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研究報告
天野恵:騎士道と火器(4) [3/4]
このクルトレーの戦いについては、故清水廣一郎先生の書かれた『中世イタリア商人の世界』(平凡社ライブラリー)という本の中に非常に印象深い叙述があるので、まだの方には一読をお勧めする。清水廣一郎先生は日本のイタリアニストの中でも小生のいたく尊敬していた学者の一人であった。個人的には、学会で遠くからお姿を仰いだことがあるだけで、その謦咳に接したことは一度もないのだけれど、その著書の面白さと、ある小さな思い出ゆえに、何となくよく存じ上げているような気がしている方でもある。
小さな思い出というのはこうである。大学院生の頃、斜塔の町ピサに勇躍洋行した小生は、到着して間もないある日、さる中世史の先生に声を掛けられた。「お前は日本から来たのか。ではコーイチロー・シミズを知っているか?」 小生が「お名前は存じ上げておりますが」と答えると、「そうか。彼がイタリア語で論文を書くときにはワシが手伝ってやったのだが、実に優秀な男だった。ところで、お前はわが国の女たちをどう思うか?」「ハァ...どう思うかとおっしゃいますと?」「ドンくさい奴じゃな。美しいと思うか、寝てみたいと思うか、と尋ねておるのだ。コーイチロー・シミズはしきりに美しいと言っておったぞ。特に金髪の美女にはモーたまらんと言っておった。」とまァ、こんな会話を持ったのである。もう二十年以上も前のことなのに、つい昨日のことのような気がする。(進歩のない証拠である。それとも年をとって思い出に耽るようになったのか。)
清水廣一郎先生は、歴史家、それも経済史家でありながら、上述の著書の中でもしばしばダンテやボッカッチョの作品を巧みに引用しておられ、しかもそれらの文学作品の持つ美しさを実によく感じ取っておられたことが見て取れる。小生など、文学研究が専門でありながら感受性の不足ゆえになかなかこうはいかない。
それはそれとして、清水先生はこのクルトレーの戦いに関するピレンヌとフンク=ブレンターノの論争について、また、この戦いの重要資料のひとつであるフィレンツェ商人ヴィッラーニにからむ両者共通の誤解について、大変に面白い論述を展開しておられる。歩兵部隊が騎士団に勝った数少ない中世の合戦のひとつなので、少しばかり脱線をお許しいただきたい。
清水先生の本の問題の部分を要約すると次のようなことになる。かの有名なベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、伝承というものがどのようにして形成されるのか、という問題意識のもとに、次のような説を唱えた。もともとこの戦いに関しては「フランス版」の伝承と「フラマン版」の伝承の両方があった。前者によると、フランス騎士団の敗因は、目立たないように掘割を作ってそこに敵を誘い込んだフランドル軍の「汚い」やり方と、それを見抜けなかったフランス騎士団の失敗にある、ということになっていた。これに対し、フランドル側の士気の高さや戦術的優越によるものだとするのが「フラマン版」の伝承である。ところが、こちらは言語的・文化的優越を誇る「フランス版」によって駆逐されてしまい、大きな声にならなかったのだ、というのである。ピレンヌによれば、ヴィッラーニの日記もまた、こうした「フランス版」伝承の影響を大きく受けているという。ところが、こうした主張を唱えたためにピレンヌはフランス人歴史家の一部から執拗な攻撃の対象とされたらしい。
清水先生は、この論争について、偏狭なナショナリズムに毒されたフンク=ブレンターノには、ピレンヌの「伝承の形成と発展を歴史的に理解」しようとするココロが理解できず、ただひたすら諸史料の考証にばかり熱を上げて、「フランス版」伝承は伝説などではなく真実そのものだったのだ、と意固地に主張した、と書いておられる。
伝承の形成に関する歴史学上の問題については小生にはよくは分からないが、恐らく清水先生のおっしゃるとおりなのであろう。文学史においても19世紀末ころにはナショナリズムによって歪められた理論がずいぶん幅をきかせていたものである。
ただ、冒頭に引用したホイジンガなどがしきりに強調しているように、当時の人々のメンタリティーが騎士道的理想によって染め上げられていたのだとすると、ピレンヌ説の言う「フランス版」の伝承だけが生き残った原因も、彼の言うようなフランスの言語的・文化的優越などよりは、むしろ当時のヨーロッパがこうした騎士道的メンタリティーによって覆い尽くされていたという一般的な事情に求める方が適切であるように思われる。
つまり、こういうことである。フランドル側のとったらしい戦術、すなわち障害物を設けて敵の騎士団の突撃を阻むという工夫、しかもその障害物が、遠方からは確認できないような掘割であり、馬が落ちればそれだけで致命的なダメージを被るような種類のものであったことや、さらに、フランドル軍は敵を故意にその場所に誘い込むための挑発行為も行なったらしいことなどは、確かに「フランス版」伝承が言うような「奸計」とか「卑怯」とかいったものには当たらない。むしろ、フランドル側には非常に優れた戦術家がいたとして評価すべきだろう。しかし、それは現代人のわれわれの考え方であって、当時の騎士たちの意識の中では、こういう戦術はまさに奸計に他ならず、卑怯きわまる行為だったであろうことも疑いない。そして、こういう考え方は別にフランス人に特有のものだったわけではなく、多かれ少なかれ当時のヨーロッパ人がみな共有していたものだったのである。だとすると、「フランス版」伝承の方が受け入れられやすかったのはそうした土壌のためであって、別にフランスそのものと直接の関係はなかったのではないか、ということになる。
こういう風に考えると、ピレンヌの見方にもやはり、これはこれなりにナショナリズムが大きな影を落としていたということにもなってこよう。どんなに偉い学者でも自らの生きた時代、生きた社会の枠の外に出ることなどできはしないのだから、これはまァ当然と言えば当然のことではあろうが...。
それはそれとして、今のわれわれの関心事である合戦のメカニズム、特にフランドル市民軍のとった戦法そのものについて言えば、それは決して戦争の流れを変えるような種類のものではなかった。彼らの戦術が非常に巧みなものであったのは事実としても、こうして得られたフランドル歩兵の勝利は、本質的には敵をうまく罠にはめたことによるものであって、例えばスイス歩兵の密集隊形のように正面から勝負を挑んだうえで、これを粉砕して獲得されたものではない。だから、奸計だの卑怯だのといった価値判断には大いに問題があるとしても、事実関係そのものに関しては、いわゆる「フランス版」の伝承を大幅修正する必要は一向にないということになる。
さらに付け加えるならば、清水廣一郎先生によると、ピレンヌとフンク=ブレンターノは両者ともヴィッラーニがイタリアにいたかのように思い込んでいるが、実際にはフランドルにいた可能性が高いという。この推定が正しいとすると、彼は合戦の現場近くにいて、恐らくは参加者たちからの直接情報も得ていたのではないかと思われる。で、そのヴィッラーニの報告によると、フランドル市民軍の主たる武器は「ゴーデンダック」なる棍棒の一種だった。これは落馬した騎士や、障害物を前に立ち往生している馬に対しては効果があったかも知れないが、いずれにせよ接近戦に持ち込んでからでないと役には立たなかったはずである。少なくとも、こんなものを振りかざして、全速力で突進してくる騎士団に正面から立ち向かう、などということはおよそ想像もつかない。要するに、クルトレーにおける歩兵部隊の勝利というのは、英仏百年戦争中のクレシーの戦いや、シェイクスピアの『ヘンリー5世』で有名なアザンクールの戦い同様、未だエピソードの一つであって、戦術の流れそのものの変化とは関係が無かったということである。
脱線ついでに言わせてもらうならば、クルトレーの戦いのような場合、小生はフランドル軍のやり方を卑怯であるとは少しも思わない。個人的には、むしろそれを非難するフランス騎士たちの方がよっぽど卑怯ではないかという風に感じる。自分が力において敵に劣っていると感じれば、より強力な武器を持とうとするのは当然だし、相手を罠にはめようと考えるのもまた自然である。フランスの騎士たちが本当に正々堂々と勝負したかったのならば、自分たちも馬を下りて、彼らのゴーデンダック(=ボンジュール?!)を手に、徒歩で攻めてくればよかったのである。皆さんはどう思われますか? 要するに、彼らは彼らで自分たちに有利な条件で戦いたかっただけなのである。