家では老妻が私を想って頭を垂れているであろう。夜が明けて、もしまだ命があれば、白髪の老いの身がまた一つ年をとるのだ。しかしそれに何の意味があるというのだ――
漢詩研究者石川忠久先生は、この詩には「寒」「獨」「客」「凄」など悲しみをそそる語が多く、やや表現過多のようにも思われる、と注釈されている。しかし友人Eの末期を見届けて来た私には、彼のひとりで旅立つ孤独と、愛妻との離別の悲しみは、この漢詩すべてでも言い尽くせなかったように思われる。作者のなまの感動は、時には漢詩における修辞上の技巧や決まりを凌駕する。
正岡子規は漢詩「喀血歌」で「喀血」を5回用い、漢詩における同字重複忌避の規則を完全に無視している。命がけの表現には規則なんてどうでもよい。
葬儀の弔辞で私は「これが亡き友人Eの辞世の漢詩です」と言い「除夜の作」を彼の吟調に似せて吟じた。後日、Eの奥様から「おかげさまで主人の最期の吟詠を聴くことができました」と言う感謝の手紙を頂いた。
- 2021年2月13日
「すごいでしょ」
私は コロナやせ
主人の入院お見舞い
月曜日から金曜日 孫のせわ
ほめてください
朝ごはん食べさせて
ポピー学習をさせて
9時に園のバスにのせます
今年一年生
すごいでしょ
自慢させてください
上の孫 高校三年生
医学部目指してがんばってます
その子も
小さいとき お世話しました
すごいでしょ
「ばんちゃん」より
- 2021年2月13日
「塚崎美和子さんの『脳梗塞という体験』を読んで」
南部健一(13期、仙台市在住)
今井清博支部長から「からたち関西」(2021年1月)を送付していただいた。標記の塚崎さんの記事を読み、60歳で患った脳梗塞を思い出した。
運転中突然目が見えなくなった。疲れだと思い道路わきに車を止めしばらく目を閉じていたら、周りが見えてきた。しかし念のため脳専門病院を訪ねた。医師の診察が終わり椅子から立とうとしたが立てなかった。医師が今すぐ手術します、と言い出した。仕事をかたづけて明日入院しますと言ったら、明日まで命が持ちません、と言う。病名は小脳大動脈の脳梗塞だという。
手術を担当する医師との面談になった。「カテーテルの先にバルーンを付けて折れ曲がった大動脈を真っ直ぐに伸ばし、血流を回復させる手術です。この手術では20人に1人は亡くなります」と言う。私の不安そうな目を見て医師は「私は失敗したことはありません。ただ万一のとき病院を告訴しないという誓約書を提出していただきます」とのこと。
私が「先生にお任せします」と言うと直ちにICUに連れて行かれ手術が始まった。大腿部の動脈に挿入したカテーテルが心臓内部を通過し小脳大動脈に達した。脳の血管に達したカテーテルがベッド脇の画像処理装置に映し出されている。画像は私にも見せられている。医師が映像を見ながら慎重にカテーテルを折れ曲がった動脈に挿入する。いよいよ最も危険な操作だ。カテーテル先端のバルーンを膨らませて動脈の屈折部を伸展するのだ。バルーンは6気圧まで加圧する。このとき動脈の血管が破裂したら命はない。医師が圧力を上げ始めた。脳が焼けるように熱くなり、内部でミシミシと音がする。
私には祈るしかない。しばらくして医師が額の汗を拭った。成功したのだ。声は出せなかったが私は彼に感謝した。いや、幸運を神さまにも感謝した。手術が終わりICUに取り残された。隣の手術台に青ざめた顔の患者が座っていた。無表情だ。水平に切断された頭蓋骨が取り除かれ、脳が露出していた。
病室に戻り少し眠った。夕方職場から秘書がやって来て、アメリカ電気電子学会からファックスで届いた論文のゲラ刷りを私に手渡した。表に「最終校正をして24時間以内にファックスで送り返せ」と書いてある。論文は刷り上がりで12ページもあり、校正には8時間はかかる。医師は私に「無事に今夜を越せるかどうかが命を左右します、念のため家人を朝まで付き添わせなさい」と言う。しかし医師に嘘を言い、私は妻を帰宅させた。ゲラ刷りは私のライフワークを集大成した招待論文であり、このような論文執筆を許された日本人は過去に北海道大学の田頭教授しかいない。妻が病室に居残れば私からゲラ刷りを取り上げるかも知れない。研究者という人種は、これが自分の代表作だと思う研究に取り組んでいるとき、研究が完成し世に出たら命は惜しくない、という思いに取り憑かれる。夕食後私は黙々とゲラの校正を始めた。21時で消灯になったが個室にいる事を幸いに、スタンドの灯りで校正を続けた。ゲラの活字は細かく疲れる。しかし頭は冴えている。一字一字を睨みながら校正を続けた。
午前零時を過ぎた。突然看護師が現われ、「何をしているんですか!すぐ仕事を止めなさい。命が危ない重病人であることを自覚しなさい」と叱責した。私は「申し訳ありません」と言いゲラ刷りを隠して眠るふりをした。彼女が去ると私はまた校正を始めた。私のような理論家の論文ではミスで数式の-が1カ所+になっているだけで理論が台無しになる。細心の注意で校正を続けた。午前3時を過ぎた。午前5時を過ぎた。もう少しだ。窓の外が明るくなってきた。6時だ。7時には看護師がくる。出来た!6時半だ。私は声を立てずバンザイをした。7時に看護師が来て「眠れましたか」と訊いた。私は「零時にお叱りを受けたおかげであの後熟睡しました」とそらとぼけた。
1ヶ月入院した。夏の脳病院は異様である。脳の手術を受けた患者は苦しみ泣く。しかし泣き声は人間の声ではない。吠えている雄ライオンの声に近い。暑いので病室のドアは全て開け放たれる。夜中でも廊下には猛獣の声が満ち溢れる。個室のドアを閉め切っても唸り声は筒抜けである。
退院の日がやって来た。MRI画像に映った小脳大動脈の患部はまだ多少縮れているが、閉塞はしていない。医師が「今後は毎年経過を観察しましょう。命より大事な研究は続けても大丈夫ですよ」と言って笑った。私は、彼も研究者であることを思い知った。
病院の玄関を出ると、近くの人家の庭にタイサンボクの花が咲いていた。純白の芳香は私に余命を意識させた。私は生きている喜びを噛みしめた。
- 2021年4月6日
大阪府枚方市にお住まいで二水高校5期の村上 徹さんから関西支部事務局宛にお便りが届きました。
唐突・無分別と思われる書面、お許し下さい。
私が金沢を離れたのは昭和29年です。以来、一度も金沢の地を踏んでいません。しかし、一番心に残っているのは金沢のことであり二水のことです。
以降も二水高校の同窓会誌を心待ちにしてむさぼる様に読ませて頂いていました。生来の不精者で、頂くばかりで何の見返りもせず、無礼を続けて来ました。でも心の中では、常に金沢のこと、二水高校のことを懐かしんで、あてもないのに何か情報がないかと心待ちにしている私です。今や86歳で足腰も弱っています。
何かあれば教えて下さい。
- 2021年5月27日
「芭蕉と李白」
南部健一(13期、仙台市在住)
私は熊本県のクマモンというご当地キャラが好きだ。無条件に可愛い。しかし私が在住する東北では高齢者が好むキャラは松尾芭蕉である。江戸深川を旅立ち白河の関を越え、福島、宮城、岩手、山形、新潟、石川、福井、岐阜大垣までの旅日記が「おくのほそ道」である。
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
これは芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭である。古人とは芭蕉がかねてより尊崇の念を抱いていた、西行、宗祇、李白、杜甫を指す。またここには芭蕉の死生観が述べられている。それは「おくのほそ道」の旅の五年前に旅立った「野ざらし紀行」でより明白に述べられている。
野ざらしを心に風のしむ身かな
これは「旅立ち」の句であるが、道中どこかの野辺で風に吹きさらされたしゃれこうべになるだろう、それでいい、と云う覚悟を述べている。
芭蕉は古の詩人たちと同様、風狂の旅に命を賭けたが、それは結局、人生いかに生きるべきか、の問いに対する答えを模索する旅であった。
その結果、佐渡によこたわる天の川や大河最上川など、永久に変わらぬ宇宙(不易)を認識し、対極にある夢のように儚い人生(流行)を楽しみながら軽々と生きて行くのがよい、と云う思いに至った。
この思想は「おくのほそ道」の旅の約千年前に李白が記した「春夜桃李園に宴するの序」の詩文に重なる。
夫(そ)れ天地は万物の逆旅(げきりょ)にして
光陰は百代の過客なり
而して浮生は夢の如し
歓をなすこと幾許(いくばく)ぞ
古人は燭をとりて夜遊ぶ
良(まこと)にゆえ有るなり
新型コロナウイルスという目に見えない超微生物に生殺与奪の権利を握られ、今の時代を危ういままに生きている我々に対して、芭蕉と李白という二人の天才詩人が、はからずも同じ桃源郷への道を示している。命あるうちに人生愉しむべし、と。
- 2021年7月3日
「南部健一様へ」
何時も辞書片手に、読ませていただいております。
二水には猛勉強して入りましたが、
勉強は嫌い、運動クラブがメインの私。
そんな私も来年は後期高齢者。
3人の子どもたちも巣立ち、一人の娘は近くに。
お互い持ちつ持たれつの間柄。
孫たち全員ばあばのファン。
酒飲みの夫も今年81歳。とても元気です。
もっと勉強しておけば、南部様の投稿もスラスラだったと少し後悔しながら
読ませていただきました。
難しいことは分かりませんが、この年齢になると先人の言葉が身に浸みます。
感じるだけで、まぁまぁかな😛
「ばんちゃん」より
- 2021年12月6日
「舟のある風景」
南部健一(13期、仙台市在住)
漢詩には舟のある風景がよく登場する。舟は旅であり、人生であり、詩人自身である。
岳陽樓から洞庭湖を眺めると、湖岸に一艘の廃船がうち捨てられていた。だれも見向きもしない。あれは老いて病身の私の姿か。
親朋無一字 老病有孤舟
杜甫は、我が身はもはやこの世から見捨てられた孤舟である、と慨嘆している。この場面は艶歌「風の追分みなと町」の歌詞にダブる。金田たつえが唄っている。恋人に打ち捨てられた女の悲しみは深い
浜に埋もれた捨て小舟
どこか私に似た運命(さだめ)
作詩の仁井谷俊也は杜甫の「登岳陽樓」を意識していたのだろうか。
さて走っている舟に目を転じよう。郷里石川県に河北潟という大きな潟があった。干拓されて今は大河のようになってしまった。少年の頃の風景が忘れられない。潟の周りは一面水田である。水田には碁盤の目のように水路が張り巡らされていた。道はない。秋になると水路は行き交う舟でにぎわう。どの舟も刈った稲束を満載し、船頭は長い竿で音もなく滑るように漕ぎ進む。
夜が明けるころ水路の岸で釣り糸を垂れていたら、水面に朝霧が立ち始めた。霧は次第に濃くなりやがて川は霧に隠れた。霧の中からギィッギィッという音だけが聞えて来る。艪がきしむ音だ。音は次第に近づく。突然眼前に舟が現われた。仁王立ちした老人が赤銅色の顔に朝日を浴びて艪を漕いでいる。川漁師のお出ましだ。
65年前のこれらの光景を鮮明に呼び覚ます詩歌がある。一つは中唐の詩人柳宗元(773~819)の七言古詩「漁翁」である。
漁翁夜傍西巌宿 暁汲清湘燃楚竹
煙銷日出不見人 欸乃一聲山水綠
廻看天際下中流 巌上無心雲相逐
欸乃(あいだい)は艪が軋む音である。山河にとけ込んで無心に生きる老漁夫の、自然の一員になりきった暮らしこそ理想の生き方ではないか、と作者は気づいたのである。「欸乃一聲山水綠」の句が私の心を捉えて放さない。
もう一つは郷里の隣県越中富山に左遷されていた大伴家持(718~785)が詠んだ歌である。万葉集にある。
朝床に聞けば遙けし射水川
朝こぎしつつ唄ふ舟人
船頭は越中に伝わって来た古民謡を口ずさんでいた。唄声の合間から艪のきしむ音が聞えて来た。家持は望郷の思いがこみ上げ床の中で思わず泣いた。家持三二歳の歌である。
柳宗元と家持は同時代の人である。老漁夫が漕ぐ艪の軋む音は、片や中国の大河で、こなた日本の射水川で、二人の詩人の心を揺さぶり、人生の来し方を振り返らせたのである。
- 2022年5月1日
「反戦平和の熱望」
南部健一(13期、仙台市在住)
人間は闘争の遺伝子と平和希求の遺伝子を持つ。後者の遺伝子は壊れやすい。壊れると戦争になる。戦争で嘆き悲しむのは為政者ではなく人民である。
一人の女と一人の男の悲嘆に耳を傾けてみよう。そこには、戦争に対する憤りと反戦の熱望が溢れている。女は東晋時代に呉に住んでいた子夜。後年、李白が子夜に成り代わって切ない思いを詠じた。
長安一片月 萬戸擣衣聲
秋風吹不盡 總是玉關情
何日平胡虜 良人罷遠征
空閨で独り見上げる満月。耳をふさいでも窓から聞こえて来る侘しい砧の音。秋風はいくら頼んでも吹き止まない。愛しいあんたは敦煌に出征したまま音信もない。寂しい、あんた寂しいよ。早く夷狄どもを皆殺しにして帰って来ておくれ。そして日も夜もなく私を抱いてほしい。
詩人王翰の親友が辺境の戦で戦死した。友を偲び独酌していると、黄泉の国の友が戦死前夜の戦場を語り始めた。
葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑 古來征戦幾人囘
葡萄酒は紅く艶めく女の唇の色。なみなみと注いで俺はギヤマンの杯をあおる。もう一杯、もう一杯。どうにも止まらない。だれだ、馬上で琵琶をかき鳴らしているのは。折楊柳の曲ではないか。俺はまだ生きているぞ。酔いつぶれて砂漠にぶっ倒れても俺を笑うな。俺は明日出陣する。この辺境の戦で生きて帰って来た奴なんか、昔からほとんどいない。でも俺は死にたくない。生きて美味い酒を飲み、女も抱きたい。そこのあにい、もっと激しく、弦がぶっちぎれるまで琵琶をかき鳴らせ。
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