25. 衣服の起源、染色の始まり

近年DNAの研究が大きく進み、人類学においても次々新しい事実が発見されています。 それからすると、現在私たちが属するホモサピエンスは、20万年程前にアフリカで誕生したとの説が出ています。 しかし、人類が本当に単一の起源なのか、あるいは原人が世界各地で進化したものなのか、まだまだ議論は続いている様です。 いずれにしろ、ホモサピエンス登場(20〜30万年前?)から、中国 長江流域で農耕が始まる15,000年前まで、 体に毛皮を持たない人類が丸裸であったとは考えられません。 少なくとも、彼らが*ベーリング海を渡った時には、自分たちの身を守る何かを身に付けていたに違いありません。
(インターネットで調べると、コロモジラミの研究を元に、人類の衣服の着用は、17万年前に遡るとの発表もなされています。) 私自身は、このレポートを支持します。何故なら、人類の誕生が20万年前とすると、その後の18万年〜13万年前のリス氷河期を生き残る為には、 火の使用と衣服(毛皮)の着用は必須であったと考えられるからです。 彼等の生活は狩猟によって成り立っていましたから、毛皮は常にそばにありました。その着用は、暖をとるばかりではなく、 狩りのため自身の臭いを消したり、(チャップリンの靴ではないですが、)その皮膚層はまさかの時の食糧にもなっていたと思います。 狩った動物の肉は、ぎりぎりまで余すことなく食べただろうし、脂肪層は、火を保つ役にも立ったでしょう。 自然、毛皮はなめされ十分に薄くなり着用に十分な軽さを与えたと思います。毛皮を衣服と呼ぶのには異論があるかもしれませんが、 私たちの身を護り体を快適に保つのが衣服の重要な役割とするならば、彼らの纏(まと)っていたものも立派に衣服です。 きっと、「ゴマフアザラシの毛皮は、ゾウアザラシの毛皮より点々があってかっこいい。」「いや俺はやっぱり、ヒョウアザラシだ。」 などと言うファッション談議も花咲いたことでしょう。 サーベルタイガーや、マンモスの毛皮を纏った男は、仲間から一目置かれていたに違いありません。 彼らの闊歩する姿は、ブランドスーツに身を固めた現代人を彷彿させる事でしょう。(ちなみに、サーベルタイガーやマンモ スが絶滅したのは、一万年前ですので、この想像は全くの荒唐無稽ではありません。)
*人類ベーリング海峡渡海  これには、7万年前と言う説から、 2〜1.5万年前と言う説まで、幾つかの説があります。ちなみに、上のメキシコ国立博物館の冊子では、「8万年前」としています。

残念ながら、無機物に近い骨は化石として残っても、その頃彼らが身に着けていた衣服は残っていません。 従って、私たちの誰もが概念としてより受け入れやすい布製の「衣服=textile」がいつ出来上がってきたのか定かではありません。 しかし、農耕が始まった1万3,000年前には、既に今日の「衣服」に近いものを身に着けていたのではないかと思います。 日本で、農耕が始まったのは、縄文時代(1万6,000〜3,000前)です。 しかし、縄文時代の期間は長く、唯一この時代を偲ばせる土偶の多くは故意に破壊されてしまっているため衣服着用の年代を正確に追う事はできません。しかし、縄文後期の土偶は明らかにデザインされた「衣服」 を身に着けている様に思えます。
一方、世界に目を移すと、北京周口店の山頂洞では、1万8千年前の新人の骨と一緒に、衣服を縫う為に使ったと思われる骨製の縫い針が発見されています。 ちなみに、エジプトでは世界最古の紡ぎ器が発見されており、少なくとも紀元前5000年頃には糸を紡いでいたとみられています。 具体的に確認できる最も古い「衣服」は、私の限られた知識の中ではマルタ島に残る女神(?)像で、残念ながら上半身は残っていませんが、 弥生時代の褌服(はかまふく)を思わせる衣服を着けています。ちなみに、日本の弥生時代は、紀元前3世紀年中頃からですが、 このマルタ島の女神像は、紀元前3,800年から2,400年の間に作られました。 壁画の場合には、それより古くから書かれてきたものの中に衣服を着用していると思われる人間が書かれていますが、 数千年に渡って書き継がれているためはっきりした年代の確定は困難です。


サハラ砂漠岩絵 BC-6000-





染色の始まり

染色についてはどうでしょう。これも、あまり残っているものはありませんが、衣服が身を護るためである限り、獣やスピリチャルな存在から自分を護るため彩色が成されていたと思います。 インダス文明の遺跡であるモヘンジョダロ(BC3,000〜BC2,000)からは染色をほどこした布の断片が出ています。
エジプト文明も、インジゴ=藍を始め多くの色に彩られた文明でした。
日本でも、縄文時代の衣服が尾関清子氏(東海学園女子短期大学名誉教授)により見事に復元されていますが、 そのデザインと配色は現代にも通じるものとなっています。(右写真)

学問的には、染色の起源は、中国も含めてBC3,000-2,500 頃と言うのが定説になっている様ですが、 それらの学説は、ほぼ例外なく藍やアリザリン=茜の検出をベースにしています。藍=Indigoについては、このHPでも既に説明しましたが、 染料をそのまま水に溶かして使うのではなく、還元・酸化と言う複雑な工程を経て染色し、酸化後には、顔料化し水に溶けなくなってしまいます。 一方、アリザリン alizarin は、西洋茜の根から抽出する水溶性の染料で、クロムや鉄やアルミニウムと言った金属で媒染する事により繊維に染着します。 構造的には、上に示した様にアントラキノンを主骨格としています。 一旦金属と結合すると、堅牢な錯塩構造を作り日光堅牢度も良好となりますが、媒染作業は複雑で、望み通りの色を出すためには、 豊かな知識と経験が必要となってきます。

インジゴやアリザリンが、現在まで残って発見されるのは、それが顔料化し非常に堅牢な構造になるからです。 しかし、どちらの染料についても、満足な染色物を得るまでには、膨大な工程を経なければなりません。 例えば、インジゴなら、藍草を刈って、発酵させる所から始めなくてはなりません。その発酵だけでも、2〜3ヵ月かかります。 (そんなに手間がかかるから、金と等量交換された訳です。)更に、それを使った染色となると、還元、酸化を何度も繰り返す事が必要です。 現在の私たちは、そうしたメカニズムを知っており、それに使う薬剤も簡単に手に入りますので大きな苦労はありませんが、 そうしたベースが一切ない古代人がどの様にして染色まで辿りついたのか? 彼らの平均寿命(30年?)を考えると、そこまで来るのに何十世代もかかったことでしょう。それを考えると、 インジゴが発見されたからと言ってそこが染色の起源だとするのは誤りです。 むしろ、インジゴやアリザリンでの染めを、それまでの染色技術の完成体と考えるべきです。
(大体、藍と言う草で藍色に染められると言う事を、 どの様にして発見したのでしょう? 赤い花の咲かない茜草の根の抽出物を金属で媒染して赤色を作るのも同じ事で、偶然からとするには余りにも複雑過ぎます。 仮に偶然そうした現象を目にしたとしても、それを何とか再現しようと思うのは、「染め」を職業としているからであって、 一般の人間には荷が重過ぎると思います。第一に、そうした現象に気付く事もないでしょう。)


セイヨウアカネ
(この草の根から赤い色を染めるアリザリンを抽出する。)



私は、デザインと着色は、一体だと考えています。少なくとも、古代社会で、デザイン性を持って作られたものがあったら、それは着色されていた筈です。 ラスコー(BC15000)やアルタミラ(BC18000?-BC10000)の洞窟画を見ると、古代人は、現代人に劣らぬ着色力やデザイン力を持ってい た事が良く分かります。 四大文明はそれぞれに固有のデザインを持っています。それが彩色を伴うものである限り、 自分達の着ているものに色を着けるのにも何の不思議もありません。エジプトで、 BC5000年から紡ぎ糸を作っていたとするならば、 その糸を染めてみたいと思うのが自然な人の姿ではないでしょうか。 今の形のインジゴ染めや茜染めに至るまでには、様々な着色法が試されたに違いありません。 最も簡単なのは、野に咲く草花の汁をそのまま使う方法ですが、それでは雨に流れたり、洗濯や日の光で直ぐに色褪せてしまいます。

初期の衣服に用いた木の皮や芦や草の類は、そのままでは、硬くゴワゴワし過ぎるため繊維質を分離し柔らかくしなければなりません。 これには、アルカリ性を与える木や草の灰汁(アク)で炊き、水で洗う作業を何度か繰り返したと考えます。 その間に、繊維質が水と日の光の作用で白く晒される事も経験したでしょう。 こうして、白くなった繊維を、食用にした草木や、木の実の煮汁で染めてみたかもしれません。 その、煮炊きに、鉄分や他の金属分を多く含む土器を使ったりすれば、媒染が起こります。 あるいは、灰汁に含まれていた金属分が繊維に残っていたのかもしれません。(何千年も昔の土器には、そうした強度はないと思われそうですが、 現在発見されている人類最古の煮炊きに使われた土器は、実に1万4000年も前の物です。 ご存知の方は少ないと思いますが、日本・帯広の大正遺跡群で発掘されています。) もちろん、焼いた石などを使って水の温度を上げる手法を使えば、土器は必要ありません、木製の樽で温度を上げ染色する事も十分に可能だと思われます。

最古の都市遺跡と言われるトルコのチャタルヒュユク遺跡(BC7400〜BC6000)には、 当時5000人(最大推定8000人)が住んでいたとされます。 その発掘された住居を見ると、室内に土器製の甕(かめ)の様なものも見えます。5000人もの大人数が、一か所に定住する場合、そのそれぞれが、自分の着るものを自分自身で作っていたと考えるのは、 いかにも不自然です。 衣服(あるいはその材料)を専門に提供する職人がそこに居たのではないでしょうか。それならば、染色を専門に行う職業も生まれていたかも知れません。

しかし、そこで使われた染料が残るには、8000年の年月は長すぎます。ましてや、普通の草や花で染められた色が現在まで残っている事は有り得ません。

トルコ  チャタルヒュユク遺跡 復元想像図

古来、自然の中で暮らして来た人々にとって、鮮やかな花や鳥や蝶の色はあこがれの対象であったに違いありません。 時として空に現れる虹を驚きを持って眺め、青い空に感動し、白い雲に思いを馳せた事でしょう。










これとは逆に、色が全て失われる日食や夜の世界には、きっと死に対する怖れを抱いた事でしょう。 黒の色が表わすものが “死” なら、白い色に対しては、“無” の感情を抱いていたかも知れません。 そうした、“死=黒” や “無=白” に対して、“色” の世界は “生” そのもので した。 あるいは、色にあふれる世界は、“神” の世界の体現と言っても良いかもしれません。 それが証拠に、世界のどこにあっても、古代の神殿は色のあふれる世界でした。




そんな時代にあって、 鮮やかな色を与えられた衣服は、 お金以上の価値があった事でしょう。そうしたことがなかったら、布地1枚を紫色に染めるのに何万の貝をつぶしたり、赤い色を染めるために、わずか 3mm の大きさしかない虫のメスだけを集める事などする筈がありません。 実際、多くの社会では、決められた身分の人しか着けられない色(=禁色:きんじき)が数多くありました。 日本でも、青・深赤・黄丹(おうに)・くちなし・深紫・深緋・深蘇芳(ふかすおう)の七色は、 長い間天皇や皇族以外の人々は着る事を禁じられていました。

ヨーロッパから絹を求めてはるばるシルクロードを旅した大きな理由は、シルクが、繊維の中で最も染めやすく、 最も輝く鮮やかな色を与えたからだと思います。 こうした、特別な色や、価値の高い素材を間違いなく求められる色に染めるためには、高度の知識と技術が必要です。

“色” が持つ重要性の変化

衣服の元々の役割は、それを着た人間を外からの色々な脅威から護る事 = Protector です。それは今なお衣服の持つ大きな Function の一つですが、その人間に社会的な側面が増えて来るにつれ、新たにその人間に与えられる「レッテル」としての役割が出てきました。 軍服などはその典型的な例ですが、衣服のデザインや色で、殺す、殺されるの世界となりますので、 それを着用する人間にとっては、生死を分かつ重要な要素となってきます。 この他にも、それを見ただけで、性別が分かったり、年齢が判断できるなど、着用した人間を他から識別=Distinction するためのTool としての役割も与えられました。この「レッテル」の大きな効用は、それを着ているだけで、自分が属する社会やグループの一員だと立証(=Mass Identification)できる所にあります。こうした流れの中で、Protector としての機能さえ満たせば良かった古代においては、ほとんど問題にならなかった衣服の “色” に非常に大きな価値が与えられまし た。 その “色” が目に鮮やかで、染色する事が難しい場合は殊更でした。 例えば、海洋国家フェニキアの経済の一角を、“貝紫” の染色技術が支えてたことは良く知られています。 (“古代紫” が、今でも Tyrian purple と呼ばれるのは、古代フェニキアのTyre と呼ばれた都市の名前から来ています。) “色” の重要性は、衣服の選択ポイントが、Mass Identification から、Self Identification (個人の好み・自己主張)へと変化しても薄らぐ事はありませんでした。 やはり、消費者が衣服を求める時それが持つ “色” が、購入を決める最大の要素だったのです。 残念ながら、今日では、衣服の持つ “色” や着色するための “染色” の価値は落ちてしまいました。 それは、皮肉な事に、合成染料が発明されたからです。 かつて、多くの色はそれを与えるために非常な苦労が伴いました。 だからこそ、それが地位や富の象徴であり、自分が “人と違う何か” を表わす手段とも成り得たのです。 当然のことながら、“色” を操る “染色” も特別な技能でした。 ところが、多くの合成染料が発明され、今日ほぼ全ての色が昔と比べて遥かに簡単に染められる様になると、鮮やかな色も、黒も、 白も、その価値に差が無くなってしまったのです。今の私達には、個々が持つ漠然とした色の好き嫌いを除けば、色に対する特別な関心はありません。 (同時に “黒” に対する抵抗も失われてしまいました。) 今にして思うと、この変化をもたらした時期が、 アースカラーの流行と一致するのが暗示的です。