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1.少年時代 私の故郷は瀬戸内海のとある島(大崎下島)であったため電気は海底ケーブルが布設されてからやっと各家庭に1灯だけ点いた、電球迄の間が長くしてあり台所と居間の間を移動して使っていたが、 電気はとても明るく、大きくなったら必ず電気屋になろうと思った。 その頃電化が進んできてテレビが普及し力道山や木村が活躍していた頃、親戚が電化製品の修理等をするようになり、遊びに行った時ラジオの修理をしていてシャーシを持って手伝ったのを覚えている、 今でも半田のヤニの臭いが思い出される。 2.学生時代 高校は目標どおり電気屋になるため工業高校の電気科に入学したが、入った時は無線ではなくてオーディオに興味があった、大阪日本橋の河口無線には世界の名器が並んででおりよく冷やかしにいった。 ジャンク屋も その頃は堺筋に面して店があったが今は面影もない。 その頃は、アルバイトをしたお金でアンプのパーツを買い、アルミシャーシを加工してアンプを沢山作った。まだ真空管が健在の時代であ り6BM8、6GB8、6CA7,6GA4。6L6GC等を使いサンスイやラックスのOPTやPTを使って作ったアンプは学校のオシロ (その頃はシンクロスコープと呼んでいた)や低発で特性を測って遊んでいた、6080というレギュレータ管を使ってOTLアンプも作ったがバランスが悪くて出力コンデンサをパンクさせてしまった。 今は無きグレースというカートリッジのメーカが淀屋橋の朝日生命ホールでレコードコンサートを年に1〜2回開催していた、最後に抽選会がありカートリッジ等が当たるのでこれ目当てでよく 行った。会場のスピーカはアルテックランシングのボイスオブシアターをマッキントッシュのメインアンプ+マランツ7型プリアンプのラインナップでレコードを聞かせてくれていた。 3.社会人になって その頃はまだSL(蒸気機関車)が走っており、若狭湾を走る小浜線まで友人とTEAC・A−7030という10インチのリールで2トラック・テープスピードは38cmというテレコを運び海水浴場に近い駅で録音させていただいたりしていたが、結婚後は社宅も狭くオーディオからも遠ざかっていたし、 当然無線とは全く関係が無かったし、会社では夏は六甲山のブラシスキー、12月から初すべり、5月連休の八方尾根、6月の立山と年中スキーばかりしていた。 4.結婚してから 無線との出会いは突然であった、ある日記憶力が落ちてきたな?と感じ、記憶力の低下防止に、何気なくモールス符号を覚えてみようと思ったのがきっかけであった。 毎日の通勤電車の中でモールス符号を聞き取り古手帳に書き写す毎日が始まった。普通の人が見れば何を書いているのか解らないが、この時同じ会社のJA3DIR氏も同じ路線であり同じ社屋に勤務していたため会社で声をかけていただいた。これからが無線電信・ハム中毒の会とのつきあいが始まった。 |
1.アマチュア無線 誰でも無線従事者免許証を持っていれば、免許(第1級〜4級)に応じた範囲で申請すれば放送局と同じようにコールサイン(呼出符号)が貰えます。無線局免許状が届けばその日から資格に応じた範囲で自分の電波が発射できます。楽しみ方は様々です、コンテストで自分の実力を試したり、交信証(QSLカード)やアワード(賞状)を集めたり無線のアンテナを作ったりと様々な楽しみ方があります。資格の取得や免許の申請等アマチュア無線をもっと詳しく知りたい方や 手続きなどについては日本アマチュア無線連盟(JARL)のページをご覧下さい。 2.私とアマチュア無線 1987年7月JO3JVDのコールで開局、このときのトランシーバ(TS−940)はまだ健在である。この1台でHF帯は全てカバーできるためリグは1台だけである。アマチュア業務に許可される周波数帯は1.9MHZ〜一般的には2.4GHZまでがポピュラーである、 我が家のアンテナの設置条件により開局当初よりHF帯および電信(CW)オンリーで運用している。 |
周 波 数 | バ ン ド の 特 徴 |
1.9MHz帯 | ・電信専用のバンドです、アンテナが長くなるのと、夏場はノイズが多い。 |
3.5MHz帯 | ・和文の方も沢山出ておられます。国内QSO向き。 |
7.0MHz帯 | ・7Mに始まり7Mで終わると言われるほど人気のバンド、和文の方も多い。 |
10MHz帯 | ・電信専用かつ2級以上のバンドです、移動運用等で賑わっている。 |
14MHz帯 | ・季節を問わず外国との交信に最適です、2級以上の方のバンドです。 |
21MHz帯 | ・広く国内国外との交信に向いています。 |