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研究報告
天野恵:騎士道と火器(1) [4/4]
いやはや、やっと脱線から踏みとどまったと思いきや、今度は別の方角へと大脱線してしまった。われながら呆れるほかはない。
話を15世紀後半に戻すと、マクシミリアン1世を相手に戦って、フランドル歩兵部隊の活躍で自慢の騎士団を破られてしまったフランスは、つい先日まで目の上のタンコブだったシャルル突進公を死に追いやったスイス式歩兵戦法というものの恐ろしさを、自分たちもまた身を以って体験することになったわけである。当然、ルイ11世は自分も同じような歩兵部隊を持ちたいと考えたに違いない。が、それはうまくいかなかった。フランスには歩兵のなり手がいなかったのである。
もちろん、騎士のお供をしてまわりでその手伝いをする歩兵たちはいた。しかし、歩兵とは言ってもこれはいわば半戦闘員みたいなものだから、とてもじゃないがスイス歩兵に対抗できるような代物ではない。フランスの貴族は伝統的に身分意識が強く、戦争をやるのは自分たちだけの特権であるとして、農民には武器を持たせないようにしてきていた。だから、歩兵部隊が急速に戦争の主役になりつつあるのをの見ても、すぐにはこうした事態に対応できなかったのである。そこで、彼らのやったのは、スイス歩兵そのものを必要に応じて傭兵として雇い入れてしまうことであった。
一方、ナンシーで戦死した突進公の一人娘マリーを娶ったマクシミリアン1世はどうだったかというと、こちらもフランドル諸都市とはその後すぐに仲違いしてしまった。実際にはルイ11世が裏で反乱を焚きつけていたらしいのだけれど、とにかく一時はマクシミリアン自身が捕虜にされるという有様だったから、こちらもやっぱり自分用の歩兵部隊を何とか調達する必要に迫られることとなった。そこで彼はドイツの農民兵を募って、これにスイス式の装備と訓練とを施すことにしたのである。これをLandsknechteと言う。「ランツクネッヒテ」という音がイタリア人には「ランツィケネッキ」と聞こえたものだから、lanzichenecchiというイタリア語が生まれた。
フィレンツェのシニョリーア広場に面して、チェリーニのペルセウスはじめたくさんの彫像を展示してある「ロッジャ・デイ・ランツィ」という建造物があるけれど、あの「ランツィ」というのはこのランツィケネッキのことである。明らかに「ランチャ」すなわち槍という言葉を連想させる響きを持っている。ただし、実際にはlanciaと言えばそれは騎士の槍を指し、その一方、ランツィケネッキの使った槍はpiccaである。確かにあれだけの天井高があれば、ピックを持ったままであの中に整列させることができただろう。
こうしてフランスはスイス傭兵、ドイツはランツィケネッキという、似たような戦法をとる歩兵部隊を所有することになったわけであるが、やはり実戦においては本家のスイス歩兵の方が圧倒的に強かった。ランツィケネッキが本物のスイス歩兵と互角に戦えるようになるのは16世紀に入ってからで、それがはっきりと証明されたのは1512年のラヴェンナの戦いであったと言われている。もっとも、この頃になると独仏両国の向こうを張る形で新興国スペインの力が侮りがたいものとなってきており、そのスペインの歩兵部隊が、後発にもかかわらず猛烈な勢いで追い上げてくるのであるが、これについては次回にお話しすることにしたい。
ともかく、以上のような説明で、三百年間も続いた「騎士の時代」を終わらせたのが決して鉄砲ではなかった、ということは明らかにできたと思う。今回のお話はとりあえずココまで。
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