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研究報告
天野恵:騎士道と火器(8)[3/4]
さてさて、いささか前置きが長くなりすぎた。ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレが死ぬことになるイタリア戦争というのは、スペインとフランスがイタリア半島を奪い合って16世紀の前半に延々と繰り広げた戦争である。我々の関心事である鉄砲の本格的な導入は、まさにこの戦争を通じて推進されたのであって、いよいよこの連載もその時代まで到達したことになる。スペインもフランスも15世紀のうちはまだレコンキスタやら英仏百年戦争やらに忙しくてイタリア半島までは手が伸ばせなかったのだが、16世紀に入るやいなや、それまでの戦争で培ったテクニックの限りを尽くしてイタリアの分捕り合戦を始めるのである。
もっとも、イタリアでも南部には早くから外国勢力が進出していた。と言うか、もともと南イタリアはイタリア勢力のものだったためしがないと言ったほうが適切なのかもしれない。はるか11世紀の昔にイスラム勢力やらビザンツ勢力やらを蹴散らして自分の王国を作り上げたノルマンディーのオートヴィル家というのは元バイキングのフランス勢で、その後を継いだホーエンシュタウフェン家はドイツ勢。13世紀半ばにこれを打ち破って入ってきたアンジュー家は言うまでもなくフランス勢。その後「シチリアの晩鐘」事件により彼らの手からシチリア島をもぎ取ったのがアラゴン家だったから、これはまァ言ってみればスペイン勢。残った半島部のナポリ王国を15世紀のなかばにアンジュー家から奪い取ったのもやはりアラゴン=カタルーニャ連合王国・・・とまァそんな感じである。だから、そういう意味では16世紀どころかはるか中世の昔この方、南イタリアにはスペイン勢が進出していたと言えなくもない。
が、こういう感じ方はあくまでもわれわれ現代人のものであって、当時の実情を映し出した見方ではない。南イタリアのナポリ王国を支配していたアラゴン王朝というのは15世紀半ばにできた言わば分家だったから、本家のアラゴン王国がカスティリア王国と合体してできあがった統一スペイン王国の目から見れば、これはもう征服の対象となるイタリア勢力のひとつでこそあれ同胞などではなかった。で、実際の話、カトリック王ことフェルナンド1世はさっそくここを手始めにイタリアへの進出を果たすのであるが、彼がここに手を伸ばしてくることとなった経緯については、マキアヴェリが『君主論』第3章でフランス王ルイ12世のイタリア支配が失敗した原因を分析しながら、まことに要領を得た説明をしてくれている。
結構長い章だから簡単に要約すると、まずもってルイ12世は、テッラ・フェルマへの進出を画策するヴェネツィア共和国からの誘いに乗ってミラノからスフォルツァ家を追い出し、ロンバルディアを占領する。こうしてそれまでのミラノ公国領はフランスとヴェネツィアの両者によって分割されてしまったわけである。ところが、実際にこうなってみると、イタリアの都市国家はこぞってフランスの庇護下に入ろうとルイ12世に擦り寄ってきた。で、これを見たヴェネツィアは拙いことをしてしまったと大いに後悔するのであるが、ルイ12世はせっかくこうして自分の下に身を寄せてきた弱小都市国家群をうまく手なずけて味方に付けておくのに失敗してしまう。彼らをチェーザレ・ボルジアの魔の手から守ってやる代わりに、逆にボルジア(=ローマ教会)の方を応援してしまったからである。まァ彼には彼なりの事情があったのだけれど、マキアヴェリに言わせるとそれも事情と呼べるほどのものではなく、逆にこの王の愚かさの表われということになる。が、この話は長くなるので割愛。ともあれ、ルイ12世はこうした数々の失策によってイタリアにおける自らの立場をみすみす弱いものにしてしまった。
ところが、それにもかかわらず彼はナポリ王国への野心に駆られて、ちょうど以前ヴェネツィアが彼とミラノを分割したように、今度は自分がスペインを誘ってナポリを分割し、その半分を手に入れようとしたのである。マキアヴェリが言うには、もし自分の力だけでやれたのならばナポリ征服も大いに結構だが、スペインのような強国を呼び込んで分割するなどというのは危険この上ないことで、絶対にしてはならなかった。実際、両雄並び立たずというわけで、ナポリを分割により南イタリアに橋頭堡を獲得したスペインは、さっそくこの獲物を独り占めにしようとフランスと戦争を始める。そして、言わんこっちゃない、フランスはこの争いに結局負けてしまうのである。とまァ、これがざっと1500年から1504年頃までの推移ということになる。
もちろん、これだけでフランスがイタリア半島から完全に手を引いてしまうわけではなく、それどころか、1515年にハプスブルグ家のカール1世が神聖ローマ皇帝となってドイツ&スペイン両方の支配者になると、彼とフランス王フランソワ1世の間のイタリアをめぐる争いはますます熾烈になっていく。ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの戦死やそれに続く「ローマの劫略」が起きるのもその段階での話である。ではあるが、とりあえず歴史の話はここらで区切るのがいいように思う。というのも、野戦で鉄砲が本格的に使用され始めるのは、このナポリ争奪戦でのことだったからである。