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研究報告
天野恵:騎士道と火器(7)[1/4]
小生はイタリアに暮らしていたとき、むこうで運転免許証を取った。別にそれまで日本の免許証を持っていなかったというわけではないのだけれど、つまらぬ事情からイタリアはイタリアで改めて取得させられる羽目になったのである。まッ、免許証を二つ持つのも悪くないか、と自らを慰めたものの、実際にはあんなもの二つあってもしょうがない。エッ?飲酒運転で免許取り消し処分になった時にもう一方が使えるじゃないか、って?そういうわけには行きませんヨ。が、まァとにかくイタリアでも運転免許を取るために試験を受けた。
試験とはいっても、予想したとおり日本と違って簡単なもので、そりゃァこれで受からん奴に街中でクルマを乗り回されちゃァ困るよな、てな感じで、実技は要するに普通に運転ができさえすればそれでOK(率直なハナシこれが健全な免許制度のあり方なのであって、日本のそれは受験英語にも似てちょっとオカシイところがあるのではないかとも思うが…)、また学科試験の方も特にどうと言うほどのものではなかった。
ただ、その時にちょっと驚いたのは、学科試験を筆記で受けるか、それとも口頭で受けるか、と尋ねられたことである。その時は、小生が東洋人であるのを見て、ひょっとするとアルファベットが読めないんじゃないかというわけで親切に尋ねてくれたのかと思ったのだけれど、後でイタリア人の友人に聞いたところ、そうではなくてあれは彼らにも同じように尋ねるものだそうで、要するに、今でこそさすがに識字率が上がってきているものの昔のイタリアには字の読めない人が結構いて、そういう人たちでも免許証がなくては働けないから、そのために口頭でも試験が受けられるようになっていたのである。実際、今でもトラックの運転士の中には字を読むのが苦手な人が少なくない。
小生はこれまたひょんなことからトラックを計測器にかけてその重量を測る羽目になったことがあって、その時に接触した運転士たちからそのことを知った。正確に言うと、測るのはトラックの重量ではなく積荷の重量なのだけれど、やり方としては同じトラックが空荷のときと積載後とを比較して、その差を積荷の重量と見なすようなシステムになっている。家畜や農産物の取引にはこれら二つの数値を記した証明書が使われるのである。
それはともあれ、考えてみるとイタリアでは大学の単位認定も文系は口頭試問である。もちろん、こちらは識字率とは何の関係も無い。古代ローマ以来、弁論術が武術に劣らず重要視されてきたお国柄のせいである。しかしながら個人的には、試験となるとやっぱり日本式の筆記試験、それも○×式のいわゆる客観テストの方が正確な判定ができるような気がしてならない。口頭試問では、頭のイイ奴、よく勉強した奴よりも、結局のところ要領のイイ奴が得をする場合が多い。実際、まるで勉強のできなかったはずの人間が結構な成績で教員の資格試験に合格して、周囲の人々(試験官たちではなく)を驚かせた、なんていうハナシがイタリアにはゴロゴロ転がっている。
もっとも、うるさいことを言い出せば、筆記試験だってアガリやすい人間には不利である。日本の大学入試は勉強能力に関する限り一見いかにも平等な競争であるかのように見えるが、それでも、勉強はよくできるものの本番に当たって極度に緊張しやすいタイプの受験生と、逆に勉強のできはソコソコだが度胸がすわっていて落ちつきを失わない受験生とでは、果たしてどちらが勝つか何とも言えないだろう。ましてや、試験官たちとサシで向かい合っての勝負となれば、学業とは直接関係のない人柄や性格、相性などによって勝負が大きく左右されてしまうのは当然である。留学していて知り合ったむこうの女子学生たちのおしゃべりを聞いていると、試験の時にはゼッタイにミニ・スカートで行くことにしている、というのが結構いた。色仕掛けで高得点をねらおうというのである。