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研究報告
天野恵:騎士道と火器(8)[4/4]
さて、この戦争でスペインが総司令官としてイタリア戦線に送り込んだのは、すでにグラナダ攻略戦で勇名をはせていた名将ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバという人物であった。イタリアでは彼はコンサルヴォと呼ばれたが、実際には同時代の人々の間ではむしろ「グラン・カピターノ」という渾名(というか一種の尊称)の方が良く知られていた。天性の武将だった彼は、この対仏戦でも連戦連勝してフランス軍を駆逐し、スペインのイタリア支配をひとまず決定付けるという大役を見事に果たしてみせる。ところが、その成功が彼に幸せをもたらしたかと言うとそうではなく、イタリアでの名声とは逆にスペイン本国での彼に対する評価は徐々に芳しくなくなっていき、結局、左遷に左遷を重ねて失意のうちに不遇の晩年を送ることになってしまう。まァいわば悲劇の武将である。
別に殺されたわけではないし、それどころか勝ち続けたあげくに武将でありながら畳の上で死んだわけだから、悲劇と言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、なにぶん軍人であるからして、ある意味ではたとえ戦死しても英雄として死ねるなら、こういう不名誉な晩年を過ごすよりもむしろ幸せだという考え方も成り立つ。さしずめジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレあたりがそういう人生の典型だろう。コンサルヴォの場合はこの対極を行ったことになる。で、ご想像のとおり(?)小生はやっぱりこういう人物の方が好きである。
彼が失脚したのは、あまりの軍事的成功を妬んだ宮廷人どもがマドリッドでフェルナンド・エル・カトリコの耳に何かと良からぬ噂を囁いたせいであったらしい。具体的にはナポリ副王になってこの国をスペイン本国から独立させ、自分がそこの支配者になろうとしている、てな類の噂である。どうもエル・カトリコはこの手の中傷に弱かったような気がする。確かコロンブスも似たような中傷を受けて投獄されたりしたはずだし・・・。が、まァ実際にはそれくらいの用心深さがないと大国の支配者の地位を保持するのは難しかったのかもしれない。それに、たとえウソでもこの手の情報を持っていけばある程度は信じてもらえる、というイメージを作っておかないと、本物の情報提供者だってなかなか現れにくい。まァ夢もロマンもない話ではあるが、マキアヴェリも彼についてはそういう意味合いから優れた君主として賞賛を惜しまなかった。
それに、小生だって実際のところコンサルヴォの腹の内まで想像するのは無理なので、ひょっとすると政治的野心の強い人物だったのかもしれないという気はする。この時代に限ったことではないのだろうけれど、この種の話には白黒つけがたい灰色の部分がやたら多い。
さてさて、そんな彼がイタリアに来て初めて武名を轟かせたのが1503年の「チェリニョーラの戦」であった。というわけで、次回はイタリア軍事史の碩学ピエーリの手になる再構成に沿ってこの合戦の様子を見ていくことにしよう。
-つづく-
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